(Aranavibhanga Sutta)
このように私は聞いた。
ある時、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)のジェータ林、アナータピンディカ(給孤独長者)の精舎に滞在しておられた。
そのとき、世尊は比丘たちを呼ばれた。「比丘たちよ」と。
「はい、世尊」と比丘たちは応えた。
世尊はこう語られた:
「比丘たちよ、わたしは『論争なき分別』について説こう。よく聞き、よく考えなさい。これから説こう。
―― はい、世尊。
比丘たちは世尊の言葉に従った。世尊は次のように説かれた:
―― 比丘たちよ、欲楽に耽る修行は卑しく、下劣で、凡夫のものであり、聖者にふさわしくなく、目的にも適わない。
また、自らを苦しめる苦行の修行も、聖者にふさわしくなく、目的にも適わない。
この二つの極端を避けて、中道の道が如来によって悟られた。
それは眼を生じ、智慧を生じ、安らぎ、卓越した知見、覚り、涅槃へと導くものである。
賞賛すべきことと非難すべきことを知るべきである。
賞賛すべきことと非難すべきことを知ったうえで、賞賛も非難もせず、ただ法を説くべきである。
快楽について正しく判断すべきである。
その判断を知った上で、内なる快楽に心を向けるべきである。
秘密の言葉を語るべきではない。
面と向かっているときに、相手を傷つける言葉を語るべきではない。
ゆっくりと、真実のみを語るべきであり、急いではならない。
方言に執着すべきではなく、一般的な言語から逸脱すべきではない。
これが『論争なき分別』の要約である。」
「『欲楽に耽る修行は卑しく、下劣で、凡夫のものであり、聖者にふさわしくなく、目的にも適わない。また、自らを苦しめる苦行の修行も、聖者にふさわしくなく、目的にも適わない』と説かれるとき、それはどのような理由によって説かれるのか?
すべての快楽のうち、欲に関係し、かつ卑しく、下劣で、凡夫のものであり、聖者にふさわしくなく、目的にも適わない喜びに耽る場合、
そのような法は苦しみを伴い、煩労を伴い、憂いと熱悩を伴い、邪道に属する。
一方で、欲に関係していても、卑しく、下劣で、凡夫的な喜びに執着しない場合、
そのような法は苦しみを伴わず、煩労を伴わず、憂いも熱悩もなく、正道に属する。
また、自らを苦しめる苦行が、聖者にふさわしくなく、目的にも適わない場合、
そのような法は苦しみを伴い、煩労を伴い、憂いと熱悩を伴い、邪道に属する。
逆に、苦痛を伴うような苦行を行わず、かつそれが聖者にふさわしくなく、目的にも適わない場合、
そのような法は苦しみを伴わず、煩労を伴わず、憂いも熱悩もなく、正道に属する。
『欲楽に耽る修行は卑しく、下劣で、聖者にふさわしくなく、目的にも適わず、また、自らを苦しめる苦行の修行も同様である』と説かれるのは、
まさにこれらの理由によるのである。」
「『この二つの極端を捨てて、中道の道が如来によって悟られた。それは眼を生じ、智慧を生じ、安らぎ、卓越した知見、覚り、涅槃へと導く』と説かれるとき、
それはどのような理由によって説かれるのか?
それは、聖なる八正道のことである。すなわち:
正見(しょうけん)、正思惟(しょうしゆい)、正語(しょうご)、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)、正念(しょうねん)、正定(しょうじょう)である。
『この二つの極端を捨てて、中道の道が如来によって悟られた。それは眼を生じ、智慧を生じ、安らぎ、卓越した知見、覚り、涅槃へと導く』と説かれるのは、
まさにこの理由によるのである。
『賞賛すべきことと非難すべきことを知るべきである。知ったうえで、賞賛も非難もせず、ただ法を説くべきである』と説かれるとき、
それはどのような理由によって説かれるのか?
比丘たちよ、賞賛とは何か?非難とは何か?しかし、それは法を説くことにはならないとはどういうことか?
