安藤政輝リサイタル
「宮城道雄全作品連続演奏会 24」
2024/ 8/ 3 紀尾井小ホール
日蓮上人像(福岡市東公園 2024/3/14)
ご あ い さ つ
安 藤 政 輝
本日はお忙しい中、また暑い中ご来場いただきましてありがとうございます。
宮城道雄の全作品を、年代に沿って時代背景を考察しながら連続して弾いていくこのシリーズも、1990年以来これまでに279曲を弾き、今回で24回目を迎えることができました。これもひとえに皆様の温かいご支援の賜物と感謝いたしております。
今回は1953年(昭和28年)から1954年(昭和29年)の作品8曲を演奏いたします。
野川先生が毎回精緻な年表を作ってくださるのですが、今回は東京大学や早稲田大学での演奏に出演させていただいたことなど、関わりの深い項目があって懐かしく感じました。中でも、「五十周年記念演奏会」の最後に舞台上の先生に花束をお渡ししたことはしっかりと記憶に残っています。
《四季の柳》
箏・三絃・尺八の合奏曲、いわゆる「三曲もの」で、作詞者は磯部艶子です。
柳を女性の髪にみたて、四季の移り変わりを人生の推移になぞらえて歌っています。まず春は「乙女子の振り分け髪」、夏は「たをや女の洗い髪」、秋は「狂女の乱れ髪・もつれ髪」、冬は「老女の九十九髪(つくもがみ)」とし、最後は新年(=長寿)を祝う形で賑やかに終わります。
演奏上では、季節の節目ごとに転調が生じるので苦労します。箏は平調子→四上り半雲井調子→平調子→中空調子、三絃は二上り→本調子→二上り→高三下りとなっていて、特に最後にⅠの糸を上げるのは気を使うところです。
また、三曲合奏形式とは言うものの、古典のように三味線と尺八がべた付けというわけではなく、それぞれの楽器が独立して構成されているのは「宮城三曲」のいつもの形です。さらに、この曲では尺八が休む部分が多く、効果的に使われています。かつて故山本邦山氏は「この曲が好き。休みが多いから。」と冗談を言っておられました。
《たらちねの》
1953年(昭和28年)5月10日の母の日に、文化放送からの放送のために作曲された小曲です。歌詞は『万葉集』巻11-2368番の歌から採られたもので、作者不詳の原文は「垂乳根乃 母之手放 如是許 無為便事者 未為國」となっています。大意は「母親の手を離れて自立して以来、このようにどうしようもない気持ちになったことは一度もなかったのに」と恋する少女の切ない心をうたっています。
《 泉 》
箏・尺八の二重奏曲です。1955年(昭和30年)の勅題「泉」に因んで前年の暮に作曲され、元旦のNHKラジオで初演されました。その後改作されて今日に至っています。
箏による前奏から始まりますが、この前奏はゆっくり始まってだんだん音域が上がっていき、速度も上がり最後は裏蓮の連続となって終わります。この前奏は泉がこんこんと湧き出るところに朝日がさしてくる、というような感じを受けます。その後は箏と尺八が互いに主となり従となって進みますが、その入れ替わりは《春の海》の倍以上に細かく、弾いていて楽しい曲です。箏、続いて尺八のカデンツァの後、初めの主題に戻り、コーダになって華やかに曲を終わります。
歌を伴わない箏と尺八の二重奏曲といえば《春の海 (1929) 》が有名ですが、その他にも《谷間の水車 (1923) 》《春の訪れ (1924) 》《胡蝶 (1925) 》《鈴虫 (1927) 》《こおろぎ (1930) 》《うぐいす (1939) 》《漁村の曙 (1941) 》《迎春 (1950) 》があります。どれも箏・尺八の特性を生かしたそれぞれに特徴のある曲で、先生が楽しみながら曲を作り演奏された様子が目に浮かびます。そしてこの曲が1954年(昭和29年)の作曲で、箏・尺八の二重奏曲としては最後の曲となります。
《三宝讃歌》
