安藤政輝リサイタル
「宮城道雄全作品連続演奏会 26」
2025/ 7/ 20
*当日配布のプログラムには、「宮城道雄作品年表(その26)」「歌詞」の他、最終回のまとめとして全26回の「演奏記録」「解説者・助演者一覧」を掲載いたしましたが、本Web上では割愛させていただきます。
「絹糸による演奏」については、末尾をご覧ください。
ご 挨 拶
安藤政輝
宮城道雄の全作品を、年代に沿って時代背景を考察しながら弾いていくこのシリーズも、1990年以来これまでに296曲を弾き、今回で26回目を迎えることができました。これもひとえに皆様の温かいご支援の賜物と感謝いたしております。
今回は昭和30年と31年の作品と前回資料が整わなかった曲を合わせ6曲を演奏いたします。
《菊の栄》
菊原琴治検校の13回忌に際し委嘱されて作曲されたもので、追悼曲として検校をしのびつつ、菊原検校の人徳・芸を讃え「菊筋」の発展を祈る祝賀の曲の性格も併せ持つという内容です。曲名や祝儀曲《鶴の声》を取り入れている点などからも単なる追悼曲ではないことが分かります。
箏と三絃、二つの独奏部を持つ、合唱付きの二重協奏曲という形をとっています。 昭和53年に喜代子先生と菊原初子さんとで収録された時には、十七絃を弾かせていただきました。それは平成17年に発売された「宮城社百周年記念 宮城道雄作品規範集成」に収蔵されています。
本日は、三絃独奏に創明音楽会会長・小野正志さんを、三絃パートに創明音楽会の方々をお迎えしました。
《奈良の四季》
歌詞となった和歌の作者は会津八一で、万葉風の歌を詠む歌人でした。
曲の構成は、前奏に続く四季の歌4首とそれぞれの間に入る間奏からなり、前奏・間奏は段合せができるようになっています。
長女の会津蘭さん主催の会には喜代子先生・数江先生に連れられて新潟に伺ったこともありました。
《天神様の細道》
2022年の第22回に演奏した《通りゃんせ》と混同されていた時もありますが、この曲は清水かつらの編作による別の曲です。 オーケストラとのSP版録音が残っていたので、そこから箏の合奏を組み立てました。
《浜木綿》
箏と尺八伴奏による歌曲で作詞も宮城道雄によります。因みに、宮城本人の作詞による曲はこの1曲のみで、1956年6月4日に白良浜ホールで開かれた「宮城道雄先生詩碑除幕祝賀記念演奏会」で初演されました。先生が亡くなったのは20日後の6月25日です。
後に宮城の十三回忌にあたってその横に銅像が建てられ、さらに生誕100年を記念して「天響の門」が加えられています。 後年、命日の6月25日に行う法要行事は「浜木綿忌」と呼ばれるようになりました
《葉げいとう》
作詞は葛原しげるで、久しぶりの童曲となりました。 かつて昭和初年ころに次代を担う子供たちのためにわかりやすいものを、と童曲が盛んに作られたころ、「才能の浪費だ」という意見も出ましたが、それに対する答えが最後の作品となったこの曲であるといえるでしょう。
この曲は昭和31年11月25日に予定されていた「葛原先生 童謡四十五年記念 祝賀会」で演奏される予定でしたが、先生が急逝されたため伴奏は大野萌子さんの代演で行われました。その時のプログラムは、《葉げいとう》《ピョンビョコリン》《チョコレート》《夜の大工さん》《ワンワンニャオニャオ》の5曲でした。 また、私にとっては、「坊やのためにまた曲を作るからね。」とおっしゃっていた先生が遺してくださったものとして大切な曲でもあります。
《 松 》
古来日本人にとって、松はその四季に変わらぬ緑、風雪に耐える姿などから「松竹梅」「羽衣の松」「白砂青松」などと信仰に近い形で尊ばれてきました。
