第10話

 数時間後、セスとマイクは準備された車両に乗り込み移動を開始した。バラーキシュ共和国最北端であるザヒル県ジャバル・ジャヌーブから、首都であるハジャル・アル・カディールのあるフルシュ県をまたぎハクル県カスディールを目指す。移動は丸一日かかり、彼らがカスディールに到着したのはその日の夕方のことだった。
「降車地点はここだ。気をつけろよ」
 県界にある検問所で、二人は車から降ろされた。この検問を越えれば、その先はハクル県である。遠くに見える、もやのかかったカスディールの街を眺めセスは小さく息をつく。ここからは、敵の支配地だ——彼は気を引き締めると、荷物を担ぎ直した。
 現在ハクル県は、南のアル・ファランをはじめ各所を反政府勢力が牛耳っている。油田を多く抱えるこの地を連合軍はとにかく早く奪還したいとしているが、その焦りを向こうも察知しているのか作戦は成功の兆しが見えない。バラーキシュ共和国の南半分を制した反政府勢力は、その強い結束をもって連合軍をこの数年、退けている。一進一退の攻防を繰り広げ、一時は占拠できるかという所まで進攻したこともあったが、やはりその後、軍は「アル・ファランの悪魔」アスワドの手によって何度も撤退を余儀なくされてきたのだ。
 今度こそ、カスディールを奪還し南征への足掛かりにする——「アスワドを無力化せよ」という命令を受けてこの地に立った二人は、緊張と共に検問所を抜け、狙撃ポイントを目指して歩き始めた。
 二時間後、アクィナス中佐が指定した潜伏場所へたどり着いた彼らは、鋭く切り立った尾根の影に身を潜めると荷物を整理し潜伏の準備を始めた。西へ沈もうとしている夕日を横目に、暗くなり始めた山の上で彼らは小さな明かりを頼りに必要な道具を取り出し、組み立てる。
「視界良好。マイク、状況は?」
 バイポッドを取り付けたエシュルン-50のスコープを覗き、その調整をしながらセスは問う。するとすぐ隣に控えるマイクがそれぞれ計器を手に取りながら「気温28度。湿度は15%……風速18mph。北西から来てるね……少し北寄りかな」と答えた。
「なるほど」
 マイクからもたらされた情報を元に、セスはレティクルにカスディールの景色を収めながら弾丸の軌跡を予測する。目印として彼が選んだのは、街の中央にそびえる高い鐘楼だった。距離にして約2kmにも及ぶ目標を捉えるのは容易ではない。セスは慎重に、スコープの調整を行なった。
 頭の中に叩き込んだ地図、天候、そして距離。様々な外的要因を組み合わせ、そこから導き出される緩やかな曲線を意識に描く。やがてそれを終えると、彼はマイクの観測結果をメモに記し、それを銃の脇に貼り付けた。
「後は向こうがどう動くかだな」
「セスなら、どこに陣取る?」
 双眼鏡を手にカスディールを観察しながらマイクが問う。セスは一度マイクを見やり、次いでカスディールの街を見下ろしながら言った。
「俺なら、この状況で高所には登らない。向こうも俺たちが派遣されることは、それとなく勘付いているはずだ。やるとすれば、メインストリートから少し離れた路地を転々とするか……いっそ狙撃から中距離射撃に作戦を切り替えるか」
「俺もそう思ってた。ネズミ狩りになりそうだね」
 大げさに肩をすくめて見せるマイクに頷き、セスは尾根の陰に身を隠した。ふうと息をつき、彼は暮れていくカスディールの空を見上げる。空は徐々にその暗さを増し、月や星が小さく瞬き始める。それを眺めながら、彼はマイクへ言った。
「少し休む。三時間後に交代する」
「了解」
 短い応答を経て、セスは瞳をゆっくりと閉じる。今日は移動だけで体力を消費してしまった。疲労自体は軽微なものだったが、出来るだけ早くその回復には努めねばならないだろう。右手の人差し指を左手でほぐしながら、彼は閉じた意識の中でこれからについて考える。今回の作戦こそ、成功させなければ。大隊が上手くやってくれることを祈りながら、そうして意識は落ちていった。


