が4月30日に亡くなったと吉村さんから知らせがありました。
葬儀は近親者のみで既に執り行なわれ、また故人の遺志により弔問・香典・供物・弔電はご辞退申し上げますとのことです。
小学生の時から身体が大きく卓越した運動能力の持ち主でクラスの仲間から尊敬を集めていたことを思い出しています。岡本さんのご冥福を祈ります。
卓治先生は長い間早稲田高等学院の教頭をされておられ、僕の長男、もう60歳を超えましたが、が学院生の時代の教頭先生であられました。
残されたご遺族の方々には心からお悔やみを申し上げます
寂しいです。謹んで故人のご冥福をお祈りいたします。 福島正明
昔からチビの部類で運動神経欠如の私から見ると、運動神経抜群の岡本さんは2組加藤嘉男学級の英雄でした。運動会、水泳大会ではいつもヒーローで、1組と2組の対抗野球試合では2組のエースで4番、女性クラスの3組からも熱い声援を送られていました。
6年生の時の水泳大会の50m競泳では、同じ2組の須賀次郎さんがライバルで、二人同時に飛び込んだのに岡本はすぐに泳ぐのをやめて立ち泳ぎをしているじゃないですか。私たちは声をかぎりに「オカモト!何してんだ、泳げよ!」と叫び続けました。須賀から15mくらい引き離されてから泳ぎ始めた岡本は、私たちの大歓声を受けながらなんと最後のぎりぎりで須賀を抜き返したのです。後で聞くと、「飛び込んだらパンツの紐が解けてしまってね」とのことでした。この時の須賀さんは完全なヒール役でした。
なお、須賀次郎さんは言うまでもなくその後は日本のダイビングの草分けとなり今やレジェンドとなりつつも未だ先頭に立って活躍中です(須賀次郎)。山形 達也
小学校の頃は、サッカーで一緒に遊び、古い理科の雑誌の貸し借りをしたりしていました。岡本さんに新宿高校に行こうよと、誘ったのは私でした。 能崎章輔
オカタクさん、亡くなられましたか! 残念なことです。附中2Bでご一緒でした。職業は早稲田高等学院の国語科の主任でいらしたと思います。
職業が似たようなものだったので、同期会でお会いすればお話しておりました。私の歌集にも懇切なご批評を賜りありがったかったことを記憶しております。
最後の思い出は品川での同期会の帰り、道を歩きながら「短歌は今も作っている? がんばれよ」と声をかけて下さったこと。寂しいです。 大窪和子
岡本さんのご冥福をお祈りします。 有村喜久子
が2024年4月12日に亡くなりました。
謹んでご冥福を祈ります。
が米国で2024年1月23日に亡くなったことを若林之矩さんから知らされました。土方さんから、三橋さん、近藤さんへの追悼文を23年11月にいただいたばかりです。土方さんのご冥福を祈ります。
謹んで故人のご冥福をお祈りします またご遺族の方々には心からお悔やみ申し上げます
仲が良かった三橋さんの御逝去のお電話を三橋夫人から頂きすぐにアメリカの土方さんに連絡させて頂いたのが昨日のようです 三橋さんは2022年7月12日 逝去されました 人生 少し早いか 少しおそいか にすぎません 福島正明
土方さんが逝去された由、伺い本当に驚きました。山形さんからいつも転送されてきた土方さんの近況を拝見して、まだずっとお元気で、米国で活躍されるのだろうと思っていたのでしたが、寂しく残念なことです。ご冥福をお祈りしたいと存じます。 鈴木審平
土方允久君の思い出
土方允久君は本年1月22日脳血管障害で亡くなった。彼が短期の日本帰国もあきらめ、看病した夫人キャサリンさんも2週間後に後を追うように亡くなった。
私の家は狭い道をへだてて土方外科医院のほぼ真向かいにあった。物心ついたときから棒切れを持って近くの寺の墓で戦争ごっこをして遊んだものだ。しかし間もなく空襲がひどくなり、允久君は学童疎開、私は縁故疎開で散り散りになり、疎開から帰ってからも允久君は学芸大学附属小、私は区立小、中学は私も附中に入ったが別クラス、高校、大学も別ということで、二人だけになると親友という関係であった。時折土方宅で都立高校の仲間が麻雀をするとき、人が足りないと私が欠員補充に駆り出された。允久君はよく疎開の話をした。いつも空腹の話だった。
