(漢部第一巻第十)
その時、世尊は色とりどりの光を放たれた。青、黄、赤、白、桃色、紫の光が純陀(ジュンダ)に当たった。純陀はその光を受けて、仲間とともに食物を持ってタラの森へ行き、最後に仏陀に供養し、比丘たちにも供養した。
その時、大威徳天が前に立ち、純陀に言った。「純陀よ、ここでやめて、供養するのをやめなさい。」
如来は無量無辺の光を再び放ち、天界の大衆はその光を受けて純陀が食物を持って仏に供えるのを許した。
その時、天人たちと諸生は供養の品をもって仏のもとに集まり、共にひざまずいて申し上げた。「どうか如来様、比丘たちがこの食物を受け取ることを許してください。」
比丘たちは食事の時が来たことを知り、安らかに衣鉢を持って座った。
純陀は、仏と衆生のために獅子の宝座を施し、絹の幡や宝の傘、数々の珠玉・香・華を捧げました。その時、三千大千世界は、西方の極楽浄土のように荘厳で美しくなりました。
純陀は仏の前にひざまずき、悲しみに沈みながら申し上げました。
「どうか、如来さま、衆生をあわれみ、一劫、あるいは一劫に満たない間でも、この世にとどまってくださいませ。」
仏は純陀に言われました。
「もし汝が仏にこの世に長くとどまってほしいと願うならば、速やかに最後の供養を捧げなさい。」
そのとき、すべての大菩薩、諸天、人々は、口々にこう唱えました。
「なんと不思議なことだろう、純陀よ。大いなる福徳を成し遂げ、如来に最後の供養を受けていただけるとは。私たちは福がなく、せっかくの準備も無駄になってしまった!」
世尊は、大衆すべての願いを満たすために、仏身のすべての毛孔から無量の仏を化現されました。それぞれの仏には、無数の比丘僧が随伴していました。これらの仏と比丘僧たちは、大衆からの供養を受けました。そして釈迦如来は、純陀の供養を自らお受けになりました。
仏の神通力によって、純陀の八升のご飯は、すべての大会衆に十分に行き渡りました。純陀はその様子を見て、非常に喜び、大衆もまた皆、歓喜に満ちました。
そのとき、大衆一同はこう思いました。
「今、如来はすでに供養をお受けになった。間もなく涅槃に入られるであろう。」
大衆の心には、悲しみと喜びが交錯していました。
その時、サーラ樹林(沙羅双樹の林)はもとより狭く小さなものであったが、仏の神通力によって、針の先ほどの空間にも無量の諸仏・世尊と菩薩の眷属たちが共に坐し、供養の食事を受けていた。供えられた食物もまた、すべて同じく、差異なかった。
その時、諸天・人々・阿修羅などが皆、悲しみに満ち、声をあげて嘆いた。
「今、如来は我らの最後の供養を受けられた。まもなく仏は涅槃に入られるであろう。これから先、我らは一体誰に供養すればよいのか。今、我らは至高の導師を失い、まるで目のない盲人のようだ。」
そこで世尊は、すべての大衆を慰めるために、次の偈を説かれた:
大衆よ、悲しむことなかれ。
仏の法は本来このようなものなり。
仏はすでに実際、
無量劫より涅槃におられる。
常にこの上ない安楽を享受し、
永遠に安穏の中に住まわれる。
皆よ、よく心を静めて聴きなさい。
仏は今、涅槃について語られよう。
仏はすでに飲食を離れ、
飢えや渇きの苦しみは全くない。
仏は人々のために、
その願いに随順して説かれ、
すべての大衆をして、
歓喜と安穏を得させよう。
これを聞き終えたならば、
仏の常住なる法を修行すべし。
たとえカラスとチョウゲンボウ(鷹の一種)が
一つの木に共に巣を作り、
兄弟のように親しみあったとしても、
その時に仏が涅槃に入られるであろう。
だが如来はすべての衆生を
ラーフラのように深く愛し、
常に衆生の師であられる。
どうして完全に涅槃に入られようか。
たとえ蛇・鼠・狼が
一つの巣穴に共に住み、
兄弟のように親しむことがあっても、
その時に仏が涅槃に入られるであろう。
だが如来はすべての衆生を
ラーフラのように愛し、
常に衆生の父であられる。
どうして完全に涅槃に入られようか。
たとえ七葉の花が
バンシュ(梵・芳香の花)のように香り高く、
カルーカの果実が
真の果実へと変わったとしても、
その時に仏が涅槃に入られるであろう。
だが如来はすべての衆生を
ラーフラのように愛し、
どうして慈悲を捨てて、
永遠に涅槃に入られようか。
たとえ一闡提(いっせんだい/信心のない者)が、
現身のまま仏道を成じ、
この上ない楽を受けたとしても、
その時に仏が涅槃に入られるであろう。
だが如来はすべての衆生を
ラーフラのように愛し、
どうして慈悲を捨てて、
永遠に涅槃に入られようか。
たとえすべての衆生が
同時に仏道を成じ、
すべての過ちを離れたとしても、
その時に仏が涅槃に入られるであろう。
だが如来はすべての衆生を
ラーフラのように愛し、
どうして慈悲を捨てて、
永遠に涅槃に入られようか。
たとえ蚊の尿が
