教祖年祭と私(Ⅰ)

Post date: 2015/01/18 4:45:20

霜に堪え雪を忍びて冬篭る

梅の蕾の色深み祭の庭に綻(ほころ)べば

この世の春は訪れぬ

この歌をご存知の方は70歳以上の人である。 「教祖六十年祭奉祝歌(をしへのおや むそとせの まつり ほうぎうた)」である。

もちろん、私も知らない。昭和21年7月生まれだから、丁度、教祖60年祭の年に当たる。

しかし年祭の時は、この世に存在していなかった。だから、当然何も知らない。

教祖60年祭の歌も、知らない。

教祖60年祭は、大東亜戦争・太平洋戦争の敗戦後、5か月で迎えた年祭であるから、混乱と虚脱のさ中に、昭和21年1月26日から2月18日まで、執り行われた。

此の年祭の前年、秋季大祭に、「かぐらづとめ」「てをどり(三下り・五下り)」が、復元された。そして、年祭の年の1月11日から、それまでの「月席」が改められ、「別席」が再開された。

信教の自由が適った喜びと、教祖のお教え通りつとめる事ができる喜びに、弁当持参の帰参者たちで満ち溢れた。

私の記憶にある年祭の最初は、教祖七十年祭である。

扉ひらいて七十年 年祭数えて九の度

旬に蒔かぬと芽は生えぬ

心入れかえてつとめましょう

小学3年生ながら、この歌はよく聴いた、今でも覚えている。昨今の教祖130年祭の歌など、とんと耳にしないが、70年祭の頃は、テープレコーダーも、ビデオも無かった。勿論DVDも。でも、よく耳にした。蓄音機からの音だったのか。

教祖70年祭は、3年9か月前に日取りの発表が有り、翌年、昭和28年4月18日、おやさとやかた建築の具体的目標が示された。

これは、教祖が「今に、ここら辺り一面に、家が建て詰むのやで、奈良、初瀬七里の間は家が建て続き、一里四方は宿屋で詰まる程に。屋敷の中は、八丁四方となるのやで。」と仰せられたのに基づいて、「神のやかたであるところの元のぢばを取り囲む、子供の住居たるおやさとやかたをめぐらしまして、ここに親も子も共々に、神も人も共々に一つ心になって、陽気ぐらしの実を、否、世界の平和の雛型を進めて行き度い」という中山正善二代真柱様の構想が発表された。

このふしんの為、中山善衞三代青年会長を芯に、昭和29年1月9日、「おやさとふしん青年会ひのきしん隊」が結成された。今も続く、ひのきしん隊の嚆矢である。

設計は、東京帝国大学総長・建築家の内田祥三氏、工事請負は、竹中工務店である。

私の記憶するおやさとふしんは、今の別席場の処で、境内地より少し高く、そこを削って、深く掘り下げられていた。土砂は、トロッコを人力で押して運んでいた。基礎の地面を固めるのに、ドウツキも、大勢の人が輪になって、声を併せて、紐を引っ張っていた。コンクリート打ちは、人力でこねて、夜通し交替で休みなく、ねこ車を押して、足場を上下していた。

おぢばで、活発に進められるおやさとふしんの一方、河原町大教会では2ツの大節を見せられた。詰所食堂・炊事場の消失(昭和29年2月9日)と、7代深谷善和会長夫人・萬寿さんのお出直(昭和29年5月27日)である。

この大節を機に、河原町の御本部への喜納金は倍々の御守護を頂いた。

年祭期間中、大今里分教会から、2台の観光バスでおぢばがえりをした。当時は未だ高速道路は無く、国道25号線を進んだ。柏原の大和川右岸でトイレ休憩。おぢばで、どんな催しがあったのか記憶にない。ただ、真東棟吹き抜けに据えられた大きな石に、釘づけになったのと、大きな美しい建物に、圧倒された。

こうして、教祖70年祭は盛大に賑々しくつとめ終えられたが、御本部の経済状態は非常に切迫していた。教祖70年祭特別会計の支出合計、約35億円に対して、約15億円の赤字であったといわれている。

新築なったおやさとやかたの別席場では、暖房経費を節約するため、朝1時間・昼1時間でボイラーの火を消し、その余熱で過ごされるという有様であった。