教祖年祭と私(Ⅳ)

Post date: 2015/04/03 7:04:38

教祖90年祭も盛会裏に勤め終えられてすぐの昭和51年3月23日から26日まで、河原町では全部内教会長講習会が38母屋に合宿して催された。私は、まだ教会長には成っていなかったが、記録係として臨場させて頂いた。

この席で、深谷善和会長から「今日から、教祖百年祭への第一歩を踏み出すんだという心に成って貰いたい、おぢばでは教祖百年祭を迎えるのに、仮西・仮東礼拝場と言うような何時までも仮の建物では申し訳ない、何とか増改築させて貰わねばという、両統領先生の話の中に、ちらっと出ておりました。そうなれば、河原町は率先しておぢばの御用に伏せ込ませて頂きたい。その為には、直属教会の中で、古い、おぢばに向いていないという教会は、すぐ普請に取り掛かり、3年以内に完成して頂きたい。」と打ち出された。

そこで、河原町の直轄では、赤心・中眞・神美・平安西・滋賀・氷上・下京、等々、ここぞとばかり神殿ふしんに着工、ほとんど昭和54年中には竣工を見ている。

唐橋分教会も明治26年に建てられた古い神殿であったので、すぐさま計画されたが、唐橋の境内地は、昔、西寺の伽藍が有った処から、発掘調査を余儀なくされ、着工が昭和55年9月7日と大幅に遅れ、竣工したのは、昭和56年3月7日であった。

昭和51年5月21日、私は、明一分教会の松井敬子と結婚した。妻は、同年9月から修養科に志願、その入学式の直後、9月2日夕刻、おぢばの北礼拝場放火という大事件が起こった。しかも、放火犯は河原町の部内教会長の縁戚者であった。幸い、迅速な消火活動によって、北礼拝場の約半分に当たる床下の柱と床板の下面を焦がしただけで、神床の手前に大木の梁が横立ててあったので、真座には火が入らず、大事には至らなかった。

真柱様は、全教よふぼくに向けて「火のような情熱、信仰信念の情熱を心に持って、産まず弛まず努力を続けて頂きたい」と激励のお言葉をかけてくださった。この事件から、おぢばでは、東西の礼拝場の本普請が具体的に進められ、南北の木造建築と、東西の新様式の礼拝場を、如何に融合させ、かつ消防法に触れないようにするにはどうすべきか、検討に検討が重ねられた。一時は、南北礼拝場も取り壊して、東西南北すべてを新しく建て替えるという案も出されたという。

昭和52年10月26日、おぢばの秋季大祭終了後、第三御用場につとめ人衆・本部准員・直属教会長・教区長・集会員らを前に、真柱様から、東西礼拝場のふしんが打ち出された。

東西礼拝場は、昭和53年3月28日「事始めのお願いづとめ」をもって、着手され、中庭仮廊下の架設、西回廊の移設、仮西礼拝場の撤去と進められ、同年10月、まず西礼拝場掘り方始め、昭和55年1月28日棟札納め式、昭和56年7月25日から使い初められた。続いて、東礼拝場の工事に着手、昭和58年1月28日には棟上げ、翌59年5月からは神殿上段改修工事が進められ、同年10月24日、雛型かんろだい据え替え、25日、上段改修・東西礼拝場竣工のお礼づとめ、26日秋季大祭の三大慶事が執り行われた。

上段改修により、真座は拡げられ、それまで有った中段・勾欄・しめ縄は撤去され、甘露台が身近に感じられるようになった。私は、この24日の夜、初めて、お面を付けられて勤められるかぐらづとめを拝ませて頂いた。

東西礼拝場は、神殿・北礼拝場に手を触れず、その境目を防火シャッターで遮断、鉄骨に鉄筋を巻き、コンクリートを吹き付け、その上に2寸の檜の板を張り合わせ、南北礼拝場と同じように総檜造りに見えるよう、化粧貼りが施されている。教祖のおっしゃった「四方正面」のお言葉が形を成したのである。

善和会長から直接に伺った話では、私が「東西礼拝場の北側に、中庭に直接降りる階段がなぜ造らなかったのですか」と尋ねると、「そうしたら、礼拝場が3つに分かれてしまう、あくまでも真座を囲む一つの礼拝場なんだ」と教えて戴いた。

昭和56年1月5日、善衞真柱様の作詞・作曲による「教祖百年祭の歌」が披露され、更に1月26日、諭達第3号が発表され、教祖百年祭の意義をご明示下された。

教祖百年祭の歌

中山善衞 作詞・作曲

1、この世と人間創(つく)られた

親神様は実の親

教祖やしろに現われて

説き明かされた元一日を

百という字にふりかえろ

2、地上の月日教祖が

子供かわいい親心(こころ)から

やしろの扉開かれて

現身(み)をかくされた元一日を

百という字でふりかえろう

教祖百年祭に向かって、具体的な形の普請としての東西礼拝場のふしんが進められる一方、「百という字は、白紙に戻り一より始めるを謂う」・「元一日のかえり陽気ぐらしの実践」を旗印に、よふぼくが本当のよふぼくに復元する旬だと指針を示された。

