第9話

 カスディールでのレマシア軍敗退の噂がキャンプに広がるよりも早く、セスとマイクの元へアクィナス中佐から収集の指示が下ったのはその日の夜のことだった。悪名高き反政府勢力のスナイパー「アスワド」率いるムルシド・ダウィイの精鋭たちを前に、レマシア軍はカスディール奪還を諦め撤退することとなった。近々、更なる奪還作戦が立案されることだろう——その尻拭いをせよと、アクィナス中佐は二人へ命じた。
「その、『アスワド』というのは?」
 僅かな明かりにだけ照らされる薄暗い作戦室の中で、セスは問う。するとアクィナス中佐は座っていた椅子から立ち上がり、後ろ手を組んで窓の外を見た。
「腕のいいスナイパーだ、我々が軍事介入する以前からこの地に居る。どういった経緯で反政府勢力に雇われたのかは不明だが、厄介であることに変わりはない」
「何か、留意すべきことは」
「奴は優秀な兵士だ。これまでアスワドに射殺されたレマシア兵の数は、ここ数ヶ月で非公式を加えれば60人に及ぶ。要人暗殺、潜伏、撹乱、カウンタースナイプ……いずれも高水準の戦闘能力を有し、並みの兵士では手に負えない」
「それを、俺たちに『どうにかしろ』と?」
「そうだ。危険な任務ではあるが、お前たちであれば奴に太刀打ち出来ると判断した」
「理由をお聞かせ願えますか」
 それまで無言で成り行きを見守っていたマイクが、静かに口を開く。するとアクィナス中佐はゆっくりと二人を振り向き、言った。
「奴は一人。こちらは二人。これ以上に、理由は必要か?」
 それは、高度な訓練を受け二人一組でひとつの「兵器」として作用する彼らへの挑戦状にも思えた。アクィナス中佐の短い言葉の中には、セスとマイクが持ち得る様々な可能性と確実性への確固たる信頼がある。そしてそれを受け、二人は表情を引き締めると同時に頷く。
「了解しました」
「出発は明日の朝5時。再びカスディール奪還へ大隊が向かう前に、所定の位置へ——市街地に潜伏していると思われる『アスワド』を無力化せよ。連絡系統は追って知らせる。準備に向かえ」
 力強いアクィナス中佐の命令にセスとマイクは揃って敬礼し、作戦室を後にする。出入り口のドアを静かに閉め、彼らは夜風が吹き抜ける砂漠へと抜け出した。
「厄介な奴が敵に居るもんだな」
 最初に口を開いたのはセスだった。彼は戦闘に特化した性格ゆえか、あまり世情や社会情勢といったものに興味がない。「アル・ファランの悪魔」として知られるアスワドについても、彼は今回が初耳のようだった。そしてそんなセスへ、マイクが星空を見上げながら「そうだね」と相槌を打つ。
「アスワド……ここらでは結構有名なスナイパーだよ。軍の要職や親レマシア派の政治家も、今まで何人か彼に殺されてる。分かってるのは、彼が使うのはいつも『シスマ』だってことくらい。たまに反政府勢力のビデオメッセージにも映ってるけど、見た目はいかにも普通の民兵って感じで……」
「補足しにくい?」
「うん。びっくりするくらい、特徴が無いんだ。恐らくバラーキシュの人間ではないんだろうけど、かなり上手に化けてる。下手したら、彼が発砲するまで……市街地に潜んでるスナイパーのどれがアスワドか、見分けられないかもしれない」
 スポッターとして確かな実力を持つマイクでさえ、その補足に不安が拭えない相手。セスは思わず唾を飲み込み、珍しく相手への懸念を示すマイクの横顔を見た。奴が撃つまで、正体がわからない——それは即ち、レマシア軍に犠牲が出てからでないと補足が出来ないかもしれない、ということだ。
「まずいな。慎重に場所を選ばないと。ハズレだったら、ヤバいことになる」
「相手の裏をかくか、それとも裏の裏を読むか……難しいところだね」
 さらさらと音も立てずに流れていく砂の上を、二人は眉間にしわを寄せながら歩く。敵の特性上、どうしても先手を打つことは難しい。これが力任せに進攻するただの歩兵であれば、何の問題もないのだが。何しろ相手はあのアスワドだ。その後、彼らはそれぞれに思いを巡らせながら無言で歩き、自分たちのテントに到着する頃になってようやく再び口を開いた。
「今回は『エシュルン』の出番かな」
