(漢部は第八巻の後に続く)
仏は迦葉菩薩に告げた:「善男子よ、二種類の鳥がある。一つはカランデと呼ばれ、もう一つはワンウオンと呼ばれる。この二種類の鳥は飛ぶ時も止まる時も常に一緒で離れない。諸法の苦、無常、無我もまた同様に離れないのである。」
迦葉菩薩は仏に白した:「世尊よ、如何なるものが諸法の苦、無常、無我が、鳥のワンウオンやカランデのようであるのですか。」
仏は言われた:「善男子よ、苦法は異なり、楽法は異なり、常法は異なり、無常法は異なり、我法は異なり、無我法も異なる。例えば、米とトウモロコシは異なり、トウモロコシはサトウキビの種子とは異なる。その全ては芽生えから葉を出し花を咲かせるまでは無常である。果実や種子となって乾燥し熟し、人々が味わう時に初めて常と言う。なぜならその性質が真実だからである。」
カッサパ菩薩が仏に申し上げた:「世尊よ、このようなものが常であるならば、それは如来と同じであると言えるのでしょうか?」
仏は言われた:「善男子よ、今あなたはそのように言ってはならない。如来を須弥山のように見るならば、劫の終わりに須弥山が崩れ去るとしても、如来もまた同じく滅びるというのか?
善男子よ、あなたはそのような考えを抱いてはならない。
すべての法は、仏性と涅槃を除いて、常なるものは一つとして存在しない。石や種を常とするのは、ただ世間的な言い方にすぎない。」
カッサパ菩薩が仏に申し上げた:「世尊よ、善哉、善哉、まことに仏のお言葉の通りです。」
仏はカッサパ菩薩に告げられた:「その通りである。善男子よ、たとえ一切の契経やさまざまな禅定を修していても、大涅槃の法をまだ聞いていない者は、すべては無常であると説くであろう。この経を聞いた後は、たとえ煩悩があっても、それがないかのようになり、天界・人界のすべてに利益をもたらすことができる。なぜなら、自身に仏性が備わっていると明らかに知るからであり、これを『常』というのである。
善男子よ、たとえばアムラ(余甘子)の木が花を咲かせたときは無常であるが、果実となって食べられるようになれば、それは常と呼ばれるのである。」
また、善男子よ、このように、たとえ一切の契経や諸々の禅定を修していても、この『大涅槃経』をまだ聞いていない間は、一切の法はすべて無常であると見なす。しかし、この経を聞いた後は、たとえ煩悩があっても、まるで煩悩がないかのようになり、天界および人界に利益をもたらすことができる。なぜなら、自らの身に仏性が具わっていることを明らかに知るからであり、これを「常」と呼ぶのである。
善男子よ、たとえば金鉱を煮て、精錬し、不純物を取り除いている間は無常の相である。しかし、精錬し終えて純金となり、多くの利益をもたらすようになれば、それを「常」と呼ぶのである。
同様に、善男子よ、たとえ一切の契経や禅定を修していても、この『大涅槃経』をまだ聞いていなければ、一切の法は無常であると見なされる。しかし、この経を聞いた後は、たとえ煩悩があっても、それがないかのようになり、天界・人界すべてに利益をもたらす。なぜなら、自身の身に仏性があると明らかに知るからであり、これを「常」と呼ぶのである。
善男子よ、たとえばゴマの種がまだ搾られていないときは無常とされるが、搾って油となり、多くの利益をもたらすようになれば、それは「常」と呼ばれるのである。
善男子よ、たとえ一切の契経や諸々の禅定を修していても、この『大涅槃経』をまだ聞いていない間は、一切は無常であると見なされる。しかし、この経を聞いた後は、たとえ煩悩があっても、煩悩がないかのように振る舞い、人界・天界に利益をもたらすことができる。なぜなら、自身の身に仏性が具わっていることを明らかに知るからであり、これを「常」と名づけるのである。
善男子よ、たとえばあらゆる川の流れが最終的には海に注ぐように、同じく一切の契経、あらゆる禅定や三昧も、最終的には大乗の『大涅槃経』に帰す。なぜなら、この経は仏性が存在することを巧みに説いているからである。
善男子よ、ゆえに我はこのように説く──「常なる法」と「無常なる法」とは異なり、「無我」についてもまたしかりである。
カッサパ菩薩が仏に申し上げた:
「世尊よ、如来はすでに“ウーパーヤ(憂悲)”という毒矢を離れられました。『ウーパーヤを有する者』を“天”と呼びますが、如来は天ではありません。『ウーパーヤを有する者』を“人”と呼びますが、如来は人でもありません。『ウーパーヤを有する者』を“二十五の有漏界”と呼びますが、如来はその二十五の有漏界にも属しません。ゆえに、如来にはウーパーヤはないはずです。それなのに、なぜ如来にウーパーヤがあるとおっしゃるのですか?」
