教祖年祭と私(Ⅶ)

Post date: 2015/07/09 0:50:52

教祖120年祭の年は、年祭活動の年どころではなかった。年祭直後から、大今里の関係者の出直が相次いだ。平成18年2月から修養科778期に入学していたSさんが2ヶ月で中退、直後の3月31日、胃癌のため出直してしまった。5月21日には、大今里の二代会長夫人上垣良子(90歳)が胆嚢癌・脳梗塞で。6月26日には、小山博之(78歳)能勢分教会五代会長が悪性リンパ腫で、と続いて出直された。更に9月に2人、11月に2人のようぼくが出直した。

その上に妻・敬子の身上が重なった。8月末に、憩の家眼科を受診、網膜剥離(はくり)で緊急手術、即3週間の入院となった。12月には甲状腺癌が見つかり、翌年1月10日摘出手術をうけた。

平成19年は、更に不幸が重なった。あまりにも続く節、節に心が折れ自分の進むべき道を見失った。そこで私は東成支部の支部長と、布教の家大阪寮の育成委員の辞職を申し出た。

5月8日、10年前から人工透析を続けていたNさんが、憩の家で心臓機能拡充の手術を受け、ICUに入ったが意識が戻らぬまま5月16日出直した。丁度、能勢分教会六代会長・築山信夫氏の会長就任奉告祭と、Nさんの告別式とが重なり、大今里からは能勢分教会に誰も出席できなかった。

また、この頃から長男の上垣和敬の様子がおかしくなった。1年前から東京のJ:comに就職して、練馬区で一人暮らしをしていたのだが、仕事のストレスから、充分に睡眠も取れず、イライラする事が多くなり、会社も休みがちだと、祖母の1年祭に帰ってきてうったえた。そこで7月13日に和敬を、憩の家心療内科に連れて行くと、うつ病と診断された。会社からは、大阪へ転勤するか、休職するかと尋ねられたが、本人は退職を申し出た。

その3日後思わぬ大節が待ち構えていた。平成19年7月16日は海の日で休日であった。私は、前日の夕づとめの時から異状を感じていた。拍子木の右と左の重さが違うのである。おかしいなと感じながら、その日は床についた。翌朝になっても同じなので、これはおかしいと思い救急車を呼んでもらった。しかし、連休の2日目で、どこの病院も受け付けてくれない。救急車の隊員から「罹りつけの病院は何処ですか」と尋ねられ、「天理の憩の家病院です」と答えると、快く西名阪自動車道を突っ走り、45分で憩の家に到着した。

自分では、手足も自由に動くし、滑(かつ)舌(ぜつ)もおかしくない、頭も痛くないので軽いと思っていた。しかし、救急外来には神経内科の部長が待機して下さり、問診の結果、2日間の点滴と絶対安静を申し渡された。次の日になってMRIの検査を受けた。その時から、右半身が重たく感じて、思い通りに動かせなくなった。

急性期の治療は3週間までということで、8月4日に白川分院に転院。車椅子の生活をしながら、きっと元通り歩けるようになると信じてリハビリに励んでいた。しかし8月20日理学療法士の先生から「土曜日の訓練の時と比べて、月曜日の今日の運動機能は逆行して悪くなっている」と言われ、急遽MRIを撮ってもらうと硬膜下血腫の診断、その日のうちに緊急手術。頭に直径2cm程の穴をあけ溜った血液を吸い出した。200cc程も有ったとか。また1週間、本院での入院生活となった。8月29日白川分院へ再転院、更にリハビリに励み、ようやく10月24日退院することができた。入院生活100日であった。

