(漢部は第九巻の初めに収められている)
仏は迦葉菩薩に告げた:「例えば、ある人が月の沈むのを見て、月が消えたと思うが、実際には月は消えておらず、他の方角に現れているのである。ある世界の衆生はそれを月の出といい、しかし実際には月は昇っているのではない。障りがあって見えないために、月が昇り沈むと思い込んでいるが、実際には月は昇ることも沈むこともない。
同様に、如来は大天世の世界に真実に現れ、あるいは閻浮提に生まれ、父母をもち、衆生は如来が閻浮提に降誕したと思う。あるいは涅槃を示現すると、衆生は如来が涅槃に入ったと思う。しかし実際には、如来の性は生じもせず滅びもせず、教化のために生滅の姿を示すのである。
善男子よ、この世界で満月を見、他の方角で欠けた月を見る。ある方角では欠けた月を見、また別の方角では満月を見る。閻浮提の人々は月が初めて現れた日を朔日(ついたち)と言い、それを月の初めと考える。満月を見れば十五日と呼ぶ。しかし、実際の月は欠けたり満ちたりしているのではなく、障りのために増えたり減ったりしているだけである。」
また、閻浮提(えんぶだい)において、如来はある時は誕生を現し、ある時は涅槃を現す。誕生された時は、まるで月の初日に出る新月のようである。七歩を歩まれた時は、二日目の月のようである。学舎に入られた時は、三日月のようである。出家された時は、八日目の月のようである。微妙な智慧の光を放ち、無量の魔衆を破るさまは、満月のようである。三十二相、八十種の好相を現し、自己を荘厳に示す。そして、涅槃に入る様子は、月の末日に月が隠れるがごとし。
衆生の見解はそれぞれ異なり、ある者は半月を見、ある者は満月を見、またある者は月が隠れたと見る。しかし実際には、月は欠けも増えもせず、常に完全な姿を保っている。
同様に、如来の御身もまた、常に常住不変である。
善男子よ!ちょうど満月が光を放ち、すべての城邑・村落・川の水・池の水・井戸・池・桶や鉢の水面に月影を現すようなものだ。ある者は百由旬、あるいは千由旬を行っても、常に月が自分の後を追ってくるように見える。愚かな凡夫は、「私は以前、町や家の中でこの月を見たが、今はこの開けた池のそばで月を見ている。これは前に見た月なのか、それとも別の月なのか」と考える。それぞれの人が、月の形や大きさを思い浮かべる。ある者は「桶の口ほどの大きさ」と言い、ある者は「車輪ほどの大きさ」と思うなどする。この月は本来一つであるのに、衆生はその姿をさまざまに見ているのである。
同様に、如来がこの世に出現される時、ある人間や天人は「今ここに如来が我らの前にいらっしゃる」と思う。また他の衆生もそれぞれ「如来は今、我々の面前におられる」と思う者もいる。
あるいは、耳の聞こえない者や言葉を話せない者も、如来を自分と同じように耳が聞こえず、言葉を話さぬ姿として見る。
あらゆる衆生はそれぞれ異なる言語を用いるが、みな「如来は我が言語と同じ言葉を話されている」と思う。
また皆それぞれに「如来は今、我が家で供養を受けておられる」と思っている。
ある衆生は、如来の御身を無量にして広大なる姿として見る。またある者は、小さくして端正なる姿として見る。
ある者は、如来を声聞(しょうもん)の姿として観じ、ある者は縁覚(えんがく)の形相として観じる。
また、ある外道(げどう)の者は、「今まさに如来は我らの宗派において出家し、修行している」と思う。
ある衆生は、「如来はただ我らのためにこの世に出現された」と思っている。
如来の真実の性(しょう)とは、すなわち法身(ほっしん)であり、生じることなき身であり、また衆生を導くための方便身である。世間に随順して、無量の働きを示し、ある時はこの地に、ある時は他の地に出生する姿を現す。ちょうど、あの月が水のあるすべての場所にその姿を現すようなものである。
この意味によって、如来は常住にして変わることなし。
善男子よ!たとえば、羅睺羅(らごら)という阿修羅王(あしゅらおう)が手で月を覆えば、人々は「月が飲み込まれた」と思う。しかし、月そのものは欠けることなく、常に円満であり、損なわれることはない。ただ、阿修羅の手が光を遮るために、その光が現れないだけである。