 セスが休憩に入ったのを確認し、マイクは再び双眼鏡を手にするとカスディールとその周辺を観察した。乾燥期であるバラーキシュ共和国の夜は、日中に比べていくらか過ごしやすい。標準的な強さの風を頬に受け、彼はその音を聴きながら観察を続けた。
 カスディールは中規模程度の街と形容できるだろう。夜になり人の往来は少なくなったが、それでも営みが失われることはない。住人たちも、ここを反政府勢力が占拠していることにいくばくかの安心感を得ているのだろう。街には大小様々な大きさの明かりが灯り、時折食料を求めて市場へ向かう人々の姿が映る。
 バラーキシュ共和国は、南北で国民の意識に差がある。多くの油田を抱える南の地域は主に労働者たちの居住区であり、またレマシア合衆国に対する原油の輸出状況に反発する住民の活動が活発なことでも有名である。
 自分たちの資源は自分たちで使うべきだ——そんなある種「素朴な」要求が、彼ら反政府勢力の旗印だ。民族自決。原油の輸出バランスから近年レマシア寄りの政治を行なっている政府は、国民の意思——その半数——をないがしろにした、と南の住人たちは口を揃えて言う。
 共和制の政治を行なっているのだから、国の代表はもちろん国民による選挙で選ばれる。しかし、現在のバラーキシュはその思想や体制がきっぱりと二分されているのが問題だった。国民だけではない。政治家の間でもだ。そうして政治的な軋轢や内戦が勃発し、親レマシア派であったバラーキシュ大統領はレマシア合衆国の軍事介入を許すこととなる。
 どこまでもレマシアにすり寄ろうとする現大統領の判断の是非を問うのは、レマシア人であるマイクには難しいことだった。もし自分の国がそんなことになったとしたら。自分は、どのように判断するのだろう。彼はふと、そんな夢想に耽る。だがそれも、すぐに終わった。無駄なことだと気づいたからだ。
 レマシア軍の大隊が再びこの地を奪還しようとやって来るのは、二日後だ。それまでに二人はこの場所一帯の地理と状況を把握し、支配しなければならない。気温や湿度、風速、そして銃弾を放つ先に池や沼などはないか。どんなに小さく細かな要素でも、見逃すわけにはいかない。ほんの少しの「要因」が、セスの放つ銃弾を逸らせる「原因」になりかねないからだ。そしてそれを把握してセスに伝えるのが、マイクの仕事だ。
 マイクはノートを取り出すと、そこにカスディール中央の鐘楼を描きシンプルな地図を作成した。銃弾の先に控えるものには何があるか。敵兵が潜伏するであろう場所の候補・予測地はどれか。怪しい人物が街を往来するならば、その出どころはどこか。双眼鏡を片手に、彼は薄闇の中で目を凝らす。
 そうして数時間が過ぎ、彼はノートを閉じると傍で静かに呼吸を繰り返すセスの肩を叩いた。
「セス、時間」
「ん、」
 それを合図に、セスは意識を取り戻し再び尾根の境に身を起こす。借りていたスナイパーライフルをセスに渡し、今度はマイクが尾根の陰に身を寄せた。
「どうだった」
「異常なし。ノートに地図を書いておいたから、後で見て」
「了解」
 セスは短く答えると、そのままスナイパーライフルを構えて静かになった。あと数時間もすれば、また日が昇り一日が始まる。その間、彼らが監視の目を緩めることはない。何か怪しい動きがあれば、それを逐一こちらへ向かっている大隊へ報告しなければならないからだ。事前情報はあるに越したことはない。それが、戦いに赴くレマシア兵の何人かの命を救うことにつながるのならば。
 カスディールを巡るレマシア軍と反政府勢力の戦いは、既に始まっているのだ——。


(了)