イザベラ・バードが登った樽前山
イザベラ・バードが登った樽前山
「日本奥地紀行」で有名なイギリス人女性旅行家イザベラ・バードは今から136年も前に樽前山に登っています。
平取からの帰路、明治11年8月30日、バード47歳の時です。
平取→勇払→苫小牧→白老→【樽前山】→白老→幌別のルートです。
一日がかりで死ぬかと思うほどヘトヘトに疲れたと書き残しています。
樽前山の何がバードを駆り立てたのでしょうか。
樽前山が広く西欧に知られることになったのはこれが最初です。
ではどのようなルートで樽前山に登ったのでしょうか?
バードは樽前登山の具体的な道筋までは詳細に書き残していないので後世の人が推測したルートしかありません。
一つは白老川説とでも呼べるルートです。
白老川沿いに遡って支流のポンベツ川に入り、温泉の湧きだしを観察する。さらに3時間をかけて白老台地を経て尾根筋に辿りつく。
多峰古峰山の南ピークを過ぎて1時間ほど進み火山円錐丘の頂きにまで至るという説です。
もう一つは別々(ベベ)川説ともいえるルートです。
別々川を渡ってすぐに内陸に向きを変え、13キロ先のほぼ正面に位置する樽前山を目指すように進むこと5キロ強の地点で、二つの峡谷部の間にある渡河の容易な樽前川を渡り、そのまま樽前川と覚生川の間に拡がる火砕流堆積面の樽前川に近い側を直線距離にして約8キロ登っていって支庁界をなす尾根に至りここで向きを東に転じて1キロ先の樽前山のカルデラ壁に至ったという説です。
もし別々川説だとしたらバードは夢苺農場のすぐ傍を馬に乗って樽前山を目指したことになります。
当時既に世界的に名声を得ていたバードが馬に乗りガイド役のアイヌの青年と一緒に未踏の樽前山を目指して登る姿を想像すると、ひょっとしたらこの道は歴史に残る道だったのかもしれないなどと思ってしまいます。
白老町のしらおい創造空間 「蔵」に「イザベラ・バードが歩いた道」の立看板があります。
残念ながら樽前山への具体的な登山ルートまでは書いていませんがポンベツ川のある森野地区を描いているところから白老川説を取っているものと思われます。
バードが白老に泊まった晩、「洪水があり山麓に堆積していた軽石が15マイル(24Km)に渡り押し流され、その厚さが9インチ(23cm)にも達した。」
普通なら恐れをなしてすぐ退去するでしょう。
バードの発想は違います。
山々の間にある崩れた峰を見て古代に出来た石灰華の円錐山の連続体ではないかと考え実地に調査することにしたのです。
そこで馬1頭と1人のアイヌのガイドを雇います。
バードは双眼鏡を持っているので、内陸の右手に樽前火山が聳えている。
内陸の左手に山また山が続く峡谷が見える。
これを確認してから行く先の山をガイドに差し示します。
「私がこのアイヌに与えた指示は、奥地から白老に向かって赤い小石の堆積する川床を泡立ちながら流下っていく二本の川の一つを遡り、私が白老というまで私が指示する方向に山間を分け入っていくというものだった。」
原文を確認してみるとShiraoi riverを行けとは書いていません。
Two bright rivers bubbling over beds of red pebbles run down to Shiraoi out of the back country,and my directions,
which were translated to the Aino, were to follow up one of these and go into the mountains in the direction of one.
I pointed out till I said "Shiraoi."
これしかガイドに指示を出していない。
I said "Shiraoi"は到着の合図のことでしょう。
バードはアイヌの踏み分け道しかないところを樽前山に登り始めます。
道がなくなったら蔓を刈りながら、大木が倒れて進めなくなったら川を横切りながら、顔も手も傷だらけになりながらそれでも馬で進んで行くのです。
1時間に1マイル(1.6km)しか進めないと書いています。
時系列的には概ね次のようなものです。
・何時間も経ってようやくある地点、高度500フィート(150m)の温泉まで来た。
・さらに3時間進むと峰がはっきり見えるところまできた。
・それから1時間進み、ようやく石灰華の山の一つの頂上に辿りつく。
・深くてくっきりした形の噴火口状の空洞を確認した。
この肝心な温泉の場所は”ある場所”としか記述がないのです.
でも高度の記述はあります。
「高度がほんの500フィートほどの地にあるいくつかの深い割れ目に手を入れてみたが、とても熱かったために即座に引っ込めねばならなかった。」
このような場所は果たしてどこにあるのでしょうか?
白老川の上流にあるのでしょうか?
それとも?