昭和30年に行われた「宮城会全国大会演奏会」のために祝賀曲として作曲されたもので、当日全国から参集した出演者全員が参加できるようにパート別に役割が割り振られていると思われます。すなわち、三絃は割合年齢の高い方、箏は近県の楽器を持って集まれる方、十七絃は大人の男性、その他、声に自信のある方を含めて全国から集まった方々はコーラスを受け持ちます。ちなみに、ソプラノは非常に高く、Aの音になります。弾き歌い用にはできていないのですが、今回は十七絃を含めて弾き歌いで演奏いたします。 会場は当時最大であった東京の日比谷公会堂でしたが、楽器を並べきるのに四苦八苦という大規模なものでした。 作曲の意図は、門下生の機関誌である宮城会々報34号(昭和30年8月20日発行)に「全国大会の合奏曲について」と題して述べられています。 この曲は、それまでに開発してきた大合奏曲の総決算ともいうべき曲といえましょう。
「宮城道雄全作品連続演奏会」は、35年かけて現在演奏可能な全302+1曲を弾き、今回をもってシリーズを終わることになります。最後にまとめとしてこれまでの演奏曲目一覧を掲載いたしました。なお、表中《三つの遊び》や《水三題》、《朝》などは1曲として数えています。また、これまで長期にわたってご協力いただいた皆様にあらためて御礼を申し上げたく、解説をいただいた方、助演をいただいた方の一覧表も掲載いたしました。表を作成しながら、懐かしいお顔が思い浮かびました。3団体と128人の方が延べ417回の助演をしていただいたことになります。
また、資料の提供などご協力をいただきました、葛原 眞、別府明雄、岡田 麗、菊井松音、熊沢彩子、福山圭子、栗山 修、藤本 草、服部文雄、中村俊一、ゼール音楽事務所・寺元 宏の各氏にもお礼を申し上げます。
さらに、第1回からここまで絹糸による演奏を続けてこられたのも、須田邦楽器店・須田日出男、間々田政裕、鶴川楽器店本店・鶴川大騎、丸三ハシモト・橋本英宗各氏のおかげと感謝をしております。
しかし、一番大きな支えとなったのは、暑い時も、寒い時も、お出かけいただいた大勢の方々の温かい拍手でした。初めのうちは平日の夜に開催していたのですが、足下の明るいうちに帰りたい、その日に泊まらずに日帰りをしたい、というご希望が多く、休日の昼間に開催というようになりました。
もう一つ、演奏中のふとした時に聞こえてくる「坊や、頑張ってるね」という先生の言葉も忘れることはできません。
いずれにしても35年というのはあっという間に過ぎてしまった長い年月です。第1回の際にお言葉をいただいた宮城喜代子先生、「終わるまではうかつに死ねない」とおっしゃっていた吉川英史先生も逝ってしまわれました。次ページにお二人のごあいさつ文を掲載して完結のご報告に代えたいと思います。
「宮城道雄全作品連続演奏会」は、今回をもってシリーズを終わることになります。 しかし、今後も体力と気力が続く限り、宮城道雄先生の音楽を弾き、心を伝えていきたいと思っております。 ▲連続
宮城道雄全作品連続演奏会―第26回に寄せて
東京藝術大学講師 野川美穂子
「宮城道雄全作品連続演奏会」は、本日、最終回を迎えます。宮城道雄(1894~1956)の作品のうち、演奏できる全ての曲を年代順にとりあげるという、安藤政輝先生の壮大なリサイタルは平成2年(1990)に始まりました。その第1回のプログラムに、『この人なり 宮城道雄傳』(邦楽社)などの大著を残した宮城道雄研究の第一人者・吉川英史先生は、「演奏史上画期的な壮挙に敬意」と題する一文を執筆し、安藤先生に大きな拍手を送りました。全26回にわたる「宮城道雄全作品連続演奏会」で演奏した曲数は、本日の7曲を含めて、306曲(重複曲を含む)となりました。公刊されていない楽譜を探索し、整え、素晴らしい演奏でご披露くださいました安藤先生に、心よりの敬意を表し、感謝を申し上げます。
今回の7曲を作曲年代順にならべると、大正10年(1921)の《よろこび》、昭和26年(1951)の《天神様の細道》、昭和30年(1955)の《奈良の四季》《松》、昭和31年(1956)の《菊の栄》《浜木綿》《葉げいとう》になります。
