教祖年と私(Ⅵ)

Post date: 2015/06/07 3:02:23

教祖百十年祭の年、おぢばは毎日団参で連日の賑わいを見せた。その熱も薄れかけた平成10年は、教祖ご誕生二百年の年であった。我が東成支部でもバス団参を挙行し、おぢばは慶祝ムードで盛り上がっていた。

そうした中、5月11日、能勢部内のX分教会でA会長が息子に殺傷されるという大事件が起こった。私には、身近な存在であったので、突然の惨事に驚愕した。その丁度1年前の平成9年5月、神戸で少年による残虐な猟奇殺人事件が起きていた。その時もショックであったが、それ以上に、あまりにも身近で、そして自分と同じような境遇、息子も同い年、思いもかけず起こった大惨事だった。一瞬にしてすべてが失われた。なぜ、何が悪かったの、神様の思召は、何もかもが空しく残念の連続であった。

私は、葬式のお手伝いやなにやかやで動き回ったが、大教会の対応に大変な不足をした。遷霊祭・告別式には、マスコミの取材を避けようと,教会の看板は外し、斎壇は玄関から見えない位置に、マイクも使わず、誄詞や奏楽は、周囲に聞こえないように、ひっそりとつとめられた。誠に無念な葬式であった。

今も、何一つ解決されないままになっている。B君はどうしているのだろうか、果たして親神様の意図は何処にあるのだろうか、どうすれば、どうなれば解決したと言えるのか、今でも解らない。

この年10月25日、真柱継承奉告祭が執り行われ、諭達第一号が発布された。善衞三代真柱様は身上が優れないとはいえ健在で、存命中の更迭は初めての事であった。奉告祭前夜には神苑でペンライトパレードが挙行された。また全教会長には、3回に分けてご招宴が開かれ、私は10月29日に参加させて頂いた。今の北大路の乗降場あたりにテントが張られ、そこへ約6,000人の教会長が集って宴は催された。余興や、お流れ頂戴と盛り上がる中、真柱様は静に見守られ、前真柱様は終始にこやかに、「なかま音頭」を歌われたりした。生涯で初めての大規模な宴会であった。

この頃、『河原町大教会史・年譜表』の作成中であった。一度だけ、善太郎会長にゲラ刷を見せたが、「これで良いと思っているのか」と突き返され、今も、そのままになっている。

平成元年9月、河原町大教会の神殿落成を目の当たりにした私は、大今里の神殿ふしんは何時になったらできるのだろうと思案に暮れた。河原町大教会・唐橋・豊能分教会は新しい立派な神殿が落成している。只今の大今里の教勢では、夢のまた夢である。大今里の神殿も既に60年の雨風にさらされ、雨漏りはする、丸いものを転がせば、隅の方へ勝手に転がってゆく現状だ。何とかせねばと、平成2年1月4日に、神殿ふしんを打ち出した。「今から5年間、神殿ふしん金の積立をさせて頂きたい、そして、5年後に積立金の倍の金額でふしんに掛からせて頂く、そして竣工の5年後には借財がゼロのなるようにしたい」と。

しかし、計画はあまかった5年後(平成7年1月)に阪神・淡路大震災が起こった。当教会も相当の被害を被った。更に、阪神地区の信者さんの家々も倒壊は無かったものの住めなくなったところもあった。これでは普請にかかれない。更に、教会長の私に大きな節を見せられた。糖尿病である。血糖値784、一歩遅れていたら死んでいても不思議ではないと医師から告知された。平成7年2月24日のことである。

これには大きな要因があった、前年に母が永年の保護司活動の上から勲五等瑞宝章を受勲したのである。母親は東成区で女性の受勲者第一号と有頂天であった。私は皇居にもついていった。受勲祝賀のレセプションも開かねばならない、そこへ大地震である。そんなこんなが大きなストレスになっていた。

大今里分教会の神殿普請は私の悲願であった。教祖百十年祭の年が終了すると直ぐ、平成9年2月、天理の竹中工務店を訪れ、阪神大震災の復興住宅として提供されている教会の図面を手に入れた。しかし我が教会の敷地に収まらない。ましておぢば方向となると尚更である。そこで教会の地所の大きさを示し、設計をお願いした。図面は4月末にできあがったが、予算1億円と言われ途方に暮れ、そのまま放っておいた。一方、豊能分教会のほうが既に、震災で傾いた教職舎普請を進め、平成8年10月には竣工していた。

