教祖年祭と私(Ⅲ)

Post date: 2015/03/12 11:39:44

教祖80年祭の年(昭和41年)の10月26日、南門の南側・真南道路で天理教よのもと会総会が執り行われた。私は、仮設舞台のてっぺんから、それを見渡していた。20万人もの群衆が1カ所に集った光景は、初めてで他でも見たことがない。甲子園球場のグランドと観客席を埋め尽くす程の人々人である。

この時、中山善衞会長から「1人が3年に3人のよふぼくを」という、いわゆる「1・3・3運動」が提唱された。この運動に全教が湧き上がった。大今里でも一度に10人もの初席者を送り出した。

翌昭和42年4月、天理市民会館が落成した。アメリカ・ペンシルバニア州ゲティスバーグの聖歌隊が天理を訪れ、天理大学との交歓演奏会で、私は初舞台を踏んだ。

それまで、講演会や音楽会・映画・演劇と言えば、北大路に面した天理教館が主で(今の西右5棟・南海詰所の東側駐車場に)あった。それまでの柔道場の床を剥がし、木製の椅子を並べた長方形の会場は、音響も悪く、雨戸の隙間から光が洩れ入るお粗末な会館しかなかった。それでも木下順二の「夕鶴」の初演は1949年10月天理教館で、主演・山本安英であった。1986年までの37年間に上演回数1037回を記録したという。

この年11月14日、中山正善2代真柱様(63歳)が突然出直された。天理の町は、鳴物禁止、静まりかえった。

2代真柱様は、大正4年11歳で2代真柱に襲職。以来、天理外国語学校の設立・天理参考館・天理図書館など世界布教を意図された業績、更に天理教学の礎を、原典・教義・教史の研究に、更には柔道・ラクビー・水泳に親しみ、東京オリンピック招致にも貢献された、世界の人から敬愛された偉大な人であった。

翌43年10月25日、真柱継承奉告祭が執行され、諭達第1号が公布された。諭達の中で、中山善衞3代真柱は「教会内容の充実」を図るよう、よふぼくの奮起を促された。この日に間に合うように仮東礼拝場が建築された。

昭和44年4月から、私は、詰所の南端の3軒長屋に居住しながら、天理教校本科に学んだ、丁度、河原町では、第1期・詰所食堂棟・第2期・大教会事務所信者室の普請が進められていた。

当初、河原町詰所では5階建ての母屋を建築し、教祖90年祭の受け入れ態勢を整えようと計画されたが、3代真柱様から「河原町は何か事が有ると何時も宿屋に分宿しなきゃならん、この際、大教会の中に受け入れ態勢の充実を考えたらどうか」とのお言葉を戴き、大教会に信者室を計画。

しかし大教会では、明治44年の丸太町通り道路拡幅の為に入った思いがけない金を、大教会維持の将来に備えたいと考え、丸太町通沿いに8軒の商店・春日通り沿いに9軒の宿屋を貸家とし、大教会で何か大きな行事が有る時は格安で宿泊させてもらえば好都合、会計も安泰と考えた賢い人のツケが巡ってきた。

それらの店が今になっては、なかなか立ち退きに応じてくれないので貸家を1・2階に入れて3階から上を信者室にと、いわゆる下駄履き住宅案を計画し、真柱様にお伺いしたところ「そんなことしたら何時までも出てもらえないではないか」とご忠告を戴き計画を中止したのである。

私が大教会青年として勤めさせて頂いたのも、この第2期の工事の最中であった。

昭和45年は大阪万博で日本中がレジャーブームの波に呑まれた年でもあった。多くの団体客が、EXPOの途次、おぢばを訪れていた。

この年8月30日、東京武道館で天理教青年大会が開催された。河原町分会でも大型バス1台で、参加、帰途湯河原に1泊した。青年2人は自転車で東海道を渡った。

昭和47年、私は布教の家広島寮に入寮、広島の街を、毎日戸別訪問のにをいがけに明け暮れた。丁度、上級豊能分教会の神殿普請中で、別席者の御守護は頂けなかったが、おさづけのお取次ぎで頂戴した御供金は、柱数本分に達した。

