第8話

 セスがテントを飛び出してから、二時間以上が経過しようとしていた。一人取り残されたマイクは、どこからともなくやってきた猫の相手をしながら彼の帰りを待っていた。
「嫌われちゃったかなぁ」
 セスと名付けた猫の喉を撫でながら、マイクはひとりごちる。相棒に何も話さずにいたこと、そのことにセスは不安を抱いていた。共に仕事をするパートナーに対して、己の態度に多大な不備があったことをマイクは痛感していた。
 わかってはいた。わかってはいたのだ。この「隠しごと」はいずれ露見するであろう、ということは。ともすれば、遅いか早いかという時間の問題であった。しかし心のどこかで、マイクは「隠し切れるだろう」とも思っていたのだ。そしてそれが純然たる誤りであったことを、彼はセスの態度に感じた。
 しばらくそうして悶々と考えながら猫の相手をしていると。ふとテントの入り口に人の気配を感じた。見やれば、そこには先ほど出て行ったセスが戻って来ていた。
「よう。さっきは悪かった」
 開口一番にそう言い、セスはずかずかとテントの中に入ってくる。そして彼はマイクのそばに立つと、いつもの仏頂面でその顔を見るのだった。
「落ち着いた?」
 そんなセスを見上げ、マイクは言う。
「ああ。そっちはなんか話す気になったか」
「うん、多少はね」
 セスの言葉に頷き、マイクは立ち上がる。そして彼はセスに話さずにいた「任務」の内容を、とつとつと語り始めた。ルカと組み、シャッラールのとある村で任務についたこと。現状レマシア軍にとって「カビール・タグイェル」の用いる子供兵が脅威であること。そしてそれを、自分は無力化するために任務へ赴いたこと——マイクは順を追ってセスに説明した。
 すると、セスの表情が徐々に曇っていくのがわかった。彼はどうやら、「子供兵」という単語に反応したようだった。
「撃ったのか? ……子供を?」
 セスが信じられないといった風に言う。それにマイクは静かに頷き、答えた。
「急所は外しておいたよ。ルカは、『排除』したようだったけど。俺には、それはできなかった」
「どうしてそんな任務に……」
「志願したんだよ。お前にそのお鉢が回ってくる前にね」
「……!」
 セスの直線的な眉がピンと上がる——彼は目を見開いて、マイクを見た。それを真正面から見据え、マイクは続ける。
「俺に回ってくる仕事は、俺が断ればいずれお前にも回ってくる。それをなるべく堰き止めておくのが、俺の役目」
「なんで、そんなことを」
「お前のためだから」
 戸惑うセスへ、マイクは淀みなく言う。そう、全てはセスのためにやったことだ。たとえそれがエゴと呼ばれるものだとしても。
 スナイパーという兵種はその精神状態を安定させるために様々な訓練を受けてはいるものの、セスに関してはそれが未だ充分ではないとマイクは考えていた。個性を排し、感情を排し、ただただ命令に従って標的を無力化する——それが、兵士という存在のあるべき姿だろう。しかしそう簡単に行かないのが、人間というものだ。
 マイクは元々感情の起伏が少ない方だが、セスは違う。彼は時折自分の思いのままに行動し、そして反応する。それが、彼の天性なのだとマイクは感じていた。だからこそ、彼は長距離狙撃における神がかり的な一発を放つことができるのだ、と。
 現状、セスは長年の訓練において身につけた「感情の抑制と発露のバランス」が、危ういながらも取れている。そしてその危ういバランスこそが、彼の能力を底上げしている。それはセスを間近に見るマイクが感じる、一番大きな「相棒の特徴」でもあった。
 そんな彼の精神状態を、些細なことで崩させる訳にはいかない。マイクがセスに何も言わずに任務へ赴いたのは、そんな理由からだった。
「お前なら、撃てた? ……そう考えたら、自然と答えは出てくる」
「俺が甘いって言いたいのか」
「そういう意味じゃない。お前ができないことを、俺が代わりにやる。仕事って、そういうものだろ」
「仕事ってんなら、なおさらだ。なんで今まで話してくれなかった」
「それは、その……ごめん」
 納得がいかないらしいセスへ、マイクは俯きながら謝った。今まで、セスに何も言わず様々な任務に赴いてきた。そしてそれを、彼はほんの少し後悔した。セスに、伝えなかったことをだ。
「これからは、相談するようにするよ」
 頷きながら、彼は言う。そうすることで、セスが安心するのなら——小さな思案の後、マイクはひとつの結論を出した。すなわち、「隠し事は無し」ということだ。
「そう言ってもらえると助かる。ほら、」
 不意に右手を差し出され、条件反射のようにそれを握る。二人は軽く握手をし、互いの感情がある程度すり合わさったことを確認した。
「これで『仲直り』?」
「ああ」
 セスの表情はいつもの仏頂面だったが、マイクの態度にある程度は納得したようだ。彼は握っていた手を離すと腕を組み、小さく頷いた。
 その時だった。基地の空気が、険しいものへと変化したことを二人は感じ取る。テントの外が急に騒がしくなったのを察知し、彼らは外へと出た。
「どうした」
 作戦本部の方角へ慌ただしく走る一人の兵士を呼び止めたセスが、理由を聞いた。すると兵士は困惑した表情を浮かべて言った。「アスワドにやられた。カスディールだ」と。
「アスワド……?」
「ムルシド・ダウィイのスナイパーだよ。そうだよね?」
 鸚鵡返しに問うセスへ、マイクは兵士に確認しながら答える。レマシア軍は激戦区であったアズィーム・フルシュを何とか制圧・保持することに成功したが、その先に続く作戦は失敗したようだ——マイクは苦い表情を浮かべ、状況を鑑みた。
「それじゃあ、俺行かなきゃいけないから」
 セスに呼び止められていた兵士はそう言うと、再び作戦本部へ向けて走り出す。それを見送りながら、二人はしばらく無言で佇んでいた。
「負けた……のか」
「そういうことになるね」
 ぽつりと呟くセスへ、マイクは頷く。カスディールの作戦に関しては表面的な部分しか知り得ないマイクであったが、レマシア軍の規模はバラーキシュ反政府勢力と比べて決して劣勢ではなかったはずだ。それがたった一人のスナイパーによって、撤退の憂き目へと立たされた。
 いくら向こうに地の利があるとは言え、これは由々しき事態だ。マイクは表情を引き締め、傍に佇むセスを見る。
「いつか、俺たちも対することになるかも」
「そうだな。やってくれたもんだぜ」
 ふと浮かんだ予測を口にすれば、セスは厳しい表情でそれに頷く。通常の歩兵が対処できないとなれば、次にその役目が回ってくるのはマイクたちブラック・ベレーにだ。おそらく数時間もしない内に、彼らの元に命令が届くだろう。すなわち、「アスワドを無力化せよ」と。
 新たな戦いが、今また始まろうとしている——。


(了)