今回の中心年代の昭和30年と昭和31年は、「高度経済成長期」の始まりの時期です。昭和31年2月に出版された『文藝春秋』や昭和31年7月の経済白書に記された「もはや戦後ではない」の言葉は、流行語になりました。
宮城は、各地で催される演奏会に駆け回り、ラジオやテレビへの出演、レコードへの録音、宮城会の多くの門人への指導などに、忙しい毎日でした。藝大に加え、NHK邦楽若手芸能家育成会(のちのNHK邦楽技能者育成会)でも教鞭をとり、日本文化を支える人物としての期待は高まる一方でした。その活躍が、昭和31年6月25日の不慮の列車事故によって突然にとまってしまったことは、多くの人に計り知れない悲しみと衝撃を与えました。
吉川英史先生は、宮城への追悼文に、「何といっても残念でたまらないのは、先生の晩年に作曲されるであろう所の、渋くて枯れた曲の出現を遂に見ずに終つたことです。大きな規模や新しい技巧を追求してやまなかつた先生ではありますが、必ずや最後には、古淡な、簡素な芸境に行きつかれることを信じていました」「しかし、現在まで先生が残された名曲も決して少ない数ではありません。箏曲史上では、最大の多作家であり、最も多くの曲を後世に残す作曲家として仰がれるでしょう」と書いています(吉川英史「民衆の芸術家 宮城先生」、宮城会会報40号別冊)。
以下には、本日の演奏順に、ご紹介いたします。
《菊の栄》は、琴治の娘の菊原初子(1899~2001)からの委嘱作品で、初演時の箏の独奏は宮城、三絃の独奏は菊原初子が担当しました。作詞は、教育に関する著書もある米井節次郎です。米井は、自らが校長をつとめる大阪府立泉尾高等女学校の部活動に地歌を導入した人物で、琴治と初子が女学生への箏・三絃の指導を行いました。歌詞は、菊原琴治の功績をたたえ、「菊筋」の繁栄を願う内容です。
宮城は、《菊の栄》の作曲を引き受けた理由と初演時の演奏について、「初子さんは父検校が亡くなられた後も変わることなく一門をひきゐて芸に精進して居られる。その努力に感じて私はこの曲を引き受けたのであった。また、私の師匠の令息中島絃教さんは菊原さんと親戚関係にあるので、私は師匠に対する感謝の気持でこの曲を演奏した」と書いています(宮城道雄「合奏のよろこび」、宮城会会報40号別冊)。
数えで8歳のときに失明した宮城は、神戸で教えていた2代中島検校(初世中島絃教。1830~1904)に入門し、2代没後は3代中島検校(2世中島絃教。1877~1924)に師事しました。この3代中島検校の次男の5世中島絃教(1902~1983)は、琴治の門下で、琴治の娘婿(初子の妹の婿)でした。
「菊原琴治十三回忌追悼演奏会」は蒼々たるメンバーが結集する大きな催しとなり、東京からは宮城道雄のほか、富崎春昇、富山清琴、中能島欣一など、名古屋からは三品正保、土居崎正富など、京都からは萩原正吟などが出演しました。宮城は、この演奏会のおりに、師匠の3代中島検校の奥様と何十年ぶりに会うこともできました。
《葉げいとう》は、昭和31年に作られた童曲で、宮城による完成作品の最後です。作詞は、宮城との長年にわたる親交があった葛原しげる(1886~1961)です。昭和31年は、葛原しげるの童謡生活45周年にあたり、記念行事として、童謡詩集『雀よこい』の出版と祝賀の演奏会が企画されました。《葉げいとう》は、葛原の童謡生活45周年を祝う曲として作られ、昭和31年6月12日に、宮城から葛原しげるに贈られました。しかし、その約2週間後に宮城は亡くなりました。宮城の命日の6月25日は、奇しくも、葛原しげるの70歳の誕生日でした。宮城に対する葛原の追悼文「あゝ、あゝ、実に、何たることぞ」には、数々の宮城の功績に対する敬意とともに、はやすぎた死に慟哭する友人としての心情がつづられています(宮城会会報40号別冊)。
