第一品 誦品
このように私は聞いた。ある時、世尊はラージャガハ(王舎城)とナーランダーの間の道を歩いており、約五百人の比丘たちとともにあった。そのとき、外道の遊行者スッピヤも弟子である若者ブラフマダッタとともにラージャガハとナーランダーの間の道を歩いていた。スッピヤという外道の遊行者は数え切れない方法で仏を非難し、法を非難し、僧を非難した。一方、弟子のブラフマダッタは数え切れない方法で仏を称賛し、法を称賛し、僧を称賛した。このように師弟は、世尊と比丘たちの後ろを歩きながら、全く反対の言葉を語った。
その後、世尊は比丘たちとともに王の離宮であるアンバラッティカに一夜の休息に至った。外道の遊行者スッピヤも弟子の若者ブラフマダッタとともに王の離宮アンバラッティカに一夜の休息に至った。ここでもスッピヤは数え切れない方法で仏を非難し、法を非難し、僧を非難した。弟子のブラフマダッタは数え切れない方法で仏を称賛し、法を称賛し、僧を称賛した。このように師弟は世尊と比丘たちの後ろを歩きながら、対照的な言葉を語った。
夜が明けたばかりの頃、多くの僧侶たちが起きて、円形の建物の一室に集まり、次のような話し合いがなされた。
―「諸賢よ、なんと不思議なことか!諸賢よ、なんと珍しいことか!世尊、全知全見の方、阿羅漢、正等覚者は、衆生の誤った傾向を見抜かれた。外道の遊行者スッピヤは数多くの手段で仏を非難し、法を非難し、僧を非難している。しかし弟子である若者ブラフマダッタは数多くの手段で仏を称賛し、法を称賛し、僧を称賛している。このように師弟は、世尊と比丘たちの後ろを歩きながら、全く相反する言葉を語ったのだ。」
その時、世尊は僧侶たちの話し合いを知り、円形の建物の部屋に来て、用意された場所に座られた。座ると世尊は比丘たちに言われた。
―「比丘たちよ、ここに集まって話し合っているのは何の話か?途中で止まってまだ話し終えていないことは何か?」
このように問われて、比丘たちは世尊に答えた。
―「世尊よ!夜が明けたばかりの頃、私たちは起きて、円形の建物の部屋に集まり、次の話をしていました。『諸賢よ、なんと不思議なことか!諸賢よ、なんと珍しいことか!世尊、全知全見の方、阿羅漢、正等覚者は衆生の誤った傾向を見抜かれた。外道の遊行者スッピヤは数多くの手段で仏を非難し、法を非難し、僧を非難しているが、弟子の若者ブラフマダッタは数多くの手段で仏を称賛し、法を称賛し、僧を称賛している。このように師弟は世尊と私たち比丘の後ろを歩きながら、全く相反する言葉を語った。』これが私たちが話していた途中のことです。世尊がお越しになりました。」
―「比丘たちよ、もし誰かが私を誹謗し、法を誹謗し、僧を誹謗するならば、汝らは怒りや憤りを起こし、心に悩みを生じてはならない。比丘たちよ、もし誰かが私を誹謗し、法を誹謗し、僧を誹謗し、しかも汝らが怒りや憤りを起こし、心に悩みを生じたなら、それは汝らに害を及ぼすであろう。もし誰かが私を誹謗し、法を誹謗し、僧を誹謗し、汝らが怒りと悩みを起こしたとき、汝らはその者の言葉が真実か偽りかを知ることができるだろうか?」
―「おそれながら世尊、それはできません!」
―「比丘たちよ、もし誰かが私を誹謗し、法を誹謗し、僧を誹謗するとき、汝らはその真実でない点をはっきりと示さねばならない。『このような点は真実ではない、このような点は正確ではない、これは我々の間にはない、これは我々の間で起こっていない』と。」
「比丘たちよ、もし誰かが私を称賛し、法を称賛し、僧を称賛するとき、汝らは歓喜したり喜んだり、心を喜ばせてはならない。比丘たちよ、もし誰かが私を称賛し、法を称賛し、僧を称賛し、汝らが歓喜し喜び心を喜ばせたならば、それは汝らに害を及ぼすであろう。比丘たちよ、もし誰かが私を称賛し、法を称賛し、僧を称賛するとき、汝らは真実であることを認めなければならない。『このような点は真実である、このような点は正確である、これは我々の間にある、これは我々の間で起こった』と。」
「比丘たちよ、真実に属するのは、取るに足らぬ些細なこと、戒律に関わることであり、凡夫が如来を称賛することにすぎない。比丘たちよ、取るに足らぬ些細なこと、戒律に関わることで、凡夫が如来を称賛するとは何か?」
(小戒)
沙門ゴータマは殺生をやめ、殺生から遠ざかり、杖も剣も捨て、恥と尊敬を知り、慈悲の心を持ち、すべての生きとし生けるものの幸福を思いやる。―「比丘たちよ、これが凡夫による如来への称賛の言葉である。」
沙門ゴータマは盗みをやめ、盗みから遠ざかり、与えられたものだけを取り、求めるのも与えられたものだけであり、自ら清浄に生き、盗みをしない。―「比丘たちよ、これが凡夫による如来への称賛の言葉である。」
沙門ゴータマは邪淫をやめ、清らかな戒を守り、解脱に生き、卑しい欲望を捨てる。―「比丘たちよ、これが凡夫による如来への称賛の言葉である。」
沙門ゴータマは嘘をやめ、嘘から遠ざかり、真実の言葉を語り、真実に基づき、確かな、信頼できる言葉を語り、欺かず、世間との約束を破らない。―「比丘たちよ、これが凡夫による如来への称賛の言葉である。」
沙門ゴータマは二枚舌の言葉をやめ、二枚舌から遠ざかり、ここで聞いたことをあちらに行って語り分断を生じさせず、あちらで聞いたことをこちらで語り分断を生じさせない。このように沙門ゴータマは不和を離れ、和合した者たちを増し、和合を喜び、和合に至る言葉を語る。―「比丘たちよ、これが凡夫による如来への称賛の言葉である。」
比丘たちよ、沙門ゴータマは悪口をやめ、悪口から遠ざかり、非のない、美しい、心に響く、洗練され、多くの人を喜ばせる言葉を語る。―「比丘たちよ、これが凡夫による如来への称賛の言葉である。」
比丘たちよ、沙門ゴータマは威圧的な言葉をやめ、威圧的な言葉から遠ざかり、適切な時に語り、真実の言葉、意味のある言葉、正法に関する言葉、律に関する言葉、守るべき言葉、時宜にかなった、理に適い、系統立った、有益な言葉を語る。―「比丘たちよ、これが凡夫による如来への称賛の言葉である。」
沙門ゴータマは種子や植物を傷つけず、毎日一食のみを摂り、夜は食べず、夜に食べることを断ち、時期外れの食事を断つ。沙門ゴータマは踊り、歌、音楽、演劇を観ることを断つ。沙門ゴータマは花飾り、香料、油、装飾品を身に付けることを断つ。沙門ゴータマは高い寝台や大きな寝台を使うことを断つ。沙門ゴータマは金銀を受け取ることを断つ。沙門ゴータマは種子を受け取ることを断つ。沙門ゴータマは生肉を受け取ることを断つ。沙門ゴータマは女や娘を受け取ることを断つ。沙門ゴータマは男女の奴隷を受け取ることを断つ。沙門ゴータマは羊や山羊を受け取ることを断つ。沙門ゴータマは家禽や豚を受け取ることを断つ。沙門ゴータマは象、牛、馬、雌馬を受け取ることを断つ。沙門ゴータマは田畑や土地を受け取ることを断つ。沙門ゴータマは仲介者を立てたり自ら仲介したりすることを断つ。沙門ゴータマは商売を断つ。沙門ゴータマは秤や貨幣、計量に関する不正を断つ。沙門ゴータマは賄賂、詐欺、欺瞞などの邪行を断つ。沙門ゴータマは害を加えたり、殺生したり、縛ったり、奪ったり、盗んだり、強奪したりしない。―「比丘たちよ、これが凡夫による如来への称賛の言葉である。」
(中戒)
ある沙門や婆羅門は、信者の施しによる食物を用いながらも、種子や植物に害を与えて生きていることがある。例えば、根から生じる種子、枝から生じる種子、土から生じる種子、接ぎ木から生じる種子、そして五番目に種子から生じる種子である。だが沙門ゴータマは、いかなる種子や植物にも害を与えない。―「比丘たちよ、このように凡夫は如来を称賛するのである。」
ある沙門や婆羅門は、信者の施しによる食物を用いながらも、物品を蓄え享受して生きている。例えば、食物や飲み物、布、車、寝具、香料、美味なものを蓄えている。だが沙門ゴータマは、これらの物を蓄えることを捨てている。―「比丘たちよ、このように凡夫は如来を称賛するのである。」
ある沙門や婆羅門は、信者の施しによる食物を用いながらも、不正な娯楽を楽しんで生きている。例えば、踊り、歌、音楽、芝居、詠唱、手拍子、呪文、太鼓、神話劇、剣の舞、象の戦い、馬の戦い、雄牛の戦い、ヤギや羊の戦い、鶏の戦い、ウズラの戦い、棒術、拳闘、レスリング、模擬戦争、戦術演習、軍隊の演出などである。だが沙門ゴータマは、これらの不正な娯楽を捨てている。―「比丘たちよ、このように凡夫は如来を称賛するのである。」
ある沙門や婆羅門は、信者の施しによる食物を用いながらも、賭博や様々な遊戯を楽しんで生きている。例えば、八つの四角の盤上の碁、十の四角の碁、空中の碁、地上の遊び、歩ける枠だけに進む遊び、カードを投げて掴むが積み上げは許さない遊び、さいころ遊び、棒遊び、手で書く真似、ボール遊び、葉で笛を吹く遊び、ミニカー遊び、小さな弓遊び、空中や背中に欠けた文字を当てる遊び、心を読む遊び、真似っこ遊びなどである。だが沙門ゴータマは、これらの賭博や遊戯を捨てている。―「比丘たちよ、このように凡夫は如来を称賛するのである。」
ある沙門や婆羅門は、信者の施しによる食物を用いながらも、肘掛け椅子や長椅子、羊毛の布団、多色の寝具、白い羊毛の毛布、刺繍した綿毛布、動物模様の綿敷物、両面毛皮の毛布、片面毛皮の毛布、宝石をあしらった毛布、絹の毛布、16人が踊れる大きな敷物、象の敷物、馬の敷物、車の敷物、塗装したヤギ革の敷物、カダリと呼ばれるヤギ革の敷物、屋根付きの敷物、赤い膝のついた長椅子などを使っている。だが沙門ゴータマは、このような高価で大きな寝具を使うことを捨てている。―「比丘たちよ、このように凡夫は如来を称賛するのである。」
ある沙門や婆羅門は、信者の施しによる食物を用いながらも、油を塗り、マッサージをし、入浴し、手足を柔軟にし、鏡を使い、化粧品や花輪、顔料や顔用クリーム、腕輪、かつら、杖、薬筒、剣、傘、刺繍した履物、頭巾、宝石、払子、長い縁の白布などの装飾品や化粧品を用いている。だが沙門ゴータマは、このような装飾品や化粧品を用いることを捨てている。―「比丘たちよ、このように凡夫は如来を称賛するのである。」
