Post date: 2016/03/29 6:49:05
老いた養子娘の告白
養子娘の救われる道――。夫の後ろ姿を拝んで、
たすけ一条を通り抜く道中に発見した。
上 垣 シ ナ
考え方の相違
私が結婚したのは、(私は一人娘で主人は養子)単独布教に出て四年目、転々と住居を変えた挙句、ようやく落ち着き場所をお与えいただいた明治四十一年七月十七日、二十一歳の時です。当時、父が上級の豊能の会長をしており、私は大阪で布教の道を通らしていただいて居りました。布教に熱中し、おたすけしか眼中になかった私は、式の日だけ田舎へ帰り、式が済むと息つく間もなく主人(音吉)を連れて、大阪に戻って、おたすけに歩かせていただいていた私達でしたが。
その時、主人は、
「わしはもうお前の布教には、付いていけん。わしが働いてやるから、おたすけは片手間にしてくれ。女は家庭のことをして居ればええんや」
と申しまして、私の一本気な布教を強く止めました。ところが養子娘の我儘から、
「布教がいやなら、いになはれ(帰りなさい)」
と、女房ともあろう私が、かなり強い言葉で、主人に逆らったのでした。
主人は、父の教会の上級の上級である唐橋分教会の理事、荒木磯吉先生の四男坊、現役入隊を前にして、それまでに結婚させたいとの親の思いから、私と一緒になったのでしたが、何と申しましても結構な教会から、ドン底の教会の娘、しかも布教中の私の処へ来てくださったのですから、そういう気持ちになられたのも、もっともなことでした。
しかも叔父(母の弟)までが、
「音吉君は兵隊から帰っても、お前の処なぞ、よう居らんぞ。自分で商売するなら炭屋でも何でもせよ。金は出してやるから、考え直したらどうだ」
と、しきりに私に改心を求めたのです。しかし、
「私は、無い命を、神様にたすけられました。神様は生命の恩人です。だから、たとえ死んでもご恩返しの布教は辞めません。絶対に叔父さんの世話になりませんから」
と言いきったのでした。
結婚後一月目に、主人は現役で入隊。二年間、夫婦別れ別れの生活を送りましたが、除隊後、主人は主人なりに信仰に飛び込み、大正九年、父の後をついで豊能の三代会長を後任させていただき、昭和四年、私が大今里の設立と共に担任を持たせていただいて、夫婦共々道の上に苦労させていただいてまいりました。そのお蔭で金婚式を迎えた今日、私達夫婦は多くの理の子や我が肉親の子供達に、徳に過ぎた結構な日々をお与えいただいているのでございます。
娘心の求道
明治二十八年頃、私の家は池田(大阪府池田市)では隋一の木工商でした。番頭・奉公人など十数人を抱えて繁昌を極めておりました。
ところが一人娘の私(当時七歳)が、脳膜炎と肺炎を患い、十日間というものは全く意識不明で、息をしているだけという状態が続きました。父母は右往左往、どうしたものかと心配し、あちこちの医者に見せました。しかし、どの医者も九分九厘まで絶望を言い渡し、万が一に助かるようなことがあっても、盲目になるか脳に障碍が残ると言うのです。父母も諦めて白無垢の用意を整えていたということです。しかし、諦めるに諦めきれず、
「このひとり娘を死なしたら生きる精がない」
と苦しんでいた時、能勢支教会の理事に嫁いでいた伯母(母の姉)のにをいがけから、唐橋分教会の大橋熊吉先生が、おたすけに来てくださったのです。先生は、
「この子を救けて貰うには、一通りや二通りの信仰ではだめです。今日限り、商売を辞めて、道一条で通るという決心をしなさい。」
と、言われました。今まで伯母の話に、断じて信仰しないと言い切っていた父母が、藁にもすがる思いで、お助けを願い出て、
「どうか、助かるものなら、先生の仰る通りに致します――商売をやめて道一條を通り、恩報じをさせて頂きます」
と、宣言すると、先生は、猪名川に入って水垢離され、おさづけを取り次いで下さり、鮮やかなご守護をいただいたのでございます。
父母は、約束通りその日を限りに、店を畳んで、草鞋がけでお助けに歩き廻って下さり、苦労の道を通って下さったのでございます。
上級へのつとめの上には、無いところから、よく出来る方と肩を並べて尽くし、そのために借金をして、教会は火の消えたようになった時代が長い間続いたのですが、それでも豪胆な父は、そのなかを通り抜いてくださったのでございます。
自分が助けて頂いた神様の大恩、そしてそこから出発した父母の信仰。これが物心のついた娘の小さな胸に波打っていたのでしょう。私は十七歳で、親戚の「若い娘が大阪へ行って、どうなるか知れんぞ、やめとけ」という声に耳も貸さず「ない命を助けて頂いたんやもん、死んでもやり遂げます」とばかり、父にチョウマンという絶望の身上を助けて頂いてご守護頂かれた二十一歳の婦人(ある大病院の看護師だった人)と二人で、大阪へ布教に出て、谷町五丁目に三畳の間を借りて、おにをいがけおたすけに歩かせて頂いたのでございます。
「天理教で人を集めるのは困る」と言われては、家を移り、家主に叱られては追い出され、転々としている最中での結婚だったわけです。
十八娘の気持ちで
たすけ一条、神一條の私と、家庭的なうるおいを求める主人との生活は、ずいぶん葛藤がありました。人一倍勝気な主人は、感情のままにガミガミ私を叱ったりしましたが、もともと脳を患った変人の私のことゆえ、至極頭が悪いから、主人の小言も、普通の方よりピンと響きませんでした。それが私も救われ、夫婦が繋がっていることにもなったのでございます。
陽気で我儘な一面、決断力があった主人が上級豊能の会長になってからは、すばらしいおたすけをしてくれました。教会長として箔がついたというよりも、やはり親の徳がしからしめたのでございましょう。
結婚後、私は六回も死に目に遭っていますが、ものの納消は言うまでもなく、主人も私以上の心定めをして下さって、お蔭でどうにか死線を越えてまいりました。
上垣家は、言うなれば家の絶える因縁でございますが、父母は金婚式(昭和十一年)をすませて、それぞれ八十歳で結構に出直していき、今また、私達は昨年十一月三日、数多くの理の親や、道の子供たちに金婚式を祝って頂きました。子供は男3人・女2人とお与えて頂いたのですが、長男、長女以外は夭折し、成長したのは、二人だけです。亡くなった子供たちは、抜けられない難儀な中、私たち夫婦の心の繫ぎとなってくれました。残った二人は、それぞれ豊能と大今里の教会をもってくれ、十人の孫が私どもを喜ばせてくれております。
思えば私は今日までこの世に置いて頂ける身体ではございません。十八娘の気持ちで働かして頂きたいものと、夜の夜中でもおたすけに歩かせて頂いております。それが助けて頂いた、せめてものご恩返しですもの。
「養子娘は気儘なものやが、それで助からせて頂くのやで。いつも主人の後ろ姿を拝んで通るんで助かるんや」
上級の先生が私に授けてくださったこの一言が、年老いた私の耳に今も尚、聞こえてくるように思うのです。
(昭和三十四年一月号『陽気』から転載)