第14話

 両親の居る実家で一週間の「訓練」を経た後、セスは一人で自宅である市街地のアパートメントに帰って来た。不在の間は両親が定期的に訪れて必要な物などを揃えていてくれたためか、自宅は戦地へ行く前とほぼ同じ——もしくはそれ以上の状態になっていた。
 冷蔵庫を開けば、そこにはビールの瓶が何本か入っている。これは父の仕業だ。彼はセスの好きなビールの銘柄を知っていて、息子が帰国する度にそれを準備してくれる。何ともありがたい心遣いだ。その中から一本を取り出し、感謝の念と共に蓋を開ける。プシュ、と小気味の良い音を立てて、瓶の口から泡があふれ出た。
 それをすくうようにして口をつけしばらくビールの味を楽しんでいると、不意に携帯電話が鳴った。まるでセスがアパートメントへ帰って来るのを見透かしたようなタイミング。こんな風に電話をかけて来るような人物を、セスは一人しか知らない。彼は携帯電話を取ると電話番号を見ることなく通話ボタンを押し、その名前を呼んだ。
「マイク? どうした」
 すると電話回線の向こうで、騒がしい雑踏の音が聴こえて来た。どうやらマイクは、大通りを歩きながら電話を掛けてきたようだった。
「ああ、セス。ごめん、せっかくの休みなのに」
「その割にはドンピシャのタイミングで掛けて来たな。急用か?」
「それなんだけど……」
「なんだよ」
「今、家?」
「ああ。さっき実家から帰って来た」
「あの、今からそっち行ってもいいかな……部屋、追い出されちゃって」
「……なるほど」
 状況を説明するマイクへ、セスは静かに答えた。
 何となく、嫌な予感はしていた。空港でマイクの恋人と思しき女性が浮かべていた表情を見た瞬間に。あの泣き出しそうな表情は、マイクが帰国して嬉しかったからではない。何か別の、泣きたくなるような理由があったに違いない。恐らく、トラブルがあったのだろう。セスは長いため息をつくと「いいよ」とだけ答えた。するとマイクは小声で「ありがとう」と言い、そのまま通話を切った。
 数十分後、アパートメントのインターホンが鳴った。戦場から帰って来たばかりでその手の音に過敏になっていたセスは思わず銃を探したが、すぐにそんな必要はなかったと思い返し入り口のドアへと近づく。ゆっくりと静かにドアを開ければ、そこには少しばかりの荷物を持った私服姿のマイクが居た。
「よう、一週間ぶり」
「セス……ごめん、急に」
「どうせまた何かあったんだろ」
「うん……まあ、色々」
「とりあえず入れよ。ビールいる?」
 マイクは答えなかったが、セスはずかずかとワンルームの中を進むと冷蔵庫を開き、ビール瓶をふたつ手に取る。一本をマイクに渡し、「ほら、」と部屋に入るよう促した。
「で? 泣き言を言う準備は出来てんの」
「セス……」
 落ち込んでいるらしいマイクの様子から、何が起こったのかはおおよその察しがついていた。実は以前にも、マイクはこんな風にセスの自宅へやって来たことがある。記憶が確かなら、それは一年半ほど前の話だ。その時と全く同じ空気が、今ここには流れている。
「本当に……好きだったんだ」
 ポツリと、マイクは言った。そしてそう言うや否や、マイクの瞳から涙がこぼれ始めた。ぎょっとしてそれを見るセスへマイクは「ごめん」と言いながら涙を拭う。しかしその涙は、すぐに止まりそうもなかった。
「またカノジョに愛想尽かされたのか」
「今度こそ、大丈夫だと思ったんだよ。本当に愛していたし、それは彼女もそうだったはずなんだ」
「それ、前も聞いた」
 必死に弁明するマイクへ指を差し、セスはビールをあおる。ちょうど一年半前、同じようなことをマイクは言っていた。「今度こそ大丈夫」「愛している」と。彼が性愛に対して奔放であることは知っていたが、こうもトラブルが舞い込むとなると、その状況の繰り返しにセスも思わず舌を巻く。
