第16話

 その日、バラーキシュ共和国北部は珍しく雨に見舞われた。砂漠の雨は激しく、一度降り出すとなかなか止まない。そして何より注意を払わなければならないのが、雨が上がった後の土砂災害や雨天の間に人目を忍んで反政府勢力が仕掛けるだろう地雷や即席爆弾の類だ。
 これは明日以降、面倒なことになるぞ——バラーキシュ政府軍の訓練担当官としてこの地へ派遣されていたキリアンは、頭のキャップをかぶり直すと隣でパソコンと向き合う相棒のイアンへ声を掛けた。
「こりゃ今日の訓練は座学に変更かね」
「そうだな。銃のメンテも満足に出来ない奴らを雨の中に放り出すのは気が引ける」
「ホント、基礎の基礎からだもんなぁ。国は何やってんだよ」
「内戦状態でてんてこ舞いの国にそこまで求めるのも酷ってやつなんじゃないか。人員も足りてないと聞く。曲がりなりにも表立って軍事介入してんだから、俺たちもこれくらいはやれってことだろ」
「まぁ、ねえ……」
 真面目一徹とも言えるイアンの正論に、キリアンは大きく背伸びをして応える。雨——今日はスナイパーが移動をするには打って付けの日だ。何故なら降り注ぐ雨が、痕跡をことごとくかき消してくれるからだ。また「こんな日にわざわざ移動するはずがない」という人々の思い込みが、スナイパーにとっては好都合となる。ここの所すっかり鳴りを潜めていた反政府勢力も、近々また動き出すかもしれない。
 彼ら反政府勢力は数に任せた総力戦よりも、少数精鋭での土地勘を活かしたゲリラ戦を得意とする。今後、バラーキシュ政府軍の旗の下に集まった連合軍が南進を続けるにあたり、兵士たちに叩き込まねばならないことは山ほどあるだろう。キリアンは深く息を吐き、今日の訓練——先にも言った通り、それは座学への変更を余儀なくされた——の準備を始めた。
 レマシア陸軍の訓練教則本を数冊と自らがまとめた対スナイパー用の戦術指南書を手に、彼は座っていたパイプ椅子から立ち上がる。するとイアンもそれに続いて立ち上がった。
 キリアンとイアンの二人がここへ派遣されたのは、反政府勢力のスナイパーによる被害が甚大であると判断した本国の意向からだった。バラーキシュ政府軍の損害が予想を遥かに上回っており——これは軍全体の練度が低かったことと、人員確保のために訓練途中の新兵までもを戦線に投入していることが要因と考えられる——対策が必要になったのだ。
 バラーキシュ共和国を支援する立場にあるレマシア軍としては、そんな彼らのために何かしらの手を打たねばならない。その一環として、キリアンとイアンはここジャバル・ジャヌーブで訓練担当官として働いているのだ。
「そういえば、セスが戻って来たんだってな」
 レマシア軍のキャンプから続くバラーキシュ政府軍駐屯地への道を歩いていると、ふとイアンが呟いた。セスは一ヶ月ほど前、連合軍がカスディール奪還のため進軍した際に「敵のスナイパーを封じ込める」という作戦に参加していたが、敵スナイパーの反撃に遭い、負傷により戦線を離脱していた。
 何でも、反政府勢力の悪名高きスナイパー・アスワドがおよそ不可能とされた場所からセスへの狙撃を成功させたのだという。その距離は、2000メートルにも近かったと聞く。にわかには信じがたい話だ。
 だが、その後アスワドはセスのバックアップに回ったルカによって無力化されたそうだ。もっとも、殺害には至らなかったようだが。現状は、痛み分けと言ったところだろう。そしてセスが怪我から回復し戻って来たということは、即ちアスワドも同様に戦線復帰する可能性がある。
「ったく、ウチのエースにカウンター食らわすなんてとんだ化け物だよ」
 年齢もそう変わらず、歳の近い彼らは長距離狙撃を得意とするセスの活躍を「同期の花」と日々喜んでいた。そんな彼に、たった一人でカウンターを成功させたアスワドの手腕は恐ろしいの一言に尽きる。
 対狙撃手における基本的な対応は相手の射線を遮り出来るだけ被害を抑えることで、反撃することではない。その上で「可能ならば」煙幕を使いながら迂回し、数をもって相手を制圧するというのが定石である。それを、単独で——しかも正面から反撃するというのは並みの歩兵に出来ることではない。
 訓練担当官として対狙撃手の戦術を教える立場にあるキリアンでさえ、実際の戦場でそのような対応が取れるか、そしてそれを成功させることが出来るかという問いには答えづらい。確実性が極端に低いからだ。改めて、アスワドという男の脅威を連合軍はあの一件で知ることになったのである。
 今後はこれまで以上に、対スナイパーのための訓練に力を入れなければならない。カスディールを奪還したとは言え、その保守が軌道に乗るにはまだまだ時間が掛かる。バラーキシュ共和国南部は総じて反政府勢力の影響力が強い地域だ。目と鼻の先には彼らが撤退したイナブ油田もある。油断はできない。
 雨の中を歩きながら、キリアンはイアンと共に今日の座学をどう進めるべきか相談する。長期的な視点からしっかりと状況を見据え、バラーキシュ政府軍を教育して行かなければならない立場に二人はある。訓練をするならば、その成果が出なければ意味はない。
 バラーキシュ政府軍は反政府勢力の神出鬼没な攻撃に怯え、士気が下がっているようにも見える。凄腕のスナイパーがどこから誰を撃ってくるのか分からないという不安は、瞬く間に戦場を恐怖で支配してしまう。いわゆる狙撃による心理戦、プレッシャーである。
 それを克服するのは、並大抵の訓練や努力では難しい。厳しい訓練を受けた兵士であったとしても、アスワドのようなスナイパーがもたらす異様な状況に出くわせば、少なからず動揺してしまう。そこから如何に早く態勢を立て直すかが、二人の行う対スナイパー訓練の肝になるだろう。
 バラーキシュ政府軍の駐屯地に到着した二人は、検問所で身分を証明し中へと入る。雨の中を走る訓練中の歩兵部隊を見掛けたが、その表情は暗く沈んでいた。やはり、士気が下がっている——キリアンは状況を憂い、一人ため息をついた。
 そんな風景を眺めながら彼らは駐屯地の指揮所へ赴き、訓練を行う兵士たちの上官へ「今日は座学を行う」という旨の話を通す。すると上官もそれを予測していたのか、すぐに頷いて兵士たちへの連絡を走らせた。
「さて、それじゃあ今日もやりますかね」
 大きく肩を回し、筋肉の緊張をほぐしながらキリアンは言う。するとイアンもまた「やるか」と呟き、ゆっくりと首を回した。そして二人は指揮所を抜けると、充てがわれた「教室」へと向けて歩き出す。
 自分たちの課す訓練が、少しでも連合軍の被害を抑えることを祈りながら——。


(了)