こう私は聞いた。
ある時、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)、ジェータ林、アナータピンディカ(給孤独長者)の精舎に滞在しておられた。
その時、尊者ローマサカンギヤはシャーキャ族のカピラヴァットゥ(カピラ城)のニグローダ(尼拘律樹)の精舎に滞在していた。夜が明けた後、天人チャンダナは、素晴らしい光輝を放ってニグローダ精舎一帯を照らし、尊者ローマサカンギヤのもとへ赴き、着くと一方に立った。そして一方に立ったまま、天人チャンダナは尊者ローマサカンギヤにこう言った:
「比丘よ、『一夜賢者』についての総説と別説を受持していますか?」
「尊者よ、私は『一夜賢者』についての総説と別説を受持していません。尊者はどうですか? 受持されていますか?」
「比丘よ、私も『一夜賢者』についての総説と別説を受持していません。しかし、比丘よ、『一夜賢者』の偈頌を受持していますか?」
「尊者よ、私は『一夜賢者』の偈頌を受持していません。尊者はどうですか?」
「比丘よ、私は『一夜賢者』の偈頌を受持しています。」
「尊者よ、それでは、どのように『一夜賢者』の偈頌を受持しておられますか?」
「ある時、比丘よ、世尊は三十三天の神々の中にいて、パリッチャッタカの樹の下、パンドゥカンバラの岩の上に住まわれていた。その場所で、世尊は三十三天の神々に対して『一夜賢者』についての総説と別説を説かれた:
過去を追い求めることなく
未来をも願い求めず
過去はすでに捨て去られ
未来はまだ来ていない。
ただ現在の法のみがある、
その見極めが智慧のまなざしである。
動じることなく、揺らぐことなく、
このようにして修行すべし。
今日こそ熱意をもって努力せよ、
明日死ぬかもしれぬのだから。
死の大軍とは
誰も交渉できぬのだ。
このように住する者は熱意をもって
昼夜、怠ることがない。
その者こそが『一夜の賢者』と
静謐で沈着なる者と呼ばれるにふさわしい。
比丘よ、このように私は『一夜賢者』の偈頌を受持している。
比丘よ、『一夜賢者』についての総説と別説を学びなさい。
比丘よ、よく習熟して『一夜賢者』の総説と別説を学びなさい。
比丘よ、『一夜賢者』の総説と別説を受持しなさい。
なぜなら、比丘よ、『一夜賢者』の総説と別説は目的に関わり、梵行(ブラフマチャリヤ)の根本であるからである。
こうして、尊者ローマサカンギヤはその夜が明けると、寝具を整え、衣と鉢を持ってサーヴァッティーへと旅立った。順次に旅して、尊者はサーヴァッティーのアナータピンディカの精舎、ジェータ林に至り、世尊のもとに赴き、到着すると世尊に礼拝して、一方に座した。
一方に座した尊者ローマサカンギヤは、世尊にこう申し上げた:
「世尊よ、かつて私はシャーキャ族のカピラヴァットゥにあるアナータピンディカの精舎に住んでおりました。
そして世尊よ、夜が明けた後、天人が一人、素晴らしい光輝を放ち、ニグローダ精舎一帯を照らしながら、私のもとにやって来て、一方に立ちました。
そして立ったまま、世尊よ、その天人は私にこう言いました:
『比丘よ、あなたは "一夜賢者" についての総説と別説を受持していますか?』
このように問われたので、世尊よ、私はその天人にこう答えました:
『尊者よ、私は "一夜賢者" の総説と別説を受持していません。』
そしてさらにその天人は、"偈頌を受持しているか" と尋ね、最後にこう述べました:
『比丘よ、"一夜賢者" の総説と別説は目的に関係し、梵行の基盤である。』
世尊よ、このように天人は語り、そう語り終えるとその場で姿を消しました。
世尊よ、もしよろしければ、どうか『一夜賢者』の総説と別説を私にお説きください。」
世尊はこう言われた:
「比丘よ、あなたはその天人を知っているか?」
「世尊よ、私はその天人を知りません。」
「比丘よ、その天人の名は**チャンダナ(Candana)**である。
比丘よ、チャンダナという天人は、心を集中させ、意志を向け、内なる心を安定させた上で、法を傾聴したのである。
それゆえに、比丘よ、よく聞きなさい。よく考えて聞きなさい。今、説こう。」
「はい、世尊よ。」と、尊者ローマサカンギヤは世尊に答えた。
世尊は次のように説かれた:
過去を追い求めることなく
未来をも願い求めず、
過去はすでに断たれ、
未来はまだやって来ていない。
ただ現在の法のみがある。
智慧の眼で、まさにそこを観よ。
動じることなく、揺らぐことなく、
このようにして修行すべし。
今日こそ熱意をもって努力せよ、
明日、死ぬかもしれぬのだから。
死の大軍とは、
誰ひとり交渉することはできない。
このように住する者は熱心に、
昼も夜も怠ることがない。
このような者こそ『一夜の賢者』と呼ばれ、
静謐にして沈黙なる人である。
そして、比丘よ、何が「過去を追い求めること」なのであろうか?