允久君がアメリカの大学で研修を受け、その病院で働いていること、アメリカ人と結婚したことなどを後から知った。
時が経って、土方君が小学校の同期会に帰ってくることを三橋君から聞き、以来毎年三橋、兵藤、私の3人で土方君の宿泊しているホテルへ行き、朝食を共にし、2~3時間話して別れることが慣例となった。彼は昼夜多忙で、空いている時間は朝だけだった。
彼は前立腺がんの専門家で放射線による高度の治療をしていたと聞いていた。当時はその治療を日本では受けられず、財界人などもアメリカに行って土方君などに治療をしてもらっていたと聞く。だれもが、土方先生は親切で、丁寧で、手紙、メール、電話などで細かく指導をしてくれた、と言う。
允久君は2018年以来夫人の看病で帰国出来なかったが、愛兄貞久さんには毎土曜日電話をくれたという。毎回友人こと、昔の思い出、日本のことなど40~50分話していたそうだ。一言で言えば、「心優しい人」であった。物心ついてから今日までよき友を得ることができたことは感謝である。 若林 之矩
土方さんとは附小では別でしたが、附中では同じクラスでした。私も同じ東横線・都立大学(小学校に入った頃は都立高校)駅に住んでいましたし、子供の時から怪我の時には土方さんの父親の経営である土方医院にかかっていましたが、お互い顔を知っている以上の付き合いありませんでした。
大学の受験では東大に受かっているのに慶應に行ってしまった土方さんの名前が記憶に残りましたが、疎遠のままうち過ぎた60年を経てやっと二人の間に交流が生まれました。それは2014年に中国から帰ってきて、それまで数十年ご無沙汰していた附中同期会に顔を出したところ、今までの不義不忠の埋め合わせに次の同期会の集まりの幹事をしろと言われたのがきっかけでした。
日本の事情が少しわかってくると、同期生より私の方がPCやネットに詳しいことがわかったので、童喜会のWebsite作りを提案して実際に公開のSiteを作って、同期生のためのWebsiteを始めました。もちろん同期生の方々からの投稿があってはじめてWebsiteが維持できるのですが、その貴重な寄稿者の一人が土方さんでした。
土方さんは日本を遠く離れた米国在住のためでしょうか連絡をすると、友達でもなかった私を懐かしんでくれたのか、お互いの間でメイルのやりとりをするようになり、そのおかげで彼の優しい心遣い、思いやりに満ちた心情に触れることができました。
土方さんとは数年間のお付き合いでしたが、彼の逝去の報に接して悲しみと同時に温かい思い出が心に満ちてきます。彼は今年の1月に亡くなってしまいましたが、同期生の私たちはこの世を去る時期が多少前後しているだけです。
また会う日まで!の悲しみです。 山形達也
が2024年1月30日逝去されました。
謹んでご冥福を祈ります。
田中千秋さんご逝去とのこと、驚きました。もうお会いできないのは寂しい限りです。
たしか、中学校から私たちの仲間入りをされたと思いますが、比較的おとなしいけれども、言ってみればネアカの明るい人柄で親切な友人でした。クラスに田中努さんと二人の田中さんがいたので、名前のほうをあだ名にして、「チアキン」、「ドンチャン」と呼ぶようになったと記憶しています。
千秋さんから源氏物語を拝借するために一回だけ自宅にお邪魔したことがありました。池上でしたからサロン・ドンチの会でお邪魔するときに大岡山駅のほうから来て下っていく坂を下って、田中努家をすぎてさらにまっすぐに行くとすぐに池上になりますから、昔のままのお宅に住まわれていたのならば比較的両家は近いのではないかと思います。
中学を卒業してから後は特別な接点もなく、ご無沙汰してしまいました。伊藤姓になっていたことは知りませんでした。
ご冥福をお祈りいたします。鈴木審平
謹んで千秋さんのご冥福をお祈りします。そしてご遺族の方々に心からお悔やみ申し上げます。 福島正明
