『おふでさき』と便利堂

Post date: 2018/02/10 5:27:07

寒中であったが意を決して、私は1月23日、京都文化博物館へ行ってきました。 それは便利堂・創立130年記念の「至宝をうつす」の展覧会があると知ったからです。 天理教と便利堂には密接な関係があったのです。でももう知っている人は少ないでしょう。昭和10年、教祖直筆の『おふでさき』が、京都便利堂でコロタイプ印刷されたのです。

『河原町大教会史』によりますと

おふでさきは、写真版と活字本の二種類がつくられたが、この間、写真版は当時複製技術で最も権威のあった便利堂で印刷された。

便利堂へは本部から後藤総一郎先生・田中善右衞門氏・根矢順三氏が印刷の監督に当たられたが、その全印刷期間、すなわち昭和10年1月 から5月まで、田中・根矢の両氏は大教会に宿泊、尊い御用の拠点にしていただいた。

(天理教河原町大教会史・第2巻301ページ)

素晴らしい先見の明だと言えるでしょう。それは、公には焼却処分した「おふでさき」です。汚れても、1枚失っても、焼失しても、盗難にあってもいけない重大な任務でした。

写真版の『おふでさき』は、無事完成しました。

二代真柱様は、この便利堂で複製されたコロタイプ版のおふでさきの文字5万字余りを1字づつ切り離し、「い」・「ゐ」・「ろ」・「は」・「ハ」と文字毎に集め、最も完成度の高い文字を選び出し、活字をつくらせ、一冊の本を完成させられた。それが、今、私たちが目にできる、『変体仮名 おふでさき』なのです。

だから、この『変体仮名 おふでさき』が、教祖直筆の文字と一緒と言うことになり、私たちは毎日おやさま直筆と対面しているのです。粗末には扱えませんね。

実際の写真版は、直属教会へ配付されたそうで、私も一度だけ深谷善和7代会長から、このコロタイプ印刷で刷りだされた複製版を見せて戴いたことがあります。

それは桐箱で17段に仕切られ、一号ずつ和綴じされ帙(ちつ)に容れたもので、おやさまの優しい筆使いが感じ取れるものでした。

当日、京都文化博物館の会場に入って、私が最初に目にしたのは、『日本書紀 神代巻・乾元本』(国宝)といわれる、日本最古の書写本です。天理図書館所蔵とありました。本物と見まがうばかりです。目の前にあるのは、もちろん複製品です、でも紙の色・製本・墨のかすれ・筆使いまで伝わってくるような、まるで本物でした。写真とは全く違うものでした。

その次には、『源氏物語 大島本 飛鳥井雅康 書写』

また教典、御経を写した仏典、仏絵画、何もかもが本物そっくりです、裏写りまで。更に、『鳥獣人物戯画』(高山寺蔵)や『餓鬼草子』『地獄草子』の絵なども色鮮やかに、それでいて、高山寺の朱印はかすれていたり。

そしてメインの作品は『法隆寺金堂の障壁画』12壁、実物大の模造品です。40~24分割のプリントが、見事な表具技術によって1枚の原寸大に仕上げられていました。

次に、『高松塚古墳』の壁画。原寸大カラーコロタイプ複製で西東北の3面と天井の複製、本物より鮮明じゃないかと思わせる作品でした。そう昭和47年古墳壁画が発見されてすぐに撮られた写真で、今、本物は、もっと退化してしまっているようです。これにも担当者の苦労話が書かれていました。石室内は極めて狭く、カメラを据えるとピントが合わせられない、そこで役立ったのが手鏡だったとか。中は湿度100%で、すぐにカメラのレンズが曇ってしまったとか。

更に尾形光琳筆の『風神雷神図』屏風、かっては、その裏面が酒井抱一筆の『夏秋草図』であったとか、両面が復元され屏風に仕立てられていました。本物は別々だそうです。

これらの作品を目にして、私の心に刻まれたのは、複写も大切なものなのだという事でした。

我々は、国宝を見ることはできても触ることはできません。そして法隆寺の金堂壁画のように、焼失してしまっては何もかも無くなってしまいます。昭和10年に金堂壁画の模写が行われ、そのネガが残っていたお蔭で、我々は元通りの本物に近いものを再び目にすることができるのですから。

そして、法隆寺壁画の消損事件(昭和24年1月26日)のお蔭で、1月26日が「文化財防火デー」が定められたのですから。