ある者がこう考える:
「これが過去における私の色(しき)であった」と、
その中に歓喜(よろこび)を探し求める。
「これが過去における私の受(じゅ)であった」と、
その中に歓喜を探し求める。
「これが過去における私の想(そう)であった」と、
その中に歓喜を探し求める。
「これが過去における私の行(ぎょう)であった」と、
その中に歓喜を探し求める。
「これが過去における私の識(しき)であった」と、
その中に歓喜を探し求める。
このようにして、比丘よ、「過去を追い求めること」があるのである。
そして、比丘よ、何が「過去を追い求めないこと」なのであろうか?
ある者がこう考える:
「これが過去における私の色(しき)であった」と、
しかしその中に歓喜を探し求めない。
「これが過去における私の受(じゅ)であった」と、
その中に歓喜を探し求めない。
「これが過去における私の想(そう)であった」…
「これが過去における私の行(ぎょう)であった」…
「これが過去における私の識(しき)であった」と、
そしてその中にいかなる歓喜も探し求めない。
このようにして、比丘よ、「過去を追い求めないこと」があるのである。
そして比丘よ、何が「未来を願い求めること」であろうか?
ある者がこう考える:
「どうか、このように未来において私の色(しき)があらんことを」と、
その中に歓喜を探し求める。
「どうか、このように未来において私の**受(じゅ)があらんことを」と、
その中に歓喜を探し求める。
「どうか、このように未来において私の想(そう)が…」
「…私の行(ぎょう)が…」
「…私の識(しき)**があらんことを」と、
その中に歓喜を探し求める。
このようにして、比丘よ、「未来を願い求めること」があるのである。
そして比丘よ、何が「未来を願い求めないこと」であろうか?
ある者がこう考える:
「どうか、このように未来において私の色(しき)があらんことを」と、
しかしその中に歓喜を探し求めない。
「どうか、このように未来において私の**受(じゅ)があらんことを」と、
しかしその中に歓喜を探し求めない。
「どうか、このように未来において私の想(そう)が…」
「…私の行(ぎょう)が…」
「…私の識(しき)**があらんことを」と、
そしてその中にいかなる歓喜も探し求めない。
このようにして、比丘よ、「未来を願い求めないこと」があるのである。
そして比丘よ、いかなるものが「現在の法に引きずられること(法に巻き込まれること)」であろうか?
ここにおいて、比丘よ、ある**聞くことのない凡夫(無聞の凡夫)**がいる。
彼は聖者たちのもとに行くこともなく、聖者たちの法に習熟することもなく、聖者たちの法を修習することもない。
また、真実を体得した人々(真人)のもとに行くこともなく、その法に習熟せず、その法を修習しない。
そのような者は、
「色(しき)は自我(アートマン)である」と見たり、
「自我には色がある」と見たり、
「色は自我の中にある」と見たり、
「自我は色の中にある」と見たりする。
同様に、
「受(じゅ)は自我である」、
「自我には受がある」、
「受は自我の中にある」、
「自我は受の中にある」。
また、
「想(そう)は自我である」、
「自我には想がある」、
「想は自我の中にある」、
「自我は想の中にある」。
さらに、
「行(ぎょう)は自我である」、
「自我には行がある」、
「行は自我の中にある」、
「自我は行の中にある」。
そして、
「識(しき)は自我である」、
「自我には識がある」、
「識は自我の中にある」、
「自我は識の中にある」と見なす。
このようにして、比丘よ、「現在の法に巻き込まれる(引きずられる)」ことがあるのである。
そして比丘よ、いかなるものが「現在の法に巻き込まれないこと」であろうか?
ここにおいて、比丘よ、ある**多聞の聖なる弟子(多聞の聖弟子)**がいる。
彼は聖者たちのもとに赴き、聖者の法に習熟し、その法を修習している。
また、真人たちのもとに赴き、その法に習熟し、修習している。
彼は、
「色は自我である」とも見なさず、
「自我には色がある」とも見なさず、
「色は自我の中にある」とも、
「自我は色の中にある」とも見なさない。
同様に、
「受についても、想についても、行についても、識についても」、
それらが自我であるとも、
自我がそれらを有するとも、
それらが自我の中にあるとも、
自我がそれらの中にあるとも見なさない。
このようにして、比丘よ、「現在の法に巻き込まれない」ことがあるのである。
過去を追い求めず、
未来をも願い求めず、
過去はすでに断たれ、
未来はまだ到っていない。
ただ現在の法のみがある。
智慧の眼で、まさにここを観よ。
動じることなく、揺らぐことなく、
このようにして修行すべし。
今日こそ熱意をもって努力せよ、
明日、死ぬかもしれぬのだから。
死の大軍とは、
誰ひとり交渉することはできない。
このように住する者は熱心に、
昼も夜も怠ることがない。
このような者こそ『一夜の賢者』と呼ばれ、
静かにして、沈黙の人である。
このように、世尊は説かれた。
尊者ローマサカンギヤは、世尊の教えに喜び、信受して受け入れた。
元のソース:https://www.budsas.org/uni/u-kinh-trungbo/trung134.htm
ChatGPTによる日本語訳です。
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