ある沙門や婆羅門は、信者の施しによる食物を用いながらも、王や盗人、大臣、兵士に関する話、恐怖の話、戦争の話、食物や飲み物、衣服、寝具、花輪、香料、親族、車両、村落、市場、都市、国土、男女、英雄、街道沿いの話、水汲み場の話、死者の話、雑談、世界の現状、大海の状態、存在と非存在に関する話など、無益で俗っぽい話をしている。だが沙門ゴータマは、これらの無益な話をしないことを捨てている。―「比丘たちよ、このように凡夫は如来を称賛するのである。」
ある沙門や婆羅門は、信者の施しによる食物を用いながらも、論争や争いを続け、例えば「お前はこの法や律を知らない、私は知っている。どうしてお前が知れるのか?お前は邪見に陥っており、私は正見だ。私の言葉は正しく、お前のは間違いだ。お前の言葉は反論され、正しいことを先に言うべきところを後に言い、間違ったことを先に言う。お前の主張は否定され、言葉は挑戦され、お前は敗北した。さあ、この言葉から逃れよ」といった言い争いをしている。だが沙門ゴータマは、これらの論争を捨てている。―「比丘たちよ、このように凡夫は如来を称賛するのである。」
ある沙門や婆羅門は、信者の施しによる食物を用いながらも、ニュースを伝えたり、自ら仲介役を務めたりして、王や大臣、シャーデーリ、婆羅門、家主、若者たちに「そこへ行け、ここへ来い。これを持って行け」などと言っている。だが沙門ゴータマは、ニュースの伝達や仲介役をしないことを捨てている。―「比丘たちよ、このように凡夫は如来を称賛するのである。」
ある沙門や婆羅門は、信者の施しによる食物を用いながらも、詐欺やお世辞、示唆、中傷、利益追求をしている。だが沙門ゴータマは、このような詐欺やお世辞を捨てている。―「比丘たちよ、このように凡夫は如来を称賛するのである。」
(大戒)
ある沙門や婆羅門は、信者の施しによる食物を用いながらも、手足の相、卜占、夢占い、身体の兆候、鼠にかまれた跡、火の祭祀、匙の祭祀、口で芥子の粒を吹き火に投じること、籾の祭祀、糠の祭祀、米の祭祀、精製された米の祭祀、油の祭祀、血の祭祀、詳細な占術、地理占術、夢占術、神霊に祈って加護を願う術、悪霊に祈る術、土の家の中で護符を使う術、蛇の術、毒薬の術、サソリの術、鳥の術、カラスの術、命数占い、矢除けの術、鳥の言葉を理解する術などの邪法を生業としている。だが沙門ゴータマは、これらの邪法を避けている。―「比丘たちよ、このように凡夫は如来を称賛するのである。」
ある沙門や婆羅門は、信者の施しによる食物を用いながらも、宝石の相、杖の相、衣服の相、剣や刀の相、矢の相、弓の相、武器の相、男女の相、少年少女の相、男女の召使いの相、象の相、馬の相、水牛の相、牡牛の相、牝牛の相、ヤギの相、羊の相、家禽の相、ウズラの相、ヤモリの相、長耳の動物の相、鬼の相、獣の相などの邪法を生業としている。だが沙門ゴータマは、これらの邪法を捨てている。―「比丘たちよ、このように凡夫は如来を称賛するのである。」
ある沙門や婆羅門は、信者の施しによる食物を用いながらも、未来予知として、「王が軍を進める」「王が軍を退く」「地元の王が攻撃し、外国の王が撤退する」「外国の王が攻撃し、地元の王が撤退する」「地元の王が勝利し、外国の王が敗北する」「外国の王が勝利し、地元の王が敗北する」といった邪法を生業としている。このように一方の軍が勝ち、他方が敗れるということがある。だが沙門ゴータマは、これらの邪法を捨てている。―「比丘たちよ、このように凡夫は如来を称賛するのである。」
一部の沙門や婆羅門は、信者から供養された食べ物を口にしていながら、月食、日食、星食が起こることを予言し、月や太陽が正しい軌道を進むか、それとも外れるか、星々が正しい軌道を進むか外れるか、流れ星の出現、各方角での火災、地震、雷鳴、月や太陽、星の昇降や明暗などについての予言を行い、その結果を語って生計を立てている。しかし、ゴータマ沙門はこれらの邪見を避け、それに依存して生きることをしない。— 比丘たちよ、このようにして凡夫は如来を称賛するのである。
一部の沙門や婆羅門は、信者から供養された食べ物を食べていながら、雨が多く降ること、大干ばつが起こること、豊作になること、不作になること、安全であること、危険があること、病気があること、病気がないことを予言し、あるいは指を使って数を数えたり、会計や計算をしたり、手紙を書いたり世情に応じて行動したりして生計を立てている。しかし、ゴータマ沙門はこれらの邪業を避ける。— 比丘たちよ、このようにして凡夫は如来を称賛するのである。
一部の沙門や婆羅門は、信者から供養された食べ物を食べながら、結婚式の日取りを選んだり、和解のための良い日時を選んだり、争いを引き起こすための良い日時を選んだり、借金を取り立てる良い日時を選んだり、お金を借りたり使ったりする良い日時を選んだり、魔除けの護符を用いて幸運をもたらしたり、不運をもたらしたり、中絶を助けたり、舌を麻痺させたり、顎の動きを止めたり、手を下ろさせたり、耳を聞こえなくさせたり、鏡や霊媒、若い女性、天使に災いと幸運を尋ねたり、太陽や大地を崇拝したり、火を吐いたり、シリ財神に祈ったりして生計を立てている。しかし、ゴータマ沙門はこれらの邪業を避ける。— 比丘たちよ、このようにして凡夫は如来を称賛するのである。
一部の沙門や婆羅門は、信者から供養された食べ物を食べながら、安穏を得るため、約束を破るため、土の家の中で守られるため、繁栄を誇示するため、勃起不全にするため、良い土地を探すため、新居の加護を祈るため、口をすすぐ儀式、犠牲の儀式を行い、嘔吐や下痢を引き起こし、頭の中を清めたり、耳に油を塗ったり、目薬をさしたり、鼻から薬を入れたり、目に薬を塗ったり、目の病気を治療したり、小児の病気を治療したり、根や草で作られた薬を飲ませたり、薬の効果を妨げたりしている。しかし、ゴータマ沙門はこれらの邪業を避ける。— 比丘たちよ、このようにして凡夫は如来を称賛するのである。
比丘たちよ、これらは重要でなく、些細な問題であり、凡夫が如来を称賛するために用いる戒律に過ぎないのである。
比丘たちよ、また他にも、深遠で、理解し難く、証明し難く、静寂で、美しく、単なる論理では及ばない、繊細で聡明な者だけが理解できる法がある。これらの法は如来が自ら証し悟り、説いたものである。そしてまさにこれらの法について、真実に正しく如来を称賛する者のみが語るのである。
比丘たちよ、どのような法が深遠で、見つけ難く、証明し難く、静寂で、美しく、単なる論理では理解できず、繊細で聡明な者だけが理解できるのか。これらの法は如来が自ら証し悟り、説いたものであり、まさにこれらの法について、真実に正しく如来を称賛する者のみが語るのである。
(六十二種の邪見)
比丘たちよ、過去の初めについて論じるサマナやバラモンたちがいる。彼らは過去の初めに関する見解に執着し、過去の初めを根拠として、多くの誤った見解を十八の論点として説く。では、そのようなサマナやバラモンたちは、何を根拠に、何に依拠して、過去の初めについて論じ、過去の初めに関する見解に執着し、多くの誤った見解を十八の論点として説くのか?
比丘たちよ、常住論を主張するサマナやバラモンもいる。彼らは「我と世界は永遠である」と四つの論点で執着する。そのようなサマナやバラモンたちは、何を根拠に、何に依拠して、常住論を主張し、我と世界が永遠であると四つの論点で執着するのか?
比丘たちよ、ある者は熱心さ、精進、勤勉、散漫でないこと、そして正抑念(しょうよくねん)によって心が定まり、定まった心で過去の多くの生を思い出す。例えば一生、二生、三生、四生、五生、十生、百生、千生、十万生、数えきれない百生、数えきれない千生、数えきれない十万生を思い出し、「その場所で生まれたとき、私はこのような名前で、こういう血統で、こういう身分で、このように食べ、快楽や苦痛を受け、寿命はこれだけであった。そこから死に、次にあの場所に生まれた。あの場所ではこのような名前で、こういう血統で、こういう身分で、このように食べ、快楽や苦痛を受け、寿命はこれだけであった。あそこから死に、またこの場所に生まれた」と記憶する。その者は過去の多くの生をその特徴や細部まで思い出し、「我と世界は常住で、不生で、山の頂のように堅固であり、岩の支柱のように確固である。他の有情は輪廻し、生まれ死にしているが、それでも常住である。なぜなら私は熱心さ、精進、勤勉、散漫でないこと、正抑念によって…他の有情は輪廻し生まれ死にしているが、それでも常住である」と言う。
比丘たちよ、これが第一の立場であり、その立場を根拠として、多くのサマナやバラモンたちは常住論を主張し、我と世界が常に存在すると執着しているのである。
第二の場合、ある沙門や婆羅門は何を根拠に、何を依拠して常住論を主張し、我と世界が常に存在すると執着するのか?
比丘たちよ、この世において、ある沙門や婆羅門は、一心に、精進に、勤勉に、散漫でなく、正抑念(せいよくねん)によって、心が禅定に入る。その心が禅定に入ったとき、その者は過去の多くの生を思い出す。一つの成壞劫(じょうえこう)、二つの成壞劫、三つの成壞劫、十の成壞劫。かつてそこに生まれた時、私はこのような名前で、このような家系で、このような階級で、このような食事をとり、快楽や苦しみの受け取り方がこうであったと覚えている…それらの衆生は輪廻を流転し、生死を繰り返すが、それでもなお常住すると言う。
比丘たちよ、これが第二の立場であり、それを根拠にして、一部の沙門や婆羅門は常住論を主張し、我と世界が常住すると執着している。
第三の場合、ある沙門や婆羅門は何を根拠に、何を依拠して常住論を主張し、我と世界が常に存在すると考えるのか?
