(漢訳仏典 第七巻冒頭より)
そのとき、カッサパ菩薩が申し上げた。
「世尊よ、先ほどお説きになられた四種の人々に依るべきなのでしょうか?」
仏はお答えになった。
「まさにそのとおりである。カッサパよ、如来が説いたとおりに依止すべきである。
なぜ、その四種の人々に依るべきなのか?
それは、四種の魔が存在するからである。」
カッサパ菩薩が申し上げた:
「世尊よ、仏が説かれたように、四種の魔があると聞いております。今、私はどのようにして、それが仏の教えなのか、あるいは魔の言葉なのかを見分ければよいのでしょうか。世の中には魔の行いに従う衆生もいれば、仏の教えに従う者もいます。この二つの道をはっきりと見極めるには、どうすればよいのでしょうか?」
仏は仰せになった:
「カッサパよ、如来が涅槃に入ってから七百年後、魔王・波旬(まおう・はじゅん)は正法を妨げ、破壊しようとするであろう。ちょうど猟師が法衣を着て獲物を欺くように、魔王・波旬も比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の姿に化けて現れるであろう。さらに、須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果を得た者のようにも姿を変え、時には仏の姿にさえ化けるであろう。
魔王は漏(煩悩)ある身を漏なき身に見せかけて、正法を損なおうとするのである。波旬が正法を破壊しようとする時、彼は次のように語るであろう:
『かつて菩薩は兜率天にいて、そこで死して、カピラヴァストゥ城の白浄王の宮殿に生まれた。父母の愛欲によって生まれたのだ。人間の中において、天人や人々から尊敬されるような者など存在しない。また、かつて修行の中で、頭や眼、骨髄、脳を布施し、妻子や国や都市を施したために今、仏になれたのだ。だから天や神、人々に敬われているのだ』と。
もし、このような内容が説かれている経や律があるならば、それは魔の言葉であると知りなさい。」
カッサパよ、
もし、ある経典や律が次のように説いているならば――すなわち、「如来・正覚者はすでに久遠の昔に成仏しており、衆生を救済するために今この世に仏として現れた。また、世間に順応するために、父母のもとに生まれ、愛欲の和合によって生まれたように示現した」とあるならば――その経典や律は、まさしく如来の説かれた真実の教えであると知りなさい。
もし誰かが魔の言葉を信じるならば、その者は魔の眷属である。
しかし、仏の経論に随順する者は、まさしく菩薩である。
もし、どこかに「如来が誕生されたとき、東西南北の四方に七歩を歩まれたということを信じてはならない」と説かれているならば、それは魔の言葉であると知りなさい。
そのような言葉に従う者は、魔の眷属である。
しかし、「如来がこの世に生まれたとき、四方に七歩を歩まれたのは、如来の方便(ほうべん)による示現である」と説かれているならば、それは如来の説かれた経典・律であると知るべきである。
仏の教えに随順する者こそ、まさしく菩薩である。
もし、あるところに「菩薩が降誕されたとき、父王が人を遣わして天を祀る廟にお連れし、大自在天、大神梵天王、帝釈天など、すべての天の神々が合掌して真の菩薩に礼拝した」と説かれているならば、それは仏の言葉であると知りなさい。その教えに随順する者は、まさに菩薩である。
もし誰かが、「天は先に生まれ、仏は後に生まれたのに、なぜ天が仏を礼拝するのか?」と疑問を投げかけるならば、その問いは魔王・波旬(まおう・はじゅん)の言葉であると知るべきである。
その問いに従う者は、魔の眷属である。
また、もしどこかに「太子であったとき、欲望の心により菩薩は妃を娶り、後宮で快楽を享受した」と説かれているならば、それは魔王の言葉であり、それに従う者は魔の眷属であると知りなさい。