 組んでいた腕を解き、テントへ先に入ったセスが独り言のように言う。そして彼はテントの奥にある武器庫の前に立つと、その中から大口径の対物狙撃銃を手に取った。
 セスが手に取ったのは、「エシュルン-50」——.50口径のボルトアクション式スナイパーライフルだ。普段は対物ライフルとして狙撃に使用しているが、今回は狙撃における距離を稼ぐという意味で必要になると彼は踏んだのだ。するとそれを見たマイクが「俺もそうだと思う」と頷き、荷物の中からハクル県カスディール近郊の地図を取り出した。
「アクィナス中佐が潜伏場所に選んだのはここ。やっぱり、中佐も俺たちと同じ考えのようだね」
 精細に記された地図を確認しながら、マイクはセスにそれを見せる。マイクが指差したのは、カスディール市街地から離れた位置にある、小さな山が連なる地帯の尾根だった。セスが可能とする長距離狙撃の有効射程距離ぎりぎりのラインに狙撃ポイントを置いたアクィナス中佐は、慎重な男のようだ。
「ここ、道が通ってないか。こんな所で大丈夫なのか?」
 そしてマイクが示した地図の地点を見たセスが、驚きに声を上げる。山の尾根は基本的に見晴らしが良く、山歩き用の道が整備されていることが多い。そんな所に潜伏をして、果たして敵に悟られないだろうか。セスは己の経験から導き出された懸念に眉をひそめたが、それはマイクが続いて取り出した数枚の現地写真によって払拭された。
「見て。ここ、痩せ尾根になってる。道はあるけど、恐らく現地住民もあまり足を踏み入れない場所なんだと思うよ」
 テーブルに地図と写真を並べ、揃ってそれを見下ろしながら二人は作戦を練る。痩せ尾根は、山頂と山頂をつなぐ尾根の中でも両端が崖のように鋭く切れ落ちたものを言う。その多くは道こそあれど歩行には適しておらず、また長時間の滞在にも向かない。アクィナス中佐はそれを見越してこの地点を選んだのだろう。
「なるほど。敢えてそこに潜伏しろってか。こりゃあ腰がやられそうだな」
「大丈夫だって、使う予定も無ければそんな相手も居ないじゃない」
「うるせぇよ」
 冗談交じりに苦笑するマイクへため息と共に答えながら、セスは写真に映った険しい潜伏地点を目に焼き付ける。周囲の景色、色彩、遮蔽物の有無、太陽光の角度——ありとあらゆる情報を、瞬きの中に記録していく。そしてそれを終えると、彼は愛銃の整備に取り掛かった。
 全長150cm、重さ10kgを超える大型の狙撃銃であるエシュルン-50は、精巧なメカニックをその頑丈なボディに詰め込んだ最新型のスナイパーライフルだ。その表面を柔らかな布で拭いて砂汚れを落とし、各パーツやその接続部が正常に機能しているかを確認し、セスはそれを鋭い目で精査していく。
 先日メンテナンスを行ったばかりではあるが、それでも彼の目が油断に曇ることはない。ほんの少しの油断が、戦場では命取りとなる。常に最新の、そして最良の状態で自身と愛銃を扱うこと——それは、彼がスナイパーとして掲げる信念のひとつでもあった。
 やがてセスが整備を終えると、相棒のマイクもまた地図の確認を終えたようだ。彼らはその後も静かに作戦の立案と準備を行い、それは日付が変わる直前まで続いた。
「あと4時間か。充分寝られるな」
 ふと腕時計を確認し、セスは呟く。彼は整えた荷物をテントの隅に集めて置くと、ベッドにどっかりと腰を下ろした。
「じゃあ、4時間後に」
 そして同じくベッドへ腰を下ろすマイクへそう言うと、セスはゆっくりと身体を傾け横になる。ベッドに沈んだ肉体は微かな緊張感を抱えて眠気を遠ざけていたが、数分の内に気にならなくなるだろう。休息をとるという行為ですら、彼にとっては作戦の一部だ。厳しい訓練を重ねた肉体はすぐにも落ち着きを取り戻し、速やかに眠りへと滑り落ちていく。
「おやすみ、セス。いい夢を」
 そしてそんな背中へ、マイクの静かな声が届く。二人揃って眠りにつくのは、これを最後にしばらくの間お預けだ。キャンプに戻って来られるのは、次はいつになるのだろうか——ぼんやりと考えながら、セスは深呼吸を繰り返す。
 閉じた瞳の中の闇がより一層深くなり、セスの意識を塗り潰していく。やがてそれが全てを塗り替えると、意識は闇の中に落ち、彼は眠りにつくのだった。


(了)