白老川を遡ったような記述は他にもあります。
「大雨のために川岸が深くべ具られていたので私たちは森から川に3、4フィートも飛び降りたりよじ登ったりということを繰り返さねばならなかったし、白老川だけでも20回以上も渡らねばならなかった。」
.. by the heavy rains, and sometimes we had to jump three and even four feet out of the forest into the river,
and as much up again,fording the Shiraoi river only more than twenty times, ..
ここではShiraoi riverと書いてあります。
「火山探訪」の章を全体的に読むと白老川を遡って樽前山に登ったように読み取れます。
しかし、白老川の源は白老岳にあり、これで行くとかなりの遠回りになってしまい日程的に無理があります。
バードは双眼鏡で予め地形の全体像を把握してからアイヌのガイドに指示しているのでかならずしも白老川を遡ったとは限らないと思います。
日本奥地紀行は1973年発行の高梨健吉訳が一番古いですが、2012年11月発行の「完訳日本奥地紀行」訳注(金坂清則)では注釈でこの登山ルートの謎に触れています。
「白老川とウヨロ川のいづれかを遡っても樽前山から10キロも離れたところに行きつく。
樽前山に源を持つ川で白老に近いところで太平洋に注ぐ川は、別々川、樽前川、覚生(オボップ)川がある。
そこで、植生の記述と景観描写から真の登山ルートを探る古地図の読図と分析が行われた。
バードが記す道筋、および植生表現を勘案しつつ明治29年測図五万分の一地形図をもとに注釈者(金坂清則氏)が読図・分析した登山ルートを想定しました。」
というもの。
これが前述の別々川説ともいうべきものです。
「想定ルート上には樽前川を渡る手前に笹の草原が広がるし、樽前川を渡った後には左側に尾根筋を目にする形になる。
植生の記述と風景描写が合致するルートはこれしかない。」とも書いています。
「内陸を見るとアイヌが獲物を獲るのに開いた消え入りそうな踏み分け道によってほんの2、3マイル(3~5キロ)入っていけるだけである」
バードはこんな道を進んでいるので現代の地図では判断できないでしょう。
もう一つ川に関する記述があります。
「この火山円錐丘の一部を巻くように細い川が流れ、一部では開削によって赤と黒の火山灰からなる土手が露出していた。」
バードが目にしたこの川は覚生川の源頭部のことではないかと思われます。
樽前山は、バードが登った5年後、31年後に2回噴火しているので地形は変わってしまっているはずです。
明治7年(1874年)中規模マグマ噴火 火砕流 錦岡で層厚45cm。
明治11年(1878年)イザベラ・バードが登山。
明治16年(1883年) 水蒸気噴火 中央火口南麓に長さ50m高さ20mの小丘を形成。
明治42年(1909年)中規模マグマ噴火 爆発的噴火後溶岩ドーム形成。
明治16年の水蒸気噴火で南側の地形が変わっているのでこの時に温泉があった場所が埋まってしまったとしたら?
ポンベツ川の上流に温泉があることは間違いないです。
温泉のあるポンベツ川周辺は白老町森野地区です。
白老川の支流ポンベツ川の合流点からポンベツ川を約3km遡った所の小支流沖野沢に4箇所の温泉露頭があります。
昭和初期に沖野温泉がありましたが、温度は低く31.9~37.8℃しかないと記録されており現在は自噴放置状態にあるようです。
「高度が同じところで温泉に出会ったがとても高温で華氏の沸点よりも上まで目盛りのある温度計が壊れてしまった」
この後に8.5分で茹であがった卵の話が出て来ます。
35℃くらいの温泉ではこうはいかないでしょう。
それとも昔、この温泉はもっともっと熱かったのでしょうか?
樽前山は現役の火山ですから山体が冷えるのは考えにくいです。
別々川を遡るルートでは残念ながら温泉が見つからないのです。
上流に昔、温泉があったとして明治16年の水蒸気爆発と明治42年の溶岩ドームが出来た時の爆発で埋まってしまったということは考えられないでしょうか?
「何時間もの退屈、しかもくたびれ果ててしまう仕事であった。
ようやくある地点まできたが、そこには大きな割れ目が数か所あって煙と蒸気を噴出し、時々地下から爆発音をたてていた。」
「After hours of most tedious and exhausting work I reached a point where there were several great fissures emitting smoke and steem, with occasional subterranean detonations.」
原文では a point としか書いていません。
樽前山麓はなだらかな丘陵地なので”何時間もの退屈極まりないしかもくたびれ果ててしまう行程を経て”当時の道なき道を行くとこういう表現になるのではないでしょうか。
前日、洪水が起きたばかりの白老川を遡ったならこうはいかないと思います。
別々川を通ったという説を支持していますが、謎を解く鍵の温泉の痕跡を見つけないことには...
イザベラ・バードが樽前山に登った本当の道筋は?
毎朝、雄大な樽前山を仰ぎ見ながらそんなことを思ってしまいます。