一方で、「菩薩はすでに久遠にわたって欲望の心を捨て、妻子をも離れ、三十三天の微妙な楽しみさえも鼻水や痰のように捨て去った。ましてや人間界の楽しみなど問題にならない。菩薩は髪と髭を剃り、出家して道を修めた」と説かれているならば、それは仏の言葉であり、仏の経律であると知るべきである。
その教えに随順する者は、まさに菩薩である。
もしどこかに、「舎衛国の祇園精舎において、仏は大いなる慈悲の心から衆生を哀れみ、比丘たちに奴隷、象、馬、家畜を飼育させ、金銀や宝石を蓄え、商売や農耕などを許された」と説かれているならば、それは魔の言葉であると知りなさい。
そのような教えに従う者は、魔の眷属である。
しかし、「舎衛国の祇園精舎において、波斯匿王(はしのくおう)およびカウシディク・バラモンの前で、仏は比丘たちに対し、奴隷・象馬・家畜の飼育、金銀財宝の蓄積、商業、農業などを禁じられた。これらを犯す者は、もはや比丘としての資格がなく、還俗すべきであり、稲田の雑草のように抜き取られるべきである」と説かれているならば、これこそ仏の経律であると知りなさい。
その教えに随順する者は、まさに菩薩である。
もし「太子であった菩薩が、天を祀る廟において示現し、外道の法の中で出家して修行し、すべての威儀・礼儀作法に通じ、あらゆる文字・技芸に巧みに通じ、社会の中で最も尊貴な身分として示現された。とはいえ、菩薩は一切に愛着の心を抱かず、まるで蓮華が泥に染まらないようである。菩薩は衆生を救うために、世間の法に随順する方便を示された」と説かれているならば、それは仏の言葉であると知りなさい。
その教えに従う者は、まさに菩薩である。
これに反して説かれるものは、すべて魔とその眷属の言葉であると知りなさい。
また、ある人が九部の経律(※阿含経など)に執着して、方等大乗の経典を信じず、「それは仏の説ではない、自分の経律には書かれていないからだ」と言うならば、その者は罪があり、仏の弟子ではないと知りなさい。
逆に、大乗方等の経典を信じ、「これは如来が衆生を済度するために説かれたものである」と受け入れる者こそ、真に仏の弟子である。
もしどこかに、「如来は無量の功徳の結果ではなく、無常で変化する存在であり、法を証得したとしても無我の理を説くべきではなく、世間の理にそぐわない」と説かれているならば、それは魔の言葉であると知りなさい。
そのような言葉を信じる者は、魔の眷属である。
しかし、「如来は不可思議なる等正覚(とうしょうがく)の存在であり、無量の功徳を積んだ結果として成就されたお方であって、常住不変なる存在である」と説かれているならば、それは仏の言葉である。
その教えに随順する者は、まさに菩薩である。
もし比丘が、実際には何の悟りも得ていないのに、得たふりをして聖者のように振る舞い、他人より優れた法を得たかのように語ったならば、その者は波羅夷罪(はらいざい)を犯し、人間としての道を失い、割れた石が元に戻らないように、もはや修行者として立ち返ることはできない。
しかし、ある比丘が清浄な戒律を保ち、少欲知足で、静かな場所に閑居している。
そのような比丘を王や大臣が見て、「この方こそ阿羅漢であり、この身を捨てた後には無上菩提を得るであろう」と尊敬し、讃嘆したとする。
それを聞いた比丘がすぐに「私はまだ聖果を得ておりません」と事実を訂正し、王や大臣に誤解しないように諭したとしても、王はなおも深く敬信し、人々にその徳を広め、供養させた。
この比丘は実に戒行清浄であり、その徳によって多くの人々に大きな福徳をもたらしたのである。
このような比丘は波羅夷罪を犯していない。なぜなら、人々が自然に敬信し、供養したからである。
もし「この比丘は罪を犯した」と言う者がいれば、それは魔の言葉であると知りなさい。
また、ある比丘が、諸仏の深遠なる大乗の教典を講じてこう説く:「すべての衆生は仏性をそなえており、無量の煩悩を断じて、やがて無上正覚を成ずる。ただし、一闡提(いっせんだい/nhất-xiển-đề)は除く」と。