大地全体を溢れさせ、
山々や百の河川を覆い、
大海までも満たしたとしても、
そのようなことがあって、
初めて仏は涅槃に入られるであろう。
だが仏の慈悲の心は、
すべての衆生をラーフラのように見、
常に衆生の師である。
どうして完全に涅槃に入られようか。
それゆえ、すべての人々よ、
正法を喜び愛するべし。
悲しみを起こして、
嘆き泣くことなかれ。
真の行いを得んと欲すれば、
仏の常住を修行すべし。
法をこのように観じて、
永く変わることなきものと知れ。
また次のように思惟すべし:
三宝は常に住し、
その時、大いなる利益を得ん。
枯れ木に果実が実るが如し。
これを「三宝」と言う。
四衆はよく聴くべし。
聴いてさらに歓喜し、
直ちに菩提心を発すべし。
もし三宝が
常住にして真理と等しいと知れば、
これこそが諸仏の
最上の誓願である。
もし比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷が、
如来の最上の誓願に依って自らも願を発し、
その教えに従って修行することができるならば、
この人は愚かではなく、供養を受けるにふさわしい者であると知るべし。
なぜなら、この願の力によって、
世間においては非常に勝れた功徳と果報を得、
まるで阿羅漢のようであるからである。
しかるに、もしこのように三宝が常住であることを観じることができない者は、
その人はチャンダーラ(賤民)と同じである。
三宝が常に住し、
真実の法の因縁であることを知る人は、
苦を離れて安楽を得、
いかなる災害や災難も、
この人を妨げることはできない。
その時、天・人・阿修羅などの大衆は、
仏の教えを聞いて皆大いに歓喜し、
心は柔らぎ、顔には喜びがあふれ、
威儀は清らかに整い、
五つの障り(五蓋)をうまく断ち切り、
心は高下の分別を離れ、
仏は常住なりと明らかに知った。
それによって、大衆は種々の供養を備え、
天界の花をまき、香粉や塗香をそなえ、
天の太鼓を打ち、天の音楽を奏して、
仏に供養を捧げた。
仏は迦葉菩薩に告げて言われた:
「迦葉よ、そなたは今、この大衆の希有なる出来事を見たであろうか?」
迦葉菩薩が仏に申し上げた:
「世尊よ、私は確かに見ました。私は、数限りない無量無辺の如来たちが、
大衆の供養として捧げた飲食を受けられるのを拝見しました。
また、諸仏のお身体は非常に高大でありながら、
その座は針の先ほどの空間にすぎず、
しかも互いに障り合うことなく端然と坐しておられました。
また、すべての大衆がそれぞれに発願し、
十三の偈(げ)を誦したことも拝見しました。
私はまた、大衆が皆このように心中に思っていることも知りました:
『今、如来は私だけの供養を個別にお受けくださっているのだ』と。
たとえ純陀(じゅんだ)が捧げたすべての飲食物を微塵のように細かく砕き、
その一つ一つの微塵を、それぞれ一人の仏に捧げたとしても、
到底すべての仏に行き渡ることはないでしょう。
しかしながら、仏の神通力によって、
その供養は完全にすべての大衆に行き渡り、充足されました。
このような希有の出来事を理解することができるのは、
文殊師利法王子(もんじゅしり・ほうおうし)などの大菩薩のみです。
これらすべては、如来が方便をもって示現されたものであり、
声聞(しょうもん)や阿修羅(あしゅら)などの衆生たちも、
如来が法として常住であることを知るのです。」
その時、世尊は純陀(じゅんだ)に告げて言われた:
「純陀よ、そなたは今、この希有にして不思議なる現象を見たであろうか?」
純陀が仏に申し上げた:
「はい、世尊。まことに私は拝見いたしました。
私は先ほど、無量の諸仏を見ました。
そのお姿は三十二相、八十種の好相をもって荘厳されており、
多くの大菩薩たちがその周囲を恭しく巡り、供養しておられました。」
仏は純陀に告げて言われた:
「そなたが見たその無量の諸仏は、
すべて衆生を利益し、歓喜させるために、
我が化現として示したものである。
あのような大菩薩たちは、
その修行の功徳・行願は不可思議であり、
無量の仏事を成し遂げることができるのだ。
純陀よ、そなたは今、
すでに大菩薩の行を成就し、
十地に住する者となった。
そして、菩薩としての修行をすべて円満に成し遂げたのである。」
その時、迦葉菩薩が仏に申し上げた:
「世尊よ、まさしく仏の説かれる通りです。
純陀の修行の境地はすでに菩薩の行を完全に成し遂げており、
私はこのことを心から随喜いたします。」
「本日、如来は未来世の衆生たちに
大いなる智慧の光を与えるために、
この『大乗大涅槃経(だいじょう・だいねはんぎょう)』を説かれたのです。」
純陀(じゅんだ)が仏に申し上げた:
「世尊よ、すべての契経(けいきょう/仏が説かれた教え)は、
まだ余りある義(意味)を含んでいるのでしょうか?