若林さんに続いて伊藤さんと 同級仲間の悲報に接し、寂しい思いがつのるばかりです。
伊藤さんとは退職後の登山仲間だったので 山の苦楽を共にしたことが一番の思い出です。
北岳にグループで登ろうとした時 私は少し風邪気味で一日目に体調を崩し 二日目の朝に一人で下山しました。後で聞くとその直後に彼は足がつってやはり一人で下山したとのこと、二人とも登頂できなかったのなら一緒に下山すればよかったねと笑いあったものです。
彼は健脚だったので 私が登りたかった剣岳に一緒に行ってくれないかと誘いましたが、受けてもらえず、結局私の未踏の山になってしまいました。
何故あの時だめだったのかと今でも恨めしい思いが残りますが、これも彼との懐かしい思い出です。
彼は帝国ホテル内に東洋ポーセリンというお店を経営し、主に外国人向けに国内の優れた焼き物などを商って晩年まで多忙だったようです。
広く国内を歩き回ってはよいものを探しておられたようでした。これには一流品を見分ける目が必要で、すごいことだと思いました。
思い出は尽きません。
葬儀には都合で参列できませんが、ご冥福をお祈りするばかりです。
合掌 森 利英
田中千秋さんのご冥福をお祈りします。有村喜久子
が2024年1月2日に亡くなりました。
旧姓・清沢さん。附中時代はキヨべと呼ばれていて神秘的な文学少女でした。
キヨべのご冥福を祈ります。
キヨべさんの訃報、誠に残念です。謹んで故人のご冥福をお祈りします。残されたご遺族の方々に心からお悔やみを申し上げます。キヨべそしてサエ(山形夫人)、堀江先生に連れられて東北周り琵琶湖の大津にそして京都見物した事、夢のようです。
「人間五十年、下天の内を比ぶれば夢幻の如くなり」
悲しいです。心が波打っております。福島正明
とても残念です。文学少女で、はるかに先を歩んていたのだなということを、当時の作品を大学生になったあと読んで感じたものでした。ご冥福をお祈り致します。鈴木審平
童喜会でお会いできることを期待しておりましたが残念です。ご冥福をお祈りいたします。田中努
きよべも亡くなって寂しくなりました。きよべとさえは読書、遊びいろいろな面で影響を受けた先生でした。その頃のことが走馬灯のようにここ何日か頭に浮かんでいます。有村喜久子
キヨべとはクラスが一緒になったことがないので附中時代は話したこともないのですが、キヨべに憧れている人が多かったのではないかと思います。親友の一人がキヨべに恋焦がれて大いに悩んでいたので、こちらは奥手の子供ながらもドキドキして眺めていました。
その影響でしょうか、中3の京都修学旅行で行きの列車に乗っている間、キヨべの好きだと言うヴェルレーヌの詩「秋の日の ヴィオロンのためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」を一所懸命覚えようとしていた記憶があります。もちろん、覚えられませんでしたけれど。
胸に模様の入った青いセーターを何時も着ているキヨべでした。そのキヨべと何時も一緒にいたのが、十年後に私の妻となった三枝貞子だったのです。
悲しみを噛み締めています。山形 達也
三橋君とは附小以来の親しい仲で、近年でも月に3〜4回は電話で情報交換をしておる仲でした。
亡くなられた日も当時おられた介護施設の彼の携帯に電話を何回か試み,応答なしのため自宅に電話した所,奥様にーー先ほど亡くなられたーーと訃報を知らされました.合掌🙏。
何十年も色々と小学,中学の情報を教えてくれて私を時代遅れとせずに守ってくれた事を本当に感謝しております.三橋君も若林君も絵画の造詣が深いためちょうど開催されていた谷夫人の属する絵画の展覧会も見ることが出来ました。
ちょうどそこに居られた長岡ー旧姓ーーさんは,私の小,中、高の友人の岩田満多志君のお隣りとの事で岩田宅で麻雀などの時はあまり大きな声で騒ぐな と岩田君から言われていました。岩田君は今どうされておるのでしょうか?誰かご存知ならお教えください.
