第19話

 アクィナス中佐の手配した車両がセスたちの元へ急停車したのは、アスワドの逃走を確認した三分後のことだった。「ヘルベンダー」の愛称で知られるその車両はレマシア軍が広く運用する汎用軍用車両であり、高い機動性は逃走したアスワドたちを追うのに打ってつけだった。
「アスワドを追ってくれ。南に逃走した白いトラックだ」
 セスはマイクを伴って車両に乗り込むと、運転席の兵士へ伝える。
「絶対に逃がすな。射程距離まで入ればいい。そうしたら、後は俺たちが何とかする」
 辛うじて目視出来る砂漠の白い点を睨みつけながら、セスは手早く自分の装備を確認した。恐らく、アスワドは南に控える反政府勢力の本陣へ戻るつもりだろう。奴がそこへ到達する前に、何としてでも仕留めなければならない。
「了解。飛ばして行くぞ、掴まってろよ」
 運転席の兵士がそう忠告した、その直後だった。ぐい、と何かに引っ張られるような感覚が全身を襲い、車が急発車するのを感じる。そしてそのまま、二人を乗せたヘルベンダーはアスワドを追って走行スピードを上げて行くのだった。
「見えた! 撃ってくるよ、気を付けて!」
 双眼鏡片手に前方を監視していたマイクが声を上げる。瞬間、鋭い金属音が車体をかすめていった。反射的に頭を下げて姿勢を低くし、セスは回避の体勢を取る。そして「今だ」と決意すると、車体から身を乗り出してエッセネN25を構えた。応戦である。
 揺れる車体の中にあって、もはや狙撃などと悠長なことを言っていられない状況だ。セスはとにかく荷台のアスワドを狙い、発砲を続けた。しかしそれは、アスワドの正確無比な射撃によって阻まれる。辛うじて被弾を免れたセスは車内にその身を戻すと運転席の兵士に叫んだ。
「もっと寄れ! ビビッてんじゃねえぞ!!」
「今やってる!!」
 怒号に怒号が重なり、車内は騒然とした。その中でセスは銃を構え直し、先の応戦で撃ち切っていた弾倉を交換する。カチャ、と小さな音が鳴り装填を終えたエッセネN25を握り締め、セスは再び身を乗り出すと前方をこれでもかと睨んだ。
 ヘルベンダーは徐々に逃走するトラックとの距離を詰め、近付いて行く。そしてようやく相手の顔が視認できる距離まで接近した、まさにその時だった。アスワドが、不敵な笑みを浮かべるのが見えた。
「っ! まさか……車を戻して!! 迫撃——」
 何かに気付いたマイクが運転席に向かって叫んだ瞬間だった。車内を大きな衝撃が襲った。側面に強い衝撃を受けたヘルベンダーはその車体を傾かせ、勢いよく横転して行く。
「!!」
 世界が、スローモーションで回転して行くような感覚。セスはその衝撃に歯を食いしばって耐えたが——身体が空中に浮き、敵の迫撃砲によって砂漠へ投げ出されたのだと気付いたのは一瞬の意識消失の後、全身を強い痛みが襲ってからだった。
「く……う……っ!」
 衝撃で肺が圧迫され、痛みに思わず咳き込む。頭を強く打ったのか、意識と視界が揺れて何も知覚できない。彼はせわしなく咳と呼吸を繰り返し、何とか肉体を正常に戻そうと努力する——しかし全身の痛みは凄まじく、身動きを取ることさえ困難だった。
「……マイ、ク……マイク……!」
 ようやく声を発することに成功したセスは、同じく車内から投げ出されたであろう相棒の名を呼んでいた。身体に鞭を打ち、痛みに耐えて上体を起こした彼はかすむ視界の中でマイクを探す。だが、その目に映ったのはこちらへ悠々とした足取りでやって来るアスワドとザイールの姿だった。
「まだ生きていたか。ちょうどいい、お前とは少し話をしたいと思っていたところだ」