もし誰かがその比丘に問うて、「師よ、あなたご自身にも仏性はありますか?将来、仏になることができますか?」と尋ねたとき、比丘が「はい、私は確かに仏性を具えています。ただし、成仏できるかどうかは今のところ判断できません」と答える。
それを聞いた人がさらに「尊者は一闡提ではありません。ならば必ず成仏されるはずです。それに疑いはありません」と言ったとき、比丘が「はい、おっしゃる通りです」と答えたとしても、
この比丘は「自分には仏性がある」と決定的に言ったが、罪を犯したことにはならない。
また、ある比丘が出家の時に「私は決して無上正覚を成就するのだ」と心に誓ったとする。
この比丘はまだ仏にはなっていないが、すでに無量無辺の福徳を得ている。なぜなら、過去において八十億劫という長遠の時の中で、清らかな戒を守り、少欲知足を保ち、威儀を具え、諸仏の無量なる法蔵を巧みに修めてきたからである。
その当時すでに、「私は仏性を具えている」と決意していたことにより、今この世で仏となり、大いなる慈悲の徳を備えたのである。
これらの教えはすべて仏が説かれた真実の言葉である。
これに随順する者は、まさに菩薩であり、これに随わない者は魔の眷属であると知るべきである。
魔はさらにこう言うだろう:「四つの重罪も、十三の僧破戒罪も、二つの不定罪も、三十の墮落罪も、九十の堕罪も、四つの懺悔すべき法も、学ぶべき法も、七つの避けるべき事柄も、さらには粗罪も逆罪も一闡提も存在しない。もし比丘が前述の罪を犯して地獄に堕ちるなら、外道の者は皆天界に生まれるはずだ。なぜなら外道は戒律を受けておらず、犯す戒律などないからである。これは如来が人々を恐れさせるために戒律を説いたのだ。さらに、如来が突結羅(とっけつら)という罪を犯した者は、天界の一つである帝釈天の世界で八千万年もの長い期間、地獄に堕ち続けると説くのも、人々を恐れさせる方便に過ぎない。波羅夷(はらい)から突結羅までの罪の重さに差はない、これは律師たちが嘘をついて、仏が定めた戒律であるかのように語っているが、実際は仏の定めではない。これらすべての言葉は魔の言葉である。」
あるところに、「戒律の中で小さな戒を犯すと、長い間苦報を受ける」と説かれている。そうした認識があるからこそ、自分の身を六つの肢を隠す亀のように守るのである。
もし律師の誰かが「戒を犯しても罪の報いはない」と言うならば、
その律師には近づくべきではない。仏もかつて教えられたように、
「一つの法を越えて語るならば、それは虚言と呼ばれ、来世を認めず、悪をも生み出す」と。
ゆえに、因果を否定する者には近づいてはならない。
仏の清浄なる正法の中において、どうして堕落罪(どらんぎゃ)、僧破戒罪(そうはたん)、波羅夷罪(はらい)を犯しても罪にならないなどということがあろうか。
だからこそ、このような戒法を厳守しなければならない。
もし守らなければ、何をもって法を禁戒と言えるのか。
経典の中で、如来はまた説かれる。もし四つの重罪である波羅夷罪から小さな罪である突結羅罪に至るまで犯したならば、律によって罪を裁かねばならないと。もし衆生が戒律を護持しなければ、どうして仏性を観じることができようか。
すべての衆生が仏性を持っているとはいえ、まず戒を守ることによって初めて仏性を観じることができる。仏性を観じることによって無上正覚を成就するのである。
九つの経典のうち、「大乗方等経」は含まれておらず、ゆえに仏性について説かれていない。言及がなくとも、実際には仏性が確かに存在することを知るべきである。
このような言葉を語る者こそ、真に如来の弟子である。
カッサパ菩薩が仏に申し上げた。
「世尊よ、先に申し上げられたように、すべての衆生に仏性があると。しかし九つの経典の中にはそのような話は一度も聞いたことがありません。もし仏性があると言うなら、なぜ波羅夷(ばらい)罪を犯さないのでしょうか?」
仏は答えられた。
「カッサパよ、あなたの言われる通り、確かに波羅夷罪を犯すことはない。例えば、海の中に宝が七種類しかないと言う者がいて、八種類あると言わなければ、その者に過ちがないのと同じである。