今後も出来れば帰国旅行するつもりですので童喜会の皆様にお会いする事を願っております。
皆様お元気で 土方允久(20231115)
が2023年の9月18日に亡くなりました。
近藤治郎さんのご冥福を祈ります。
近藤くんは浅間疎開以来の附小、附中での親しい友人である。いろいろと一緒に遊びまた教わったことが多いが特に思い出して強く残っているのが、疎開での悪さ、大相撲見物、鮒釣りである。
浅間温泉の悪戯は我々2名他2名による松本電鉄への悪戯である。幸い大事には至らなかったが交番で先生と共に謝り、もちろん後で先生に散々叱られた思い出がある。多分饗場先生だと思うが加藤先生も居られたかもしれない。疎開の思い出の記に一部始終を書こうと思ったが近藤君のダメだの一言で没となりました。
相撲見物は多分小学高学年の時で両国の国技館はまだ再建されてなく日本橋の浜町の仮設相撲場に2人でいつたのである。私の記憶ではこども二人だけである。尤も行った先では近藤家のご贔屓の長谷川という相撲茶屋が案内、世話をしてくれた。近藤家の贔屓力士は当時小結であった力道山であり、その日は負けたことを印象深く覚えている。テレビのなかったその頃映画でのニュース以外で相撲を見たのは初めてあり、その後しばらく私らは相撲に夢中になったものである。
サロン・ドンチ田中努君が書かれている様に近藤君は田園調布の大きな庭のある家に住んでおられたが、その一画に我々より1、2歳上の男の子がいるご家族が住まわれていた。その男の子が我々2人をヘラブナ釣り好きとさせ、当時は用水や池、湿地だらけの武蔵小杉の池につれて行ってくれたのである。ヘラブナは釣れるときにはバカ釣れするので病み付きとなった。15年くらい前に武蔵小杉に行ったが高層ビルだらけでこの地のどこで我々少年が釣りを楽しめたのか、あれは夢か!と思えました。この鮒釣りは大学生の頃まで続き九品仏の池で大量に鮒を釣り、大学の生物学教室に実験教材として買い取って貰う事もありました。
この近藤君が立派な心臓、血管外科医となり三橋君などの数回の手術のときに良い相談役となりました。感謝いたします。近日、私も君の専門分野で手術が必要かもの事態が出てきて現在、もし生きておられたらば相談も出来たのに、、、と残念に思っています。相撲観戦や、鮒釣りの時の様な助言を天国からお送り下さい。一度君と患者は医者をとことん信ずるべきとのことのに関して議論してみたかったと思ってます。
ご冥福を祈ります。 土方允久
近藤君の家は田園調布にあった。私にとって田園調布は小学校の帰り道の乗換駅に当たるので、よく途中下車して近藤君の家に立ち寄らせてもらった。
近藤君の家には広い庭があったので、キャッチボールや三角ベースなどをすることができた。何人か集まって日暮れ頃まで遊んだ思い出がある。庭が広いので子供にとっては大きな野球場だった。庭の一角には畑もあり、手ぬぐいを被った人が手入れをしていた。その人が近藤君のお父さんで、農林省の偉い方だという話を後で知った。近藤君のお兄さんもいて時々ノックなんかもしてくれた。このお兄さんはその後若くして著名な建築家になられた。台所には見たこともない西洋式の冷蔵庫もあった。
近藤君との思い出はその辺で途切れている。次に会ったのは品川でやっていた頃の附小の同窓会だった。になられた近藤先生に、僕らのやっている普通の仕事と違って心臓の手術はさぞ大変なお仕事でしょうと尋ねたら、近藤君は、心臓の手術も君らのやっている仕事と変わりはないよ、とこともなげに答えられた。改めて敬服させられた一瞬だった。 田中 努
近藤さんの訃報に接して驚きました。近藤さんから親切な医師としてアドバイスを頂いたことが有益で、忘れたことはありません。彼が言ってくれたのは、医師にかかるならば心から信頼してかからないといけない、中途半端にしか信頼できないのだったら、その医師にはかからない方が良いということでした。これはいい助言だと実感しています。本当に感謝しています。ご冥福をお祈りします。 鈴木審平
が2023年9月3日に亡くなりました。1936年7月27日生まれの旧姓山口さんは附中以来シュアリーというあだ名でした。ミス川島の授業の時何故か、sureをsurelyと言ってしまうので、たちまちシュアリーと皆から呼ばれるようになったのです。
都立大学附属高校からドレスメーカー学院に進学したのでデザインの目利きでしたし、洋服が大好きでした。
お茶目なところがあり、悪戯好きで周りの人を楽しませ、人と付き合うことが大好きでした。いつも明るく笑っていながら、人に言うべきことはきちんと述べることのできる人でした。好奇心も旺盛で、後期高齢者となってからもピアノを習いはじめたくらいです。