比丘たちよ、この世において、ある沙門や婆羅門は、一心に、精進に、勤勉に、散漫でなく、正抑念(せいよくねん)によって、心が禅定に入る。その心が禅定に入ったとき、その者は過去の多くの生を思い出す。十の成壞劫、二十の成壞劫、三十の成壞劫、四十の成壞劫、五十の成壞劫。かつてそこに生まれた時、私はこのような名前で、このような家系で、このような階級で、快楽や苦しみの受け取り方、寿命がこうであったと覚えている。そこを死んだ後、私は別の所に生まれ、さらに別の所に生まれ変わる。その新たな場所で私はこのような名前で、このような家系で、このような階級で、このような食事をとり、快楽や苦しみの受け取り方がこうであり、寿命がこうであったと覚えている。そしてまたそこを死んで、最初の場所に生まれ変わる。このようにしてその者は多くの過去の生を、特徴や細部に至るまで覚えている。そして言う、「我と世界は常住し、不生不滅であり、山の頂や岩の柱のように堅固である。だが他の衆生は輪廻し、生死を繰り返す。しかしそれらも常住している。なぜなら、私は熱心であり…このように心が禅定に入り、多くの過去の生を思い出すことができるからである。十の成壞劫、四十の成壞劫…」生まれた場所や名前を思い出す。だから我と世界は常住し、不生不滅で堅固である。だが他の衆生は輪廻し生死を繰り返すが、それでも常住している」と。
比丘たちよ、これが第三の立場であり、それを根拠に、一部の沙門や婆羅門は常住論を主張し、我と世界が常住すると執着している。
34.第四の事例として、ある沙門やバラモンたちは、依り所とするもの、根拠とするものに基づき、「常住論(じょうじゅうろん)」を主張し、自我および世界は永遠であると執着する。
比丘たちよ、世には沙門やバラモンで、思索を重ねる者、熟慮を重ねる者がいる。彼らは論理的分析によって、また熟慮に従って、次のように宣言する:
「自我と世界は常住であり、不生であり、山の頂や石柱のように確固不動である。他の有情たちは輪廻を繰り返し、生まれては死ぬが、それでも常に存在し続けるのだ」と。
比丘たちよ、これが第四の立場であり、このように依り所を持ち、このような根拠に基づいて、ある沙門やバラモンは常住論を主張し、自我と世界が常に存続すると執着するのである。
35.比丘たちよ、こうした沙門やバラモンたちは、四つの常住論を持って、自我と世界が常住であると主張する。
もし「自我と世界は常住である」と主張する沙門やバラモンがいるならば、彼らは上記の四つの主張すべてを、あるいはいずれか一つを執着する。これ以外に、他の常住に関する主張は存在しない。
36.比丘たちよ、如来は次のように智慧によって知っている:
「これらの見解は、かくのごとく執着され、固執されると、かくのごとくの生存領域へと導かれ、かくのごとくの運命が形成されるであろう」と。如来はこれを知り、さらにそれ以上のことも知っているが、これらの知識に対して執着しない。知識に対して執着しないことにより、内心において寂静を得ている。
如来は、受(感受)の生起と消滅、それらの甘美さ、危険性、そして超越(離脱)を如実に知っている。
このようにして、比丘たちよ、如来は完全に解脱し、いかなる執着も持たないのである。
37.比丘たちよ、これらの見解(主張)は、深遠で、見難く、証得し難く、寂静で、美妙であり、単なる論理を超えたものであり、微細で、智者のみによって識別され得るものである。
如来はこれらの法を正しく知り、悟り、説いたのである。そして、如実に正しく如来を讃える者たちは、まさにこれらの法について語るのである。
1.
比丘たちよ、さらにまた、ある沙門やバラモンたちは、一部は常住であり、一部は無常であるという見解を持っている。すなわち、自我と世界は、ある種の有情に対しては常住であり、他のある種の有情に対しては無常であると執着し、四つの見解に基づいてこのように主張するのである。
さて、比丘たちよ、そのような沙門やバラモンたちは、何を依り所とし、何を根拠として、そのような部分的常住論・部分的無常論を唱えるのか?
2.
比丘たちよ、あるとき、長い長い時を経て、この世界は崩壊し始める。世界が崩壊する過程で、多くの有情たちは「アッバッサラ(Abhassara/光音天)」に生まれ変わる。
そこでは、彼らは意によって生まれ、喜びを糧とし、自ら光を放ち、空中を飛行し、栄光の中で長きにわたって生き続ける。
3.
比丘たちよ、またあるとき、長い長い時を経て、世界は再び形成され始める。形成の過程で「梵宮(ブラフマの宮殿)」が出現するが、そこは最初は空である。
そのとき、ある有情が、寿命が尽きるか、福徳が尽きるかして、光音天から命終して、この空なる梵宮に再生する。彼もまた、意によって生まれ、喜びを糧とし、自ら光を放ち、空中を飛行し、栄光の中で長い間生きる。
4.
その有情は、長くひとりでその場所に生きるうちに、倦怠を感じ、喜びを失い、次のような希望を抱く:「どうか他の有情たちも、ここにやって来てくれればよいのに!」
そのとき、他の有情たちもまた、寿命または福徳が尽きて光音天から命終し、その願いに応じてこの梵宮に再生し、先の有情とともに過ごすようになる。彼らもまた、意によって生まれ、喜びを糧とし、自ら光を放ち、空を飛び、栄光の中で長く生き続ける。
5.
そのとき、比丘たちよ、最初に生まれた有情はこう考える:
「私は梵天である。偉大なる梵天、全能なる者、最勝の者、遍く見る者、至高なる主、創造主、生成主、偉大なる尊者、すべての運命の支配者、自在者、すでに生まれ、これから生まれるすべての有情の父である。これらの有情は、まさに私によって生じた。なぜなら、私が『他の有情もここに来ればよい』と願ったがゆえに、彼らはここにやって来たのだから。」
そして後から来た有情たちもまたこう思う:
「この方こそが梵天であり、偉大なる梵天、全能なる者、最勝の者、遍く見る者、至高の神、創造主、生成主、偉大なる主、運命を支配する者、自在者であり、すでに生まれ、これから生まれるすべての有情の父である。我々はこの梵天によって化生されたのだ。なぜなら、我々がここに来たとき、この方はすでにここに存在していたからである。」
6.
比丘たちよ、その最初に生まれた有情は、他の有情たちよりも寿命が長く、姿もより美しく、権威も大きい。
一方、後から来た有情たちは寿命が短く、姿も劣り、権威も小さい。
比丘たちよ、このような状況の中で、ある有情がその身体を捨ててこの世界に再生する。そして彼は家を捨て、出家し、無家の生活を送る。
彼は出家し、家庭を離れて無家の生活を送り、熱心さと精進、努力、怠らず、そして正抑念(しょうよくねん)をもって、心を集中させて禅定に入る。そして、禅定に入ったとき、彼は過去のその一生を思い出すが、それ以前の過去を思い出すことはない。
彼はこう語る:
「その方はまさに梵天である。偉大なる梵天、全能者、最勝者、遍照者、至高の主、創造主、生成主、偉大なる尊者、運命を支配する者、自在者、過去と未来のすべての有情の父である。我々はその梵天によって化生されたのである。その方は永遠で、堅固で、不変であり、常に存在し続ける存在である。
しかし、我々はその梵天によってここに生まれたものであり、無常で、不安定で、短命で、変化を免れない存在なのである。」
比丘たちよ、これが第一の事例である。このような依り所と根拠に基づいて、ある沙門やバラモンたちは、自我と世界はある種の有情においては常住であり、他の種においては無常であるとする、一部常住論・一部無常論を主張するのである。
比丘たちよ、第二の事例がある。すなわち、ある沙門やバラモンたちは、何を依り所とし、何を根拠として、「ある種の有情には常住、他のある種の有情には無常である」とする見解を持ち、自我と世界は部分的に常住し、部分的に無常であると主張するのか?
比丘たちよ、「キッダー・パドーシカ(Khiddāpadosikā)」と呼ばれる一群の天が存在する。これは「欲楽によって染まった者たち」という意味である。
これらの天たちは長寿であり、快楽の笑いに耽りながら生きている。長きにわたって欲楽にふけり、笑い楽しんでいるために、やがて**正抑念(しょうよくねん)**を失い、それによって命終し、身体を離れるのである。
比丘たちよ、こうして事が起こる。そのうちのある有情が、命終してその身体を捨て、この世に再生する。
そしてこの世に来た後、その者は出家し、家庭を離れ、無家の生活に入る。出家してから、彼は一心に、精進し、努力し、怠らず、正抑念を保ち、心を定めて禅定に入る。
禅定に入ったとき、彼は前世のその一生を思い出すが、それ以前の記憶には及ばない。
そして、彼はこう語る:
「欲楽に染まらなかった天たちは、長寿でありながら、快楽の笑いに耽ることはなかった。快楽にふけらなかったからこそ、彼らは正抑念を失うことなく、それゆえに命終することもなく、身体を離れることもなかった。
したがって、彼らは永遠であり、堅固であり、不変であり、常に存在し続ける。
一方、我々は欲楽に染まり、長きにわたって快楽の笑いに耽っていたため、正抑念を失い、それによって身体を捨てて命終し、この世に生まれ変わった。我々は無常であり、不安定で、短命で、変化にさらされる存在なのだ。」
比丘たちよ、これが第二の事例である。このような依り所と根拠に基づいて、ある沙門やバラモンたちは、自我と世界はある種の有情においては常住であり、他の種においては無常であるとする、一部常住論・一部無常論を主張するのである。
10.
比丘たちよ、また別の第三の事例がある。すなわち、ある沙門やバラモンたちは、何を依り所とし、何を根拠として、「ある種の有情においては自己と世界は常住であり、別の種の有情においては無常である」と主張するのか?
比丘たちよ、「マノーパドーシカ(Manopadosikā)」と呼ばれる一群の天が存在する。彼らは「心によって染まる者たち」である。
これらの天たちは、長きにわたって互いに妬み合いながら生き、心に煩悩を抱いている。その長い間の嫉妬と競争によって、互いの心に憎しみが起こり、やがてその心は疲弊し、身体もまた疲れ衰える。かくして、これらの天たちは命を終え、身体を離れるのである。
11.
