Post date: 2015/02/06 5:41:20
私が初めて「おやさとふしんひのきしん隊」に参加したのは、昭和38年8月17歳の時であった。東左4棟の屋根裏のひのきしん隊の宿舎から、真夏の親里を幟旗を先頭に、教祖80年祭の歌を唄って、現場を駆け巡っていた。
教祖80年祭の歌は、昭和38年1月25日に発表された。作詞 中山正善真柱・作曲 中山善衞たすけ委員長である。
1、さあさあ来たきた 旬がきた
八十年(やそとせ)ぶりに旬が来た
老も若きも運びましょう
たすけ一條のよろこびを
(繰り返し)
2、よふきぐらしの 門出ぞと
確(しっか)と定めた三信條
順序ただしく運びましょう
たすけ一條のよろこびを
(繰り返し)
これより先、昭和36年4月26日に、教祖80年祭執行についての諭達が公布された。
昭和36年が、教祖が現身を隠されて75年目に相当し、諭達第二號で2代真柱様は、
というお言葉に示され、今こそ広く世界へ飛躍するべき旬であると全教の奮起を促された。
この時、深谷善和大教会長の発案で、ブラジルのジュッサラ教会内に「河原町大教会ブラジル伝道所」が設置され、昭和37年5月、この伝道所入所第1号として、豊能分教会の秦正春氏が、ブラジルに渡った。
昭和37年5月には 川原城町商店街にアーケードが、翌38年、三島商店街にもアーケードが付けられ、全長800mの県下最長のアーケード街が完成した。
私は、教祖80年祭の前年、昭和40年4月に天理大学外国語学部に入学した。入学前後から、天理の町は、驚くほどの様変わりを見せた。
9月に、天理駅が国鉄(今のJR)と近鉄の統合駅となった。国鉄は、今の天理市民会館の位置から、近鉄は駅前の防災ビルの田中神具店あたりから移動し、国鉄は高架となり、駅前には噴水のある京都駅前とほぼ同じの程の広場となった。旧近鉄天理駅の建物は、かって大阪の近鉄上本町駅の駅舎を移築されたものであった。
この工事に際し、天理市の都市計画で、河原町・水口・南海・兵神・撫養各詰所の前の堀は埋められ、田井庄池は土手がなくなり3分の一ほどに縮小された。それは、近鉄天理駅から西にあった商店を、詰所の北側道路沿に移転させる為であった。詰所の門前の様は激変した。同時に、詰所南の畑地と、東側の大垣・大原詰所と駐車場の部分の土地が交換され、ブロック塀をめぐらした駐車場が出来た。
2代真柱様は、天理駅の位置について、お側の人々に、あの位置では近すぎる。親里は1里四方となり、市街地は近々、奈良・初瀬まで繋がるんだから、鉄道の駅が近いと市域の伸展のじゃまになる、国道24号線の位置ぐらいがちょうどよいと言われたが、周囲の者が、なだめて現在地で何とかお許しいただいた。という話が残っている。
また、御本部の南門(黒門)から、まっすぐ南に広い真南道路が開削された。従来は南門のすぐ南にロータリーがあり、車が1台ようやく通れるほどの橋が斜めに架かり、それを渡ると、南へ天理大学本館・天理図書館・天理高校へと続く道と、西の鑵子山(かんすやま)への階段が有り、そこには天理大学(旧天理教校別科)の校舎があった。その道を拡張し、布留川を暗渠(あんきょ)に、大学のグランドや体育館を削り、天理高校の前をかすめるように広い道が付けられた。
昭和40年9月、天理高校の野球場の北側におやさとやかた南左第4棟が完成、大学1年の後期から使用を始めた。更に、明治中期の建物として長く奈良公園の北にあった旧奈良県庁舎の建物が天理高校の前、真南道路をはさんで、東向かいに移築され、神殿西の天理中学の北側に、おやさとやかた西右2・3棟も建築された。教祖80年祭後の4月1日に、天理よろず相談所病院が移され、「憩の家」病院として開業している。この時設置されたエスカレーターが、奈良県下で最初のものであった。
このように、天理市域の景観は全く一変した。
建物だけではない、昭和39年暮れ、おぢばを慕って帰ってきた人々に、同じ釜の食事を食べてもらい、親子団欒の喜びを味わってもらおうとの思いから、給食設備が有る炊事本部が誕生。本部食堂・各学校・学寮・信者詰所に配食されることとなった。ちなみにこの時の食費は、朝・昼・夕食とも1食70円であった。
また、インフラでも、昭和40年12月16日、亀山・天理間の名阪国道が開通した。当時の建設大臣の一声で実現し、突貫工事で千日道路と言われた。この自動車道は、教祖80年祭の信者輸送に大きく貢献することとなった。
これにより名古屋方面から天理へのアクセスは、抜群に良くなった。今までは布留・長滝・福住・苣原と折曲がった山道が幹線で、大きな車の通れる舗装道路がなかったのだから大変な進歩である
また、北礼拝場と西回廊の間に、鉄骨パイプ構造の仮西礼拝場が造られ、緩やかなスロープのある千畳敷きの礼拝場が完成し、礼拝場は倍の広さになった。
教祖80年祭は、1月26日から2月18日まで。実に活気あふれる年祭であった。学校は、1月20日位で1年度修了。4月まで3か月近く休みであった。先にあげた西右2・3棟や、南左4棟、一れつ会館、高校生の寮や校舎まで、帰参者の宿舎に充てられ、多くの学生が受け入れのひのきしんに励んだ。
南門から南は、大型バスの駐車場に充てられ、百台以上のバスが並んだ姿は壮大なものであった。
教祖80年祭は、自家用車は未だ少なく、マイクロバスもなかったので、大型バスでの帰参者が最も多かった年祭であった。1月30日・2月6日・13日の日曜日には、真南道路にあふれていた。バス団参の帰参者が70%を占めた年祭であった。
「神がこの屋敷へ天下って75年たてば、日本あら乀すます、それから先は、世界隅から隅まで天理王命の名を流す」