長女の知帆さんは利江さんを人生の生き方のお手本と見做していたとのことです。
有坂利江さんのご冥福を祈ります。
が2023年7月3日に亡くなりました。1936年9月27日生まれの内田さんは慶應義塾大学工学部を卒業して以来、横河電機一筋に生き抜いてきました。1999年には社長、ついで会長、最高顧問と生涯現役でした。
2023年4月にはもの造り企業の経営について博士論文を書いて博士号を得る予定で慶應大学大学院の博士課程に進学しましたが、病のためそれは叶わぬ夢となりました。
5月23日の童喜会では、慶應大学大学院で歳若の教授と若者たちの中で博士論文の準備に胸躍らせている話を伺ったばかりでした。
清く明るく、お天道様に顔向けできない生き方はしないという信念を生涯貫き通し、自分にも人にも誠実に生き抜いてきた友人の存在を忘れることはないでしょう。
内田さんのご冥福を祈ります。
内田 勲さんは附中で私とクラスが違ったので、一年前までは全く知らない人でした。2022年6月谷弘志さんの追悼の集まりがあって赤坂の店に早く着いて座っていると、後から入ってきてテーブルの真向かいに座った人がいました。誰だかわからず「あなた誰だっけ?」と声をかけると「内田です」と返事が返ってきたので「あ、マスク外してみて」。
マスクを外した内田さんの顔はすぐに昔の印象に結びつきました。これが内田さんとの60年来初めての会話でした。
2022年の秋にそれまで存続した同期会は解散して、その後は有志の集まりの「童喜会」と変わりました。私はその世話人を志願したので、その後は自然と内田さんにもメイル(もちろん、同期生に送る一斉メイル)で頻繁に連絡するようになりましたが、驚いたことにはメイルを送ると必ず、しかも直ちに内田さんから返事が来るです。忙しいに違いないのに、いつも必ず、直ぐにです。
2023年の春からは慶應大学大学院博士課程に入るつもりだと聞いていたので、お正月の挨拶では、「頑張れ がんばれ 内田!」と書いて送りました。すると彼は返事の中で、「自分の話し方を、山形さんのように、論理の筋道の通った話し方に、変えるのを目指している」と書いてきたのです。
事務的なメイルを送るだけの約2ヶ月の短い付き合いで、山形は論理の筋道の通った話し方をする、と言われるなんてあり得ないと思いました。理系人間に関する一般的な見方に基づく言葉に思えたのです。それで、ほんとかなと喜ぶよりも単なるリップサービスに聞こえるよ書き送りました。
すると内田さんは、自分の生き方として今まで口先だけのサービスは絶対にするまいと誓い、それを実行してきた、国内外の何万人もの社員をまとめて成果を出し続けるためには、自分がやりたくないことはやらせない、言わない、を守り通してきた、だからあのように書いたのは自分の心情の発露なのだと書いてきました。
私はなぜあのように自分が反応したのかを、自分の生き方を振り返ることで総括しました。そして、元来全くのダメ人間だったけれど、生まれ持った性格に反する懸命の努力をして、色々と学んで人として成長してきたと今は思う、今の自分があるのはほとんどが結婚した(小中高の同期生だった)三枝貞子のおかげだと書きました。
これに対して内田さんは、自分も心情を吐露したけれど、山形も同様に心情を曝け出して嬉しい、さらにいうと、山形に親しみを感じていたのは山形が三枝貞子と結婚していたと知ったからだ、あの三枝さんが選んだ人なら、間違いない男だと直感したことも事実で、確かに短い付き合いだが、直感が正しかったことを嬉しく思っているという返事でした。
彼の返事は私の琴線に見事に触れました。さすが多くの人の上に立った人です。経営の才能もさることながら、人として実に誠実で見事な人物であることに感銘を受けました。
このような人にこの歳で出会うことができた喜びは大きなものでした。しかし、それをゆっくりと味わう時間もなく内田さんは世を去ってしまいました。短い期間ながら濃い関係を持つことができたことを、喜びと悲しみの綯い交ぜの気持ちで振り返り、還らぬ友を偲んでいます。
「自分の国は自分で守る」、そのためには国内にしっかりした「ものづくり」を守り育てることが必要であるという内田さんの信念を多くの人たちが継ぐことを期待します。 山形 達也(20231120)
が2023年6月3日に亡くなりました。平林さんは旧姓長岡さん(1936年8月31日生まれ)で、附中では1年上の姉の長岡信子さんのあだ名がノブであることからケブと呼ばれて親しまれていました。