三宝とは「仏・法・僧」のことで、3番まである歌詞はそれぞれ「仏:御(み)仏」「法:御教え」「僧:御使い」について述べ、生きる力の糧となっていると謳っています。作詞者は《日 蓮》と同じ佐野前光ですから後出の《日 蓮》と相通じるものがあるのも頷けます。
歌の節も箏の手も易しく作られていて、なるべく大勢の方に演奏してもらいたいという作曲者の気持ちが込められています。
《中空砧》
《五段砧》は光崎検校が19世紀前半に作曲した箏の高低二重奏曲として有名ですが、友人の内田百閒の勧めによって一人で弾く曲として作曲したものです。しかし、単に「《五段砧》の二人分を一人で弾く」というわけではなく、《五段砧》の特徴的な旋律を素材として自由に組み合わせ、新たな独奏曲を作ったという方が適切かもしれません。
《五段砧》を二人で演奏するときは、特に掛け合いの部分など、「一人で演奏しているように聞こえるように弾きなさい」と言われるのですが、《中空砧》では、逆に「二人で演奏しているように聞こえるように」と言われます。その辺のメリハリがこの曲を難しくしている要因かもしれません。
1954年(昭和29年)1月24日(日)は、東京にまれに見る大雪が降った日でした。前年に完成した宮城会館で行われた「宮城門下お弾き初め会」では、恒例となっている最後に弾かれる先生の演奏を皆楽しみに待っていました。ところが、舞台の上にお箏を前にして座られた先生は「今日は足元が悪いので早くお帰りください」と、皆の再三の「ブーブー」にも拘らず演奏はありませんでした。プログラムでは《中空砧》を演奏されるはずだったのですが・・・。
1989年(平成元年)10月に行った「第11回安藤政輝 箏リサイタル-独奏曲の夕べ-」に際して喜代子先生に教えていただいたのですが、その時は手書きの楽譜をコピーさせていただきました。お稽古が終わった後、先生が独り言のようにポツリと「これでこの曲もつながったね」とおっしゃったのが今になって胸にズシリと響きます。
藝大大学院入試の試験曲に指定したりレッスンの課題としたりして弾かれる機会を作りました。楽譜は邦楽社から公刊されたのですが、すぐに絶版となってしまい学ぶ機会が限られてしまっていたので、前譜の修正と演奏しやすいように工夫をして昨年出版いたしました。2011年(平成23年)に刊行したCD『箏独奏曲全集』への収録と合わせ、少しでも先生の御期待に添えたのではないかと考えています。
《衛兵の交替》
箏独奏曲です。1953年(昭和28年)にフランスとスペインで開かれた世界民族音楽舞踊祭の帰りに立ち寄ったロンドンで受けた印象を基に作曲されたもので、《ロンドンの夜の雨》が現地で作曲・初演されたのに対し、帰国後の翌年に作曲されました。
バッキンガム宮殿の衛兵の交替の様子を音で表したもので、風にはためく旗、左から近寄ってきて目の前を通り過ぎ右へ去っていく足音、ラッパ、ピッコロ、小太鼓の音などが表現されていますが、先生の心の中ではおとぎの国のおもちゃの兵隊が行進していたのではないでしょうか。
ところで、昭和28年当時の海外旅行は今では想像もできないほど大変な出来事でした。夜遅く羽田空港へお見送りに行ったのですが、特別待合室には大勢の方が詰めかけていました。直行便ではなく、「南回り」で数か所の空港に立ち寄りながら何日かかけて行くヨーロッパです。先生のお体を皆心配していました。また、1米ドル=360円という固定為替相場で、持ち出せる現金は10万円と聞きました。それだけに、無事にお帰りになったときは皆で大騒ぎでした。お土産に、でっぱりを押すと「ミューミュー」と声を上げる猫の絵葉書をいただきました。何回も押しすぎて穴が開いてしまいましたが。
《ロンドンの夜の雨》
前出の《衛兵の交替》と同様、1953年(昭和28年)にフランスとスペインで開かれた世界民族音楽舞踊祭の帰りに立ち寄ったロンドンで受けた印象を基に作曲されたものですが、こちらは現地で即興的に作曲されBBC(イギリス国営放送)から放送されました。
