教祖年祭と私(Ⅴ)

Post date: 2015/05/08 2:51:35

教祖百年祭が盛大に勤め終えられた直後の昭和61年2月22日、河原町大教会の月次祭後の直属教会長会議の席で、善和会長から、昭和64年に迎えさせていただく大教会創立百周年を目指して、おぢば方向を向いて拝させていただける神殿を普請させていただきたい。その為には、今、直ちに着工せねば百周年に間に合わない、と神殿普請のお打ち出しがあった。

最初2階神殿、1階に舞台装置のあるホール、地下に大型バスの停められる駐車場という計画であった。しかし、京都の景観条例で、鴨川右岸の土手から東山の大文字が隠れないようにという高さ制限があり、1階の床は約40㎝掘り下げなければならず、又、その為に雨水の排水ポンプを設備しなければならない、2階神殿、1階ホールとなると、構造上、中央付近に太い柱を据えねばならず、構造・規制等々難しい問題に直面し、やむなく現在の形状に修正せざるを得なかった。

躯体の形状、屋根瓦、何もかもが、おぢばの東西礼拝場を参考に、大きさは2割縮小して設計された。

その矢先、昭和61年4月18日、善和会長が表統領に推挙され、就任。善和会長にとって表統領の大任を戴きながら、明治33年以来の大がかりな神殿普請を遂行するという困難な責務が重なった。

昭和61年4月26日、神殿普請のおぢばのお許しを戴き、5月1日着工のお願いつとめが勤められた。これが旧神殿での最後のおつとめとなった。既存の建物が次々と解体され、旧教祖殿は名古屋大教会に、お居間の茶室は愛知県西尾市に寄贈され、移築された。

昭和62年に入ると、神殿棟地下駐車場の掘り方が始まり、境内地の半分が5m掘り下げられ、順次、捨てコン・地下基礎耐圧版の組立・コンクリート打設と計画通り、順調に進渉していった。しかし、なかなか地上部分が、眼前に姿を現さないので、一部の週刊誌では普請が頓挫していると報じられたりもした。

この年10月26日、おぢばでは立教150年の秋季大祭が勤められた。その前夜には「誓いの広場」が真南道路西側で開催され、レーザー光線、サーチライトを駆使して、150年の道の歩みがイメージ表現され、その後、三代真柱様、作詞・作曲の「親神様の守護(おやのまもり)」を参加者全員で高らかに歌いあげ、そして提灯行列。大地からにじみ出るようなほのかな灯火が無数につながり合って、夜の神苑は光の海と化した。

昭和63年1月23日河原町大教会では、いよいよ神殿棟上げの日を迎えた。事始のおつとめから20ヶ月、朝から小雪混じりで、底冷えのするあいにくの天候であったが、2,500人を越えるよふぼく・信者が参集、よろづよ八首の大合唱の中、参列者一同の手によって棟札が高々と掲げられた。

この棟上げを機に、善和会長はおぢばの御用に専念させて頂くべく辞職。長男・善太郎様が八代会長に就任される運びとなり、全部内339ヵ所の教会長の捺印を集め、小生が任命願書を謹書、2月26日おぢばの理のお許しを戴かれた。三代真柱様の特別のお計らいで、就任奉告祭は神殿落成奉告祭と併せてつとめさせて頂くことになった。

善和会長の永年の夢であったおぢばに正対する神殿、その普請が佳境に入ったその旬に、河原町は大きな転換期を迎えることとなった。

昭和から平成に移って、日本の経済はバブル期、難しい舵取りを迫られた。

平成元年(立教152年)9月30日、この上ない晴天のお恵みをいただき、真柱様・奥様・善司様、お入り込みのもと、分離教会長・教区管内教会長・ふしん関係者、多数の来賓の列席を得て、教会創立百周年記念祭・神殿落成奉告祭・八代会長就任奉告祭が執り行われた。この日を待ちかねて、国内・外から帰参した参拝者は1万人。檜の香り芳しい新神殿はもとより、階下、及び1,500枚のスタイロ畳を敷き詰めた地下駐車場、更には信者室等々も一杯の盛況であった。

真柱様は、三つの喜びの祭典の意義は、初代先人の元一日の決心に立ち返り、ぢば一条の精神に心の向きを揃えることにある。「親神様の思召に自分の心を合わすのです。自分の心に教えを合わすのではありません。これがぢばの方を向くということなのですから」と、お言葉をくだされた。