それとも、もはや何の余義もないのでしょうか?」
仏が言われた:
「善男子よ、仏が説いた経には、
余義あるものもあり、余義なきものもある。」
純陀が仏に申し上げた:
「世尊よ、かつて仏はこうお説きになられました:
『自ら所有する一切のものを、
すべての者に施すべし。
ただ称賛すべきであり、
決して非難してはならない。』
この教えの意味はどのように解釈すべきでしょうか?
戒を守る者と、戒を破る者とでは、施しにおいて何か違いがあるのでしょうか?」
仏が答えられた:
「ただ一人の例外を除き、
すべての布施は称賛されるべきものである。」
純陀が尋ねた:
「世尊よ、『ただ一人の例外』とは、誰のことをおっしゃるのですか?」
仏が言われた:
「それは、この経において説かれている『破戒の者』のことである。」
純陀が再び申し上げた:
「世尊よ、私はその意味をまだよく理解しておりません。
どうか如来よ、その真意を明らかにお示しください。」
仏が純陀に言われた:
「この経において『破戒の者』とは、
『一闡提(いっせんだい)』を意味する。
そのような者を除けば、
その他すべての布施の行為は称賛されるべきであり、
極めて大きな果報をもたらすものである。」
純陀が仏に申し上げた:
「世尊よ、『一闡提(いっせんだい)』とは、どういう意味でしょうか?」
仏が言われた:
「もし比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷が、
悪しき言葉を口にし、正法を誹謗し、
重い罪を作り、まったく悔い改めることなく、
心に恥じることもないならば、
そのような者は『一闡提』の道に向かっていると呼ばれる。
また、もし誰かが四重の罪、五逆の罪を犯し、
自らその重罪を知っていながら、
心に恐れも恥も抱かず、
懺悔しようとせず、
正法に対して守り育てようとする心すらなく、
それを誹謗し、軽んじ、
多くの過ちを犯すならば、
この者もまた『一闡提』の道に向かっていると呼ばれる。
さらにまた、もし誰かが
『仏なし、法なし、僧なし』と語るならば、
その者も『一闡提』の道に向かっていると呼ばれる。
ただこの『一闡提』の類を除いて、
その他すべての布施の行為は称賛されるべきである。」
純陀(じゅんだ)が再び仏に申し上げた:
「世尊よ、仏がお説きになった『破戒』とは、いかなる意味でしょうか?」
仏が言われた:
「純陀よ、もし人が四つの重罪および五つの逆罪を犯し、
さらに正法を誹謗するならば、
その者を『破戒の者』と呼ぶのである。」
純陀が仏に申し上げた:
「世尊よ、そのような破戒の者でも、救いを得ることはできるのでしょうか?」
仏が言われた:
「純陀よ、もし因縁が整っていれば、救済することは可能である。
その者がなお法服を身にまとい、まだそれを捨てず、
心の中に常に恥じらいと恐れを持ち、
自らを深く責め、悔い改める心を持ち、
正法を護持しようとする志を起こし、
正法を再び興し立てたいと願い、
さらにこう誓うならば——
『もし誰かが大乗の経典を読誦するならば、
私はその人のもとへ行き、教えを乞い、
自らも誦し習得しよう。
そして、習得した後には、他の人々のためにも説き示そう。』
このような心を起こす者であれば、
救済の道はまだ閉ざされてはいないのである。」
「純陀(じゅんだ)よ、このような者を、仏は『破戒にあらず』と呼ぶのである。
たとえば、太陽が昇るとき、