ある者は、ある人々を非難してこう言う:
『欲に関わる快楽を求め、しかも卑しく、下劣で、凡夫的な喜びに耽る者たちは、すべて苦しみを伴い、煩労を伴い、憂いと熱悩を伴い、邪道に属する。』
また、ある人々を賞賛してこう言う:
『欲に関わる快楽を求めながらも、卑しく、下劣で、凡夫的な喜びに耽らない者たちは、すべて苦しみを伴わず、煩労も憂いも熱悩もなく、正道に属する。』
ここに、ある者は他の人々を非難してこう言う:
『自己を苦しめる苦行に耽り、それが卑しく、下劣で、聖者にふさわしくなく、目的にも適わない者たちは、すべて苦しみを伴い、煩労、憂い、熱悩を伴い、邪道に属する。』
また、別の人々を賞賛してこう言う:
『自己を苦しめる苦行に耽らず、それが卑しく、下劣で、聖者にふさわしくなく、目的にも適わない者たちは、すべて苦しみを伴わず、煩労も憂いも熱悩もなく、正道に属する。』
さらにある者は、こう言って非難する:
『有への結縛(欲望への執着)を断ち切っていない者たちは、すべて苦しみを伴い、煩労、憂い、熱悩を伴い、邪道に属する。』
また、こう言って賞賛する:
『有への結縛を断ち切った者たちは、すべて苦しみを伴わず、煩労、憂い、熱悩を伴わず、正道に属する。』
このようにして、比丘たちよ、そこには賞賛も非難もあるが、法を説くことにはなっていないのである。」
そして、比丘たちよ、賞賛も非難もせず、ただ法を説くとはどういうことであろうか?
ある者はこうは言わない:
「欲に関係する快楽を求め、しかも卑しく、下劣で、凡夫的な喜びに耽る者たちは、すべて苦しみを伴い、煩労、憂い、熱悩を伴い、邪道に属する。」
その代わりに、ただ法を説いてこう言う:
「執着は苦しみを伴い、煩労を伴い、憂いと熱悩を伴い、邪道に属する法である。」
また、こうは言わない:
「欲に関係する快楽を求めながらも、卑しく、下劣で、凡夫的な喜びに耽らない者たちは、すべて苦しみを伴わず、煩労、憂い、熱悩もなく、正道に属する。」
その代わりに、ただ法を説いてこう言う:
「非執着は苦しみを伴わず、煩労も憂いも熱悩もなく、正道に属する法である。」
また、こうは言わない:
「自己を苦しめる苦行に耽り、それが卑しく、下劣で、聖者にふさわしくなく、目的にも適わない者たちは、すべて苦しみを伴い、煩労、憂い、熱悩を伴い、邪道に属する。」
その代わりに、ただ法を説いてこう言う:
「執着は苦しみを伴い、煩労を伴い、憂いと熱悩を伴い、邪道に属する法である。」
また、こうは言わない:
「自己を苦しめる苦行に耽らず、それが卑しく、下劣で、聖者にふさわしくなく、目的にも適わない者たちは、すべて苦しみを伴わず、煩労も憂いも熱悩もなく、正道に属する。」
その代わりに、ただ法を説いてこう言う:
「非執着は苦しみを伴わず、煩労も憂いも熱悩もなく、正道に属する法である。」
また、こうは言わない:
「有の結縛(有結使)を断ち切っていない者たちは、すべて苦しみを伴い、煩労、憂い、熱悩を伴っている。」
その代わりに、ただ法を説いてこう言う:
「有の結縛が断ち切られていないとき、有も断たれていない。」
また、こうは言わない:
「有の結縛を断ち切った者たちは、すべて苦しみを伴わず、煩労、憂い、熱悩を伴っていない。」
その代わりに、ただ法を説いてこう言う:
「有の結縛が断ち切られたとき、有も断たれる。」
このようにして、比丘たちよ、賞賛も非難もせず、ただ法を説くのである。
「『賞賛すべきことと非難すべきことを知り、そして賞賛も非難もせず、ただ法を説くべきである』と説かれるのは、まさにこの理由によるのである。」
「『快楽について正しく判断すべきである。判断の後、内なる快楽に心を向けるべきである』と説かれるとき、
それはどのような理由によって説かれるのか?
