田中 秀憲
昔から、読書感想文が嫌いだった。
本を読むのは好きだった。配られた教科書を最初の1ヶ月で全て読み終えるタイプで、幼少期一番の娯楽は読書だった。ずっと国語が一番の得意科目だったし、今の仕事は国語教育の研究者だ(何なら「言説分析」という、国語の教科書や教材文、カリキュラム策定に関わる政府答申といった文書を分析する方法論である)。とにかく読書感想文が、本当に厄介だったのだ。しかもタチの悪いことに、8月の終わりに泣きながら書いたその作文は、毎年クラス代表に選ばれ、地域のコンクールで「入選常連」だった。だから当時を知る人たちは、この告白に驚くだろうし、当時の筆者自身もまた、かくも「得意」な読書感想文が、これほどまでに「嫌い」なのはなぜか、うまく言語化できずにいた。
国語教育の研究や勉強をする現在、こう言えるような気がしている。(当時の自身を取り巻いていた)読書感想文とは、本当に感想を綴る文章なのではなくて、あくまで「傾向と対策」に即した「感想」を「作る」文章であり、それが納得できなかったのだ、と。実は、感想文を書く過程で、本音を書こうとする瞬間はあるのだが、それらはしばしば「未熟」「適当」だと怒られた。一部そのままにして出したら、コンクールに送られる直前にそこだけ直された。「褒められる」作文に、「私」自身がさらけ出された素直な感想は、どこにもなかったのだ。「私」そのものでなく、「大人」が「褒めたい」と思えるような自分を演じた成果物への評価——その後の反抗期が長引いたことは、言うまでもないだろう(苦笑)
……なぜこのような話を、突然ここで書き始めたのか。それは、学費問題が捉えられ、語られ、聞かれようとする、その瞬間にあるかもしれない困難——とりわけ「立場性」に対する認識や付き合い方に近接する問題が、含まれるような気がしてならないからだ。
1.社会的認知を表象する「批判」
このコミュニティや、さまざまなアクター(他のコミュニティや学生運動、マスメディア、マスメディアに属さない記者、政治家、市民等々)の活動が社会へ浸透し、高等教育における学費問題は、一定程度、社会へ認知されつつあるように思われる。とりわけ筆者は、社会的認知の高まりを「私たちアクターに対する疑義申し立ての高まり」から感じている。
学費問題へ抗う私たちアクターに対する疑義申し立ての一例として、「言う相手を間違えている」というものがある。ここで具体的な参照元を示すことは控えるが、気になる読者は是非SNS等で検索してみてほしい。次のような「呟き」を見つけることは容易いはずだ。「大学当局もまた被害者なのだから大学へ訴えるのは間違っている、だから政治へ訴えるべき」「(高等教育の運営や予算を担当する)省庁は政府の方針に従っているに過ぎないのだから間違っている、だから政治家へ訴えるべき」「結局は与党に伝わらないといけないのだから野党議員とだけ連携するのは間違っている、与党議員へ訴えるべき」「政治家は世論で動いているのだから政治家に言うのは間違っている、世論を動かすべき」等々。
「言う相手を間違えている」論をひとつとっても、その具体は多種多様なわけだが、これらはいずれも、学費問題へ抵抗することを否定するものとはいえなさそうだ。つまり、抵抗の否定というよりは、批判の対象がより「的確」な相手へ「移る」よう提案しているようにもみえる。
まず言っておかなければならないのは、少なくともこのアクターにおいて、ここで「提案」されている相手に対する訴えや提案、アプローチは、すべて行っているということだ(本サイトは、その根拠自体でもあろう)。だから、「間違えている」論は、少なくとも本アクターにおける活動の全体を把握したうえで批判しているというわけではおそらくなくて、報道やSNSでの投稿などで、活動の一部を知り、その活動に対して思うところを記しているのだと思われる。アクターに属する一人としては、もっと調べてから書いてくれ……と思わないではないのだが、一方で、こうした情報との付き合い方は、情報の氾濫する現代においては一般的なものだろうとも考える。また、そうした「誤解」に対して事実を伝えていくことは、インターネットが日常化している現代の社会運動における、ひとつの形態ともいえるかもしれない(もちろん、だから今日の社会運動はとてつもなく大変なわけで……)。
2.「間違えている」認識を構成するもの
だが筆者は、「間違えている」論を、ファクトチェックや情報検索を「間違えている」者らによる「クソリプ」としてのみ扱うべきではないとも考える。もっと言うと、ここに映るのは、現代社会におけるメディア情報の混迷や利用者の「困難」だけではないと考えている。「言う相手を間違えている」論に映っている、「敵を見誤るべきではない」という見解や、そういった認識をも構成する情報の構築と、それらに付随する立場性の問題について、もっと焦点を当てて考えておくべきではないか——筆者はこう思うのだ。
「間違えている」論が、SNS等で呟かれているものであることは先に述べた。言い換えると、私たちのアクターに属しているわけではない、外部からみえる姿に対して向けられたものである。実際、SNSで「間違えている」論を提起しているのは、管見の限り、私たちアクターの構成員や関係者ではない。