仏は言われた:
「善男子よ、無想天(むそうてん)は“想いなきところ”と名づけられる。もし想いがなければ、受命(寿命)もまた存在しない。もし受命がなければ、五蘊・十二処・十八界はどのようにして存在できようか。この意味によって、無想天の身と寿命は“ここにある”と明確には言えないのである。
善男子よ、たとえば『受命の神』が一本の樹に依って住んでいるとしても、それが枝によるのか、節によるのか、幹によるのか、葉によるのか、はっきりとは決められない。
同様に、明確な場所にあるとは言えなくても、無想天に身と寿命が存在しないとは言えないのである。
善男子よ、仏法もまたこのように、極めて深遠で理解しがたい。如来は実際には憂悲も苦悩も持たないが、衆生に対して大慈大悲の心を起こし、憂悲があるかのように示現される。如来は、衆生をラーフラ(羅睺羅)のように慈しんでおられるからである。
善男子よ、無想天における寿命がどれほどであるか、それを知ることができるのはただ仏のみであり、他の者には知ることができない。さらに、非想非非想天においても、同じである。」
「カッサパよ、如来の本性は清浄であり、一切の汚れを離れている。まるで化身のようであり、どうしてそこに憂悲や苦悩があり得ようか。
もし『如来には憂悲がない』と言うならば、どうして衆生を利益し、広く仏法を弘めることができるのか? また、もし『憂悲がない』と言うのなら、どうして『如来は衆生を羅睺羅のように平等に見ている』と言えるのか? もし平等に見ていないのであれば、そのような言葉は虚妄である。
善男子よ、このような意味によって、仏は不可思議であり、法もまた不可思議であり、衆生の仏性も不可思議であり、無想天における寿命もまた不可思議である。如来が憂悲を有すると同時に憂悲を有しないということは、これは仏の境界であり、声聞や縁覚には知ることができない。
善男子よ、たとえば家や門や塵や地などは、虚空の中に存在することはできない。しかし、もし『家や門は虚空を必要とせずに存在する』と語るならば、それは誤りである。ゆえに、『家は虚空に依って存在する』とも、『虚空に依っていない』とも、はっきりとは言えない。凡夫が『家は虚空に在る』と語るとしても、虚空には実際に依り所がない。なぜなら、虚空の本性は本来、無住(とどまらない)であるからだ。
善男子よ、同様に、心が五蘊・十八界・十二処に住するとも住せざるとも、明確に語ることはできない。無想天の寿命もまた同じであり、如来の憂悲もまた同じである。
もし憂悲がないというならば、どうして如来が『衆生を羅睺羅のように平等に見ている』と語られるのか? もし憂悲があるというならば、どうして如来の性は虚空と同じであると語られるのか?
善男子よ、たとえば幻術師が様々な宮殿、殺生、養育、縛ること、解き放つこと、さらには金銀瑠璃の宝物、林や樹木などを幻により現すとしても、それらには真実の実体はない。
同様に、如来は世間に随順し、あえて憂悲を現すが、それは真実ではない。如来はすでに大涅槃を証入しており、どうして憂悲や苦悩があるだろうか?」
もしある者が「如来は涅槃に入ったが、それは無常である」と言うならば、その人は憂悲を有する者であると知るべきである。
また、もし「如来は涅槃に入らず、常住して変わることがない」と言うならば、その人は憂悲を有していないと知るべきである。
如来が憂悲を有するか、あるいは有しないか──そのことは、誰も知ることができない。
善男子よ、たとえば下位の者は下位の法のみを知り、中位や上位の法を知ることはできない。中位の者は中位の法を知るが、上位の法を知ることはできない。上位の者は上位の法を知り、さらに中位・下位の法も知ることができる。
このように、声聞・縁覚の者は、自らの境地と等しい範囲の法のみを知るにすぎない。如来はそのようではない。如来自身の境地を知るのみならず、他のすべての境地も知っておられる。ゆえに如来は「無碍智(むげち)」の持ち主と呼ばれ、世間に随順して種々の示現をされるのである。
しかし、凡夫は肉眼によりそれを真実と見なし、如来の無上無碍の智慧を知り尽くそうとするが、その見解は正しくない。
如来が憂悲を有するか否か──それはただ仏のみが知るところである。
この因縁によって、「我がある法」と「我なき法」は異なるものであると説かれる。これを「鴛鴦(おしどり)とカラリンディ鳥(ラランダ鳥)」のたとえと言うのである。