あらゆる闇と霧をことごとく払い除くことができるように、
この『大乗大涅槃経(だいじょう・だいねはんぎょう)』という
微妙(みみょう)なる経典が世に現れるとき、
無量劫(むりょうこう)にわたる衆生の罪業を破し尽くすことができるのである。
ゆえにこの経において説かれている通り——
正法を護持する者は大いなる果報を得、
破戒の者ですらも救済され得るのである。」
もしもある者がこの正法を毀謗(きぼう)したとしても、
心から懺悔(さんげ)して改悛(かいしゅん)し、正法のもとに帰依し、
自身がなしたすべての悪を自ら害したかのように思い、
恐怖と恥じらいの心を起こすならば、
この正法を除いて他に救いはない。
ゆえに必ず正法のもとに還らねばならない。
その者が上記のように正法に帰依できるならば、
その者に布施すれば無量の福徳を得ることができる。
その者はまた世間の供養を受けるに値する者と呼ばれる。
もしもある者が上記の悪業を犯し、
一か月または十五日経っても帰依や正法への発露がなければ、
その者に布施しても得られる果報は極めて少ない。
五逆の罪を犯した者であっても、
心から懺悔し恥じて正法に帰依し護持するならば、
その者は五逆の罪を犯したとは呼ばれない。
そのような者に布施すれば無量の福徳を得ることができる。
もし五逆の罪を犯しても、
帰依し護持する心がなければ、
その者に布施しても得られる福徳はわずかである。
善男子よ、
重罪を犯した者は次のような心をもつべきである。
「正法はまさに如来の秘蔵である。私はこれを護持し建立せねばならぬ」と。
もし誰かがその者に布施すれば、
非常に優れた果報を得るであろう。
善男子(ぜんなんし)よ、
たとえばある若き婦人が懐妊し、
出産の時期が近づいた頃、
国中が戦乱に見舞われ、
難を避けて他国へと逃れることになった。
しかし逃避の途中で出産し、
その後、故国が安穏になったと聞いて、
子を連れて帰ることにした。
帰路の途中、激しく流れる大河に差しかかり、
どうしても渡らねばならなかった。
川の中ほどまで来たとき、力尽き、
彼女はこう思った:
「私は子と共に死ぬことがあっても、
決して我が子を見捨てて自分だけ生き延びるようなことはしない。」
そのため母子ともに流れに呑まれて命を落とした。
しかしこの女性は、死後、天界に生まれ変わった。
彼女は本性はあまり善良ではなかったが、
子を思う慈しみの心によって天に生まれたのである。
同様に、
もし誰かが四重の重罪・五逆の罪を犯したとしても、
心から正法に帰依し、護法の志を起こすならば、
その者は世間におけるこの上なき福田(ふくでん)となる。
このように正法を護持する者には、
無量の善果(ぜんか)が得られるのである。
純陀(じゅんだ)が仏に申し上げた:
「世尊よ、もし一闡提(いっせんだい)の者が、
自ら懺悔し、改め、三宝を恭敬供養し、称賛するならば、
その者に布施することで、大いなる果報を得ることができるでしょうか?」
仏が言われた:
「善男子よ、今そのように言ってはならない。
たとえば、ある者がアムラ果(あむらか/酸っぱい果物)を食し、
『この実の中の種は甘いに違いない』と考えて、
種を割って味わってみると、
その味は非常に苦く渋くて、
心に後悔が生じ、
『この良き果実の種を無駄にしてしまった』と恐れ、
割れた種の破片をかき集めて土に植え、
熱心に世話をし、
乳やバター、油などを注いで養おうとする。
善男子よ、どう思うか?