実は、「間違えている」論という形ではもちろんないが、どのような立場に向けて意見を発信するか、その際の形式や方法などについて、私たちアクターで話題になることが度々あるのだ。また、いわゆる党派性や政治思想を越境した集まりであるという性質上、互いの信条に触れうる会話が起きた際、一方の党派性や思想で「正しさ」を決めるのではなく、合意形成に向けた対話が試みられてきている。そして、それらについて話す過程で、より多様な立場との連携を模索したり、時に誤解やすれ違いを生みかねない対話やその内容を「すれ違わせない」ための方略を仔細に検討したりすることが、日常的に行われている。言い換えると、「間違えている」論が持っている視点自体は、アクター内部における議論や検討でも持たれうるものであるのだ。とすると、「間違えている」論と私たちアクターは、共鳴しうる視点や発想を持ちながらも、二項対立的な状況に置かれてしまっている、と理解する可能性が開かれる。
だが、改めて現実に目を向けると、「間違えている」論の批判は、私たちアクターの構成員を消耗させたり、論争に発展したりすることがしばしばある。起きている状況に開かれうる新たな「読み」(≒理解)の可能性が、現実の痛みや争いを埋没させるべきでないことは言うまでもない。ここから問われるべきは、連携できたかもしれない「もう一つの未来」の可能性を提示することによって、それがいかに閉じられたかである。
3.認識の構成と跳ね返り——学費問題の「立場性」試論へ
「間違えている」論と私たちアクターが、連携しうる可能性という「想像の」未来の側ではなく、二項対立状況への並置と論争という「実存の」現実へ帰結しているのか。本稿では、この問いへ答えを提示するには残念ながら至らない。これに対する「正解」は一つではなく、応答もまた多様であろう。筆者の立場からは、これまで一貫して問題の根底に横たわってきた、インターネットやSNSを中心とした情報によって(学費問題それ自体とはまた違う意味での)立場性が構成されてしまうことによって生じている問題ではないか、と感じさせられることがある。
というのも、「間違えている」論は、大学教員や若手研究者といった立場からも少なからず提起されている現実があるからだ。筆者は、大学院の博士課程で学ぶ学生であり、同時に、複数の大学で非常勤講師として働くことで生計を立てる立場でもある。学費問題に対する筆者の立場性は、博士課程という「学生」と、非常勤という雇用関係において脆弱な「教員」の双方によって形成されている(同時に、このアクターの構成員という立場性もある)。そのような立場だからこそ、学費問題に対して「教員」「研究者」と「学生」という、ふたつの立場性に依拠する異なる意見や見解が生まれ、双方に属する者はそのいずれかの性質を強く帯びている、というような理解に陥りたくない、という思いが強くあるのだ。
なぜなら、こうした認識は(現在はアクターの「外部」へ向いているかもしれないが)学費問題を捉えようとする私たちの個々自身に対する認識枠組みとしても、容易に跳ね返り、うつるからである。たとえば、マスメディアやSNSで、より多く取り上げられる意見や見解、それに付随する立場性が「正解」で、それ以外が「間違い」だと感じてしまうことはないか。それは、あくまでマスメディアやSNS、もっというとその先にある社会によって構築された、恣意的な認識、いわば蜃気楼や陽炎(かげろう)のようなものに過ぎない。だが、恣意的な認識に「寄せよう」とする、あるいは恣意的な認識の枠組みに沿って自己や他者を理解しようとすることで、陽炎は簡単に「実写」化する。干からびながら実写化した陽炎を目指して歩む先に、「オアシス」など決して存在しないのに。
ちなみに、博士課程で学ぶ筆者は、「学振」を受けているわけではないし、昨今外国人差別が問題化するJST-SPRIMGの支援は、大学が申請していないため、そもそも受けられない。そのため、非常勤講師として生計を立てるわけだが、大学院生にとっての大学非常勤とは、研究者として将来的に生計を立てるうえでの貴重な履歴でもある。ゆえに筆者は、きわめて「恵まれて」いるともいえる。だが、研究と別で取り組み、週の大半の時間を必要とするその仕事の収入は、学振やSPRINGといった(博士課程在籍中の研究に対して適用される)支援額よりも遥かに少ない。
その意味で、博士課程の大学院生という括りのなかでも、筆者はかなり特殊な立場性である。だから話題や文脈によっては「他者」だと認識されるだろう。それでも、「私」にマイクが回ってきたとき、マイクから語られる声は、学費問題へストレートな当事者性を持つ「私」が剥き出しのそれだと期待される。話題や文脈に対して「当事者性」や「立場性」に濃淡がついてしまいかねないその場面で、自身の立場性はまさしく問題(トラブル)としてさらされることになる。そのとき、「私」はいかに悩めばよいのだろうか。「褒められる」言葉を、身体を捩りながら絞り出せばよいのか。それとも、他者としてあるべき言葉の「傾向と対策」を追い求めるのだろうか。「正解」を出せない者として割り切り、「正解」ではないと思いながら言葉を語るのか。あるいは語るのを辞めるのか。はたまた……。