我が教会へ帰って一番ありがたかった事はバリアフリーの居住空間が既にできていた事である。教会新築に際し、年老いた母もいたので、できる限り段差をなくし、風呂や便所にも手すりを付けていた。これが誰の為でもない自分の為だったとは、この時まで気付かなかった。それから近所の病院にリハビリに週2回のペースで通った。1月15日になって明日からは保険の対象外になるから100%の自己負担が掛りますと言われリハビリを受けられなくなった。脳卒中の慢性期治療は6か月以内と決められているとの事。あとはデイケアーに通うか、と言われたが、自分で自主運動をする事にした。あれから8年、筋肉は徐々に弱り、歩行もだんだん辛くなった。右手はやはり機能しない。筆を持つのも、箸を持つのも不自由である。まあ、喋ることと食べる事に不自由しないので喜ばなければと、自分に言い聞かせている。

和敬も平成20年10月19日岩﨑晃子さんという伴侶をえて、みるみる元気に快復してくれた。和敬は、平成23年3月から修養科839期に、翌4月から、晃子が和敬のあとを追うように修養科840期に志願した。3月10日には河原町詰所の新築落成式が執り行われた。

その翌日3月11日東日本大震災が起こった。カッテない規模の大地震でマグニチュード9.0。海岸線に大津波が押し寄せ、死者・行方不明者は、18,000余人、家屋の倒壊は400,000戸に及んだ。更に、原子力発電所の全電源喪失を誘発し、原子炉の炉心の溶融(ようゆう)という大事故をまねき、大量の放射性物質が漏洩(ろうえい)した。4年半経った今なお、120,000人もの人が避難生活を余儀なくされている。

天理時報(2015・04・19号)のコラム『和楽』で『教祖の年祭と自然災害の間には、ある傾向が見られる。遡(さかのぼ)ること明治24年10月28日、教祖5年祭の年に濃尾地震が発生し、7千200人の死者が出た。明治29年、教祖10年祭の年の6月15日には三陸地震津波が発生し、2万2千人の死者があった。大正12年9月1日の関東大震災は、教祖40年祭への三年千日1年目、10万5千人の死者。平成7年1月17日、阪神・淡路大震災は教祖110年祭の前年。東日本大震災は、教祖120年祭と130年祭の折り返しの年に起こった。(中略)「おふでさき」に、自然災害は親神様の残念、立腹の現れと教えられるが、教祖年祭と自然災害の関連は偶然だろうか。』と記されていた。

しかし日本列島は環太平洋火山帯の上に、更に台風銀座といわれるモンス-ン地帯に位置する。昨年の自然災害をみても、東京都で26cmの積雪。八丈島の噴火。東京三鷹市で大量のヒョウ。広島市北部の土砂災害。御嶽山の噴火。白馬村近辺での震度6弱の地震。今年は、日本全国に有感地震を起こした小笠原諸島の海底火山爆発。口永良部島での火山噴火と全島民避難。浅間山の噴火。などなど数え上げればきりがない、毎年のように洪水や、土砂災害、地震で多くの犠牲者がでている。近年は更に竜巻被害やゲリラ豪雨が加わる。それほど日本列島の自然災害は多いのだ。だから、年祭の年の前後に災害が起こるのではなくて、自然災害が毎年のように発生しているから、教祖年祭と自然災害がリンクしているかのように見誤るのではないだろうか。この東日本大震災以降、昨年末までに、教会のお目標様を御本部がお預かりになった名称の理が470カ所にのぼるという。名称の理は末代と教えられているから,無くなりはしないでしょうが、復興には多大な困難が伴う事と思われる。

平成24年3月26日、能勢分教会七代会長任命願のお運びには、私に代わり和敬が付き人として臨席させて頂き、4月22日小山琳三七代会長就任奉告祭が賑やかに執り行なわれた。