その砕けた種は再び木として成長するだろうか?」
純陀が答えた:
「世尊よ、それは不可能でございます。
たとえ天より甘露の雨が降ったとしても、
砕け腐った種は決して発芽することはありません。」
仏が言われた:
「善男子よ、一闡提の者は、すでに善根を焼き尽くしたゆえに、
いかなる場所においてもその罪を滅することはできないのである。
もし善心を生じる者があれば、
その者はもはや『一闡提』とは呼ばれない。
ゆえにこの理によって、
すべての布施の果報は同じではないと知るべきである。
たとえば、声聞(しょうもん)に布施すれば、その果報はある種のものであり、
縁覚(えんがく/辟支仏)に布施すれば、それもまた異なる果報となる。
ただし如来への供養は、
無上の果報を得るものである。
このように、
『すべての布施は決して等しからず』と説かれるのである。」
純陀(じゅんだ)がふたたび仏に申し上げた:
「世尊よ、何の因縁によって、如来はかの偈(げ)をお説きになられたのでしょうか?」
仏が答えられた:
「善男子よ、縁があるからこそ、私はあの偈を説いたのである。
王舎城(おうしゃじょう)に一人の在家居士がいて、
三宝に対する信心を持たず、
ニ乾子(にけんし/ニーカンタ派)の教えを奉じていた。
ある時、その者が私のもとに来て、布施の義について問うた。
ゆえに私は、かの偈を説いたのである。
また、これは諸大菩薩たちのために、
秘密の法蔵(ほうぞう)の義を説いたものでもある。
その偈の意味はこのようである:
『一切の布施といえども、
その中のすべてが完全であるとは限らない。
まさしく大菩薩こそが人中において最も尊貴なる者であり、
戒を守る者を摂取し、必要なものを供給する。
そして破戒の者を見捨てることは、
ちょうど草やゴミを捨てるがごとし。』」
「善男子よ、昔私はこのような偈を説いた:
『すべての河川は、必ず渦巻き曲がり、
すべての森林は、必ず樹木で構成され、
すべての女人は、必ず迎合の心を持ち、
すべての自在者は、必ず安楽を得る。』
そのとき、文殊師利菩薩は仏の足前に礼拝して、次の偈を唱えられた:
『すべての河が必ず渦巻くわけではなく、
すべての森林が必ず樹木で構成されるわけでもない。
すべての女人が必ず迎合の心を持つわけでもない。
すべての自在者が必ず安楽を得るわけでもない。』
文殊師利菩薩はさらにこう申し上げた:
「仏のお説きになられた偈にはまだ余義があります。
どうか如来よ、その因縁を明らかに説いてください。
世尊よ、この世界にはコウダニ(拘陀尼)の岸辺があり、
そこにはターバダという、まっすぐ曲がらず海に注ぐ川があります。
このような川は、他の阿含経で仏が説かれたことがありません。
ゆえにこの等しい会において、阿含経に残された余義を明らかに示し、
諸菩薩がその意味を深く理解できるようにしてください。」
また、文殊師利菩薩は言われた:
「世尊よ、たとえばある者がかつて金鉱を知っていたが、後にはそれを忘れてしまったように、
如来はすべての法を深く知りながら、言葉にはまだ余義を残される。
仮に如来が余義を説かれたとしても、
それを方便をもって明らかにされるべきである。」
「『すべての森林は必ず樹木である』という言葉も完全ではありません。
なぜなら、金・銀・瑠璃などの宝樹もまた森林の一種とされるからです。
『すべての女人は必ず迎合の心を持つ』もまた不完全です。
なぜなら、戒を厳しく守り、功徳を成し、偉大な慈悲心を持つ女人もいるからです。
『すべての自在者は必ず安楽を得る』もまた未だ完全ではありません。
例えば、釈迦如来は法王として自在であり、無常を超越し、滅せず、
究極の安らぎを得ておられますが、帝釈天などは、たとえ自在を得ても無常の範囲にあり、真の安楽ではありません。
もしも常住不変の状態を得てはじめて自在と呼ばれるならば、
それこそがまさに大乗・大涅槃であると言えるでしょう。」
仏は文殊師利に告げられた:
「今、そなたは巧みに弁才を得ている。無碍なり。」
善男子よ!さて、よく聞きなさい。たとえば、ある長者が病に苦しみ、医師が霊薬を調合して治療しようとする。しかし、その病人は欲に駆られて多く服用したがる。医師は言う、「もし消化できるのであれば多く服んでもよいが、今、あなたの体は衰弱しているゆえ、多く服んではならない。この霊薬は『甘露』とも呼ばれるが、同時に『毒薬』ともなる。もし多く服して消化できなければ、毒となるのだ。」
善男子よ!今、あなたは医師の言葉が密意に反しており、薬の効果を損なうものと思ってはならない。
善男子よ!同様に、如来は波斯匿王やその王子、妃たちが高慢な心を抱いていたことから、彼らを調伏するために恐れを起こさせる方便として、かのような言葉を現じられた。ちょうど先の医師のように。それゆえ、我は偈をもってこう説いた:
すべての川には、
必ず曲がり渦があり、
すべての森には、
必ず樹木がある。
すべての女性には、
必ず媚びとへつらいの心がある。
すべての自在の者は、
必ず安楽を楽しむ。
文殊師利よ!あなたは知るべきである。如来の言葉にはいささかの誤りもない。この大地がひっくり返ることがあっても、如来の言葉が誤ることは決してない。この意味によって、如来の言葉にはすべて深い意義が含まれているのだ。
そのとき、仏は文殊師利菩薩を讃えて言われた:
「よきかな、よきかな、善男子よ!あなたは久しくこの義を知っていた。すべての衆生を哀れみ、智慧を得させんと願って、わざと如来にこの偈の意味を問うたのである。」
文殊師利菩薩は、再び仏の御前において、次の偈をもって申し上げた:
他人の言葉に対して、
随順し、逆らわず、
また他人の行いを、
善いとか悪いとか見なさず、
ただ自らの身を省みて、
善をなすか、悪をなすかのみを観る。
世尊よ、このような法薬(教え)は、正説(真実の教え)ではなく、ただ人の言葉に随って逆らわぬというのみであります。どうか如来よ、慈悲をもって正しく説き明かしてください。
世尊は常に説かれます──すべての外道、九十五種の異学は、ついには悪道に堕ちると。
声聞の弟子たちは、正道へと向かい、戒律をよく守り、威儀を整え、六根をよく護る。かくの如き者たちは、大乗を愛し、まっすぐに善道へと至る者たちです。
それにもかかわらず、なぜ如来は、九種の経において、他人を謗る者を見れば、直ちにこれを呵責されるのでしょうか?