この記念すべき日に、『河原町大教会史』第1巻、及び『資料編』第1巻を、上梓させていただき、同年12月22日『河原町大教会史』第2・3巻が全部内教会に下付された。

その嚆矢は、昭和50年天理大学おやさと研究所から『天理教事典』初版が出版された事。そこには本部直属大教会と直属分教会の略史は記載されている。しかし本部教義及び史料集成部としては、昭和53年3月、立教140年の此の旬に、今、全教会の記録を残さないと時代が経つにつれて忘れられてしまう、という思いから、ご本部朝勤めの直後、真東棟3階講堂に、本部直属教会の担当者が集められて、上田嘉成先生から、全教会の設立までの経緯・歴代の会長・代々の役員・現在の教勢、等々を史料集成部の原稿用紙に書いて提出して頂きたいと要請があった。

それを聴かせて頂いて直ぐ、西井道一・礒田義彦・萩原昌和先生と上川裕之・上垣敬一5名は、道友社の社長室を訪れ、善和会長に事の由を伝えた。

早速、ご本部の意に添わせて頂こうと、同年4月、大教会内に史料掛が選任され、部内にも同じように史料担当者選定のお願いをした。そして、河原町独自の原稿用紙・家計図・履歴書などを作成。昭和53年6月30日、部内教会の担当者71人に集まって頂き、記載事項・記入例などを説明。昭和54年1月大教会の創立90周年までに提出して頂くよう依頼した。

しかし原稿はなかなか集まらない。書く人がいないという。教会長自身が、初代・二代の顔も、経歴も知らないという問題が起こっていた。そこで、我々は、本部史料集成部に保管されている、二代真柱様の東京帝国大学での卒業論文『天理教伝道者に関する調査』の原資料を、おやさとやかた真東棟の地下室で、写真に収めさせて頂いた。それらを基に、更に重ねて提出をお願いし、部内の教会史は、ようやく教祖百年祭までに、こちらで清書し提出させて頂くことができた。

河原町の初代会長『深谷源次郎伝』は、善和会長から善太郎さんに、旧版を参考に書き直すよう指名された。

同時に、河原町大教会の原稿を誰が書くかということになり、主任・礒田善彦・副主任・萩原昌和先生で、実際の執筆者は、上川修二・佐藤伸邦・上川裕之の青年と上垣敬一と指名された。私一人だけが部内から選ばれた。なぜ選ばれたか今でも解らない。

我々4名は、早速、担当項目を振り分け、旧『河原町大教会史』全2巻を参考に、執筆を開始した。しかし、若造ばかりで昔のことは何も分からない、何から調べたらよいのやら、どう書いたらよいのやら。そこで、大教会長様から、原稿の出来た分だけ、役員さんと一緒に読ませてもらおうという事になった。最初の史料編纂会議は、昭和56年の4月であった。

さあ大変、史料編纂会議は、準備におおわらわ。我々担当者が書いた原稿を、前日に20部ほどコピー、ホッチキスで綴じる。それを会議室の机に並べて編纂会議が始まる。大教会長様が中央に、役員先生が両側にずらっとおられる。担当者が、自分の原稿を先生方の前で読み上げる。それを一字一句直して下さるのだが、たった一行に何時間も費やすこともあった。でも、大教会長様は、忙しい教務の中、時間を割き、常に細かいところまで訂正くだされ、私たち若者を温かい目で育てようと、昭和60年末までの間に合計80回ほども史料編纂会議を重ねてくださった。

この会議で、本当にいろんな事を学ばせて頂いた。国鉄・京都駅の東京行きの次の駅は山科駅ではなく、大正10年までは伏見稲荷駅であったこと。平安神宮は、河原町大教会の丸太町移転の5年前で、比較的新しいこと。天理教本部と天理教教会本部の違い、河原町の役員と、役員待遇の違い、等々。

史料編纂会議に出させて頂いたお蔭で、今の私があると言っても過言ではない。誰よりも、何もかも、善和会長の影響を受けている。

そして、完成した原稿は、平成元年に御本部へ提出させて頂いたが、次に、河原町大教会の創立百周年の記念に出版する事となり、上垣敬一・上川真一・中村明夫・山本伊久雄・酒井宏明・深谷泰治・西井重喜・上川昭男・佐藤聖邦の9名が、新たに任命され、河原町大教会史としてふさわしい目次に改め、それに合わせて本部提出原稿を練り直し、元原稿を繋ぎ合わせるのだが、史料編纂会議に出ていたのは、私と上川真一君のみ、誰もこの語句が、どうして産み出されたかを知らない中、詰所に泊り込んで、新しい一頁一頁を積み上げて、ようやく完成へと漕ぎ着けることができた。善和前会長には、健康のすぐれない中、無理を言って、校正原稿を2・3日で読んでもらったこともあった。