比丘たちよ、このような事態が起こる。その天たちの中のある一有情が、死して身体を捨て、この世に再び生を受ける。そしてこの世に来た後、彼は出家して家庭を離れ、無家の生活に入る。
出家し、家庭を離れ、無家の生活に入った後、彼は一心に努力し、熱意をもって精進し、怠ることなく、**正抑念(しょうよくねん)**を保ち、心を統一して禅定に入る。
心が禅定に入ったとき、彼は前世のその生を思い出すが、それ以前の過去世については思い出すことができない。
12.
そして彼はこう語る:
「心によって染まらなかった天たちは、長い時を過ごしながらも互いに妬み合うことなく、心は清らかであった。彼らは互いに心を害することなく、したがってその身体も疲れることなく、心もまた疲れることはなかった。ゆえに、彼らは死を迎えず、身体を離れることなく、常住・堅固・不変であり、永遠にそのまま存在し続けている。
一方、我々は心によって染まり、長きにわたり嫉妬と対抗に苦しみ、互いに憎しみを抱いてきた。そのために、我々の身体は疲れ、心も疲弊した。そして命終してこの世に生まれ変わった。我々は無常であり、不安定であり、短命であり、変化を免れないのである。」
比丘たちよ、これが第三の事例である。このように依り所と根拠をもって、ある沙門やバラモンたちは、一部常住論・一部無常論を主張し、「ある種の有情においては自我と世界は常住し、他の種においては無常である」と見解を立てるのである。
さらに、ある修行者やバラモンが、何かに依拠し、何かを根拠として、部分的に常住論を主張し、部分的に無常論を主張し、ある種の有情に対しては自己と世界が常に存在するとし、他の種の有情に対しては無常であるとする場合があります。
比丘たちよ、ある修行者やバラモンは、論理学者であり、分析者であります。このような者は、論理的な議論の分裂と分析の依存によって、次のように述べます。「目、耳、鼻、舌、身体、これらの感覚器官は無常であり、堅固ではなく、常住せず、変化します。しかし、心、意識、識(アラヤ・ヴィジュニャーナ)は常に存在し、不変であり、常住し、変化しません。」
比丘たちよ、これが第四の事例であり、これに依拠し、これを根拠として、ある修行者やバラモンが、部分的に常住論を主張し、部分的に無常論を主張し、ある種の有情に対しては自己と世界が常に存在するとし、他の種の有情に対しては無常であるとする場合があります。
比丘たちよ、このような修行者やバラモンは、常住論と無常論の一部を主張し、自己と世界が常に存在するとする四つの論を信じています。もし、ある修行者やバラモンが常住論を主張し、自己と世界が常に存在すると信じているならば、彼らはこれら四つの論をすべて、またはその一部を信じており、他の論は信じていません。
比丘たちよ、如来は次のように知っています。「これらの見解は、このように執着し、このように固執することで、特定の存在の世界に導かれ、特定の運命を形成します。」如来はこのように知り、さらにそれを超えて知り、そしてそれを執着しません。執着しないことによって、内心は清浄になります。如来は、感覚の生起、滅尽、甘さ、危険、そしてそれらからの解放を真実のように知っています。このように知ることによって、比丘たちよ、如来は完全に解脱し、執着がありません。
これらの法は、比丘たちよ、深遠であり、見るのが難しく、証するのが難しく、静寂であり、美しく、単なる論理を超えており、微細であり、知恵のある者だけが認識できます。これらの法は、如来を真実に称賛する者だけが語るべきものです。
比丘たちよ、ある修行者やバラモンは、有辺無辺説を主張し、四つの論に基づいて世界は有辺であり無辺であると執着します。では、彼らは何に依拠し、何を根拠として有辺無辺説を主張し、世界が有辺であり無辺であると信じるのでしょうか。
比丘たちよ、ここに修行者やバラモンがおり、熱心さと精進、勤勉さ、散乱しないこと、正抑念によって、心が定に入ります。心が定に入ったとき、その者は世界は有辺であるという考えでこの世に生きています。その者は言います。「この世界は有辺であり、周囲に境界がある。なぜなら、私は一心となり、精進し、勤勉で、散乱せず、正抑念によって心が定に入ったからだ。心が定に入ったとき、私は世界は有辺であるという考えで生きている。だから、この世界には境界があることを知ったのだ」と。
比丘たちよ、これが第一の場合であり、これに依拠し、これを根拠として、ある修行者やバラモンは有辺無辺説を主張し、世界が有辺であり無辺であると執着するのです。
第二の場合、ある修行者やバラモンは何に依拠し、何を根拠として有辺無辺説を主張し、世界が有辺であり無辺であると執着するのでしょうか。
比丘たちよ、ここに修行者やバラモンがおり、一心、精進、勤勉、散乱しないこと、正抑念によって心が定に入ります。心が定に入ったとき、その者は世界は無辺であるという考えでこの世に生きています。その者は言います。「この世界は無辺であり、限界はない。『この世界は有辺であり、周囲に境界がある』と言う者たちは真実を言っていない。この世界は無辺であり、限界はない。なぜなら、私は一心となり、精進し、勤勉で、散乱せず、正抑念によって心が定に入ったからだ。心が定に入ったとき、私は世界は無辺であるという考えで生きている。だから、私はこの世界は無辺であり、限界はないことを知った」と。
比丘たちよ、これが第二の場合であり、このように依拠し、このように根拠として、ある修行者やバラモンは有辺無辺説を主張し、世界は有辺であり無辺であると執着するのです。
第三の場合、ある修行者やバラモンは何に依拠し、何を根拠として有辺無辺説を主張し、世界が有辺無辺であると執着するのでしょうか。
比丘たちよ、ここに修行者やバラモンがおり、一心、精進、勤勉、散乱せず、正抑念によって心が定に入ります。心が定に入ったとき、その者は上方と下方について世界は有辺であり、横の方については無辺であるという考えでこの世に生きています。その者は言います。「この世界は有辺であり無辺である。『この世界は有辺であり、周囲に境界がある』と言う者たちは真実を語っていない。『この世界は無辺であり限界がない』と言う者たちも真実を語っていない。この世界は有辺であり無辺である。なぜなら、私は一心となり、精進し、勤勉で、散乱せず、正抑念によって心が定に入ったからだ。心が定に入ったとき、私は上方と下方において世界は有辺であり、横の方においては無辺であるという考えで生きている。だから私はこの世界が有辺無辺であることを知った」と。
比丘たちよ、これが第三の場合であり、このように依拠し、このように根拠として、ある修行者やバラモンは有辺無辺説を主張し、世界が有辺無辺であると執着するのです。
第四の場合、ある修行者やバラモンは何に依拠し、何を根拠として有辺無辺説を主張し、世界が有辺無辺であると執着するのでしょうか。
比丘たちよ、ここに推論者、審察者である修行者やバラモンがいます。彼らは推論の分別と審察への順応により、次のように述べます。「この世界は有辺でも無辺でもありません。『この世界は周囲に限りのある有辺である』と言う修行者やバラモンは真実を語っていません。また、『この世界は限りのない無辺である』と言う修行者やバラモンも真実を語っていません。さらに、『この世界は有辺であり無辺でもある』と言う修行者やバラモンも真実を語っていません。この世界は有辺でも無辺でもありません。」
比丘たちよ、これらの修行者やバラモンは四つの論執をもって有辺無辺説を主張します。もし有辺無辺説を主張し、世界を有辺無辺と執着する修行者やバラモンがいるならば、彼らは上記の四つの論執すべて、またはその中の一つに執着し、それ以外の論執には執着しません。
比丘たちよ、如来はこのように悟っています。「これらの所見、それらへの執着と固執は、かくのごとき趣の世界をもたらし、かくのごとき定命を成立させるであろう」と。如来はこのように悟り、それ以上にさらに深く悟り、これらの所知に執着しません。その所知への執着を離れたことで、内心は清浄となりました。如来は苦受の集起と滅尽、その甘露、危険、そして離脱を真実に知っています。その知により、比丘たちよ、如来は完全に解脱し、執着がありません。
これらの法は、比丘たちよ、深遠であり、見難く、証し難く、清浄で、美しく、単なる論理の範囲を超え、微妙であり、智慧ある者のみが知ることができます。これらの法は、如来自身が証得し、覚り伝えたものであり、真実に如来を称賛する者のみが語るのです。
比丘たちよ、ある修行者やバラモンが詭弁論を主張します。彼らはこの問題やあの問題を問われると、うなぎのように曲がりくねった詭弁の言葉を四つの論執とともに用います。では、その修行者やバラモンは何を根拠として詭弁論を主張し、この問題やあの問題を問われると、うなぎのように曲がりくねった言葉を四つの論執とともに用いるのでしょうか。
比丘たちよ、ここに「これが善である」と真実に知らず、「これが不善である」と真実に知らない修行者やバラモンがいます。彼らは思います。「私は『これが善である』と真実に知らず、『これが不善である』とも真実に知らない。もし私が『これが善である』と答えれば、欲望、貪り、怒り、憎しみが私に生じる。もし私が『これが不善である』と答えれば、同様に欲望、貪り、怒り、憎しみが私に生じる。もし欲望、貪り、怒り、憎しみが私に生じれば、私は誤りを犯すかもしれない。もし誤れば、私は苦悩するだろう。もし苦悩すれば、それは私の障害となる。」こうして誤りを恐れ、誤りを嫌って、彼は「これが善である」とも「これが不善である」とも答えません。この問題やあの問題を問われると、彼はうなぎのように曲がりくねった詭弁の言葉を用いてこう言います。「私はそうとは言わない。私はああとは言わない。私は他のようだとも言わない。私はそうではないとも言わない。私はそうでないとは言わない。」
比丘たちよ、これが第一の例であり、そのように依拠し、根拠として、ある修行者やバラモンは詭弁論を主張し、この問題やあの問題を問われると、うなぎのように曲がりくねった言葉を用いるのです。
第二の例として、またある修行者やバラモンがいます。彼らは何を根拠として、どのように詭弁論を主張し、この問題やあの問題を問われると、うなぎのように曲がりくねった詭弁の言葉を用いるのでしょうか。
比丘たちよ、ここに「これが善である」と真実に知らず、「これが不善である」と真実に知らない修行者やバラモンがいます。彼らは思います。「私は『これが善である』とも真実に知らず、『これが不善である』とも真実に知らない。なぜなら、私は『これが善である』とも真実に知らず、『これが不善である』とも真実に知らないからだ。そしてもし私が『これが善である』と答えたり、『これが不善である』と答えたりすれば、欲望、貪り、怒り、または憎しみが私の中に生じるであろう。もし欲望、貪り、怒り、憎しみが生じれば、私は執着するかもしれない。もし執着すれば、私は苦しみを受ける。もし苦しみを受ければ、それは私にとって障害となる。」
このように、執着を恐れ、執着を嫌って、彼は「これが善である」とも「これが不善である」とも答えません。この問題やあの問題を問われると、彼はうなぎのように曲がりくねった詭弁の言葉を用いてこう言います。「私はそうとは言わない。私はああとは言わない。私は他のようだとも言わない。私はそうではないとも言わない。私はそうでないとは言わない。」
比丘たちよ、これが第二の例であり、そのように依拠し根拠として、ある修行者やバラモンは詭弁論を主張し、この問題やあの問題を問われると、うなぎのように曲がりくねった詭弁の言葉を用いるのです。
第三の例として、またある修行者やバラモンがいます。彼らは何を根拠として、どのように詭弁論を主張し、この問題やあの問題を問われると、うなぎのように曲がりくねった詭弁の言葉を用いるのでしょうか。
比丘たちよ、ここに「これが善である」と真実に知らず、「これが不善である」と真実に知らない修行者やバラモンがいます。彼らは思います。「私は『これが善である』とも真実に知らず、『これが不善である』とも真実に知らない。なぜなら、私は『これが善である』とも真実に知らず、『これが不善である』とも真実に知らないからだ。そしてもし私が『これが善である』と答えたり、『これが不善である』と答えたりすれば、学識深く、繊細で、論理に優れ、毛髪を裂くように細かく論じる修行者やバラモンたちが、あちこちに行き、彼らの智慧をもって邪見を打破しようとし、私に対して論戦を挑み、質問や批判をしてくるであろう。もし彼らが論戦を挑み、質問や批判をしてきたら、私は答えることができないかもしれない。もし答えることができなければ、私は苦しむ。もし苦しめば、それは私にとって障害となる。」