先ほどの偈の意味は、いかなるものでありましょうか?
善男子よ、我が先に説いた偈(うた)は、すべての衆生のために説いたのではない。その時はただ阿闍世王(アジャセおう)のために説いたのである。諸仏は因縁なくして、決して法を説くことはないのだ。
善男子よ、阿闍世王は父王を害した後、教団に来て我を試そうとして問うた──「世尊は一切智を具しておられるのか、それとも一切智を持たぬのか」と。
提婆達多(ダイバダッタ)は過去無量劫より、常に悪心を抱き、如来を害しようと付け狙っていた者である。
「もし如来が一切智を持つのであれば、なぜそのような者を出家させたのか」と王は問うたのだ。
この阿闍世王の問いによって、我は偈をもって次のように説いた:
他人の言葉に対して、
随順して逆らわず、
他人の行いを見て、
善悪を論じず、
ただ自らを省みて、
善をなすか悪をなすかを見るのみ。
その後、我は王に告げた──
「そなたはすでに父を殺して、五逆の罪を犯した。今こそ懺悔し、その罪を滅せよ。なぜ、他人の過ちを問うのか?」
善男子よ、このような意味により、我は阿闍世王のためにこの偈を説いたのである。
また、善男子よ──
我はまた、戒律を護り、威儀を具えた者たちが、なおも他人の過ちを見て責めるときのために、この偈をもって説いたのである。
また、もしある者が他人の教えを受け入れ、罪悪を遠ざけたなら、さらに他人に教えて罪悪を離れさせる。そのような者は仏の弟子である。
世尊は文殊師利菩薩のために次の偈を説かれた:
皆がみな刀や棒を怖れる、
誰もが身命を愛する、
自らを戒めを標とし、
殺すことも打つことも避けよ。
文殊師利菩薩は仏の御前に再び次の偈をもって答えた:
すべての者が棒を恐れるわけではない、
すべての者が身命を愛するわけではない、
自らを戒めとすべきことは正しい、
だが善き方便を勤めることこそ大切である。
如来のこの法句もまた完全な意味を示してはいない。
例えば、阿羅漢や転輪聖王、宝玉の女性、象の守護神、馬の守護神、大臣、天神、阿修羅など、誰も鋭利な剣を持っても害することはできない。
勇士、烈女、馬の王、獣の王、戒律を守る比丘は、たとえ敵が害そうとも恐れない。
この意味により、如来の偈もまた完全な意味を伝えているとは言えない。
また「自らを戒めとすることは標とすべきである」と言うのも不完全である。
なぜなら、もし仮に阿羅漢が自らを標とするならば、「我執」と「命執」が生じるであろう。
「我執」と「命執」があるならば、それを守るべきである。
そうであれば凡夫も阿羅漢をまだ修行中の人と見なすことになる。
そのように見れば邪見となり、阿鼻地獄に堕ちることになる。
さらに、阿羅漢は全く殺生の心を持たず、無量の衆生も阿羅漢を害することはできない。
善男子よ、「我執」とは衆生に対して大悲の心を持ち、殺害の念がないこと、すなわち阿羅漢の平等心を指すのだ。決して世尊が因縁なくして逆説を説かれたのではないと心得よ。
昔、王舎城(ヴァイシャーリー)に、狩人が多くの鹿を殺し、我を招いてその肉を食べさせようとした。
その時、我は招きを受けたものの、すべての衆生に慈悲の心を起こし、羅睺羅(ラーフラ)に語るように次の偈を説いた:
人を長寿となし、
永く世に生き、
法を守り殺さず、
仏の寿命のごとく。
このゆえに我は偈を説く:
「すべての者は刀や棒を怖れ、
誰も身命を愛する。
自らを戒めの標とし、
殺すことも打つことも避けよ。」
よきかな、よきかな!