比丘たちよ、育成される五つの欲望がある。それは何か?
第一に、眼によって認識される色(形・姿)であって、好ましく、快く、心を惹きつけ、喜びをもたらし、欲望に関係し、魅力的なもの。
第二に、耳によって認識される音であり……
第三に、鼻によって認識される香りであり……
第四に、舌によって認識される味であり……
第五に、身体によって感じ取られる触覚であって、好ましく、快く、心を惹きつけ、喜びをもたらし、欲望に関係し、魅力的なもの。
比丘たちよ、これらが『五つの育成された欲』である。
比丘たちよ、この五欲に因って生じる喜びと楽しみは、
「欲の快楽」「汚れた快楽」「凡夫の快楽」「非聖者の快楽」と呼ばれる。
この種の快楽について、私はこう説く――
それは実践すべきではなく、修習すべきではなく、増大させるべきではない。むしろ、恐れるべきである。
ここで、比丘たちよ、ある比丘は欲を離れ、不善法を離れて、
初禅に入る。初禅は、離欲によって生じる喜びと楽を伴い、尋(tầm)と伺(tứ)がある。
その後、尋伺を鎮め、第二禅に入る。第二禅は、定によって生じる喜びと楽を伴い、尋・伺がなく、内なる静けさと一心性を伴う。
さらに第三禅、第四禅に入る――
これらは「出離の楽」「遠離の楽」「静けさの楽」「覚りの楽」と呼ばれる。
この種の快楽について、私はこう説く――
それは実践すべきであり、修習すべきであり、増大させるべきであり、恐れるべきではない。
したがって、
「快楽について正しく判断すべきである。判断の後、内なる快楽に心を向けるべきである」
と説かれるのは、まさにこの理由によるのである。
『秘密の言葉を語るべきではない。面と向かっているとき、相手を傷つける言葉を語るべきではない』
と説かれるとき、それはどのような理由によるのか?
比丘たちよ、ここにおいて、ある秘密の言葉が虚偽であり、真実でなく、目的にも適わないと知っているなら、
たとえ語る機会があっても、その言葉は語るべきではない。
また、ある秘密の言葉が真実であり、虚偽ではないが、目的にかなっていないなら、
その言葉も語らぬよう訓練すべきである。
しかし、ある秘密の言葉が真実であり、虚偽ではなく、かつ目的にもかなっているなら、
そのときは、その秘密の言葉を語るべきであると知るべきである。
また、ある言葉が面と向かって語ると不快感を生じさせ、しかも虚偽であり、目的にも適わないなら、
その言葉は、たとえ機会があっても、語るべきではない。
また、ある言葉が真実であっても、目的にかなっていないなら、
その言葉も語らぬよう訓練すべきである。
しかし、その言葉が真実であり、虚偽でなく、かつ目的にもかなっているならば、
そのときは、それを語るべきであると知るべきである。」
「『秘密の言葉を語るべきではなく、面と向かっているときは、不快にさせる言葉を語るべきではない』と説かれるのは、
まさにこの理由によるのである。
『真実を語るときは、ゆっくりと語るべきであり、急いで語るべきではない』と説かれるのは、
なぜそのように言われるのか?
比丘たちよ、ここにおいて、急いで話すと、身体が疲れ、心が損なわれ、声が乱れ、喉が痛む。
急いで話す人の言葉は不明瞭であり、聞き手にも理解されにくい。
逆に、ゆっくりと語るならば、身体は疲れず、心も損なわれず、声は損なわれず、喉も痛まない。
ゆっくり話す人の言葉は明瞭であり、聞き手にもよく理解される。
それゆえに、『真実を語るときは、ゆっくりと語るべきであり、急いではならない』と説かれるのである。
『地方の言葉に執着すべきではなく、通常用いられる言葉から逸脱すべきではない』と説かれるのは、
なぜそのように言われるのか?