このように、試練を恐れ、試練を嫌って、彼は「これが善である」とも「これが不善である」とも答えません。この問題やあの問題を問われると、彼はうなぎのように曲がりくねった詭弁の言葉を用いてこう言います。「私はそうとは言わない。私はああとは言わない。私は他のようだとも言わない。私はそうではないとも言わない。私はそうでないとは言わない。」
比丘たちよ、これが第三の例であり、そのように依拠し根拠として、ある修行者やバラモンは詭弁論を主張し、この問題やあの問題を問われると、うなぎのように曲がりくねった詭弁の言葉を用いるのです。
第四の場合、またある修行者やバラモンがいます。彼らは何を根拠に、どのように詭弁論を主張し、この問題やあの問題を問われると、うなぎのように曲がりくねった詭弁の言葉を用いるのでしょうか。
比丘たちよ、ここに愚かで無知な修行者やバラモンがいます。この者は愚かで無知なため、この問題やあの問題を問われると、すぐにうなぎのように曲がりくねった詭弁の言葉を用いて言います。「あなたは私に別の世界があるかどうかを尋ねますか?もし私が『別の世界がある』と思えば、私はあなたに『別の世界がある』と答えるかもしれません。しかし私はそうとは言わず、ああとも言わず、他のようでもなく、そうではないとも言わず、そうでないとも言いません。もしあなたが『別の世界はないのでは?』と尋ねたら、もし私が『別の世界はない』と思えば、私はあなたに『別の世界はない』と答えるかもしれません。しかし私はそうとは言わず、ああとも言わず、他のようでもなく、そうではないとも言わず、そうでないとも言いません。
もしあなたが『別の世界はないのでは?』と尋ねれば(前述のように)、『別の世界はあるともないとも言うのか?』『あるともないとも言わないのか?』『化生する有情はいるのか?』『化生する有情はいないのか?』『あるともないとも言うのか?』『ないとも言わず、いないとも言わないのか?』『善悪の業の結果があるのか?』『善悪の業の結果はないのか?』『あるともないとも言うのか?』『ないとも言わず、いないとも言わないのか?』『如来は死後に存在するのか?』『如来は死後に存在しないのか?』『存在すると同時に存在しないのか?』『存在しないとも存在しないとも言うのか?』とあなたは尋ねます。
もし私が『如来は死後に存在しないとも存在しないとも言う』と思えば、私は『如来は死後に存在しないとも存在しないとも言う』と答えるかもしれません。しかし私はそうとは言わず、ああとも言わず、他のようでもなく、そうではないとも言わず、そうでないとも言いません。
比丘たちよ、これが第四の例であり、そのように依拠し根拠として、ある修行者やバラモンは詭弁論を主張し、この問題やあの問題を問われると、うなぎのように曲がりくねった詭弁の言葉を用いるのです。
比丘たちよ、詭弁論を主張する修行者やバラモンがいます。この問題やあの問題を問われると、四つの論点を持ったうなぎのように曲がりくねった詭弁の言葉を用います。もしある修行者やバラモンが詭弁論を主張し、この問題やあの問題を問われると、うなぎのように曲がりくねった詭弁の言葉を用いるならば、彼らは上記の四つの論点すべて、またはそのうちの一つを固執し、それ以外の論点には固執しません。
比丘たちよ、如来はこのように知っています。「これらの見解、これらの執着、これらの固執は、そのような畜生界をもたらし、そのような定命を作り出す」と。如来はそのように知っています。さらに如来はそれ以上のことも知っています。そして如来はそれらの知見に固執しません。これらの知見に固執しないことで、内面は静かになります。如来は感受の集起と消滅、甘味、危険、そしてそれらからの離脱を正しく知っています。そう知っているがゆえに、比丘たちよ、如来は完全に解放され、固執がありません。
これらの法は、比丘たちよ、深遠であり、見つけにくく、証明しにくく、静かで美しく、単なる理論を超えた微妙なものであり、智慧ある者のみが識別できます。これらの法は如来自身が自覚し、悟り、伝えたものであり、まさにこれらの法を真に正しく讃嘆する者のみが如来について語るのです。
比丘たちよ、ある沙門や婆羅門が無因論を主張し、自己(本我)と世界が無因により生じたと二つの論点に固執することがあります。では、その沙門や婆羅門たちは何を根拠に、どのように無因論を主張し、自己と世界が無因によって生じたと固執するのでしょうか。
比丘たちよ、無想天という天がいます。彼らは一念が起こると、その念の発生とともに亡くなり、その天の身体を捨て去ります。比丘たちよ、このようなことが起こります。その有情の一人は、亡くなってその天の身体を捨て、この世界に生まれ変わります。この場所に来ると、その者は出家して家を離れ、家なき者として生きます。出家し家を離れ、家なき者として生きた後、その者は熱心に、精進し、勤勉で、散漫にならず、正抑念をもって心を定に入れます。その者は念が起こったときのことだけを覚えており、それ以前のことは思い出しません。その者は言います。「自己と世界は無因によって生じた。なぜなら、私は以前は存在しなかったが、今は存在している。無の状態から、有情となったからだ」。
比丘たちよ、これが第一の例であり、そのように依拠し根拠として、ある沙門や婆羅門は無因論を主張し、自己と世界が無因によって生じたと固執するのです。
第二の場合、ある沙門や婆羅門は何を根拠に、どのように無因論を主張し、自己(本我)と世界が無因によって生じたと固執するのか。
比丘たちよ、ここに議論者であり観察者である沙門や婆羅門がいる。その者は思考の細分化と観察に従うことで、「自己と世界は無因生である」と宣言する。
比丘たちよ、これが第二の例であり、そのように依拠し根拠として、ある沙門や婆羅門は無因論を主張し、自己と世界が無因によって生じたと固執する。
比丘たちよ、無因論を主張し、自己と世界が無因によって生じたと二つの論点に固執する沙門や婆羅門がいるならば、彼らは上記の二つの論点の両方またはいずれか一つに固執し、それ以外の論点に固執することはない。
比丘たちよ、如来は次のように智慧で知っている。「これらの見解、それに対する執着、保持は、そのような畜生界に至らせ、そのような定命を成就させる」と。如来はそのように智慧で知り、さらにそれ以上に知っているが、その知見に執着しない。知見に執着しないために、内心は静寂である。如来は事実として、感受の起こることと滅すること、その甘味、危険、そしてそれらからの離脱を真実に知っている。そのように智慧で知っているので、比丘たちよ、如来は完全に解脱し、執着がない。
これらの法は、比丘たちよ、深遠で、見えにくく、証得し難く、静寂で、美しく、単なる論理の及ばない繊細なものであり、知者だけが識別できるものである。これらの法は如来が自ら証得し、悟り、説いたものである。そして、まさにこれらの法こそ、真に正しく如来を称賛する者のみが語るものである。
比丘たちよ、沙門や婆羅門の中には、想像上の最初の過去について論じ、その想像上の最初の過去に執着し、十八の論著に反する多くの誤った見解を唱える者がいる。比丘たちよ、もし沙門や婆羅門の中に、想像上の最初の過去について論じ、その想像上の最初の過去に執着し、多くの誤った見解を唱える者があれば、彼らは十八の論著すべてかその一つに執着し、それ以外の執着はない。
比丘たちよ、如来はこのように慧知された。「その所見、それへの執着、その執持は、かくのごとき畜生道へと導き、かくのごとき定められた運命を成し遂げる」と。如来はそのように慧知された。さらに深く慧知され、しかもその所知に執着しなかった。その所知に執着しなかったゆえに、心は静寂であった。如来は、受の起こること、滅すること、甘露味、危険、そしてそれらの離脱を実際に慧知された。そのように慧知したゆえに、比丘たちよ、如来は完全に解脱し、執持がなかった。
これらの法は、比丘たちよ、深遠であり、見難く、証し難く、静寂で美しく、単なる論理の及ばぬ微妙なものであり、智慧ある者のみが区別できるものである。これらの法は如来が自ら証し、悟り、説いたものである。そして正しく如来を讃嘆する者だけがこれらの法について語るのである。
さて、比丘たちよ、ある種の沙門や婆羅門が未来について論じ、未来に対する見解を持ち、未来に基づいて、四十四の異なる見解を提唱している場合があります。比丘たちよ、もし沙門や婆羅門が未来について論じ、未来に対する見解を持ち、未来に基づいて、四十四の異なる見解を提唱しているならば、彼らはその四十四の見解のすべて、またはその中の一つを執持し、それ以外の見解は持たないのです。
さて、比丘たちよ、ある種の沙門や婆羅門が死後の有想論を主張し、死後の自己の存在に関する十六の見解を持ち、それに基づいて論じています。比丘たちよ、もし沙門や婆羅門が死後の有想論を主張し、死後の自己の存在に関する十六の見解を持ち、それに基づいて論じているならば、彼らはその十六の見解のすべて、またはその中の一つを執持し、それ以外の見解は持たないのです。
さて、比丘たちよ、ある種の沙門や婆羅門が死後の有想論を主張し、死後の自己の存在に関する十六の見解を持ち、それに基づいて論じているならば、彼らはその十六の見解のすべて、またはその中の一つを執持し、それ以外の見解は持たないのです。
さて、比丘たちよ、如来はこのように知覚しています:「そのような見解を執持することは、あのような存在の世界に導き、あのような運命を作り出すであろう。」如来はこのように知覚し、さらにその知覚を執持することはありません。その知覚を執持しないことによって、内心は平穏となります。如来は、感覚の生起と消滅、甘さ、危険、そしてそれらからの解放を、真実の知覚によって知覚します。そのような知覚によって、比丘たちよ、如来は完全に解放され、執持することはありません。
そのような法は、比丘たちよ、深遠であり、見えにくく、証しにくく、静寂であり、美しく、空論を超えて微細であり、知恵のある者だけが識別できるものです。そのような法を、如来は自己の体験によって知覚し、悟り、説きました。そして、そのような法を、真実に如来を称賛する者だけが語るのです。
比丘たちよ、あるいは比丘尼たちよ、ある種の沙門や婆羅門たちは、死後の無想論を主張し、死後に自己が無想であるとする八つの立場を取っています。これらの沙門や婆羅門たちは、何に基づき、どのような根拠で、死後の無想論を主張し、死後に自己が無想であるとする八つの立場を取っているのでしょうか。
これらの者たちは次のように主張しています:「自己は色を持ち、病を持たず、死後に無想である。」または「自己は色を持たず、病を持たず、死後に無想である。」または「自己は色を持ち、持たず、病を持ち、持たず、死後に無想である。」または「自己は色を持たず、持ち、病を持ち、持たず、死後に無想である。」または「自己は有限である。」または「自己は無限である。」または「自己は有限であり、無限である。」または「自己は有限でも無限でもない。」または「自己は病を持たず、死後に無想である。」
比丘たちよ、あるいは比丘尼たちよ、これらの沙門や婆羅門たちは、死後の無想論を主張し、死後に自己が無想であるとする八つの立場を取っています。もしも、死後の無想論を主張し、死後に自己が無想であるとする沙門や婆羅門がいれば、彼らはこれらの八つの立場のいずれか、またはそのすべてを取っているでしょう。それ以外の立場は存在しません。
比丘たちよ、如来はこのように知っています:「これらの見解や執着は、特定の存在の世界に導き、特定の運命を作り出す。」如来はこのように知っています。さらに、如来はそれ以上に知り、これらの知識に執着しません。これらの知識に執着しないことによって、心は静寂となります。如来は、感覚、甘美なもの、危険、そしてそれらからの解放の生起と消滅を真実のように知っています。このように知ることによって、比丘たちよ、如来は完全に解放され、執着がありません。
これらの法は、比丘たちよ、深遠であり、見にくく、証明しにくく、静寂であり、美しく、空論を超え、微細であり、智慧のある者だけが識別できるものです。これらの法は、如来が自己の体験によって知り、覚悟し、説いたものです。そして、これらの法こそが、真実に如来を称賛する者たちによって語られるべきものなのです。
5. 比丘たちよ、ある出家者やバラモンたちは、「非有想非無想論」を主張し、死後においても「自己は非有想非無想である」と八つの見解によって執着している。では、これらの出家者やバラモンたちは、何に依って、何を根拠として、死後において非有想非無想論を主張し、「自己は非有想非無想である」と執着するのか?