教祖90年祭の諭達が発表された昭和48年1月26日は、布教の家広島寮に入寮中であった私は、真柱様が発せられた諭達を聴いて、お道の布教師としての初めての年祭である。「そうだ、今、広島にあって布教しているのだから、90年祭には、広島からバス1台の帰参者をご守護頂こう」と誓ったものだった。

教祖九十年祭の歌

中山もと 作詞 清水忠成 作曲

1、世界ろくぢに ならそうと

扉ひらいて 九十年

存命の教祖(おや) 待ちかね給う

成人の旬 今 ここに

成人の旬 今 ここに

2、真実(まこと)の喜び 知らそうと

元初まりを 明かされた

陽気遊山を 心に誓い

ひながたの道 たどりゆく

ひながたの道 たどりゆく

同年4月、青年会総会で「三千万軒にをいがけ」が、発表された。日本中の全所帯3千万軒をくまなく戸別訪問し、にをいがけ用パンフレットを配布しようというものであった。

私は大阪教区東成支部の青年会委員長を務めていたので、支部管内の若者を集め、支部内の地図を広げて「今日はここからここまで、隈なく回ろう」と声をかけあった。当時、創価学会の活動が活発で、戸別訪問でその集会の場に出くわすと「さあ上がれ上がれ」と、難問を吹きかけられる事もあったが、支部内3万軒ほとんどの家庭に、パンフレットを届けることが出来た。そんな中、別席を運んで下さる人は与えられなかったが、青年会活動に積極的に参加したいという方を多く与えて頂いた。

昭和49年初頭、年祭活動第一の角目である「教会内容の充実」に向かう具体的活動「つとめとさづけの徹底」に即応して、天理教音楽研究会おつとめ研究室では、みかぐらうた十二下りの地歌の録音が行われた。これは地方(じかた)の節まわしの統一を図るもので、真柱様が自ら鳴物に合わせて地歌を歌われた。録音テープは6月に広く頒布された。想定した以上の高音に悩まされながら、テープを聞きながら練習したものである。

昭和49年11月9日、東京の日比谷公会堂で、東京学生会(委員長・深谷善太郎)が創立20周年記念演奏会を開催、おうた「おやさま」の東京での初演であった。河原町大教会からマイクロバスでの往復夜行の強行スケジュールで参加した。

教祖90年祭は、昭和51年1月26日から2月18日まで、毎日かぐらづとめがつとめられ、帰参者は教祖80年祭を約40万人上回る200万人を数えた。

年祭期間中、私は綜合案内所のひのきしんにあたった。一れつ会館に泊まり込んで、毎日、境内地に身を置いて、おぢばの賑わいを直に感じての充実した25日間であった。毎日々々大勢の参拝者が津波の如く押し寄せ、神殿案内や、迷子探し、落し物の管理と、多忙を極めた。特に、神殿案内は、混雑する回廊を廻りながら、要所々々で案内をする、建物の大きさや美しさの解説ではない、元の親の思い、人類救けたい親心を如何に伝えるか苦労した。話しながらおやさまのひながたに感涙したりした。それは、自分ではお連れすることが出来なかった、あの人この人に聞いて欲しかった言葉の一つひとつでもあった。

人探しも大きな仕事であった。「伯母が奄美大島から、天理に来ていると聞いたのだが、何処に居ますか」と尋ねて来られる。宿舎は1棟ですぐ分かるだろうと、やって来られる。さあ大変。教会名も分からず、そのおばさんの住所と、親里に滞在中の団体名をたよりに、あちこちの詰所へ電話をかける。1時間以上も探しまわる時もある。でも、その訪ね人が見つかったときは、こちらもホットする。そんな出会いが、またいつの日か、お道の話を聞いて下さる糸口となるように祈りながら。

教祖90年祭は、乗用車が増えた年祭であった。大型バス14,000台。乗用車48,000台。マイクロバス1,100台であった。