 仕事中は飄々としつつも落ち着いた雰囲気を決して崩すことのないマイクが、帰国する度にこうしたトラブルに際して不安定になるのをセスは何度か見て来た。そしてその度に、こうして話をして来た。マイクの話はどこかセスにとって雲の上といった感じだが、落ち込んでいるらしい相棒を無下にもできない。
「仕事中、カノジョに連絡は取ったか」
「……あんまり。だって、仕事のことは話せないし」
「その割にはバーでよく女引っ掛けてたよな。それについてはカノジョに何も言ってないわけ?」
「それは……向こうから、こう、なんて言うか……」
 そう、マイクは母国に恋人を残しながらも、よく基地近くのバーで出会った女性と夜を共にしていた。それについてはマイクも悪いことだと感じているのか、口ごもるなり彼は静かになった。
「お前が遊び好きなのは俺も知ってる。でも、もう少しカノジョに対して出来ることがあったんじゃないのか?」
 自分には縁のない世界だと思いつつも、セスはマイクへ正論をぶつけた。するとマイクはまたぽろぽろと涙を流し、俯いて「うん」と言った。
「カノジョとヨリを戻せる可能性は?」
「多分、もうない。もうダメなんだ。俺がレマシアに居ない間、彼女をサポートしてくれてた男が居るって……本人から聞いた」
「泥沼だな」
 思わず、そう口走っていた。するとマイクは何がおかしかったのか、流れる涙もそのままに苦笑した。「そうだね、泥沼だね」自嘲気味に笑う彼は、どうやら自分の不手際について理解しているようだが——自覚は、まだ乏しいように見えた。
「仕方ねぇな。とりあえず飲めよ。ほんでしばらく、ウチでゆっくりしてけ」
「……うん、ありがとうセス」
「そんなに泣くなよ。俺はただ、相棒にマトモでいて欲しいだけなんだからさ」
「だって……いや、そうだね……うん、これからは、気をつける」
 鼻をすすりながら頷くマイクへビールを飲むよう促し、セスは次いで二人掛けのソファに座るとマイクを呼んだ。テレビの電源を入れ、適当にチャンネルを回してニュースに切り替える。帰国したばかりの二人にとって、この国で今何が起きているのか知ることは重要だ。
 何とは無しにニュースを見ていると、いくらかマイクも落ち着いて来たようだった。徐々にその表情が悲痛なそれから穏やかなものに変わり、鼻をすする回数も減っていった。
「首都圏で反戦デモか。くだらねぇ」
 ふと流れた国内のニュースにコメントし、セスはビールを口に含む。レマシアのバラーキシュ共和国に対する軍事介入は、少なからずレマシア国民に反感を持たせているようだった。その理由は主に軍事そのものに対する心的なアレルギー反応であったり純粋な平和主義の表れであったりしたが、戦地で実際に戦う兵士であるセスにとって、そんなものはどうでもよかった。
 こういった問題は、いつでも当事者を置き去りにして繰り広げられるものだ。戦争から一番遠い位置に居ると思われる人々が、戦争を一番理解していると言わんばかりの顔で抗議をする。端から見れば、滑稽なものだ。しかし彼らは、それを大真面目にやっている。何か利益があるからこそそういった行動に出ているのだろうが、それが何なのかはセスには理解が出来なかった。
「また出発前に、変なのが湧いてくるかもね」
 同じくしてニュースを見るマイクもまた、セスに同調してコメントする。そうして互いにやりとりしているとニュース番組が終わり、次いでのどかな料理番組が流れ始めた。
「ああ、そうだ。夜飯どうするか考えてなかった」
「何か作ろうか? それくらいのことは出来るよ」
「親父が食材置いてってくれてるから、それで何かやるか」
 二人揃って立ち上がり、ビール片手にキッチンへと向かう。セスは冷蔵庫の中身を確認し、その中にある食材をいくつか手に取った。食材はいずれも缶詰やパウチなど保存が利く加工食品で、すぐに料理に使えそうなものばかりだった。
「こっちにパスタがあるね。じゃあソース作って、パスタにする?」
 ふとキッチンの端で密閉容器に保管されたパスタを発見したマイクが言う。それに「そうだな」と頷き、セスはマイクに食材を渡すと夕食作りを任せることにするのだった。


(了)