私がケンブリッジ大学での講習に先立ってロンドンに泊まったのは1983年(昭和58年)7月の初めでした。作曲されたのは7月末ですから、時期もちょうど同じような頃となります。泊まったのはバッキンガム宮殿に近い街中の古いホテル。夕方から雨になり、夜更に中庭に面した窓を押し上げて見上げるとサーッと細かな雨とポタンポタンと窓の縁から落ちてくる水滴が顔にあたり、「ああ、これがロンドンの夜の雨か」としばし感慨にふけったことが想起されます。
《日 蓮》
「交声曲」と題される箏独奏部付の合唱合奏曲です。編成は独奏箏の他、1箏・2箏・十七絃・胡弓・尺八・笙・鞨鼓・打物(太鼓・銅鑼・トライアングル)に、指揮・男性独唱・混声合唱が加わった大規模なもので、このようなオーケストラの形式を取り入れたのはこの曲が初めてとなります。
作詞は福岡県の本佛寺住職・佐野前光で、日蓮上人の生涯と事績を七つのブロックに分けてうたい、それぞれには「胎動」「黎明」「予言」「受難」「旋風」「自覚」「静寂」という副題がついています。
発表の日が決まっていたうえに、NHKからの委嘱《盤渉調箏協奏曲》(第8回で演奏)の作曲も同時進行していたので、藝大のレッスンも休んで「昼夜兼行で行われた」と記録に残っています。
楽器編成は手慣れたものであり、途中までは滞りなく進みましたが、最後の「静寂」に至ってハタと行き詰ってしまったといわれます。曲の最後は盛り上がって終わるのが常道ですが、タイトルの「静寂」と相反することになります。悩んでいたある夜、どこからともなく「南無妙法蓮華経」のお題目が聞こえてきて打開のヒントになったといわれています。しかし、お題目が入ることは、この曲が単なる日蓮宗の宣伝ではなく、より高く広い世界を表現しようという根本精神に反するとして委嘱側は危惧したのですが、出来上がった曲を聴いて感動したと伝えられています。
独奏箏は七つのテーマを繋ぎつつ合奏部に先駆けて新しい展開を進めていきます。前奏の後、「胎動」の箏群によるピチカートにのって合唱が入ってくるところは印象的です。「黎明」の、箏群のトレモロが高揚するのにつれて笙・尺八・胡弓、それに鐘が加わり、夜明けから暁につながっていくシーンも劇的です。強烈な「旋風」が吹いた後、「自覚」では一転して静かな雰囲気となり、佐渡へ流される際の、箏群が奏でる波に揺られて独唱と合唱が絡んでいく場面は何回弾いても感動を覚えます。雅楽の「音取」を模した後、最後は全山が一つになってお題目を唱える中でクライマックスに達し、鐘の一打で曲を終わります。今回は、舞台全体が一つになるという想いから、お題目には箏群も参加することにいたしました。
終わりになりましたが、解説と年表をいただきました野川美穂子氏、賛助出演の皆様、助成をいただきました公益財団法人東京都歴史文化財団アーツカウンシル東京、後援をいただきました公益財団法人日本伝統文化振興財団、日本音楽表現学会、その他会の開催にご援助・ご協力をいただきました皆様に心から御礼を申し上げます。
宮城道雄全作品連続演奏会―第24回に寄せて
東京藝術大学講師 野川美穂子
宮城道雄(1894~1956)は、今年、生誕130年を迎えました。「宮城道雄全作品連続演奏会」は、平成2年(1990)に始まり、本日は第24回です。今回のプログラムでとりあげるのは、昭和28年(1953)と昭和29年(1954)の作品です。宮城道雄が数えで60歳と61歳のときに作られた8曲です。作曲順にあげると、昭和28年に作られたのが《たらちねの》《中空砧》《ロンドンの夜の雨》《日蓮》《三宝讃歌》の5曲で、昭和29年に作られたのが《衛兵の交替》《四季の柳》《泉》の3曲です。《たらちねの》《日蓮》《三宝讃歌》《四季の柳》は声楽曲で、あとは器楽曲です。