平成11年になって、竹中工務店の営業マンが教会に来られ「神殿普請はどうなっていますか」と。「いや、何も伸展していません」と答えると、「じゃあ一から考えてみましょう」となり、設計からやり直すこととなった。毎月1回、設計部の人が教会に来られ、設計会議を開いた。素人の考えでは建築基準法がどんなものかも解らない。建蔽率、隣家との間隔とか、窓からの採光量によって居室とできる部屋と、倉庫・便所・風呂としてしか使用できないとか。

年末にようやく設計図が完成、総工費5,000万円と決定した。そこで、竹中工務店から念のため、地盤調査をしましょうということになりボーリング、結果、基礎にパイルを20本打ち込まないといけないからと2,000万円の予算アップ。さあどうしょう、5,000万円でもアップアップの状態、その上に2,000万円は目星も立たない。思案のあげく、あちこちの工務店に打診した。丁度、大阪教区の布教の家大阪寮の新築工事の最中であった。私は、平成10年8月から、布教の家の育成委員を仰せつかっていたので、その工事の責任者・上野山嘉美さんに、相談したら心安く請けてくださった。上野山さんは此花大教会の部内教会の次男坊で、若くして大阪に出て修業、此花大教会の神床普請も手がけられたという職人であった。早速、平成12年3月に、鉄骨造・瓦葺・ALC・延床面積326平方メートルの神殿教職舎の建築確認を取得。5月にはおぢばのお許しを頂いた。竹中工務店からは、設計料・地質調査費など一切請求されなかった。

平成12年6月1日に起工式。6月29日地鎮祭。8月4日神殿棟上げ、と工事は順調に進捗していった。

しかし、大変なのはそれから、何しろ上野山さんの好意で、工事は直営工事、下請け業者への支払いは、当方から直接手渡すことになっていた。8月の鉄骨組立の費用の支払いは、次の9月20日、9月のALCの外壁取り付け工事の支払いは10月という風に、工事が進むほど、支払い金額は増えていく。ひと月に800万円を超える時も、でも、お蔭であちらこちらから不思議なご守護を頂き、平成13年5月3日、神殿落成奉告祭を盛大に勤めることができ、奉告祭の御祝金で総ての支払いを完納することができた。

当初、神殿参拝場はジュータン敷きにという構想であったが、上野山さんから、ジュータンは掃除も大変、10年毎に張替えなくてはならないからと、フローリングに変更、椅子席とした。修理人の上川修二先生からは、30年早いと言われたが、深谷徳郎会長は、その著書で「近頃一般生活様式が椅子式に變化しつつあり、服装も洋服を着る者が多くなって来た爲に、椅子式でないと起居動作に不便を感じることが屡々(しばしば)ある。故に教會なども事務繁忙なる都會人の集合する所では、椅子式にする方が便利である。而して椅子式にしても尊厳を犯すことは決してないと思う」(道の友・昭和2年1月2日号)と書かれていますと突っぱねた。

普請金は、理立金500万円、建築工事費5,560万円、神具・鳴物代350万円、備品の購入費110万円、出願料・お許し御礼・測量・登記費300万円、奉告祭など250万円、合計7,070万円であった。

この年11月28日、深谷善和七代会長がお出直になった。大教会史編纂の為多くの時間を費やした私に対して、常に大今里の教会の事を心にお掛け下さっていたので、殊の外、大今里の神殿ふしんの完成を喜んで下さっていたと、冨子奥様から聞かせて頂いた。

平成14年10月には、教祖百二十年祭へ向けての諭達第2号が発布され、年祭の歌が披露された。何故か、この歌には、○○○年祭という言葉が入っていない。

教祖百二十年祭の歌

子供の成人 急き込まれ

現身(み)を隠された 思いは一つ

世界一れつ たすけたい

さあ、をやの心に 溶け込んで

勇んで通る たすけ一条

今、仕切って歩む 成人の旬

今、仕切って歩む 成人の旬

存命のまま お働き

をやの心は ただひたすらに

世界一れつ たすけたい

さあ、一手一つに 誠の道を

楽しみたどる ひながたの道

今、仕切って歩む 成人の旬

今、仕切って歩む 成人の旬

平成15年4月、布教の家大阪寮の育成委員をしていた私は、『にをいがけ・ガイダンス』の冊子を世に出した。布教の家大阪寮の寮生の、日ごろの苦労の積み重ねを形に顕したくて、新書版78ページ。初版が2,000部で、好評の為1,000部を追加出版した。