昭和53年から平成元年まで12年間。最初から最後まで担当したのは私ひとりだけである。『河原町大教会史』は、私の生涯の集大成と言いたい。

教祖110年祭から年祭祭典期間を改められることになった。従来年祭期間は、教祖1年祭は1日。5年祭は3日間。10年祭は1日。ただし後2日間に春季大祭及び戦争終結奉告祭執行。20年祭・30年祭は各1日。後1日春季大祭。40年祭は3日(3回祭典執行)。50年祭は昭和11年1月26日から2月18日の24日間の祭典が行われた。以降、教祖百年祭までは、年祭期間を24日間と定めてきたが、教祖110年祭では、祭典日は1日。当年1年間を年祭の年として、おぢばを賑やかにさせて頂こうと提唱された。しかも従来の惰性を改め一人ひとり積極的に年祭活動に励むよう、指針を示され、年祭活動の心定めも各直属教会に任され、直属ごとに活動するよう求められた。

河原町は2ヶ所の大教会を生み出すとの目標を提示、教会100カ所新設の心を定め、おぢばに報告した。

平成6年3月26日、教祖110年祭の歌が発表された。作詞・作曲は、天理教音楽研究会となっている。

教祖百十年祭の歌

1、 仕切って、立ち上がろう そして歩もう

一手一つに

陽気ぐらしの、ひながたの道

ああ 教祖百十年祭

今 成人の旬

2、 勇んで、立ち上がれ そしてつとめよう

一手一つに

陽気ぐらしの、たすけ一条の道

ああ 教祖百十年祭

今 成人の旬

ああ 教祖百十年祭

今 成人の旬

おぢばでは、教祖年祭に向けて、形の普請も進められ、平成2年に道友社新社屋、平成4年に真南棟、平成5年に乾隅棟が完成して、それぞれの活動に新たな息吹を吹き込んだ。

そんな中、平成7年1月、阪神・淡路大震災が起こった。同年の秋季大祭に三代真柱様は身上で、中山善司真柱継承者が神殿講話を代読された。

この日午後、「復元五十年十二下り、てをどりまなび」が、教会本部神殿を囲んで12万人の帰参者によって行われた。官憲の干渉によって教祖のお教え通り勤められない時期が続き、昭和20年10月26日から復元し勤められるようになって50年が経過した、この年この日、それを記念してつとめられた。

同年12月には本部南門前の真南大橋が完成し、国道25号線(親里大路)を跨ぐ歩道橋。東西2基、幅6m・全長200mが完成した。

平成8年1月26日。教祖百年祭に中山善衞真柱は、祭主として祭文は奏上されたが、かぐらづとめは真柱に代わり中山善司様が、くにとこたちのみことの役を勤められ、善衞真柱は東上段に座ってみかぐら歌をご唱和された。おつとめ終了後の神殿講話も、善司様が真柱様からのメッセージを読み上げられた。

教祖110年祭当日の帰参者は、国内はもとより、世界30カ国と地域から16万人を数えた。

この日、亀岡・大原が、河原町から分離陞級。河原町部内教会数は、340から239ヵ所になった。心定めは表面上達成されたが、実質は百ヶ所の部内教会が減少した。

平成8年の1年間は、教祖年祭期間をとして、さまざまな団参が企画され、教区ごと・直属教会ごとで実施されている。

奈良教区は1万人おてふり団参。岡山教区はにをいがけ5千人団参。天地会(北系)おぢばがえり。山名・敷島・高安系は別席団参などなど、土日、祝祭日には、神殿はじめ、おやさとの街中に参拝者が溢れた。

大阪教区では、毎日団参を計画。神苑内にポストを設け、参拝の記録カードをポストに投函、担当者が交代で、毎日参拝者数を支部ごとに集計することになった。また、総合案内所の2階を借り受けて、毎日おぢばがえり講演会を開催したりした。

私は、毎日おぢばがえりを心定めして、近鉄電車の通勤定期を購入(1ヶ月、約1万円)。平成7年8月14日から、平成8年8月26日まで、おぢばに日参した。上級、豊能や能勢・唐橋分教会の月次祭の日には、おつとめを勤め終えると直ぐにおぢばに向かい、夜半近くに自教会へ帰りつくという事を繰り返した。

大阪教区全体では70万人を越え、わが教会でも2千人以上という大勢の人がおぢばへおかえりくだされた。

教祖110年祭の年の喧騒もようやくさめかけた、平成9年3月5日(旧暦正月26日)詰所1号館が専修科生の不注意から失火、1棟が全焼した。幸い一酸化炭素中毒2名・軽い足裏の火傷1名で、死者も出ず、本館や隣の水口詰所への延焼は免れた。この時、私は、修養科670期の一期講師を勤めさせて頂いていたので、火災報知のベルで起こされ、駐車場の屋根へ登ってホースで水道の水を建物に向かって掛け続けたが、何の効果も無く、鬼瓦がドサと落ちるのを眺めるしかなかった。

翌日、中林千秋大原大教会長から「おまはんが居って、なんでこうなってん」と言われたが、一瞬何を言われているのか解らなかった。神様が私に見せられた大きな節、たまたま居合わせたのではない、親神様が私に教えてくださった前進への礎・試練であったのだ。