《葉げいとう》は、安藤先生が「ごあいさつ」にご紹介くださっていますように、昭和31年11月25日の「葛原先生 童謡四十五年記念祝賀会」において、宮城の箏と安藤先生の歌で初演される予定でした。祝賀会は予定通り実施されましたが、宮城の急逝により、宮城と安藤先生との共演による《葉げいとう》の演奏は幻となってしまいました。
《奈良の四季》は、昭和30年6月の作品で、同年11月13日に日比谷公会堂で行われた「第一回宮城会全国演奏会」で初演されました。歌詞は、春夏秋冬に対応する4首の短歌の組み合わせで、美術史家で歌人の会津八一(1881~1956)によるものです。4首ともに、歌集『鹿鳴集』(昭和15年)に収録されており、そのうち、〽嵐吹く…」を除く3首は、八一の最初の歌集である『南京新唱』(大正13年)にすでに載っていたものです。4首を歌詞に選んだのは、会津自身と伝えられています。
曲名通り、4首は奈良を歌っており、〽春来ぬと…」には「興福寺をおもふ」、〽初夏の…」には「帝室博物館(野川注:奈良国立博物館)にて」、〽斑鳩の…」には「法隆寺村にやどりて」、〽嵐吹く…」には「薬師寺東塔」の詞書があります。
宮城は、最も好きな現代文学の歌人として会津の名前をあげ、なかでも《奈良の四季》の歌詞に使われている「初夏の 風となりぬと 御仏は…」の短歌を絶賛しています。会津と宮城との親交は、会津の養女の会津蘭が宮城の門下になったことが契機でした。
《天神様の細道》は、従来には、昭和26年作曲の《通りゃんせ》と同じ曲と考えられていたものです。
《浜木綿》は、箏と尺八による歌曲で、昭和31年5月に作曲され、同年6月4日に和歌山県の白浜観光会館で催された「宮城道雄先生詩碑除幕祝賀記念演奏会」で初演されました。宮城が作曲した歌曲のなかでは、唯一、宮城自身の作詞です。歌詞には、白浜の名所である「鉛山」「平草原」「千畳敷」「三段壁」「白良浜」が詠み込まれています。
宮城は、白浜の明光バスの社長・小竹林二氏の招きにより、たびたび白浜に訪れていました。前年の昭和30年の7月にも、「動く応接室」という小竹社長ご自慢の特別バスに乗って、千畳敷や三段壁などを観光しています。白浜の感慨を宮城が散文詩に詠み上げたことを知った小竹氏は、平草原の頂上に詩碑を建てました。その除幕式において、嬉しそうに詩碑をなでる宮城の写真が残っています。その日から3週間のちに宮城の命が尽きるとは、誰も想像できないことでした。
《よろこび》は、尺八の三部合奏曲です。大正10年10月13日に、東京音楽学校の奏楽堂で開催された「第三回宮城道雄作品発表会」で初演されました。「第三回宮城道雄作品発表会」は、第1部の5曲と第2部の6曲の計11曲という意欲的なプログラムで、《よろこび》は第1部の最初に演奏されました。尺八第1パート、尺八第2パート、尺八第3パートのそれぞれが2名、合計6名による合奏でした。
《松》は箏の独奏部がある合奏合唱曲です。現在は「松」の曲名で知られていますが、宮城は当初、「松の賦」の曲名で呼んでいました。昭和30年7月中頃より作曲にとりかかり、10月に入ると各パートの楽譜の整理に入りました。初演は、同年11月13日に日比谷公会堂で催した「第一回宮城会全国演奏会」で、この会の最後を飾る祝賀の大曲として作られました。演奏には、当日に出演した会員全員が参加しました。
宮城は当初、会員以外の人にも参加してもらい、混声合唱や独唱なども含む1000人規模の合奏曲とする構想を立てていました。しかし、日比谷公会堂に並べられる箏の数なども考慮して、会員のみで合奏する作品としました。
歌詞には、大和田建樹(1857~1910)が明治30年に出版した詩集『雪月花』に掲載されている「松」と題する詩が使われています。宮城にとっての「松」の詩は、朝鮮にいた頃から作曲をしたいと願っていたものでした。宮城は、この詩から「根拠のうすい華やかな人生には移り変わりがあり、苦難に耐えて真面目な仕事をすれば、常緑木のような根強さがある」といった人生訓を得ていました。その人生訓は、「「宮城会全国演奏会」を華やかに実施し、宣伝や見得のみに終わらない、実際に芸を磨く根強い会にしたい」という宮城の願望にもつながるものでした(宮城道雄「全国大会の合奏曲について」、宮城会会報34号)。