比丘たちよ、何が「地方語への執着」であり、「通常の言語を逸脱すること」であるのか?
ここにおいて、比丘たちよ、多くの国々では、人々が特定の言葉をこのように呼ぶ:
パティ(Pati)、パッタ(Patta)、ヴィッタ(Vittha)、サラヴァ(Sarava)、ダーローパ(Dharopa)、ポーナ(Pona)、ピシラ(Pisila)など。
各国ではそれぞれ、ある言葉をこのように認識している。
そして、ある者はこれらの言葉の使い方に固執し、頑なに執着して言う:
『この言い方だけが真実であり、それ以外は虚偽である』と。
比丘たちよ、このようにして「地方語に対する執着」が生じ、
「通常使用される言語を逸脱する」ことになるのである。」
そして比丘たちよ、何が「地方語に執着せず、通常の言語から逸脱しないこと」であるのか?
ここにおいて、比丘たちよ、多くの国々では、次のような言葉が用いられている:
パティ(Pati)、パッタ(Patta)、ヴィッタ(Vittha)、サラヴァ(Sarava)、ダーローパ(Dharopa)、ポーナ(Pona)、ピシラ(Pisila)など。
それらの国々で、それぞれの言葉がこのように用いられている場合、
ある者はそれに固執することなく、こう理解して語る:
「これらの人々はこのような言葉に依って、こう説明しているのだ」と。
比丘たちよ、このように語ることが、地方語に執着せず、通常使用される言語から逸脱しないということである。
ゆえに、「地方語に執着すべきでなく、通常の言葉から逸脱すべきでない」と説かれるのは、まさにこの理由によるのである。
ここにおいて、比丘たちよ、欲に関連する快楽があり、
それが卑しく、下劣で、凡夫的な喜びに執着し、聖者にふさわしくなく、目的にも適わないものであるならば、
その法は苦しみを伴い、煩労を伴い、憂いを伴い、熱悩を伴い、邪道に属する。
したがって、この法は「有争(うそう)の法(tranh cãiを引き起こす法)」である。
一方、比丘たちよ、欲に関連する快楽がありながらも、
それに執着せず、卑しくなく、下劣でもなく、凡夫的でもなく、聖者にふさわしくなくなく、目的にも適っているものであるならば、
その法は苦しみを伴わず、煩労を伴わず、憂いも熱悩も伴わず、正道に属する。
したがって、この法は「無争(むそう)の法(tranh cãi không phát sinhする法)」である。
さらに、比丘たちよ、もし自己を苦しめる苦行を実践し、
それが聖者にふさわしくなく、目的にも適わないならば、
その法は苦しみを伴い、煩労を伴い、憂いと熱悩を伴い、邪道に属する。
したがって、この法は「有争の法」である。
また、比丘たちよ、もし自己を苦しめる苦行を行わず、
それが聖者にふさわしくなく、目的にも適わないものであり、苦しみを伴わず、煩労も憂いも熱悩も伴わないならば、
その法は正道に属する。
したがって、この法は「無争の法」である。
ここにおいて、比丘たちよ、これは世尊(ブッダ)によって悟られた「中道」であり、
眼(見解)を生じさせ、智慧を生じさせ、
安らぎ、勝れた智慧、悟り、そして涅槃へと導くものである。
この法は、苦しみを伴わず、煩労を伴わず、憂いも熱悩も伴わず、正道に属する。
したがって、この法は「無争(むそう)の法(tranh cãi không phát sinhする法)」である。
ここにおいて、比丘たちよ、称賛と非難がありながら法を説かない、
つまり「説法なき称賛と非難」は、
苦しみを伴い、煩労を伴い、憂いと熱悩を伴い、邪道に属する。
したがって、この法は「有争(うそう)の法」である。
ここにおいて、比丘たちよ、称賛もせず、非難もせず、ただ法を説くのみという法は、