ケブは東京女子大学のメサイアを学生時代から歌い始め、生涯延べ50回近くの公演に参加するほか、附中の緑友ハーモニーの不動のメンバーでもありました。附中の「元気会」にも参加していて度々海外の山に登っていました。家族を愛し、たまプラーザの家の庭の草花を愛で、千葉(旧姓本庄)玲子さんにピアノを習い、イタリア語を勉強し、日曜日には柿の木坂教会の礼拝に欠かすことなく参列するのがケブの生活でした。
ケブは絶対にぶれることのない人だったと、夫の栄一さんは語っておられました。
ケブのご冥福を祈ります。
細谷資博さんの悲報に接し、痛惜の念でいっぱいです。
一昨年の同期会(2015年)の席で、細谷さんがクラリネット演奏を披露された時の写真が見つかりましたので添付します。園田太嘉雄 (20170114)
細谷さんとは1組、餐場先生のクラスで一緒でした。比較的おとなしい方で、人懐こい感じだったと記憶します。自然科学も歴史も、幅広く興味を持たれていたようで、そのころからいろいろ教えていただきました。絵がうまく、きれいな、感じのよい絵でしたが、その繊細で美しい雰囲気は最近まで変わらず、皆様がご存知のとおりです。
よく一緒に遊びました。当時は野球がぼくたちの人気スポーツでしたが、上手な人は軟式ではあるものの硬くて当たると痛いボールを使う野球に夢中になっていきましたが、私たちは柔らかいゴムまりのボールで、「ヘッポコ野球」と称する、独特のルールを備えた「野球もどき」を屋上の小さなスペースでやったものでした。細谷さんは、その両方につきあっていました。
彼とよく遊んだのは、紙を切り取って力士をつくり、勝手な名前をつけて取り組ませ、机や地面に描いた土俵の周りをトントン叩いて勝負を競うのです。スーパーサイコロジーか念力か何だかわかりませんが、気を入れて叩くと結構、迫真の勝負になるところが面白くて彼と私も含めて数人がこの遊びにはまりました。
中学校から、細谷さんはご家庭の転勤などの事情で東京を離れましたが、この遊びは中学校になっても続いて、「運動会の最中にあっちこっちで、応援もせず競技そっちのけでトントントコ地面をたたいておる者がいる」と、東先生に教室でみんなの前で我々が注意されたことがありましたが、その時は、彼はもういなかった時期のことです。
社会人になってからは同窓会でしか接点がありませんでしたが、会えば必ず示唆に富んだことを教えてくださり、ノウハウ交換をさせていただいたものでした。日本尊厳死協会の存在を教えていただいたのも細谷さんでした。
目が悪くなっても、明るく元気に積極的に行動されていたので、こちらが大いに励まされる気持ちになったものでしたが、突然のご逝去を本当に残念に思います。
ご生前のさまざまなご交誼に感謝いたしまして、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
鈴木審平 (20170113)
小学校の時の同級生だった田宮務が亡くなったと聞いて、びっくり。会おうと思ったら会うことが出来たのに、何時でも会えると思って先延ばしをしていた自分を後悔して、知らせのメイルを読みながら、涙があふれた。
この歳になれば、何時だれが死んだっておかしくないことは百も承知している。でも田宮は、小学校を卒業して以来、変わらない若々しい面影のまま私の心に住みついているので、晴天の霹靂の思いだった。
昭和20年末の東京第一師範付属小学校で私は、その一年前に縁故疎開や学童疎開で離散した生徒を集めて男女合同で再開した3年生のクラスだった。疎開に行ったまま戻ってこない生徒数の減少を補って、4年生、5年生のはじめに補欠募集をして生徒が増えて、再び私のクラスは2組の男子クラスになった。
田宮が入って来たのはこの4年生の4月からだったように思う。正確には覚えていない。戦後の小学校教育はそれまでと大きく様変わりして、クラスの中に5-6人くらいからなる班が作られて、そこが学習の単位、自治活動の単位となった。
この班割りが、担任の加藤先生に依るものなのか、自主的なものなのかも今は覚えていないが、気付いてみると、私は何時も田宮と同じ班にいた。
何時のころからか、私はクラスで「お嬢さん」というあだ名を貰い、ことごとに山本とか野村とかの悪童どもに、あだ名がお嬢さんだからという、それだけの理由でからかわれていた。
田宮は「おじいさん」と呼ばれていた。これは田宮が温厚で、決して荒げた態度を人に示すことがなかっただけでなく、彼が述べる意見には人を承伏させる重みがあり、何時も大人の判断力を示していたことを全員が認めていたからだろう。
