薄暗い森の中、木々の間をふたつの黒い影が横切る。それは素早く、そして静かだった。バラーキシュ共和国最北部、ザヒルと呼ばれる森林地帯——そのただ中を、ふたつの影は進んでいく。微かな足音と、風だけを残して。
土を踏む足取りは軽く、そして淀みない。彼らの目的はただひとつ。軍上層部がもたらした情報を元に、重要目標を「無力化」することだった。
「少し休むか」
ふと前方に上り坂から続く崖を見つけ、一人の男が相棒に囁いた。男の名は、セスという。レマシア陸軍特殊作戦コマンドの隷下にある特殊部隊「ブラック・ベレー」所属のスナイパーだ。そしてその数歩後ろに控える相棒のマイクが、崖を見上げてため息をつく。
「そうだな……話には聞いていたが、なかなか『立派』なもんだ。体力を取り戻してから登ろう」
「そうしよう」
周囲を見渡し、セスは身を隠すのに好条件の場所を探す。ここから先は、ある程度の体力がなければ踏破の難しい地帯だ。事前にある程度現地の地形に関する「予習」をしていたとはいえ、屹立した高い崖の出現に思わず舌打ちする。敵の目を欺きながら目標へ接近することの難しさを、彼は改めて実感していた。
敵陣が見渡せる距離、すなわち狙撃ポイントまではまだ徒歩で数日掛かるかというところだったが、用心するに越したことはない。セスはマイクに合図を出し、深い茂みの中へと歩を進めた。ウッドランドの迷彩服が草にこすれ、カサカサと小さな音を立てる。やがて潜伏するのにちょうどいい場所を見つけ、二人はそこへ腰を落ち着けた。
「そろそろ日が昇る。じっとしてた方が良さそうだ」
構えていたライフルを静かに下ろし、マイクが草むらの中から上空を見上げる。気づけば夜の薄闇は日の光に溶け始める頃だった。それを受けて、セスもまたライフルを傍へ下ろすと注意深く周囲を観察する。彼らは互いに自分たちがきちんと隠れることが出来ているかを確認し合い、そうしてようやく息をついた。小休止だ。
「それにしても、こんな所へまたお前と来ることになるとはな」
背負っていた荷物を解き、セスは中身を漁りながら小声でひとりごちる。思えば、作戦の開始は突然だった。訳も分からず本部に招集され、気づけばこんな森の中。唯一変わらないことといえば、その隣にいるのがいつもの相棒というくらいだ。
「休暇を楽しみたかった? 電話に叩き起こされたって聞いだぞ」
「お前とのデートとなれば、飛び起きない訳にはいかないだろ」
「そりゃどうも。愛されてるね、俺」
皮肉たっぷりに答えてやると、マイクは苦笑した。セスにとって、マイクは掛け替えのない相手だ。もちろんそれは「狙撃のパートナー」としてだが。そしてその理由は、彼の「目の良さ」にある。まるで天職と言わんばかり、マイクの観測手としての腕は一級だからだ。
ナイトビジョンで夜空を見上げるのが趣味だという彼は、狙撃時においても星ほどの大きさ——つまり、極小の「点」だ——の標的をたやすく見つける。そしてそこへ、セスの銃弾を一分のズレもなく着弾させる。標的へのヒットは狙撃手である「セス自身の腕の良さ」もあるのだろうが、その成果は決して一人では成し得ないものだ。
「セス、チョコ食べるか」
しかし当の本人はそんなことを気にかけるでもなく、にっこりと笑ってセスへチョコレートを差し出してきた。
「同じものを持ってる。でも……もらっとくか。ありがとう、後で俺のもやるよ」
マイクのチョコレートを受け取り、セスも笑う。二人の荷物の中身はそう変わらないはずだが、彼らはよくこうして互いのものを分け合う。食糧、水、時には個人的な感情までも。二人は言わば一心同体であり、二人揃って初めて機能する「兵器」でもあった。