阿修羅が手を引けば、人々は「月が再び生まれた」と思い、「月は苦しみに耐えていたのだ」と見なす。しかし、実のところ、月にはそのような苦しみも変化も一切ない。たとえ百千の阿修羅王が現れても、月を傷つけることはできないのである。
これと同様に、如来が出現されても、一部の衆生は如来に対して悪しき心を起こし、仏の身を傷つけて血を流させるという五逆罪を犯す。また、正法を誹謗して一闡提(いっせんだい)となる者もいる。如来は、衆生を教化するために、僧団の破壊や正法の断絶、あるいは様々な障難を現すことがある。
しかし実際には、たとえ百千万億の魔類が現れたとしても、如来の身から血を流させることはできない。如来の御身は血肉・筋脈・骨髄といったものを持たず、真実にして破壊されることのないものである。
衆生は「法が滅び、僧が壊れ、如来も滅した」と思うかもしれないが、如来の真実の性は決して変わることなく、破壊されることもない。
すべては、世間に随順してそのように示されているのである。
善男子よ!たとえば、二人の者が格闘し、刀や杖で互いに打ち合い、血を流すようなことがあったとしても、たとえ命を落とすに至ったとしても、もし互いに「相手を殺そう」という心がなければ、その業(ごう)の相(すがた)は重からず、軽いものとなる。
これと同じく、如来に対して本来、殺意の心がなかった者が、たとえ仏の身から血を流させたとしても、その業は重くはなく、軽いものとなる。
それは、未来世の衆生を教化するために、仏が業報(ごうほう)を示現されたのである。
善男子よ!たとえば、名医がいて、その子に基本の処方や薬法を懇切丁寧に教え伝えたとする。子は父の教えを尊び、熱心に学び、すべての薬の効能をよく理解した。その後、名医である父が亡くなり、子は泣きながらこう言う:「父は私にこのような薬方を教えてくれた……」。
このように、如来もまた、衆生を教化するために戒律を制定して示された。「かくのごとく受持すべし。五逆罪を犯してはならず、正法を誹謗してはならず、一闡提となってはならない」と。
これは、未来世において衆生がこれらの罪を起こすことを見越して、仏があらかじめその様を示現されたのである。
それによって、仏滅後の比丘たちはこのように理解するのである:「これが契経(けいきょう)の深義(じんぎ)であり、これが戒律の軽重の相であり、これが法句を分別する論である」と。
ちょうど、名医の子が父の教えを思い起こすように。
善男子よ!人間の世界では、六か月に一度、月が蝕(む)されるのを目にするが、天上界の諸天にとっては、ほんの一瞬の間にも幾度となく月が蝕されるのを見る。これは、人間界の時間が短く、天界の一日は人間界の長い年月に相当するからである。
善男子よ!天人も人間も、如来の寿命を短いものと思っている。これは、ちょうど天界の者が一瞬のうちに幾度も月蝕を見るようなものである。
同じように、一瞬のあいだに如来は百千億万回も涅槃に入られる様を示され、煩悩魔・五蘊魔・死魔を断じ給う。ゆえに、百千億万の天魔たちは、「如来は涅槃に入られた」と知るのである。
また、如来は過去の無量の因縁・業報・前世の姿をも現される。
このように、世間の種姓(しゅしょう)に随順して、無量無辺・不可思議なる様々な示現をなされるゆえに、如来は常住不変である。
善男子よ!満月が清らかに輝き、衆生がそれを見るのを喜ぶゆえに、「楽見(らくけん)」と呼ばれる。
衆生がもし貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三毒に覆われていれば、それを「楽見」とは呼べない。
如来の性は、純粋善にして清浄、まったく染汚(せんお)なきがゆえに、まことに「楽見」と称するにふさわしい。
正法を愛し、如来を見ようと願う者たちは、見ることに倦(う)まず、喜んで仰ぎ見る。
反して、悪心ある者は如来を見ることを好まない。
このゆえに、如来は清らかに満ちる月に喩えられるのである。
善男子よ!たとえば、太陽が昇るとき、その日照の長さには三つの時節がある。すなわち春・夏・冬である。冬の日は短く、春の日は中ほどの長さであり、夏の日は非常に長い。