6. 彼らは次のように執着する:
「自己は色(物質)を有し、病なきものであり、死後に非有想非無想である」、
「自己は無色(非物質)である」、
「自己は色を有し、かつ無色でもある」、
「自己は色を有せず、また無色でもない」、
「自己は有限である」、
「自己は無限である」、
「自己は有限でもあり、無限でもある」。
7. また彼らは「自己は有限でも無限でもなく、病なきものであり、死後に非有想非無想である」とも執着する。
比丘たちよ、もしある出家者やバラモンが「非有想非無想論」を主張するならば、彼らはこの八つの見解すべて、あるいはいずれか一つを執着するであろう。それ以外の見解は存在しない。
**8. 比丘たちよ、如来は次のように智慧をもって知っている:
「これらの見解に執着するならば、かくかくの境涯に至り、かくかくの運命が形成されるであろう」と。
如来はそのように知り、さらにそれ以上のことも知っているが、その知識に対しても執着しない。
知識に執着しないがゆえに、内なる心は平安となる。
彼は、受(感受)の生起、滅尽、その甘味、過患、離脱をありのままに智慧をもって知っている。
このように智慧をもって知るがゆえに、比丘たちよ、如来は完全に解脱しており、一切の執着を離れている。
比丘たちよ、これらの法は深遠で、見ることが難しく、体得するのも困難であり、寂静で微妙、美妙にして、論理的思索では到達できず、極めて微細であり、智慧ある者のみが理解できるものである。
これらの法を如来は自ら体得し、悟り、説き示されたのである。
そして、まさにこれらの法こそが、如来を真実に讃嘆する者たちが語るものである。**
9. 比丘たちよ、ある出家者やバラモンたちは、「断滅論」を主張し、有情(生きとし生けるもの)の断滅・消滅・破壊を、七つの見解によって執着している。では、これらの出家者やバラモンたちは、何に依って、何を根拠として、有情の断滅・消滅・破壊を七つの見解によって執着するのか?
10. 比丘たちよ、ある出家者やバラモンは、次のような理論や見解を主張する:
「この自己は色(物質)を有し、四大から成り、父母によって生まれたものである。身体が壊れるとき、それは滅し、消滅し、死後には一切無となる。ゆえに、この自己は完全に断滅するのだ」と。
このようにして、ある者たちは有情の断滅・消滅・破壊を主張する。
11. また別の者はこう言う:
「あなたが言うように、確かにそのような自己は存在する。私はその自己が存在しないとは言わない。だが、そのような自己は完全に断滅するわけではない。
さらに別の自己が存在し、それは天界の性質をもち、色(物質)を有し、欲界に属し、団子のような食べ物を摂取する。
あなたはその自己を知らず、見ていない。私はその自己を知り、見ている。
その自己は、身体が壊れるとき、滅し、消滅し、死後には一切無となる。ゆえに、その自己は完全に断滅するのだ」と。
このようにして、ある者たちは有情の断滅・消滅・破壊を主張する。
12. また別の者はこう言う:
「あなたが言うように、確かにそのような自己は存在する。私はその自己が存在しないとは言わない。だが、そのような自己は完全に断滅するわけではない。
さらに別の自己が存在し、それは天界の性質をもち、色(物質)を有し、意(こころ)によって形成され、すべての手足の細部にわたり大小の構成が完全で、どの器官も欠けていない。
あなたはその自己を知らず、見ていない。私はその自己を知り、見ている。
その自己は、身体が壊れるとき、滅し、消滅し、死後には一切無となる。ゆえに、その自己は完全に断滅するのだ」と。
このようにして、ある者たちは有情の断滅・消滅・破壊を主張する。
13. また別の者はこう言う:
「あなたが言うように、確かにそのような自己は存在する。私はその自己が存在しないとは言わない。だが、そのような自己は完全に断滅するわけではない。
さらに別の自己が存在し、それはすべての色想(物質に関する想念)を超越し、相対する諸想を滅し、種々の想念を記憶せず、空(くう)は無限であると認識し、『無辺空処(むへんくうしょ)』に到達する。
あなたはその自己を知らず、見ていない。私はその自己を知り、見ている。
その自己は、身体が壊れるとき、滅し、消滅し、死後には一切無となる。ゆえに、その自己は完全に断滅するのだ」と。
このようにして、ある者たちは有情の断滅・消滅・破壊を主張する。
14. また別の者はこう言う:
「あなたが言うように、確かにそのような自己は存在する。私はその自己が存在しないとは言わない。だが、そのような自己は完全に断滅するわけではない。
さらに別の自己が存在し、それはすべての『無辺空処』を超越し、識(意識)は無限であると認識し、『無辺識処(むへんしきしょ)』に到達する。
あなたはその自己を知らず、見ていない。私はその自己を知り、見ている。
その自己は、身体が壊れるとき、滅し、消滅し、死後には一切無となる。ゆえに、その自己は完全に断滅するのだ」と。
このようにして、ある者たちは有情の断滅・消滅・破壊を主張する。
15. また別の者はこう言う:
「あなたが言うように、確かにそのような自己は存在する。私はその自己が存在しないとは言わない。だが、そのような自己は完全に断滅するわけではない。
さらに別の自己が存在し、それはすべての『無辺識処』を超越し、所有するものはないと認識し、『無所有処(むしょうしょ)』に到達する。
あなたはその自己を知らず、見ていない。私はその自己を知り、見ている。
その自己は、身体が壊れるとき、滅し、消滅し、死後には一切無となる。ゆえに、その自己は完全に断滅するのだ」と。
このようにして、ある者たちは有情の断滅・消滅・破壊を主張する。
16. また別の者はこう言う:
「あなたが言うように、確かにそのような自己は存在する。私はその自己が存在しないとは言わない。だが、そのような自己は完全に断滅するわけではない。
さらに別の自己が存在し、それはすべての『無所有処(むしょうしょ)』を超越し、『これこそが寂静であり、これこそが美妙である』と認識し、『非想非非想処(ひそうひひそうしょ)』に到達する。
あなたはその自己を知らず、見ていない。私はその自己を知り、見ている。
その自己は、身体が壊れるとき、滅し、消滅し、死後には一切無となる。ゆえに、その自己は完全に断滅するのだ」と。
このようにして、ある者たちは有情の断滅・消滅・破壊を主張する。
17. 比丘たちよ、これらの出家者やバラモンたちは、「断滅論」を主張し、有情(生きとし生けるもの)の断滅・消滅・破壊を、七つの見解によって執着している。
比丘たちよ、もしある出家者やバラモンが断滅論を主張し、有情の断滅・消滅・破壊を説くならば、彼らはこれら七つの見解すべて、あるいはそのうちの一つに執着しているのであり、それ以外の見解は存在しない。
**18. 比丘たちよ、如来はこのように智慧をもって知っている:
「これらの見解に執着するならば、このような生存の境涯に至り、このような運命が形成されるであろう」と。
如来はそのように知り、さらにそれ以上のことをも知っているが、その知識に対しても執着しない。
知識に執着しないがゆえに、内なる心は寂静となる。
彼は、受(感受)の生起と滅尽、その甘味、過患、そして離脱をありのままに智慧をもって知っている。
このように智慧をもって知るがゆえに、比丘たちよ、如来は完全に解脱しており、一切の執着を離れている。
比丘たちよ、これらの法は深遠で、見ることが難しく、体得するのも困難であり、寂静で微妙、美妙にして、論理的思索では到達できず、極めて繊細で、智慧ある者のみが理解できるものである。
これらの法を如来は自ら体得し、悟り、説き示されたのである。
そして、まさにこれらの法こそが、如来を真実に讃嘆する者たちが語るものである。**
19. 比丘たちよ、ある出家者やバラモンたちは「現世涅槃論(げんぜねはんろん)」を主張し、有情(いきとしいけるもの)の現世における最上の涅槃に対して、五つの見解によって執着している。
では、これらの出家者やバラモンたちは、何に依拠し、何を根拠として、「現世涅槃論」を主張し、有情の現世における最上の涅槃に対して五つの見解によって執着するのか?