この時期の日本は、吉田茂内閣のもと、社会・経済・文化などの多方面において、「戦後復興期」にありました。昭和28年の2月1日にはNHKのテレビ放送が始まり、8月には民間の日本テレビも開局して、街頭テレビに見入る多くの人々の姿がありました。銀座のシンボルとして親しまれた当時世界最大のネオン塔「森永の地球儀」が作られたのも昭和28年です。昭和29年には、映画史に残る名作の『七人の侍』や『ゴジラ』が作られて人気を博し、海外でも評価されました。
昭和28年と29年は、すでに名声を得ていた宮城道雄にとっても、大躍進の年でした。昭和28年2月7日に落成した宮城会館は、演奏会や講習会を催す場所として活用され、宮城社中の結束と活動の充実を促しました。東京藝大邦楽科の学生への指導にも力を注ぎ、そのいっぽうで、全国各地の演奏会やNHKや民間ラジオ局のための録音にも忙しい毎日でした。日本におけるテレビ放送開始から3日後の2月3日には、《春の海》と《さくら変奏曲》を弾いて、テレビにも初出演しています。
昭和28年7月1日から8月12日にわたる約1ヶ月半には、ヨーロッパへの演奏旅行に出かけました。宮城にとっての初めての経験であり、箏曲の歴史に残る出来事でした。舞踊家の西崎緑らとともに、フランスで催された国際民族音楽協会(IFMC)主催の会議に出席し、フランスのビアリッツとスペインのパンプローナで催された「世界民族音楽舞踊祭」にも参加して、見事、第1位の栄光に輝きました。海外でも放送のための録音を行い、パリの放送局とロンドンのBBC(英国放送協会)から、宮城の作品と演奏が放送されました。
帰国後も全国を飛び回る活躍は続き、昭和29年5月28日には、「宮城道雄音楽生活五十年記念演奏会」を開催します。昭和29年には、映画や歌舞伎の音楽の分野での活躍もありました。
以下には、本日の演奏順に、ご紹介いたします。
《四季の柳》は、昭和29年5月28日に日比谷公会堂で催された「宮城道雄音楽生活五十年記念演奏会」の冒頭曲として、門下によって初演されました。同年8月末に宮城会館で行われた「第四回宮城会講習会」では、全国から集まった講習生が《四季の柳》を学び、翌年11月の「第一回宮城会全国演奏大会」でも演奏されています。作詞者の磯部艶子は、衆議院議員・磯部尚の妻で、宮城より箏を習い、和歌にすぐれ、《虫の武蔵野》《遠砧》などの宮城作品の作詞者でもあります。《四季の柳》は磯部艶子没後の作品で、生前の磯部艶子から受け取っていた歌詞を用いて作曲されました。歌詞は、柳を女性の髪にたとえて四季を歌い、長寿を祝っています。箏、三絃、尺八による手事物形式の作品で、《さらし》《八重衣》《古道成寺》などの古典曲の旋律を生かす部分もあります。宮城は、「宮城道雄音楽生活五十年記念演奏会」のプログラムに、「古い型の中に新しい味をもとめたもので、いずれも柳によせて四季の趣を転調などによってそれとなく織り込み、秋の部分には長唄、清元、常磐津など、三味線楽によくある狂乱というような感じを取り入れて舞踊も想像したもの」と書いています。
《たらちねの》は、昭和28年5月10日の母の日に、文化放送のラジオ番組から放送初演されました。「たらちねの」は、「母」にかかる枕詞です。5月8日に楽譜を作り、その日に放送用の録音をした、と記録されています。このラジオ番組では、《たらちねの》を含む宮城の4作品が放送されました。《たらちねの》のほかの3曲は、《母の唄(大正12年作曲)》《子守歌(昭和22年作曲)》《吼噦(古典曲に大正9年に箏手付)》で、いずれも母にちなむ作品です。《たらちねの》の歌詞は、『万葉集』巻11から採っています。幼い頃に母と生き別れした宮城は、この歌に何を感じたのでしょうか。