田宮は私がいじめられていても特にかばうことはなかったが、私が悪童どもに追われて半泣きで教室に逃げ帰ってくると、彼らに向かって「もういいじゃないか」というのだった。私に向かっては元気ないじめっ子も、田宮には歯が立たなかった。田宮の身体が大きかったと言うことはない。私と変わらない小柄な背丈だった。それでも、悪童は田宮に言われると威圧されて、私にそれ以上何も出来なかった。
勿論、そのくらいだから、田宮が私をお嬢さんと呼んで嘲笑することは決してなかった。
小学校の卒業式のあとの謝恩会で3組の女子クラスは、卒業する生徒を指名して芸をやらせるという演し物を用意した。田宮は、ラジオで野球の実況解説をするアナウンサー役に指名され、渡された原稿を読んだ。顔を紅潮させながら明瞭な早口で、彼は見事に演じきった。ついでながら、私は自分が指名されたらどうしようと一人やきもきしたのに、お呼びは掛からなかった。その頃も女生徒の目にとまる存在ではなかったわけだ。
田宮は卒業の時には小学校卒業時に伝統となっている滝澤賞を、クラスでは大須に次いで二番目の席次で貰った。つまり、田宮は成績も良かった。
でもあの頃のぼくたちには、成績がよいかどうかは友だちと付き合う上での基準ではなかった(その後だってそうだ)。信頼できるかどうか、これがすべてだ。田宮は小学校の間、ぼくが心の底から尊敬する友人であり、何かにつけて頼りにしている友人だった。田宮が言ったからと、田宮の言うとおりに振る舞っていたような気がする。田宮は今の言葉で言うと私の守護神だった。
大人になって年賀状をやりとりするようになって、田宮とも年賀状を交わすようになった。それが、私たちが働き盛りだった40歳代のころ、やがて途絶えた。田宮がどうしているか、どうしても分からなかった。
それから約二十年経って田宮の消息が知れた。事業の上で友人の借金を連帯保証したために、その2億円の負債を一人で背負った田宮は一切をなげうってその返済に努め、それを返し終わったあと、再び同窓会の私たちの前に現れたと人づてに聞いた。
やがて、千葉の金谷に、今は住んでいることを知った。子供相手の事業も続けながら、毎年正月には、はるかに千葉の海を眺められる自然の中でゆったり暮らしている様子を、50首くらいの和歌に読み込んで、それが「金谷の里」という小冊子になって送られてきた。
心和む歌の数々だった。どの歌にも解説が付いていた。大きな夢とそれを打ち破る手ひどい挫折があっただろうに、穏やかな響きが歌の隅々まであふれていた。
今年も2月に私が日本に一時休暇で戻ったときには、「金谷の里」が届いていた。ぱらぱらとめくって今年は歌の数が少ないことがちょっと気になった。それでも、又あとで見ようと本を自室の机に置いたまま、私は中国に戻った。
もう60年近く、田宮には会っていない。でもその間、私の心の中で田宮がにこにことしたあの頃の顔で、私を何度励ましてくれたことだろうか。田宮の身体がこの世から消えても、これは変わることはないだろう。私が生きている限り、田宮は私の心の友人として生き続ける。 山形 達也 (2010年06月06日 アメーバブログ)
二日前、田宮 務が亡くなったと聞いて私は彼の思い出を書いた。その後、もしやと思ってインターネットで「田宮務」を入れると数件のヒットがあった。そのうちの一つは、私が「瀋陽だより」で2004年に書いたものだったが、それ以外に、二つが見つかった。どちらもSawadaさんという写真家のブログだった。その一つを引用する。
「金谷の里」(http://sawada-studio.com/blog/2010/01/post-287.html)
『2010年1月24日 コーヒーを飲みながら先週キンダーの代表、田宮務さんから届いた短歌集のページをめくる。
田宮さんは年に一回、現在住んでいる千葉県金谷の豊かな自然の移り変わりやその時々の心境を歌った「金谷の里」という自作の短歌集を発行していて今年で第九集となる。
その歌集を読めば田宮さんの一年間の様子や心境が手に取る様にわかってしまう。
短歌というとチョット退屈なイメージがあるが、ユーモアのセンス抜群なのでとても面白い。また、解説があるので素人にも分かりやすいのだ。
今回の短歌集で私が一番好きな歌です。
齢重ね 生きてる事の 幸せは 一椀の飯 二合の 晩酌
<解説> 若い時はそれなりの野望や自負等で勢いのある生き方があると思って暮らしていましたが、この年齢になると飯が旨いと感じたり僅かな酒に酔い、安らかに眠りに入る事等が幸せな生き方ではないかと感じるようになりました。(金谷の里 第九集より)
第十集、楽しみにしております。』
これは私も印象に残った歌だった。
Sawadaさんは写真家で、仕事の関係でブログを書くだけでなく連絡先も公開しておられる。それで、澤田光伸さんに衝動的にメイルを書いた。前のブログに書いたように、田宮とは60年近く会っていなかったけれど、ずっと彼のことは懐かしく思い続けていた。