また、九つの経典の中に仏性が説かれていないと言っても無罪である。なぜなら、如来は大智大乗の海の中で仏性を説いており、二乗の者はそれを見ず知らずに「ない」と言っているだけだからである。
この境地は仏だけが知るところであって、声聞や縁覚が知ることはない。
カッサパよ、もしあなたが如来の深遠な秘密の蔵法(ぞうほう)を聞いていなければ、どうして仏性があると知ることができようか。
その如来の深遠な秘密の蔵法とは何か?それこそが大乗方等経典である。」
カッサパよ、外道の者たちには、我(が)を常(とこしえ)と説く者や、我を断滅(だんめつ)と説く者がいる。
しかし、如来はそのようには説かず、我があるとも説き、また我がないとも説く。これを中道(ちゅうどう)という。
もし誰かが言うならば、「仏は中道を説き、すべての衆生には仏性がある。しかし煩悩によって妨げられているため、それを見ず知らない。だからこそ、煩悩を断じるために勤勉に修行しなければならない」と。
このような言葉を語る者は、四つの重罪を犯すことはない。
もしこのように語れなければ、それは波羅夷(ばらい)罪を犯したと言われる。
もし誰かが言うならば、「私は仏となった、なぜなら私には仏性があるからだ」と。
このように言う者は波羅夷(ばらい)罪を犯す。
なぜなら、たとえ仏性があっても、善法を修行していないためにまだ仏性を観じることができず、仏性を観じていないからこそ仏となっていないのである。
カッサパよ、このような意味ゆえに、仏法は非常に深遠であり、思惟し尽くすことはできないのである。
カッサパ菩薩が仏に申し上げた。
「世尊よ、ある国王が、『比丘が犯す大妄語の罪とはどのようなものか?』と尋ねました。」
仏は答えられた。
「カッサパよ、もし比丘が利益を求め、飲食のために、人々に自分が乞食であると信じ込ませるために、巧みにおべっかを使い、偽りを行うならば、その比丘は非常に愚かである。彼は自分がまだ四つの聖果を証得していないことを知りながら、常にどうすれば人々や優婆塞、優婆夷たちが自分を証果したと認め、功徳のある聖者だと語るかを考えている。比丘は利益を求めて法を求めているのではないと考え、自らを端正に立ち振る舞い、衣鉢を正しく保持し、威儀を守り、阿羅漢のように静かな場所に隠れている。人々はそのような比丘を最も善き者、最も良き者と称賛し、その勤勉な修行を称える。そしてそのようにして弟子が多くなり、重んじて供養され、婦女たちから敬愛されるようになる。
もし比丘や比丘尼がそのようなことを行うならば、大妄語の罪を犯したのである。」
また、ある比丘が、正法無上を確立しようとして、静かな場所に住み、自分は阿羅漢ではないが、皆に信じさせて阿羅漢、善比丘、清浄比丘と呼ばれ、多くの人々が出家して従属者となるようにした。そのために比丘や優婆塞たちに戒律を破らせ、皆に戒を守らせた。このようにして正法が確立され、如来の無上法が輝かしく顕れ、方等大乗を開示し、無量の衆生を度し、如来が説いた戒律の中の軽重の意味を巧みに理解した。この比丘はまた、「今、自分にも仏性がある。これは如来の秘密蔵経典であり、この経典の中で自分は必ず仏道を成就し、無量億の煩悩・結縛を断つことができる」と言い、無量の優婆塞たちに向かって、「皆さんは皆仏性を持ち、私たちは共に如来の位に安住して無上正覚を成就し、無量の煩悩・結縛を断ち切る」と説いた。このような言葉を語る比丘は、大妄語の罪を犯した者とは呼ばれず、菩薩であると呼ばれる。
たとえば、「断結羅(ドッキツラ)の罪を犯した者は、天道の一つである忉利天の年月で計算して八億年もの間、地獄に堕ちて罰を受ける」と言われているが、ましてや故意に偷蘭遮の罪を犯す者はなおさらである。
この大乗において、もし比丘が偷蘭遮の罪を犯したならば、その者に近づいてはならない。
大乗経典において「偷蘭遮の罪」と呼ばれるものとは何か?