「第一回宮城会全国演奏会」の翌年の春に出た宮城会会報37号に、宮城は、「松の作曲がおくれて楽譜が整はず心配してゐたが、松も立派に演奏することが出来た。コーラスも内輪だけであれだけ効果が上るとは予想してゐなかった」と書いています。また、「日比谷公会堂での東京を初め全国のみなさんの演奏は意外に反響をよんだことは嬉しかった。私は会がたゞ宣伝にのみ終ることを恐れてゐたが、皆の熱演により競演の形ともなって非常に面白かった。観客もその感じを受けたことゝ思ふ」と、充実した会を実施できたことへの喜びも記しています(宮城道雄「新しい春によせて」、宮城会会報37号)。
昔から、箏の絃は絹糸で、「琴線に触れる」というように美しいものの例えとして用いられてきました。箏の演奏が座敷からホールの舞台に移ったこともあって、張力を増して音量を増加させるようになりました。例えば、古典曲や《初鶯》《高麗の春》などの初期の宮城曲に出てくる「三重押し」も当時の糸の状態からすれば楽に押せたはずです。
宮城先生も、初めのころは18番の太さの糸を使用し、後に17.5番、17番と次第に細い糸を使われていました。糸が細くなるにつれて、迫力感は減っていきますが、澄んだきれいな音になり、弾きやすくまた押しやすくなっていきます。
昭和30年ころから、絹糸の最大の欠点である切れやすさをカバーするものとして、テトロン*やナイロンなどの化学繊維の糸が使われ始めました。
*[東レと帝人が製造するポリエステル繊維]
それまで、お稽古をしようとするとまず糸締めから始めなければならなかったのが解消されたのですから、大変喜ばれたのだと思います。
先生のお稽古は朝一番に宮城寮の寮生から始まるのですが、まず糸締めをして楽器を整えることから始まります。寮生が帰った後は内弟子さんが締めるのですが、私が締めたこともありました。また、舞台での演奏中に切れることも多くあったので、舞台袖には「替箏」が用意してありました。実は今日も舞台袖には替箏が用意してあって、舞台上の演奏に合わせて転調も行い、いつでも持って出られるように、切れた箏を持ち出す人と2名で待機しています。幸いなことに、私のこれまでの舞台で糸が切れたのは2回でした。糸を労わる工夫も必要なことです。
化学繊維と絹糸とは密度(質量)が異なるため、絹糸より強く張らないと音が出ず、押し手の指を当てる位置も1cmほど柱に近い所を押さなければならず、その結果押し手の際に柱を倒すことが続出しました。そのため柱の足(箏の甲に接する部分)を龍角側に延ばした何種類かの「変形」柱が考案された結果、現在は練習用としては幅広の柱が多く使われています。確かに柱倒れは解消されましたが、糸から甲へかかる単位面積当たりの圧力が減り、柱が滑りやすくなってしまいました。1回押して離すと動くのが目に見えるほどです。柱の滑り易さについては、かつて私が細工をした「滑ら柱」を中島靖子・野坂恵子のお二人にお贈りし、喜ばれたことがありました。
また、柱は音高を調節するだけではなく糸の振動を甲に伝える役目もありますが、底面積の増加は滑りやすさに加えて音質・音量も悪化させてしまいました。押し手のない絃には旧来の細型の柱を使うほうが音的には良いと思います。
以上、絹糸とテトロンの糸とを比較してみると、強度・耐湿性・価格はテトロンが優位ですが、弾力性・締めやすさ・弾きやすさ・そして何よりも音色特に余韻の美しさは絹が勝ります。
箏が演奏され聴かれるまでには次のような段階があります。
蚕・桑の生育-生糸の生産-箏糸の生産-糸締め-演奏-聴取。
それぞれ一朝一夕にはできない高度な技術の伝承が必要とされるもので、これら一連の鎖がどこか1か所でも途切れると文化の伝承が途切れてしまうことになります。