20. 比丘たちよ、ある出家者やバラモンは次のように主張し、考えている:
「この自己が五つの欲楽(五欲)を十分に楽しみ、満喫するとき、そのような自己は、有情における最上の現世涅槃を得たのである」と。
21. また別の者はこう言う:
「あなたが言うように、確かにそのような自己は存在する。私はその自己が存在しないとは言わない。だが、そのような自己は、完全に最上の現世涅槃に達したわけではない。
なぜなら、欲楽の性質は無常であり、苦であり、変化するからである。変化し、転ずる性質のゆえに、憂い・悲しみ・苦しみ・悩み・心の苦痛が生じる。
その自己が欲楽を離れ、悪しき法を離れ、第一禅に達して安住するならば、その禅定には尋(じん)と伺(し)があり、離欲によって生じた喜と楽がある。
このようにして、その自己は最上の現世涅槃に達するのだ」と。
このようにして、ある者は有情の現世における最上の涅槃を主張する。
22. また別の者はこう言う:
「あなたが言うように、確かにそのような自己は存在する。私はその自己が存在しないとは言わない。だが、そのような自己は、完全に最上の現世涅槃に達したわけではない。
なぜなら、そこにある第一禅には尋と伺があり、それは粗雑であるとされるからである。
その自己が尋と伺を超えて、第二禅に達し安住するとき、その禅定は内なる心が静まり、心が一点に集中し、尋も伺もなく、定によって生じた喜と楽がある。
このようにして、その自己は最上の現世涅槃に達するのだ」と。
このようにして、ある者は有情の現世における最上の涅槃を主張する。
23. また別の者はこう言う:
「あなたが言うように、確かにそのような自己は存在する。私はその自己が存在しないとは言わない。だが、そのような自己は完全に最上の現世涅槃に達したわけではない。
なぜなら、ここでは心に喜(よろこび)があり、心が動揺するため、粗雑であるとされる。
その自己が喜を離れ、捨(しゃ)に住し、正念と正智を備え、身体が楽を感じる状態 ―― すなわち聖者たちが「喜念楽住(きねんがくじゅう)」と呼ぶ状態 ―― に達して第三禅に安住するならば、
そのようにして、自己は最上の現世涅槃に達するのだ」と。
このようにして、ある者は有情における現世の最上涅槃を主張する。
24. また別の者はこう言う:
「あなたが言うように、確かにそのような自己は存在する。私はその自己が存在しないとは言わない。だが、そのような自己は完全に最上の現世涅槃に達したわけではない。
なぜなら、ここでは心が快楽を受け取っているため、粗雑とされる。
その自己が快(らく)と苦(く)を捨て、前の喜と憂を滅し、第四禅に達して安住するならば、
その禅は苦も楽もなく、捨と念が清らかである。
このようにして、自己は最上の現世涅槃に達するのだ」と。
このようにして、ある者は有情における現世の最上涅槃を主張する。
25. 比丘たちよ、これらの出家者やバラモンたちは、「現世涅槃論」を主張し、有情の最上の現世涅槃を、五つの見解によって執着している。
比丘たちよ、もし出家者やバラモンが現世涅槃論を主張するならば、彼らはこれら五つの見解すべて、あるいはそのうちの一つに執着しているのであり、それ以外の見解は存在しない。
**26. 比丘たちよ、如来はこのように智慧をもって知っている:
「これらの見解に執着するならば、このような生存の境涯に至り、このような運命が形成されるであろう」と。
如来はそのように知り、さらにそれ以上のことをも知っているが、その知識に対しても執着しない。
知識に執着しないがゆえに、内なる心は寂静となる。
彼は、受(感受)の生起と滅尽、その甘味、過患、そして離脱をありのままに智慧をもって知っている。
このように智慧をもって知るがゆえに、比丘たちよ、如来は完全に解脱しており、一切の執着を離れている。
比丘たちよ、これらの法は深遠で、見ることが難しく、体得するのも困難であり、寂静で美妙、論理的思考の範疇を超え、極めて繊細で、智慧ある者のみが理解できるものである。
これらの法を如来は自ら体得し、悟り、説き示されたのである。
そして、まさにこれらの法こそが、如来を真実に賛嘆する者たちが語るものである。**
27. 比丘たちよ、あのような出家者やバラモンたちは、未来について論じ、未来に関する見解に執着し、未来を根拠として、さまざまに異なる四十四の見解を唱える。
比丘たちよ、未来について論じ、未来に関する見解に執着し、未来を根拠とする出家者やバラモンがいるならば、彼らは四十四の見解すべて、あるいはそのうちの一つに執着しており、それ以外の見解は存在しない。
**28. 比丘たちよ、如来はこのように智慧をもって知っている:
「これらの見解に執着するならば、このような生存の境涯に至り、このような運命が形成されるであろう」と。
如来はそのように知り、さらにそれ以上のことをも知っているが、その知識に対しても執着しない。
知識に執着しないがゆえに、内なる心は寂静となる。
彼は、受(感受)の生起と滅尽、その甘味、過患、そして離脱をありのままに智慧をもって知っている。
このように智慧をもって知るがゆえに、比丘たちよ、如来は完全に解脱しており、一切の執着を離れている。**
29. 比丘たちよ、出家者やバラモンたちの中には、最初の過去について論じ、未来について論じ、また最初の過去と未来の両方について論じ、それに関する見解に執着し、それらを根拠として、多様で異なった六十二の見解を唱える者たちがいる。
比丘たちよ、最初の過去や未来、またその両方について論じ、見解に執着し、それを根拠として論を展開する出家者やバラモンがいるならば、彼らは六十二の見解すべて、またはそのうちの一つを執着しており、それ以外の見解は存在しない。
**30. 比丘たちよ、如来はこのように智慧をもって知っている:
「これらの見解に執着するならば、このような生存の境涯に至り、このような運命が形成されるであろう」と。
如来はそのように知り、さらにそれ以上のことも知っているが、その知識に対しても執着しない。
知識に執着しないがゆえに、内なる心は寂静となる。
彼は、受(感受)の生起と滅尽、その甘さ(楽味)、危険(過患)、そして離脱を、如実に智慧をもって知っている。
このように智慧をもって知るがゆえに、比丘たちよ、如来は完全に解脱しており、一切の執着から自由である。**
31. 比丘たちよ、これらの法は深遠で、見ることが難しく、実証するのも困難であり、静寂で、微妙で、美しく、論理的思考の範囲を超え、きわめて繊細であり、智慧ある者のみが理解できる。
これらの法を如来は自ら体験し、悟り、そして説き示したのである。
まさにこれらの法こそが、如実に正しく如来を賛嘆する者たちによって語られるものである。
結論
32. 比丘たちよ、ここに常住説を主張し、我(アートマン)と世界が常住であると四つの見解に執着する出家者やバラモンがいる。
その主張は個人的な経験に基づき、無知であり、見えず、出家者やバラモンの感受であり、貪欲に動かされる者たちの刺激、動揺、歪曲である。
33. 比丘たちよ、ここに一部常住説、一部無常説を主張し、我と世界がある者には常住であり、別の者には無常であると四つの見解に執着する出家者やバラモンがいる。
その主張は個人的な経験に基づき、無知であり、見えず、出家者やバラモンの感受であり、貪欲に動かされる者たちの刺激、動揺、歪曲である。
34. 比丘たちよ、ここに有辺無辺論を主張し、世界が有辺であり無辺であると四つの見解に執着する出家者やバラモンがいる。
その主張は個人的な経験に基づき、無知であり、見えず、出家者やバラモンの感受であり、貪欲に動かされる者たちの刺激、動揺、歪曲である。
35. 比丘たちよ、ここに詭弁論を主張し、ある問いや別の問いに対してウナギのようにすり抜ける詭弁の言葉を用いる四つの見解に執着する出家者やバラモンがいる。
その主張は個人的な経験に基づき、無知であり、見えず、出家者やバラモンの感受であり、貪欲に動かされる者たちの刺激、動揺、歪曲である。
36. 比丘たちよ、ここに無因論を主張し、我と世界は無因によって生じると二つの見解に執着する出家者やバラモンがいる。
その主張は個人的な経験に基づき、無知であり、見えず、出家者やバラモンの感受であり、貪欲に動かされる者たちの刺激、動揺、歪曲である。
37. 比丘たちよ、ここに過去の初めを論じ、過去の初めに関する見解に執着し、過去の初めに基づいて多くの誤った意見を唱える十八の見解に執着する出家者やバラモンがいる。
その主張は個人的な経験に基づき、無知であり、見えず、出家者やバラモンの感受であり、貪欲に動かされる者たちの刺激、動揺、歪曲である。
38. 比丘たちよ、ここに死後に想いがあると主張し、死後に想いがある我に執着し、十六の見解に執着する出家者やバラモンがいる。
その主張は個人的な経験に基づき、無知であり、見えず、出家者やバラモンの感受であり、貪欲に動かされる者たちの刺激、動揺、歪曲である。
39. 比丘たちよ、ここに死後に想いがないと主張し、死後に想いのない我に執着し、八つの見解に執着する出家者やバラモンがいる。
その主張は個人的な経験に基づき、無知であり、見えず、出家者やバラモンの感受であり、貪欲に動かされる者たちの刺激、動揺、歪曲である。
40. 比丘たちよ、ここに死後に非有想非無想を主張し、死後に非有想非無想なる我に執着し、八つの見解に執着する出家者やバラモンがいる。
その主張は個人的な経験に基づき、無知であり、見えず、出家者やバラモンの感受であり、貪欲に動かされる者たちの刺激、動揺、歪曲である。
41. 比丘たちよ、ここに断滅論を主張し、衆生の断滅、消失、破壊に執着し、七つの見解に執着する出家者やバラモンがいる。
その主張は個人的な経験に基づき、無知であり、見えず、出家者やバラモンの感受であり、貪欲に動かされる者たちの刺激、動揺、歪曲である。
42. 比丘たちよ、ここに現在涅槃論を主張し、衆生の現在の涅槃に執着し、五つの見解に執着する出家者やバラモンがいる。
その主張は個人的な経験に基づき、無知であり、見えず、出家者やバラモンの感受であり、貪欲に動かされる者たちの刺激、動揺、歪曲である。
43. 比丘たちよ、ここに未来について論じ、未来に関する見解に執着し、未来に基づいて多くの誤った意見を唱える四十四の見解に執着する出家者やバラモンがいる。
その主張は個人的な経験に基づき、無知であり、見えず、出家者やバラモンの感受であり、貪欲に動かされる者たちの刺激、動揺、歪曲である。
44. 比丘たちよ、ここに最初の過去について論じ、未来について論じ、最初の過去と未来について論じ、最初の過去と未来に関する見解に執着し、それを根拠として多くの誤った意見を唱える六十二の見解に執着する出家者やバラモンがいる。
その主張は個人的な経験に基づき、無知であり、見えず、出家者やバラモンの感受であり、貪欲に動かされる者たちの刺激、動揺、歪曲である。
45. 比丘たちよ、ここに常住論を主張し、我と世界は常住であると四つの見解に執着する出家者やバラモンがいる。
その主張は(根ざす)感覚器官の触れ合いにより生じる。
46. 比丘たちよ、ここに一部は常住論、一部は無常論を主張し、ある一部の衆生にとって我と世界は常住であり、他の一部の衆生にとっては無常であると四つの見解に執着する出家者やバラモンがいる。
その主張は(根ざす)感覚器官の触れ合いにより生じる。