これと同じく、この大千世界(だいせんせかい)において、寿命の短い衆生および声聞(しょうもん)のためには、如来は寿命の短い姿を示現される。これらの人々は、それを見て「如来の寿命は短い」と受け取り、ちょうど冬の日の短さのようである。
菩薩のためには、如来は中くらいの寿命を示される。あるいは一劫(いっこう)、あるいは一劫に満たない寿命を現され、これは春の日のようである。
ただ仏のみが、仏の寿命が無量であることを知る。これはちょうど夏の日の長さのようなものである。
善男子よ!如来が説かれる方等(ほうどう)大乗の微密(びみつ)なる教法とは、まさに如来がこの世において大法の雨をそそがれることに譬えられる。
未来世において、もし誰かがこの経典を受持し、講じて開示し、衆生に利益を与える者があれば、その人はまことの菩薩であると知るべし。それは、ちょうど盛夏(せいか)の日に甘露(かんろ)の雨を降らすが如し。
もし声聞(しょうもん)や縁覚(えんがく)の者が、この如来の微密なる教法を聞くならば、それはちょうど冬の日に寒さに覆われるようなものである。
菩薩がこの「如来は常住不変である」との微密の教えを聞けば、それはまさに春の日に芽が萌え、花が咲くようなものである。
しかし実際には、如来の性(しょう)には長短の別はなく、ただ世間に随順してそのように示現されるだけである。これこそが、諸仏の真実なる法性(ほっしょう)である。
善男子よ!たとえば昼間には星が見えず、人々は「星が隠れた」と思う。しかし、実際には星は隠れてはおらず、ただ太陽の光が明るすぎるために見えないだけである。
同様に、声聞や縁覚は如来の真実を見抜くことができない。それは、まるで人々が昼には星を見られないのと同じである。
また善男子よ!たとえば、暗闇の中では太陽も月も見えず、愚かな者は「太陽も月も消えてしまった」と思う。しかし、実際には太陽も月も失われたのではない。
如来の正法が滅び、三宝(仏・法・僧)が見えなくなったとしても、それは断滅したのではなく、ちょうど太陽や月が一時的に隠れたようなものである。
ゆえに知るべし、如来は常住して変わることなし。なぜなら、三宝の真実なる性(しょう)は、いかなる垢(けが)によっても汚されることがないからである。
善男子よ!たとえば、月のない夜に彗星(すいせい)が現れ、一瞬のうちに光を放っては消えていく。それを見た衆生は、凶兆(きょうちょう)であると思う。
これと同じく、辟支仏(びゃくしぶつ=縁覚)が仏なき時代に出現するとき、衆生はそれを見て「如来はまさに滅度されたのだ」と思い、悲しみと憂いを生じる。しかし、如来の御身はまことに滅したのではなく、それは太陽や月が隠れるにすぎず、決して失われたのではない。
善男子よ!たとえば、太陽が昇るとき、霧や靄(もや)はすべて晴れ去る。
この『大涅槃経』という微妙(みみょう)なる経もまた、これと同じである。この経が世に現れるとき、もし衆生が一度でも耳にすることがあれば、すべての無間地獄の重罪、あらゆる悪行を断ち切ることができるのである。
この『大涅槃経』は、その境界(きょうがい)甚だ深く、思議することのできないものであり、如来の秘密の性(しょう)を巧みに説き明かすものである。
この故に、善男子よ、善女人よ、如来に対しては「常住不変」であるとの信心を持つべきである。正法は断滅せず、僧宝(そうぼう)もまた滅することはないと知るべきである。
この経典を勤めて学び修するためには、さまざまな方便を用いて、怠ることなく修学せよ。かかる者は、やがて無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)を得るであろう。
この故に、この経は「無量の功徳によって成就されたもの」と名づけられ、また「尽きることなき正覚(しょうがく)」と名づけられる。尽きることがないがゆえに、「大涅槃」と名づけられるのである。
元のソース:https://thuvienhoasen.org/p16a173/15-pham-nguyet-du-thu-muoi-lam
ChatGPTによる日本語訳です。
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