苦しみを伴わず、煩労を伴わず、憂いも熱悩も伴わず、正道に属する。
したがって、この法は「無争の法」である。
ここにおいて、比丘たちよ、欲の快楽は「汚れた快楽」「凡夫の快楽」「非聖者の快楽」であり、
この法は苦しみを伴い、煩労を伴い、憂いと熱悩を伴う。
したがって、この法は「有争の法」である。
ここにおいて、比丘たちよ、出離の快楽、離欲の快楽、静寂の快楽という法は、
苦しみを伴わず、煩労も憂いも熱悩も伴わず、正道に属する。
したがって、この法は「無争の法」である。
ここにおいて、比丘たちよ、
たとえ秘密の言葉であっても、それが不真実であり、虚偽であり、目的に関係しないものであるならば、
その法は苦しみを伴い、煩労を伴い、憂いと熱悩を伴い、邪道に属する。
したがって、この法は「有争(うそう)の法」である。
ここにおいて、比丘たちよ、
秘密の言葉がたとえ真実であり、虚偽でなくても、もし目的に関係しないものであるならば、
その法もまた、苦しみを伴い、煩労を伴い、憂いと熱悩を伴い、邪道に属する。
したがって、この法は「有争の法」である。
ここにおいて、比丘たちよ、
秘密の言葉が真実であり、虚偽ではなく、かつ目的にかなうものであるならば、
その法は苦しみを伴わず、煩労を伴わず、憂いも熱悩も伴わず、正道に属する。
したがって、この法は「無争(むそう)の法」である。
ここにおいて、比丘たちよ、
面と向かって語られる不快な言葉が、もし不真実であり、虚偽であり、目的に関係しないものであるならば、
その法は苦しみを伴い、煩労を伴い、憂いと熱悩を伴い、邪道に属する。
したがって、この法は「有争の法」である。
ここにおいて、比丘たちよ、
面と向かって語られる不快な言葉が、たとえ真実であり、虚偽でなくても、目的に関係しないものであるならば、
その法もまた、苦しみを伴い、煩労を伴い、憂いと熱悩を伴い、邪道に属する。
したがって、この法は「有争の法」である。
ここにおいて、比丘たちよ、
面と向かって語られる不快な言葉が、真実であり、虚偽でなく、目的にかなうものであるならば、
その法は苦しみを伴わず、煩労を伴わず、憂いも熱悩も伴わず、正道に属する。
したがって、この法は「無争(むそう)の法」である。
ここにおいて、比丘たちよ、
急いで語られる言葉は、苦しみを伴い、煩労を伴い、憂いと熱悩を伴い、邪道に属する。
したがって、この法は「有争(うそう)の法」である。
ここにおいて、比丘たちよ、
ゆっくりと語られる言葉は、苦しみを伴わず、煩労を伴わず、憂いも熱悩も伴わず、正道に属する。
したがって、この法は「無争の法」である。
ここにおいて、比丘たちよ、
地方語に固執し、一般的な言葉から逸脱することは、苦しみを伴い、煩労を伴い、憂いと熱悩を伴い、邪道に属する。
したがって、この法は「有争の法」である。
ここにおいて、比丘たちよ、
地方語に固執せず、一般的な言葉から逸脱しないことは、苦しみを伴わず、煩労を伴わず、憂いも熱悩も伴わず、正道に属する。
したがって、この法は「無争の法」である。
ゆえに、比丘たちよ、諸君は自ら修行すべきである。
「我々は有争の法を知り、無争の法を知る。
有争の法と無争の法を知った後に、我々は無争の道を修行するだろう」と。
そして比丘たちよ、善男子スブーティー(須菩提)は無争の法を修行した。
このように世尊は説き、比丘たちは喜び信受した。
元のソース:https://www.budsas.org/uni/u-kinh-trungbo/trung139.htm
ChatGPTによる日本語訳です。
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