文殊師利よ、汝は大菩薩衆のために、如来の教えを問いただしたのだ。
文殊師利菩薩は再び偈を唱えて言った:
いかにして父母を敬い、
両親に随順し尊ぶか?
いかにしてこの法を真実に行じ、
無間地獄に堕ちることがないのか?
すると如来は偈をもって応じられた:
貪欲を母とし、
無明を父として、
それに随順し尊ぶならば、
無間地獄に堕つべきである。
如来は再び文殊師利菩薩のために偈を説いた:
他人のものはすべて苦であり、
すべて自己によりて、
自在して安楽を得る。
すべて高慢な者は、
力強く暴虐であり、
賢者や善人は、
皆これを愛慕する。
文殊師利菩薩は仏に申し上げた:
「世尊よ、如来の言葉もまた完全な意味を持ちません。どうか慈悲をもってその因縁を説いてください。
例えば、長者の息子が師について学ぶ時、その子は師のものと言えるでしょうか?もし師のものであれば違います。もし師のものでなければ、また違います。もし自由であるならば、それも違います。
また、王子が学ばず、何事も成し遂げられず愚かで苦しんでいるとき、その王子が自由であると言うのは正しくありませんし、他人のものであると言うのも正しくありません。
以上の理由から、仏の言葉は「有余」の説と呼ばれます。つまり、すべて他人のものが必ずしも苦しみを受けるとは限らず、すべての自由が必ずしも安楽を享受するとは限らないのです。また、すべて高慢な者が暴虐であるとも限らない。例えば、烈女は高慢な心をもって出家し、道を学び戒律を守り威儀を成就し、六根を抑えて放逸しません。故に、すべての煩悩の高慢が暴虐であるとは限らないのです。
賢者や善人が皆この言葉を愛慕するとも限らない。たとえば四重罪を犯しながらも法服を離さず威儀を守り正法を護持する者がいるが、他の者からは嫌われ、その者は死後必ず阿鼻地獄に堕ちる。もし賢者が重罪を犯した者を見て、直ちに還俗を命じれば、すべての賢者や善人が皆愛慕されるわけではないのです。
仏は文殊師利菩薩に告げられた:
「因縁があるゆえに、如来はこの場合に有余の法を説かれた。かつて王舎城(ヴァイシャーリー)に、善賢(ゼンケン)という女が父母のもとに帰った際、我がもとへ帰依し、仏法僧を礼拝して言った。『すべての女性は自由を得られず、すべての男性は自在である』と。
我は彼女の心をよく知り、そのゆえに上記の偈を説いた。
文殊師利よ、よきかな、よきかな。今や汝はすべての衆生のために如来の密意を問うことができるであろう。」
文殊師利菩薩は再び偈を唱えて言った:
すべての衆生は、
飲食によって生き、
すべての大力の人は、
心に嫉妬がない。
すべての人は飲み食いをし、
多くの病苦にかかり、
すべての清浄行を修し、
安楽の果を得る。
今、世尊は純陀(じゅんだ)氏の供養した食物を受けられたが、果たして如来は恐怖を感じられたのか?