チョコレートをひと欠片。それをかじれば、今回の食事は終了だ。日が昇っている間はこうして潜伏し、彼らは夜間に移動を始める。二人は木に背中を預けると、それぞれに身体を休めた。セスは指を、マイクは足をマッサージし肉体のコンディションを保つ。
いつでも己を「最高の状態」にしておくこと、それが狙撃作戦成功の秘訣だ。セスは顔にカモフラージュペイントを施し、今後の作戦に備える。マイクもまた同様にカモフラージュを顔に施すと、荷物の中からギリースーツを取り出した。
「今回の『ドレスアップ』はどんな感じにする?」
「さぁ。その辺にあるものだよ」
「『いつも通り』だな」
まるで休日のファッションを決めるかのごとく、二人はそつない仕草で持ち込んだギリースーツへ更なる偽装を施す。ハンノキ、カンゾウ、ナツメヤシ……様々な自生の植物を使い、彼らは「ドレスアップ」していった。しばらくすると揃ってギリースーツが完成し、彼らはそれを小脇に置いた。
「俺が見張るよ、お前は少し休んでおけ」
マイクが進言し、セスはそれに従う。マイクはいつも、年上風を吹かせて先にセスを休ませようとする。それに反抗こそしないが、セスはどこか納得いかない様子で身体を一定の緊張感の下、リラックスさせた。愛用のライフルを抱え、彼は背後の木へ深くもたれかかる。
思考と肉体を切り離し、肉体そのものだけを休ませる——セスが軍隊経験のなかで会得した特技のひとつだ。
「なぁ、マイク」
「ん?」
「今回の作戦……上手く行くかな」
小さな疲労感を抱え、身体を休めるセスはマイクに問う。作戦に対して、決して不安がないといえば嘘になる。彼らはいつも万全の態勢を整え作戦に従事するが、それでも拭えない何かがある。そしてそれを消化する方法を、セスはまだ知らない。
「上手く行くさ。『俺たち』がやるんだから。お前は俺のサポートで、スコープを覗いて撃つ……そうすれば『当たる』。何も難しいことじゃない。いつもやってることだろ」
「そうか……そうだな」
のんびりとしたマイクの答えに、セスは頷く。安心とまではいかないが、マイクの言葉に彼は心の落ち着く感覚を覚えた。
マイクの声はいつも穏やかで、焦りや不安といったものとは無縁にも思える。それは標的を狙っている時も、こうして野営をしている時も変わらない。彼はいつも、静かに話す——まるで何かを諦めたかのように。セスの思いも及ばない場所に、彼の「感覚」はあるのだ。
「聞いて良かった。助かるよ。お前の声を聞くと落ち着く」
「何なら耳元で囁いてやろうか?」
「それは遠慮しとく」
冗談めかして笑うマイクへ、セスもまた肩を揺らして苦笑する。そうしてひとしきり笑うと、どこか疲れもすとんと落ちるような気がした。
「じゃあ、落ち着いたところで少し寝るわ。見張りよろしく」
「はいよ」
マイクに入眠することを伝え、セスは瞳を閉じる。様々な感情や情景がまぶたの裏に浮かんでくるのを意識の端に追いやりながら、彼は眠ろうと努力する。やがてそれらが黒い靄の中へ消えていくと、ようやくセスの意識は深淵へと落ちていく。
落下する感覚、そして浮かぶような感覚が意識を同時に襲う。眠りとは、一種の死だ。戦場、それも敵との競合地域に居る中で眠るということは常に「死の危険と隣り合わせである」ことを意味する。
激しく厳しい訓練を受けた肉体は、そんな危険地帯での休息をルーチンワークとしか捉えない。その先にあるのはあくまで敵地での作戦完遂であり、すでにここは日常ではないからだ。
そんな中、セスの意識は深く深く沈んでいく。眠るたびに行う「覚悟」も、最近では随分と薄れたものだ——そんなことを考えながら、彼は今後の作戦に思いを馳せつつ眠りに落ちるのだった。
(了)