47. 比丘たちよ、ここに有辺無辺論を主張し、世界は有辺無辺であると四つの見解に執着する出家者やバラモンがいる。
その主張は(根ざす)感覚器官の触れ合いにより生じる。
比丘たちよ、ここに偉大な沙門や婆羅門が詭弁論を主張している者がいる。彼らはこの問題やあの問題を尋ねられると、ウナギのようにうねる詭弁の言葉を用い、四つの執着を持っている。その主張は、感覚器官の接触によって生じる。
比丘たちよ、ここに偉大な沙門や婆羅門が無因論を主張し、自我と世界は無因によって生じるとし、二つの執着を持っている。その主張は、感覚器官の接触によって生じる。
比丘たちよ、ここに偉大な沙門や婆羅門が初めの過去について論じ、初めの過去に関する見解を執着し、それに基づいて十八の異なる見解を唱えている。その主張は、感覚器官の接触によって生じる。
比丘たちよ、ここに偉大な沙門や婆羅門が死後に思惟があるとする有想論を主張し、死後にも自我に思惟があるとし、十六の執着を持っている。その主張は、感覚器官の接触によって生じる。
比丘たちよ、ここに死後に想いがないと説くヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。彼らは死後に想いのない我(アートマン)があると執着し、八つの論点で説く。その説は感覚器官の触れ合いにより起こる。
比丘たちよ、ここに死後に想いもなく、想いもあるわけでもないと説くヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。彼らは死後に想いも想いもない我(アートマン)があると執着し、八つの論点で説く。その説は感覚器官の触れ合いにより起こる。
比丘たちよ、ここに断滅説を説き、生きとし生けるものの断滅、消滅、滅亡を七つの論点で執着するヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。その説は感覚器官の触れ合いにより起こる。
比丘たちよ、ここに現時涅槃説を説き、生きとし生けるものの現時涅槃に執着し、五つの論点で説くヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。その説は感覚器官の触れ合いにより起こる。
比丘たちよ、ここに未来について論じ、未来に関する見解を持ち、未来に依拠して四十四の異なる見解を説くヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。その説は感覚器官の触れ合いにより起こる。
比丘たちよ、ここに過去の最初の時、未来、過去の最初の時と未来について論じ、過去の最初の時と未来に対する見解に執着し、過去の最初の時と未来に依拠して、六十二の異なる見解を説くヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。その説は感覚器官の触れ合いにより起こる。
比丘たちよ、ここに常住説を説き、我(アートマン)と世界を常住と執着する四つの論点を持つヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。これらの者たちは、感覚がなければこれらの説を感じ取ることができない。
比丘たちよ、ここに一部は常住説、一部は無常説を説き、我(アートマン)と世界が一部の衆生にとっては常住であり、別の一部の衆生にとっては無常であると執着する四つの論点を持つヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。これらの者たちは、感覚がなければこれらの説を感じ取ることができない。
比丘たちよ、ここに有辺無辺説を説き、世界を有辺無辺であると執着する四つの論点を持つヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。これらの者たちは、感覚がなければこれらの説を感じ取ることができない。
比丘たちよ、ここに詭弁論を説くヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。彼らはこの問題やあの問題を問われると、うなぎのように曲がりくねった詭弁を用いて四つの論点を説く。これらの者たちは、感覚がなければこれらの説を感じ取ることができない。
比丘たちよ、ここに無因論を説き、我(アートマン)と世界が無因によって生じると執着する二つの論点を持つヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。これらの者たちは、感覚がなければこれらの説を感じ取ることができない。
比丘たちよ、ここに過去の最初の時について論じ、過去の最初の時に対する見解に執着し、それに依拠して十八の異なる意見を説くヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。これらの者たちは、感覚がなければこれらの説を感じ取ることができない。
比丘たちよ、ここに死後に想いがあるとする有想論を説き、死後に我(アートマン)に想いがあると執着する十六の論点を持つヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。これらの者たちは、感覚がなければこれらの説を感じ取ることができない。
比丘たちよ、ここに死後に想いがないとする無想論を説き、死後に我(アートマン)に想いがないと執着する八つの論点を持つヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。これらの者たちは、感覚がなければこれらの説を感じ取ることができない。
比丘たちよ、ここに死後に有想でも無想でもないと説き、死後の我(アートマン)が有想でも無想でもないと執着する八つの論点を持つヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。これらの者たちは、感覚がなければこれらの説を感じ取ることができない。
比丘たちよ、ここに断滅論を説き、感覚ある者の断滅、消滅、滅亡に執着する七つの論点を持つヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。これらの者たちは、感覚がなければこれらの説を感じ取ることができない。
比丘たちよ、ここに現在の涅槃論を説き、感覚ある者の現在の涅槃に執着する五つの論点を持つヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。これらの者たちは、感覚がなければこれらの説を感じ取ることができない。
比丘たちよ、ここに未来について論じ、未来に対する見解に執着し、未来に依拠して四十四の異なる見解を説くヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。これらの者たちは、感覚がなければこれらの説を感じ取ることができない。
比丘たちよ、ここに過去の最初の時や未来について論じ、過去の最初の時と未来に対する見解に執着し、過去の最初の時と未来に依拠して六十二の異なる見解を説くヴェーダ僧や婆羅門たちがいる。これらの者たちは、感覚がなければこれらの説を感じ取ることができない。
比丘たちよ、この世には、沙門やバラモンの中に、「常住論」を主張し、自己(アートマン)および世界は永遠であると見なして、四種の見解に執着している者たちがいる。また、常住と無常の両方を部分的に主張する者、詭弁的な論法に依る者、因を否定する無因論を説く者もいる。
さらに、過去の始まりについて論じる者、死後に有想(想いをもつ存在)が続くと説く者、無想(想いのない存在)が続くと説く者、また非有想非無想(想あって想なくもない)と説く者がいる。ある者は断滅(死後にすべてが終わるとする)を説き、現世において涅槃が得られるとする者もいる。ある者は過去の初源や未来について論じ、それに基づいて見解を構築し、そうして形成された多様な見解に執着する。
こうして、彼らは**六十二の見解(六十二の論執/六十二の誤った見解)**に執着しているのである。
比丘たちよ、これらすべての見解は、六つの感官領域(六処)を通して接触(触)が起き、それにより受(感受)が生じ、そこから形成されている。受を条件として渇愛(欲望)が生じ、渇愛を条件として取(執着)が生じ、取を条件として有(存在・生存)が生じ、有を条件として生(誕生)が生じ、生を条件として老・死・憂・悲・苦・悩などの苦しみが生じる。
比丘たちよ、もし比丘が六処の生起、滅尽、甘味(楽しみ)、過患(危険)、およびそこからの出離(解脱)を如実に理解するならば、その者はこれらすべての見解を超えた智慧に至るのである。
比丘たちよ、始原の過去について論じる者、未来について論じる者、あるいはその両方——つまり始原の過去と未来について見解を執着し、それらを根拠にして多様な見解を提唱する沙門・バラモンたちは、すべてこの六十二の見解の網に捕らえられている。たとえ彼らが跳び上がったとしても、この場において制限され、包まれているのだ。
たとえば、熟練の漁師や漁業を学ぶ者が、目の細かい網を小さな湖の上に投げかけたとする。彼はこう思う:「この小さな湖の中の大きな魚はすべて、この網に捕らえられている。たとえ跳び上がったとしても、依然としてこの場で網に包まれている」と。
同様に、比丘たちよ、始原の過去について、あるいは未来について、またはその両方について論じ、そこに見解を執着し、さまざまな論を展開する沙門・バラモンたちはすべて、この六十二の見解の網に捕らえられている。たとえ跳び上がっても、この場で包まれているのだ。
比丘たちよ、如来のこの身体は今なお存在しているが、次の生存(再生)を導く原因はすでに断たれている。この身体が存在している間は、天(デーヴァ)や人間は如来の身体を見ることができる。しかし、身体が滅び、命が尽きたならば、天も人ももはや見ることはできないのである。
比丘たちよ、たとえば、一つのマンゴーの房がついた枝が切り落とされれば、その枝についているすべての果実もまた同じ運命をたどるであろう。それと同じように、如来のこの身体は今なお存在しているが、新たな生を引き起こす因縁は完全に断ち切られている。したがって、この身体が存在している限り、天と人とは如来の姿を見ることができるが、身体が壊れて命が終わったならば、もはや見ることはできないのである。
このように説かれたとき、尊者アーナンダは世尊に申し上げた。
「素晴らしきことです、世尊よ! 稀有なることです、世尊よ! この法門は、いかなる名称で呼ぶべきでしょうか?」
世尊は言われた。
「アーナンダよ、この法門は『利益の網(りやくのもう)』と呼ばれる。かくの如くに受持せよ。
『法の網(ほうのもう)』とも呼ばれる。かくの如くに受持せよ。
『梵の網(ぼんのもう)』とも呼ばれる。かくの如くに受持せよ。
『剣の網(けんのもう)』とも呼ばれる。かくの如くに受持せよ。
『無上の勝利(むじょうのしょうり)』とも呼ばれる。かくの如くに受持せよ。」
世尊はこのように説かれた。比丘たちは世尊の説法を喜び、歓喜して信受した。
この経が説かれたとき、一千の世界が震動したのである。
元のソース:https://www.budsas.org/uni/u-kinh-truongbo/truong01.htm
ChatGPTによる日本語訳です。
長部経に戻る。
パーリ経蔵 に戻る。
トップページ に戻る。