以下、順を追って私の個人的な雑感を述べます。
① 生糸の生産
絹糸は蚕が出す細い糸を撚り合わせて作ります。箏糸を分解してみると、初め4本に分かれ、それがさらに45〜70に分けられます。その一番細い糸が、12個程度の蚕が出した糸をまとめたもので、中心にある2本のフィブロンと周辺材のセリシンからなっています。
一般の衣料用と違って、セリシンを除去せずに残しておく「生(なま)引き」が「座繰引(ざぐりびき)」という手作業で行われ、3300個以上の繭から出た原糸280本程度を撚り合わせることによって、1本の箏糸が作られています。
② 箏糸の生産
かつて、宮城先生以来使用してきていた絹糸のメーカーであった常盤糸の三枝さんが生産をやめたとき、非常に困惑した時期があったのですが、丸三ハシモトの橋本さんに研究・改良を重ねていただき、現在に至っています。
③ 糸締めの技術
演奏の際の糸締めは専門家に頼みます。何時・何処で・誰が・何の曲を弾くかによって締め方は変わります。宮城先生の楽器はいつも鶴川喜兵衛さんが締めていました。私も高校1年生の時、一度締めてもらったことがあって、最初柱を立てた時は「なんだ、お年のせいか緩いんじゃない?」と思ったのですが、いざ弾いてみると、弾きやすく、押しやすく、豊かな音が広がって、急に上手になったような気分でした。「ああ、これが名人の技なんだなぁ」と納得したことを覚えています。私の場合は、宮城喜代子先生から薦められて以来須田日出男さんにずっとお願いしてきました。須田さんは「締める箏を前にすると、楽器と一体となった演奏者の姿が現れる」と言っていらっしゃったのが記憶に残っています。須田さんの技術は間々田さんに引き継がれていますが、現在、絹糸を締められる専門家はわずかで、その技術の伝承もおぼつかない状態です。定期的に絹糸締めを依頼する演奏者が非常に少ないためでしょう。
④ 演奏
絹糸による演奏にはいくつかのハードルがあります。その時に最高の状態になるように1回の演奏ごとに糸を締め替えなければならないため、費用がかかります。つぎに、温度・湿度の変化に敏感なので、注意を払う必要があります。演奏のどのくらい前に柱を立てるか、糸をどの程度伸ばすか、さらに調絃も演奏直前に行う必要があり、テトロンのように何時間も前から準備しておくことはできません。例えば舞台で強力なライトに当たると糸は伸びてピッチが下がりますし、幕が上がって客席の冷気がスーッと入ってくるとピッチは上がります。演奏中も撥絃や押し手・ヒキイロなどによって糸の状態は不安定なので、常に音高の狂いを修正しながら弾いていかなければなりません。
また、楽器・柱は絹糸専用でなければなりません。絹とテトロンを混用すると糸が切れる恐れがあります。さらに、本番だけ絹糸を使おうとしても、爪の当て方からして違うためそれは無理で、日常的に使ってこそ絹糸本来の音が出せるものです。そのため、自宅の稽古は絹糸で行っています。日常的な糸切れは演奏者でも締められます。
このように数々のハードルはありますが、それでもなお私が絹糸にこだわるのは、出てくる「音の美しさ」に他なりません。しかし、誤解のないように申しあげたいことは、私は化学繊維による箏糸を否定するのではなく、今後絹に勝る糸ができてくることを望んでいるということです。
⑤ 聴取
絹糸の演奏を生で聴く機会は激減しました。聴き手の「耳」もテトロンに慣れてしまって、聴き比べなければそれなりに「箏の音」と感じているのでしょう。
「宮城道雄全作品連続演奏会」シリーズは全曲・全員絹糸による演奏を続けてきました。今日も大合奏曲が2曲もあるので舞台裏は調絃作業に追われています。基本となる「種箏」を弾く人、調絃をする人、転調の印をつける人、出来上がった箏を引き出す人、次の楽器を差し入れる人の5人が1組になって行います。1分1秒を争う状態なので、チームワークが大切です。演奏の陰には表に現れない技が駆使されています。