すると仏は文殊師利菩薩に対して偈をもって答えられた:
すべての衆生が、
飲食によって生きているわけではない。
すべての大力の人が、
心に嫉妬を持たないわけではない。
すべて飲食が原因で、
病苦にかかるわけでもない。
すべての清浄行が、
安楽の果を得るわけでもない。
文殊師利よ、もし汝が病むならば、仏もまた病むことになる。
なぜなら、阿羅漢や辟支仏、菩薩や如来たちは、実際には飲食しないからである。
ただ衆生を教化するために、衆生の供養する飲食を受ける姿を現しているに過ぎない。
それによって衆生に六波羅蜜を満たさせ、餓鬼や畜生、地獄の者たちを救うのである。
もし世尊が六年間苦行し、身体がやせ衰えていたと考えるならば、それは正しくない。諸仏世尊は三界を解脱し、凡夫とは異なる。いかにしてその身がやせ衰えることがあろうか。諸仏は金剛身を得るために精進し、凡夫の無常で脆弱な身とは異なる。われが弟子たちもまた思慮を超えており、飲食に頼って生きることはない。
「すべての大力の人が心に嫉妬を持たない」と言うのもまた完全な意味ではない。世間には一生嫉妬心のない者がいるが、その者は大力ではない。
「すべての病苦は飲食により生じる」と言うのも完全な意味ではない。なぜなら、外部からの傷害によって病気になる者もいるからだ。例えば斬られ刺された場合など。
「すべての者が清浄な行を修して安楽の果を得る」と言うのもまた完全な意味ではない。なぜなら、世間には外道の者も清浄な行を修するが、なお苦悩の果を受ける者もいるからである。
如来の説法にはなお「有余」の意味がある。すなわち、因縁あってこのような偈を説かれたのである。
かつて優填尼国にて、婆羅門の古提徳(こだいとく)という者が仏のもとへ来て八関斎法を受持したとき、我はその婆羅門のためにこのような偈を説いたのである。
カッサパ菩薩が仏に申し上げた:
「世尊よ、いかなるものが『義の余りなし(無義余)』と呼ばれるのでしょうか? また、いかなるものが『一切義(いっさいぎ)』と呼ばれるのでしょうか?」
仏は答えて言われた:
「善男子よ、ただ善き法であって、道を助け、常・楽なるもの──これを『一切義』と名づけ、また『無義余』とも名づける。
それ以外のすべての法は、『義余あり』とも『無義余』とも呼ばれる。
これは、衆生に正法を愛好させ、『義に余りあるもの』と『義に余りなきもの』との違いを理解させるためである。」
すると、カッサパ菩薩は大いに歓喜して仏に申し上げた:
「まことに希有です! まことに希有です!
世尊は、ラーフラ(羅睺羅)のように、すべての衆生を平等にご覧になるのですね!」
仏はカッサパ菩薩を讃えて言われた:
「善哉(よきかな)、善哉!
汝の見解はきわめて深く、微妙である。」
カッサパ菩薩が仏に申し上げた:
「世尊よ、どうかこの大乗大涅槃経における功徳についてお説きください。」
仏は言われた:
「善男子よ、もしある人がこの経典の名を聞くだけでも、その功徳は声聞や辟支仏には到底説き尽くせない。
ただ仏のみがその功徳をよく知るのである。
なぜなら、それは不可思議にして仏の境界であるからだ。
ましてやこの経を受持し、読誦し、通達し、書写する者の功徳は、さらに計り知れない。」
そのとき、天人・人間・阿修羅たちは、仏の前において口を異にせず声を合わせて偈を唱えた:
諸仏は不可思議、
法も僧もまたかくの如し。
それゆえ、いま尊く願う、
仏よ、しばし留まられよ。
大尊者マハーカッサパ、
アーナンダ尊者ともどもに、
その眷属たちが、
まもなくここに来たらん。
マガダ国の王、
アジャータシャトル王(阿闍世大王)もまた、
心を尽くして仏を敬信しており、
いまだこの場に到っていない。
願わくば如来よ、
慈悲をもってしばしとどまり、
この大衆の中において、
我らの疑いの網を断ち切り給え。
仏は大衆のために偈をもって答えられた:
わが教えの長子、
それはすなわちマハーカッサパであり、
アーナンダは精進にして、
一切の疑いを断つ者なり。
大衆よ、よく観察せよ。
アーナンダは多聞にして、
自ずからよく理解し、
常なる法と無常なる法とを。
ゆえに大衆よ、
憂い悲しむことなかれ。
そのとき、大衆は如来に対して多くの供養物を捧げた。
仏に供養し終えたのち、すべての者は無上菩提の心を発し、
無量無辺なる恒河沙の菩薩たちは、
みな初地(歓喜地)に住することを得た。
世尊は、文殊師利(モンジュシュリ)菩薩、カッサパ 菩薩、およびシュンダ(純陀)に授記(じゅき)を与えられた。
授記を終えた後、仏は言われた:
「善男子たちよ、自らの心をよく修めよ。
決して放逸してはならぬ。
今、わが背に病があり、全身に痛みを覚える。
まるで幼子のように、また常の病人のように、わたしは横たわりたいと思う。
文殊師利よ、
汝は四部の衆のために、この大いなる法を説くがよい。
今、わたしはこの法を汝らに委ねる。
のちに、マハー・カッサパ と アーナンダ が到来したならば、
汝らはこの正法をしかと付属(ふぞく)するがよい。」
かくのごとくお諭しになったのち、
衆生を調御するため、仏は病の身を現し、
右脇を下にして横たわられた。
元のソース:https://thuvienhoasen.org/p16a175/17-pham-dai-chung-so-van-thu-17
ChatGPTによる日本語訳です。
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