善男子よ、仏法はまるで鴛鴦(おしどり)のように、共に飛び立つ姿に似ている。カラリンディ鳥(カラランダ鳥)と鴛鴦は、雨季に水が満ちると、高台を選んで巣をつくり、子をそこで育てる。その後、安穏で自由な元の棲処に帰るのである。
同様に、如来もこの世に出現して、無量の衆生を教化し、すべてを正法に安住させる。それはちょうど、鳥たちが子のために高台に巣を作るのと同じである。
如来は衆生をしてみな解脱を得させ、成すべきことをすでに成し遂げた後、ついに大涅槃に入られるのである。
善男子よ、これを「苦の法は別にあり、楽の法は別にある」と言う。すべての「行(サンスカーラ/形成され変化するもの)」は苦であるが、涅槃は最も勝れた微妙なる楽である。なぜなら、それは一切の行法を打ち破るからである。
カッサパ菩薩が仏に申し上げた:
「世尊よ、いかなる衆生が涅槃を証得し、これを『最上の安楽』と名づけるのでしょうか?」
仏が言われた:
「善男子よ、すでに我が説いたように、すべての行法(ぎょうほう/形成されるもの)の和合とは、すなわち老死と名づけられる。
慎んで放逸(ほういつ)せずにいること、これを甘露(かんろ)と名づける。もし放逸して慎みがなければ、これを『死の言葉(しのく)』と名づける。
もし人が放逸しなければ、不死の境地を得るであろう。されど放逸なる者は、常に死の道に向かうのである。
放逸とは、すなわち有為法(ういほう/条件によって成り立つ法)であり、有為法とは、最上の苦である。
もし放逸しなければ、それを涅槃と名づける。その涅槃は、最上の甘露、安楽である。
もし諸行に向かえば、これを『死の境地』と名づけ、最も甚だしい苦を受けるであろう。
もし涅槃に至れば、これを『不死』と名づけ、微妙なる楽を得る。
たとえ諸行を集めるとしても、放逸しなければ、これを『常・楽・不死』と名づけ、身もまた壊れないと説かれる。
では、何をもって放逸とし、何をもって放逸でないと言うのか?
凡夫であり聖者にあらざる者は、これを放逸と名づける。それは常に死の法である。
世間を超えた聖者は放逸せず、老死もまた無く、最上の常楽なる涅槃を証得している。
この義によって、『苦なる法』と『楽なる法』は異なり、『我ある法』と『我なき法』もまた異なるのである。
善男子よ、ちょうど地に立つ者が、顔を上げて虚空を見上げるとき、飛ぶ鳥の跡を見いだすことができないようなものである。」
善男子よ、衆生は天眼を持たず、煩悩の中にあっても自らに如来性があることを見出さない。ゆえに我は無我の秘密の教えを説く。なぜなら天眼を持たぬ者は真の我を知らず、誤って我に執着するからである。
煩悩によって有為の業が生じ、それこそが無常である。ゆえに我は常の法と無常の法とは異なると説く。
精進して勇猛なる者は、智恵の山の頂や平らな大地、広い空地においても、常に凡夫を見ている。
その者は大智の宮殿、無上の妙なる壇に昇り、すでに自身の憂苦を除き、かつ衆生の苦しみも見る。
如来は智恵の山において無量の煩悩を断ち切り、常に衆生が無量の煩悩の中にあることを見ておられる。」
カッサパ菩薩が仏に申し上げた。
「世尊よ、先ほどの偈の意味は正しくありません。
なぜなら涅槃に入って憂いも喜びもない者が、いかにして智恵の宮殿や壇に昇り、またいかにして智恵の山の頂にいて衆生を見ることができるのですか?」
善男子よ、智恵の宮殿とはまさに涅槃を指し、憂苦のない者とは如来である。如来に憂い苦しみがないと言う。一方、憂い悲しみを持つ者は凡夫と呼ばれる。凡夫が憂苦を持つゆえに、如来は憂苦を持たないのである。
須彌山の頂とは正しい解脱を意味する。精進して勇猛なる者は、須彌山のごとく動かない。大地とは有為の行いを示す。この凡夫はこの大地の上に立ち、行為の業を作る。智慧ある者は正覚者と呼ばれ、有漏を離れ、常住であるため如来と称される。
如来は無量の衆生が諸世界の毒矢に常に刺されていることを憐れみ、如来には憂悲があると言われる。
カッサパ菩薩が仏に申し上げた。
「世尊よ、もし仮に如来に憂悲があるならば、如来を等正覚とは呼べません。」
善男子よ、すべては因縁によるものである。どこに衆生が化度されるべきところがあるならば、如来はそこに現れて生を受けたと示す。たとえ生を受けたと示しても、実際には生はない。ゆえに如来は法の常住と呼ばれる。これはちょうどオオヨシキリやカルラ鳥のようなものである。
元のソース:https://thuvienhoasen.org/p16a172/14-pham-dieu-du-thu-muoi-bon
ChatGPTによる日本語訳です。
大般涅槃経に戻る。
大乗経典に戻る。
トップページに戻る。