そんな時、平成16年4月から、Z分教会の後継者O君が、当教会に住み込んだ。その経緯(いきさつ)は、O君は母親の胎内で肝炎ウィルスに母子感染していた。彼の母親は、憩の家の看護師で手術室担当であった。その職務中に感染したらしい。彼が20歳を過ぎてから、B型肝炎・肝硬変・肝臓癌と進行し、この時、余命1年を宣告されていた。何とかご守護頂きたいと諸先生に伺うと、誰もが単独布教を勧められた。そこで彼は、布教の家入寮を志したが、河原町大教会長様から「布教の家は健康な人が入る処だ、身上者が入寮したら他の寮生に多大な迷惑がかかる」と、願書の署名・押印を拒否された。思案に暮れた彼は、私に相談に見えた。ひとりで布教に専従するには何もかも不安である、何か良い方法はないものかと。そこで私は、布教の家大阪寮の寮長先生に頼んで、入寮はできないが、私の教会から通いで、寮生と行動を共にさせて頂けないかと提案した。もちろん大教会にも上級・Y分教会にも内緒である。その為に彼は、自教会の月次祭や、Y分教会の月次祭・青年会・ひのきしんには欠かさず出席しながら布教を続けた。4月15日から翌平成17年3月6日まで、必死の態(てい)でにをいがけに奔走した。しかし残念ながら、皆の卒寮の日を待たず、O君は、3月7日病院に再入院。病状はみるみる悪化し、6月28日帰らぬ人となった。

果たして私のとった行動は、正しかったのか、O君にとって、この1年は幸せだったのか、今でも分からない。

平成15年6月、おぢばでは西境内地拡張・事始のおつとめが勤められ、モッコを担いでの土持ひのきしんが始まった。旧天理中学校跡地から、およそ400mの間を往復する。私は、ある本部員先生に「人間が蟻のように、少しの土を担いで往復するより、ダンプカーやショベルカーで運んだほうが効率も良いのではないですか」と伺うと、先生は「こうして大勢の人のてで運ばせて頂くから、大勢の人にひのきしんをして頂けるのや、更に、こうして何回も往復して、人の足で土を踏みしめるから、しっかりと地固めすることが出来るのや」と、教えて下さった。

西境内地拡張は、延べ88万人のひのきしんの人々によって、25,000㎥の土が運ばれ、平成17年10月31日に完工した。西礼拝場の正面には、スロープが設けられ、更に、西に向かってスロープより少し南に振って西参道が、天理駅前の中大路へと繋がっている。この道は「天理駅」の「理」の文字と、かんろだいの真座を一直線に結んでいると言う。

同時に教化育成の場として、おやさとやかた南右二棟も竣工、陽気ホール・基礎講座に使用されている。

平成16年9月、私は、大阪教区東成支部の支部長に任命された。この土持ひのきしんには支部を挙げて、団参を実施、延べ1,000名近くの参加を頂いた。

また、平成17年2月20日には、唐橋分教会四代会長に大藪幹男氏が就任され、奉告祭が執り行われた。三代安三会長は、平成14年8月24日に脳溢血を患われ、職務の遂行が困難になっておられた。

教祖120年祭は、平成18年1月26日、国内外からの帰参者17万人を迎えて執行された。海外帰参者28カ国と地域から1,304人、団体列車23本・大型バス約1,200台・マイクロバス約800台・乗用車約13,000台で、今までの年祭とは打って変わって、大勢の人々が、幟を先頭に、お揃いの手ぬぐいや、襷をかけての団体行動をするさまとは一変した。木曜日と言うこともあって、家族連れもそんなには目立たない年祭であった。年祭の執行がたった1日と言うのが応(こた)えていた。教祖百年祭の喧騒とウンデンの差であった。当年一年を年祭の年として、おぢばを賑わわせて貰いたいという構想も、境内地拡張の土持ひのきしんの時よりも少なく、二番煎じに終わってしまったようで寂しい年祭であった。

1、 月日のやしろ 教祖が

2、 ひながたのをや 教祖は