その一つ、天理大学おやさと研究所では、昭和52年、初めて『天理教事典』が発刊された。その河原町大教会の項を、ひょんな事から私が執筆させて頂いた。

また、善和会長が社長を務めておられた天理教道友社では、初代列伝を映像化しようということになり、第一作が「けっこう源さん」河原町の初代会長伝であった。昭和53年3月、善和会長は、島耕二監督に勝るとも劣らない演出ぶりを見せておられた。河原町からも多くのエキストラが出演している。私は、河原町大教会・滋賀分教会・加茂川分教会等の撮影現場や、大映京都撮影所のスタジオに1か月に亘って同行させて頂いた。続いて撫養初代「船乗り卯之助」・敷島二代「根のある花」・「平野楢蔵」と続いて制作された。

また、昭和54年4月から1年間、天理時報に毎月1回、『私論公論』のコラムを一年間。昭和60年4月から、『大望』の閲覧室の欄に読書案内を2年間に亘り執筆した。

昭和57年9月末から、青年会河原町分会では、マイクロバスによる北海道にをいがけ巡回が実施された。炊飯器や寝袋を車に乗せ、9人の若人が北海道に渡った。私も、青年会唐橋分会委員長として参加。公園や季節外れで閉鎖中のキャンプ場に車を留め野営。12カ所の教会とその周辺を戸別訪問。路傍講演、等の活動を展開した。

昭和59年11月27日朝、3年間に亘り、兵庫県尼崎から始発電車で大今里の朝づとめに日参されていたよふぼくが、玉造駅の100メートルの処でひき逃げ事故に遭い即死。という事件が起こった。翌日の新聞にも大きく取り上げられた。この一件から、上垣武一大今里分教会二代会長はすっかり落胆憔悴、身上も思わしくなくなったので、上級会長の勧めもあり、昭和60年4月26日、私は、大今里分教会三代会長の理のお許しを戴いた。奇しくもこの年から、教祖ご誕生旬間が廃止された。

教会長に就任して直ぐから、私たち夫婦は、毎月25日夜に、大阪の自教会を出発、十三峠を越えて徒歩でおぢばへ帰らせて頂いた。暑い日は水飲み地蔵で下着をかえ、こどもの休みの時は子供を連れて、極寒にはリュックの上に霜が降りて真っ白になったり、この徒歩おぢばがえりは、平成12年の大今里分教会の神殿普請まで続けさせて頂いた。

昭和61年1月26日から2月18日まで勤められた教祖百年は、神殿南側に「元の理館」「陽気ぐらし館」「ひながた館」の3つの展示館が造られた。元の理館では「元の理」を表現した全天映画を円形巨大スクリーンに上映。ひながた館は、ジオラマなどを用いて教祖のひながたを立体展示。y陽気らし館では、マルチビデオを用いて天理教の歴史と活動をビジュアルに紹介していた。このパビリオンは大変好評で、連日、待ち受けのため長蛇の列ができた。

私は、河原町詰所で受け入れひのきしんの記録掛。それまで記録掛と言えば豊能の前会長が選ばれていたが、もう既に霊様になっておられ、そのおはちが回ってきた。

連日、帰参者の出迎えや、お見送りに天理駅へ。毎日の帰参者の到着、出発人数・喫食数、そのほか修学旅行会館・本部施設での河原町関係の受け入れ数、等々の記録に走り回っていた。更に西井道一役員・記録部長の命令で、親里で売っている「教祖百年祭・記念」と印字された、土産物を総て買ってこいと。これがなかなか大変、手分けして探しに行くのだが、同じものを購入してはならないし、右往左往したものだった。

1月30日、私は、初めて登殿参拝させて頂いた。直会は無く、酒・みりん・折詰を戴いて、我が教会まで急いで帰り、前会長や近くの信者さんに喫食して頂いた。

年祭期間中日刊天理時報が発行され、『教祖と先人』のコラムに、西井敬一のペンネームで深谷源次郎初代会長のエピソードを執筆したりもした。

この年祭期間中、印象に残っているのは、アルゼンチンの人たちがたくさん帰ってこられ、多くが修養科に学ばれた事であった。

また、白川地区に大型バス900台収容の駐車場が切り開かれ、北大路の乗降場から、白川までの名阪国道を跨ぐ迂回路も新設され、天理市内は大型バスが入れなかった。これで、乗用車の通行がかなり緩和された。

この教祖100年祭期間中の参拝者は、313万人余。うち海外35カ国から5,080人余の人々が帰参した。

今にして思えば、おかえり下された信者さんと、受入ひのきしんのよふぼくが、一体となって盛り上がった、かってない教祖年祭であった。