平成24年10月、諭達第三号が発布され、教祖百三十年祭の歌が披露された。

教祖百三十年祭の歌

1、世界いちれつ たすけたい

やしろの扉ひらかれて

踏み出したもう親心

あまねく 世界をかけめぐる

をやのみ心いただいて

たすけ一条のよろこびに

今ようぼくが勇みたつ

2、陽気ぐらしを 楽しみに

この世人間つくられた

元初まりの親心

広く 世界へ伝えよう

をやのみ声に導かれ

たすけ一条のよろこびに

今ようぼくが立ち上がる

でも、なかなか天理の街中でも聴かれない、孫娘が鼓笛隊でこの歌を習ってきて、遊びの最中にも口ずさんでいる。子供は意味が分からなくても直ぐに覚えてしまう。不思議なものだ。

平成25年5月25日、唐橋分教会・創立120周年祈念2000人団参が挙行された。これは、昭和10年1月に実施された団参に倣(なら)ったものである。その時の団参は、昭和普請といわれた本部の神殿改築・南礼拝場増築・教祖殿新築落成の祝賀を、楽団を先頭に敢行されたものであった。平成25年10月19日には唐橋分教会創立120周年記念祭が賑やかに執行された。

平成26年6月24日、中山善衞・三代真柱様がお出直になった。奇しくも、教祖130年祭活動三年千日の折り返し点であった。何を教えてくださっているのか。我々の成人の足取りが鈍いと後押しされているのか、次に続く未来を見据えてのお出直か。結果は、年祭をつとめ了えなければ何とも言えない。

思いおこすと、大正3年12月31日に初代真柱・中山眞之亮様がお出直された。神殿落成奉告祭(北礼拝場)の4ヶ月前、そして教祖30年祭のおよそ1年1ヶ月前である。本来なら、大正3年4月に神殿落成奉告祭を勤める筈であった、大正3年3月1日に唐橋分教会から畳の献納をしているのですから。建物は竣工していたが、照憲皇太后様の崩御の為、遷座祭のみ勤め、奉告祭は1年先延ばしになったのであった。どちらも残念が残るお出直である。

平成26年8月26日大今里分教会四代会長に上垣和敬が任命のお許しを戴いた。10月18日に能勢分教会創立120周年記念祭。19日に大今里分教会会長就任奉告祭。20日唐橋分教会秋季大祭とあわただしくお祝い事が重なった。10月19日が大今里初代会長の36回目の命日であり、和敬・晃子の6回目の結婚記念日でもあったから、この日を選んだようである。

教祖130年祭活動は、おやさとやかたの普請はなく、憩の家の西・東病棟の普請、神殿回廊のスロープ棟建築が行われた。

善和会長から聞かせて頂いたおやさとふしんの構想は、神殿・参拝場は、今以上に拡張することは設計・施工上も難しい。今、計画されているおぢばの未来型は、おやさとやかた68棟で8町4面をとり囲み、おぢばは、かんろだいの真座だけとなり、神殿参拝場はすべて取り払われる。真東棟1階吹き抜けから、境内地を均すと、西棟では3階の床面と水平になる。ぢばを囲むおやさとやかたの中を平らに均すと、その中に100万人の人々が立ったままで参拝できるという。この神苑への出入りの為、東左4棟と西右4棟を地下通路で結ぶ。同じように、東右4棟と西左4棟・北右4棟と南左4棟・北左4棟と南右4棟とを結ぶと、地下で井の字型に交差する。神饌場もお守り所も、便所も休憩所も、すべて地下に設置される。神苑はかんろだいを中央に、一面芝生に覆われた広場になるという。

そのようになるのは何年後か。おやさとやかたは、昭和29年に起工式。教祖70年祭までに5棟、教祖80年祭までに5棟、教祖90年祭までに8棟、教祖100年祭までに4棟、教祖110年祭までに3棟、教祖120年祭までに1棟、計26棟が竣工している。今までのペースで進んだとしても、あと100年はかかりそうだ、早くそうなることを教祖は待っておられる。

その理想に何時になったら近づけるのか。筆者は、何回も出直さなければ、その雄姿を目にすることはできないだろう。しかし、それに向かって一歩一歩進んで行かねばと思う。