その私の知らない田宮の人生と仕事の軌跡と交わった人を見つけて、無性に嬉しくなったためだと思う。
直ぐに澤田さんから返事が来た。
それによると、『キンダー(田宮務が代表である会社で、幼児教育や一泊保育を行っている)では「ちゅうちゅうマン」と言う名前で園児や先生達に親しまれていました。「良い子にはホッペタにチューをします。悪い子にはお尻にチューをしちゃうぞ~。ムッムッムッムッム~」といった感じで大人気でした』とあった。
昔の友人の、私の知らない人生に触れた方から頂いたメイルで田宮務のその後の人となりが鮮やかに浮かんできた。彼に死なれたことを知って胸に出来た空洞が、ほわっとした暖かさで少し埋まった気がする。
彼が多くの人たちに親しまれて、田宮にふさわしい人生を生きたことを知って、とても嬉しかった。しかし「金谷の里」第十集を見ることはなくなってしまったのが悲しい。 山形 達也(2010年06月08日 アメーバブログ)
以下は花まる学習会代表 高濱正伸さんの書かれた追悼のブログです
それほど深くお付き合いしたということでもないけれど、人生の分岐点において、その存在が大きな影響を与えてくれたという人がいるものです。私にとって、田宮務さんがその一人です。キンダーという、幼稚園児のお泊り保育の会社の社長さんでした。
高校生や大学受験生を教えていた31歳のころ、夏の息抜きのつもりで、アルバイト雑誌で見つけ申し込みました。ニックネームはマンマン。「やる気満々のマンマンでーす!」と大声を張り上げ、プールで鬼ごっこをし、キャンプファイヤーでパンダに入り、歌って踊って走って遊びぬきました。
そして、ハートを射ぬかれました。年長児たちの、居るだけできれいで可愛くて愛おしい存在感。どんな仕草をしても、ただもう可愛い。木陰での昼食のときなど、「マンマンはお弁当ないの?」と聞かれる。スタッフはあとでササッと食べることになっているのですが、「そうなんだよ。忘れちゃった」と言ってみたら、「じゃあ、あげる」とおかずの一つをくれる。何人も何人も。指の動き、優しい心…。もうそういう一つひとつが、受験の厳しい戦場から夢の世界に入り込んだように感じて、夜中には日記を10ページくらい書いたことを記憶しています。
花まるでは私の代名詞のようになりましたが、クワガタ体操も、初めて一泊した朝、田宮さんがやっていたのに感動し、翌朝には「私にもできると思います」と申し出て、以後ずっとやらせてもらったのでした。「今まで東大生はどいつもこいつも理屈ばかり言って使えなかったが、君は見どころがあるよ」と可愛がってくださり、一週間、一泊ずつ7つの園を担当しました。そして、自分の中で何かが変わりました。
当時、息抜きせざるを得ないほどに、実は進路について迷っていたのです。芸術(音楽)か、教育かだ。予備校講師?もう一度医学部を受けなおすという道もあるぞ、バイト先ではどこも「うちに就職しろ」と言ってくれたし、それぞれに面白かった…。まだ大学院に在籍していて、教授からは特定の就職先を勧められてもいました。
しかし、そんな拡散した悩みが、たちまち一つの大きな渦になり、心が決まりました。やっぱり子どもたちといよう!いつかオリジナルのサマースクールを作ろう。長年感じてきた「ひきこもり」「思考力の低下」「生きる力の低下」「大人になりきれない親」などなどの問題を全部解決するような、人がやったことのない教育を考え出してみよう…。
それから3年近く、キンダーの仕事を夏ごとにやり、複数の塾で様々な学年の子の指導をし、卒園生の学習の面倒をみているある幼稚園のお手伝いをして考える中で、設計図は整いました。33歳の終りに人の力を借りて会社設立。低学年の野外体験や思考力指導を軸とした花まる学習会を立ち上げたのでした。
今思えば、田宮さんは、迷いのジャングルで出くわし、「おいそこの。こっちの道はどうだね。楽しいよ!」と木の上から話しかけてきた森の妖精のようでもありました。
田宮さんとの出会いがなければ、花まるもサマーも存在しませんでした。
その田宮さんが亡くなったと聞いたけれど、授業でお通夜に、講演で告別式に出られない。何とかお顔だけは拝みたいと、講演会が終わり次第走って電車に飛び乗り、乗り換えて房総の端にある町の火葬場にたどり着きました。突然夏が来たような日で、汗だくで走っていくと、今まさに扉をしめるところ。1分も遅れたら間に合わなかったでしょう。もう一度棺を引き出してくれたので、その顔に「ありがとうございました。あなたのおかげで、子どもたちといられる楽しい人生です」とお礼を言いました。