《泉》は、昭和30年の歌会始めの勅題「泉」にちなんで作られた箏と尺八の二重奏曲です。昭和29年12月20日頃から作曲にとりかかり、27日に完成、5日後の元旦のNHK番組において放送初演されました。その後、昭和30年8月に催された「第五回宮城会講習会」の折に改作されました。宮城は、『宮城会会報』31号に、「この曲のねらいは、静かに湧き出る泉に黎明の灯が輝いて来ると云うような感じの前奏に始まり、その元で人々が幸福に水を汲み交し、又、私の子供の頃、聴いたつるべの音や、その頃見た、一方が下ると、一方が上って行くつるべの様や、美しい花にかこまれた田舎の泉など想像したもの」(一部、会報の字句を修正)と書いています。前奏には、フランスのハープ奏者のアルフォンス・アッセルマン(1845~1912)が作曲したハープの独奏曲《泉》の影響があります。また、『宮城会会報』31号の宮城の言葉にある「つるべの音」に対応する音楽的工夫として、明治時代の中学唱歌《寄宿舎の古釣瓶》(小山作之助作曲)を意識しているところもあります。
《三宝讃歌》は箏伴奏の声楽曲で、昭和28年11月2日に東京神田の共立講堂で催された日蓮宗および日蓮聖人銅像建設五十年慶鑽会主催「日蓮聖人鑽迎の集い」において初演されました。この催しでは、、本日最後の演奏曲の《日蓮》も初演されています。東京での初演に続く11月7日に、《三宝讃歌》と《日蓮》は、福岡市博多区東公園にある日蓮聖人の銅像の前で献奏されました。銅像は、岡倉天心が明治37年(1904)に造ったもので、当時は奈良の大仏・鎌倉の大仏に次ぐ大きさと言われました。現在も、同地にあります。
《三宝讃歌》と《日蓮》は、銅像が建立50周年を迎えたことを記念して、日蓮聖人銅像建設五十年慶鑽会から委嘱された作品です。作詞者の佐野前光は、福岡の日蓮宗寺院である鎮西身延山本佛寺(福岡県うきは市浮羽町)の住職で、同じく慶鑽会から委嘱されて作詞しました。
その後、この2曲は、11月8日に福岡の電気ホール、10日に長崎の三菱会館、11日に熊本・小峰墓地にある長谷幸輝の墓前、12日に熊本の公会堂で演奏されました。長谷幸輝は、朝鮮に住んでいた宮城が、朝鮮から熊本に通って三味線を習った恩師です。
歌詞は三つの詩で構成されており、順に、仏教の基本である「仏」「法」「僧」の三つの宝を歌っています。曲について宮城は、「この曲はなるべく皆さんに歌ってもらいたいと思って歌いやすく作りました。したがって箏曲のみでなく一般の人も唱歌風に唄って結構です。箏の伴奏もなるべく弾き易く…と思って作曲しました。しかし簡単と申しましても精神をこめて演奏してほしいと思います」と解説しています。
《中空砧》は、昭和29年5月28日の「宮城道雄音楽生活五十年記念演奏会」において初演された箏の独奏曲です。京都の光﨑検校が幕末に作曲した《五段砧》に基づいており、前弾-1段-2段-3段という構成です。前弾は宮城のオリジナル旋律で、1~3段が《五段砧》の1~3段に基づいています。曲名の「中空」は、1段と3段が中空調子であることに由来します。
「砧」とは、洗った布をトントンと叩いてシワを伸ばし、柔らかさや艶を出すときに使う台や棒のことで、「衣板」が語源とされます。砧をモチーフとする作品は「砧物」と呼ばれ、地歌箏曲では、江戸時代以来、《五段砧》をはじめとするさまざまな曲が作られました。宮城作品の砧物には、《中空砧》のほか、《唐砧(大正2年)》《砧(昭和3年)》《遠砧(昭和4年)》があります。
《中空砧》は、箏の二重奏である《五段砧》を一人で演奏するという発想から作られた作品です。その発想による作曲を宮城に勧めたのは、親友の内田百閒(1889~1971)でした。シューベルトが作曲したピアノ連弾曲《三つの軍隊行進曲》第1番には、フランツ・リストやカール・タウジヒによるピアノ独奏用の編曲があります。内田百閒は、タウジヒによる編曲版を、レオポルド・ゴドフスキー(1870~1938)が演奏していることを宮城に教え、《五段砧》を一人で弾くように編曲できないか、と提案しました。こうした経緯で誕生した《中空砧》について、宮城は「この曲を一名「百鬼園砧」と称したい」と茶化しています。「百鬼園」は内田百閒の別号です。「ピアニストの中のピアニスト」と呼ばれたゴドフスキーは大正11年に来日しており、内田百閒は彼の演奏会に足を運んだことがありました。