 フェナーク訛りのレマシア語でそう言ったアスワドは、後ろからやって来た数人の兵士に指示を出しながらセスの元へと歩みを進める。そしてすぐ近くで身を屈めると、彼は遠くで横転したヘルベンダーを見やった。
 その視線に嫌な予感を覚え、セスは焦燥感と共にそれを追う。そこには、倒れ込んだままピクリとも動かない一人のレマシア兵士の姿があった。瞬間、セスの瞳が大きく見開かれる。
「マイク! おい……マイク!!」
 脳震盪を起こしているのか、セスの呼び掛けにマイクが応える気配はない。そうこうする内にアスワド配下の兵士たちがマイクの元へたどり着き、その身体を足で蹴り転がすのが見えた。
 大きな絶望感がセスを襲う。反政府勢力の兵士たちは何事か言い合いながら、時にゲラゲラと笑い声を上げてマイクを見下ろしている。その様子に、セスは己の背筋が凍るのを感じた。
 まさか。戦場に在って、今まで決して覚悟をしていなかったという訳では無い。だが、こんな形で敗北し命を失うなどということは「あってはならない」という意識がセスにはあった。自分たちは必ず任務を達成し、生きて本国へ戻る。その為に、今まで「生きて」来たのではないか。
「やめろ……やめろ!!」
 動かない身体をそれでも動かし、セスは声を荒げながら立ち上がろうとする。しかしそれはザイールによって阻まれた。勢いよく銃床で殴られ、彼は再び砂漠に倒れ込む。そして、その瞳に映り込んできたものは——
「……ッ!!」
 乾いた銃声が数発、晴れた砂漠の空に響いた。兵士たちが、マイクを射殺したのだ。白い砂漠の砂へ、赤い血が吹き出しては染み込んでいく。それは徐々に広がりを見せ、やがて大きな影のようにマイクの身体を包んで行った。
「あっけないな、フォクシー・ワン。我々を震え上がらせ、レマシア軍の優秀な『兵器』と謳われたお前たちも……結局は赤い血を流す『ただの人間』に過ぎないという訳だ」
 長く息を吐きながら、アスワドが言う。死体となったマイクを見やるその瞳は、何の感情も浮かべることなくただただ冷静に状況を見ている。
「嘆くことはない。お前もすぐに相棒の元へ行くことになる」
 懐から拳銃を取り出し、その照準をセスの額に定めたアスワドは静かにそう言った。はっとしてそれを見上げたセスは、突如として巻き起こった「死」という現象を前に言葉を失う。全身が怒りと恐怖に震え、彼はただただ浅い呼吸を繰り返していた。
「まるで自分が死ぬのが信じられない、という顔をしているな。聞いたことがあるか。戦争は若者を英雄にはしない……死体にするだけだ、と」
「アスワド、やるならさっさとやれ。無駄話はするな」
 その様子を横から見ていたザイールが、ため息交じりに忠告する。それにアスワドは応え、ゆっくりと頷いた。
「それもそうだな、お説教は死体相手にすることにしよう」
 そして、静かに拳銃の引き金が引かれる——その瞬間だった。
 遥か彼方から放たれた一発の弾丸が、アスワドの右手を襲った。「後続だ!」兵士たちが声を上げ、突如として現れたもう一台のヘルベンダーへ発砲を開始する。そしてそれを見やったアスワドの表情は一変——苦痛と怨恨の混じり合った顔で、彼は叫んだ。
「サンソンか……! 引け!! お前たちでは相手にならない!」
 だが、その警告も届くことはなかった。走行するヘルベンダーから躍り出たギリースーツの男が、砂漠へ着地するなり素早く銃を構え数人の兵士を撃ち殺したからだ。そしてそれを見た瞬間、セスの意識は半ば自動的に叩き起こされる。自分は今、何のためにここに居るのか。それを、彼は思い出したのだ。
 戦え。任務を遂行せよ——本能にも似た何かが、己にそう告げるのが聞こえた気がした。


(了)