もし信者たちが仏堂を建立し、花輪を仏に供養として捧げたとき、ある比丘がその花輪の中にある花だけを見て、許可を求めずに取ったなら、これは偷蘭遮の罪を犯したことになる。また、知っていても知らなくても同様に罪を犯す。
もし貪欲な心で仏塔を破壊したならば、それも偷蘭遮の罪である。そのような者に近づいてはならない。
信者たちが仏塔が壊れているのを見て、供養のために舎利や宝物をその仏塔に納め、それを比丘に預けた場合、その比丘がそれを受け取り、自分のものとして使用したならば、その比丘は不浄の者と呼ばれ、多くの争いを生む。善良な優婆塞はそのような比丘に近づき、供養してはならない。そのような比丘は無根、二根、または不定根と呼ばれる。
不定根の者は、欲望に応じて女性になったり、欲望に応じて男性になったりする。
そのような比丘は悪根と呼ばれ、男とも女とも、在家とも出家とも呼ばれない。そのような比丘には近づかず、敬い供養してはならない。
仏法において、沙門の戒律については、慈悲の心を生じて衆生を利益し、昆虫や蟻のような小さな生き物にも無畏を与えること、これが沙門の法である。
酒を飲むことを避け、においを発することも控える、これが沙門の法である。
虚言を語らず、夢の中においても虚言を思わないこと、これが沙門の法である。
欲望を生じさせず、夢の中においても欲望を思わないこと、これが沙門の法である。
カッサパ菩薩は仏に申し上げた:「世尊よ、もし比丘が夢の中で淫欲を行ったなら、戒を犯したのでしょうか?」
仏は言われた:「戒を犯していない。淫欲の事については、心に汚れたものと思い、ひとつの念も清浄であるとは思わないことだ。女性への愛染の想念を避けよ。もし夢の中で淫欲を行ったなら、目覚めた時に恥じて悔い改めなければならない。心の中の淫欲の根があるなら、速やかに取り除くべきである。比丘は托鉢に行き、施しを受けるとき、その食べ物を飢えた時に自分の子の肉を食べるように思うべきである。以上の法門は仏の経律により説かれたものであり、これに従う者は菩薩である。」
もし誰かが言うならば:「仏は比丘に常に片足で立つことを許し、常に黙して語らず、火に飛び込み、谷に飛び降り、高い岩の上から自ら飛び降りて危険を避けず、毒薬を飲み、絶食し、灰の上に寝て、手足を縛り、生き物を殺し、呪術を行い、肉屋の子であり、無根・二根・不定根で感覚が十分でない者でも、如来はこれらの者たちを出家させて道を行かせた。」これは魔(ま)の言葉であることを知るべきである。
また、どこかで「マハランジャ(maha-rangja)を着せ、すべての種子や草木には生命があるとし、如来はこの言葉を語った後に涅槃に入った」と言うならば、これも魔の言葉であることを知るべきである。
かつて如来は五種の牛乳と油、蜜を与え、キューシャギャ(kiuṣāga)という衣を着せ、革の草履などを与えたが、外道の物は除いた。
如来はまた、常に片足で立つことを許さず、正法に従い、自由に立ち座り歩くことを教えた。如来は絶食や毒薬を飲むこと、五種の熱で体を焼くこと、手足を縛ること、生き物を殺すこと、呪術を修めること、象牙や宝石で作られた革の草履を使うことを許さなかった。マハランジャを着ること、種子を保管すること、草木に生命があると言うことも許さなかった。もし誰かが如来がこれらを許したと言うなら、その者は外道の従者であり、仏弟子ではないと知るべきである。
如来は五種の牛乳と油、蜜を与え、革の草履を履かせ、キューシャギャの衣を着せた。如来は四大には生命がないと言われた。どの経律がそのように言っているかは仏の言葉である。その言葉に従う者は仏の弟子であり、従わぬ者は魔の従者である。もし誰かが仏の経律に従うならば、その者は正に菩薩である。
「カッサパよ、魔の言葉とは何か、仏の言葉とは何か、今、如来はお前に多くを区別して示した。」
カッサパ菩薩は仏に白して言った。「世尊よ、今ようやく私は仏の言葉と魔の言葉の違いをはっきりと知りました。これによって私は仏法の深い義を悟り得ました。」
仏はカッサパ菩薩を褒めて言われた。「カッサパよ、お前がこのように明確に理解できるとは、真に聡明な者と呼ぶに値する。」
元のソース:https://thuvienhoasen.org/p16a167/09-pham-ta-chanh-thu-chin
ChatGPTによる日本語訳です。
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