《衛兵の交替》と《ロンドンの夜の雨》は、昭和28年7月1日に日本を出発した宮城が、7月27日から2週間ほど、ロンドンに滞在したときの経験に基づいて作られました。どちらも描写的な音楽表現に富む独奏曲です。
宮城は、ロンドンでの思い出について、「バッキンガム宮殿で聞いた衛兵の交代のラッパの音や行進の音が面白かった。ネルソンの銅像のあたりからは噴水の音が絶えず涼しそうに聞こえていた。テムズ川で聞いた遊覧船の音はジーゼルエンジンでスマートであった。私はロンドン塔も触ってみた。ロンドンは繁華街の賑わいも住宅地もしぐれの雨とともにどこか落ち着きがあった。道行く人の足音も静かに感じた」と書いています。
《衛兵の交替》は、日本に帰国後の昭和29年3月に作曲されました。同年4月18日に広島で行われた「宮城道雄演奏会」で演奏した記録があり、5月28日の「宮城道雄音楽生活五十年記念演奏会」では、宮城門下による《四季の柳》の三曲合奏に続いて、《中空砧》《ロンドンの夜の雨》《衛兵の交替》という順序で、宮城が独奏しました。そして、8月初めに楽譜が作られ、8月末から宮城会館で開かれた第4回講習会では、《四季の柳》《ロンドンの夜の雨》《日蓮》などとともに、楽譜を用いた講習生への一斉教授が行われました。
《ロンドンの夜の雨》は、ロンドン滞在中の昭和28年8月の作品です。ロンドンの日本大使館のレセプションで演奏され、BBCから放送されました。
宮城は、「宮城道雄音楽生活五十年記念演奏会」のプログラムに、「ロンドンの雨はさっと時雨れてまた晴れる。また、時としては、霧のような雨が顔に冷たく感じて夏も涼しかった。それが、ある夜一晩中続けて降ったことがあって、その音を私は何か印象的に感じた。高い建物から伝って落ちる雫の音を、銀色の玉のように想像した。また、ぬれた大地を走る車のわだちの音にも情緒を感じた。こういった印象を取り入れて即興的に作曲したもの」と書いています。
《日蓮》は、すでにご紹介したように、《三宝讃歌》とともに、日蓮聖人銅像建設五十年慶鑽会から委嘱された作品です。作詞も、《三宝讃歌》と同じく、福岡の鎮西身延山本佛寺の住職である佐野前光です。男声独唱、混声合唱、独奏箏、箏、十七絃、胡弓、尺八、笙、打物という大編成の「交声曲」(カンタータ)で、「胎動」「黎明」「予言」「受難」「旋風」「自覚」「静寂」という七つの部分で構成されています。
宮城が《日蓮》の作曲に着手したのは、ヨーロッパに滞在中でした。ヨーロッパに出かける前に委嘱を受けていた宮城には、パリのノートルダム寺院で体験した荘厳なミサが作曲のヒントになったようです。宮城は、ミサの感想を「れいをふる音やお祈りの声、それに合唱やパイプオルガンの音色の美しさが和して、全く天国のようであった。私はこれを聞きながら日本の仏教にもこういう音楽がほしいと思った」と書いています。
帰国後に本格的に作曲を進め、昭和28年10月19日に完成しました。《三宝讃歌》と同様、11月2日に神田の共立講堂で初演され、福岡の日蓮聖人銅像の前での献奏を経て、九州各地で披露されました。昭和29年5月28日の「宮城道雄音楽生活五十年記念演奏会」でも演奏され、日比谷公会堂の舞台いっぱいに並ぶ150人を越える大編成の演奏写真が残されています。翌年6月29日には、東京藝大の第三回邦楽定期演奏会(日比谷公会堂)でも演奏されました。箏独奏を宮城が担当し、藝大教員の同僚である酒井弘が男声独唱を、同じく同僚の城多又兵衛が指揮を担当して、楽器の演奏は邦楽科の学生、合唱は声楽科の学生という編成でした。
《四季の柳》
《泉》
《衛兵の交替》
《日 蓮》