2026年度学費負担軽減!
高等教育予算拡充を求める
5・8院内集会
教員の発言
高等教育予算拡充を求める
5・8院内集会
教員の発言
2025年5月8日に開催しました、「2026年度学費負担軽減!高等教育予算拡充を求める5・8院内集会」における教員の発言です。
※当日、時間の都合や体調不良により登壇が実現しなかった教員の原稿も掲載しております。
※所属・肩書等は当時のものです。
実際のスピーチのようすや、院内集会全体の内容につきましてはこちらの動画をご覧ください。
https://www.youtube.com/live/V8ODuZ-3APk?si=OLpiA-R36204tJgu
また、Change.org様にダイジェスト動画を作成していただきました。以下よりご覧ください。
武蔵大学の大内裕和です。
長年、奨学金制度の改善と高等教育費負担引き下げの運動に取り組んできた私は、2024年5月、「高等教育費負担軽減プロジェクト」の一員として、オンライン署名「高等教育費や奨学金返済の負担軽減のため、公的負担の大幅拡充を求めます!」を呼びかけました。
丁度それと同じ時期に、東京大学で学費値上げの動きが発覚し、学生による学費値上げ反対運動が広がっていることを知りました。それ以来、学費値上げに反対する学生の皆さんの動きと、どうしたらつながることができるか、を常に考えてきました。
2025年2月13日、オンライン署名を呼びかけた「高等教育費負担軽減プロジェクト」は、高等教育費の負担軽減を求める」院内集会を開催しました。そして何と偶然にも同じ日に、学生の皆さんが「苦しむ学生の声を聴く!」院内集会を開催しました。そして、私たちが主催した院内集会で発言された金澤伶さんが、同じ日に行われた学生たちの院内集会の様子をリアルに伝えてくれました。このことにより、学生の皆さんの運動と、私たち中高年世代の運動が有機的に結びつき始めることになりました。
そして今回、学生と私たち大学教員が力を合わせて、本日の5・8院内集会を作り上げようということになりました。
2025年4月14日、私は、仲間の大学教員とともに、[緊急]「2026年度学費負担軽減!高等教育予算拡充を求める5・8院内集会」の参加を広く呼びかける文章を発表しました。
学生と大学教員とはその立場は同一ではありません。教員は学生を評価し、進級・卒業を判定する立場の存在です。また教室における教員から学生への言語行為にも、そこにミクロな権力が働いていることは、フランスの哲学者ミッシェル・フーコーが明らかにした通りです。しかし、学生と大学教員の立場が異なっていることは、連帯の不可能性を意味することにはなりません。
学生が学費値上げや大学の管理強化といった抑圧を受けているのに対して、大学教員も激しい攻撃にさらされています。
予算カットによる労働強化や非正規化、日本学術会議「法人化」の動きに見られる「学問の自由」への攻撃です。フランスの社会学者ピエール・ブルデューが明らかにしたように、現代の新自由主義独裁は、学生の「学ぶ権利」、「学問の自由」、大学の研究・教育の「公共性」といった「普遍的価値」を奪いさろうとしています。
今こそ私たちは、大学や学問の「普遍的価値」を擁護するために、学生と大学教員という立場の違いを超えて連帯すべき時です。本日の集会が、その第一歩となることを心から願っています。本日の5・8院内集会を何としても成功させましょう。私の話は以上です。
現在は1970年代あたりからの様々な常識が問い直される時なのかもしれません。だとすると、受益者負担モデル一辺倒でなされてきた大学学費のあり方も考え直すべき時ではないでしょうか。
一定条件を満たした家庭にのみ、あとから経済的援助をするのではなく、政府が直接に高等教育予算を拡充し、学費自体を安くする措置が求められています。「無償化」のための経済的援助が少しずつ始まっても、依然として大学の学費への家計負担が重い国の一つです。
1965年から2023年までの間に国立大学学費はなんと名目価値で44.6倍(実質価値だと7.5倍)となりました。その学費上昇は1970年代から本格化し、バブル期に本格的な上昇を遂げました。
私立大学と比較して不公平でないように、というのがその理由になっていました。しかし、その上昇率はあまりにも急であり、昨今だと私立大学の側は学費を値上げするときに「国立大学ほどの値上げではない」という説明をするようになっていると聞きます。
過去に学費が急激に上昇したバブル期においては、皆、まだ将来に希望を持っていました。現在は将来の所得が増える見込みがないのに物価高で人々の暮らしは苦しい。一番、学費上昇が耐えがたく感じるタイミングで値上げが検討されています。
学費値上げが急激になった1970−2000年代は、学生や教員・研究者の訴えが次第に聞き入れられなくなっていく時代でもありました。
2000年代に省庁改革の過程で内閣府に総合科学技術会議(後に総合科学技術・イノベーション会議、CSTI)が成立すると、大学の政策にも大きな影響を及ぼすようになりました。
国立大学が法人化されたのもこの時期です。
その一方で、学者の代表を集めた組織であろうとした日本学術会議は次第に政策とのリンクを失ってきました。
近年も総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)は、国際卓越研究大学制度や大学ファンド運営といった一連の政策を打ち出していますが、その議論の中では高額な米英の大学が常に注目されています。
とりわけ、米国で1970年代以降に発展した「受益者負担モデル」を取り入れた米国の大学は好まれてきました。それは米国が福祉国家路線から新自由主義政策へと舵を切る中で定着したモデルであり、公立大学にすらも受益者負担主義を求めました。こうした米国型の「稼げる大学」は世界中の政策決定者を魅了し、「大学改革」の波が各国に訪れました。
しかし、彼らが充分に考えてこなかったのは、そうした大学のあり方が社会にどのようなメッセージを与えるかということです。
どんなに学費のための経済援助を充実させても、「本来なら高い学費が必要」というイメージは、余裕のない家庭で育った若者に大学進学を躊躇わせる効果を持つでしょう。
あるいは、それで進学できても「分不相応な場所にいる」とか、「級友と違って自分は援助を受けなければならない」といった意識を植え付けられてしまうかも知れません。
これは全て、もしも「誰もが無料(あるいは低額)の学費で大学に行ける」社会であれば、本来考えなくても良いことです。学費を低額にすると、富裕家庭ばかりが得をしてしまうから平等ではない、という議論を展開する識者がいます。
しかし、それは金銭面にしか着目していない発想だと私は思います。金銭以外の面に着目する必要があります。たとえば、そうした投資があれば、少なくとも低所得の家庭で育った子は引け目を感じづらくなる、尊厳という面ではより救われるでしょう。
また、何より大事なのは、富裕な家庭の子も親に反抗すれば、貧しい子と同じ状況になり得るということです。学費への投資で得をするのは、既に富裕な親ではありません。それはまだ何も持たない子が、自分のために未来を決めるためにも必要な投資なのです。
高等教育予算拡充は、若い世代の誰もが引け目を感じず、経済的条件で進路を左右されずに生きられる未来のために必要です。この集会がそのための大事な転換点となることを願っています。
皆さんはよくご存知だと思いますが、学費値上げの背景に国が教育や科学研究にお金を出さないことがあります。
人文・社会・自然科学の基礎研究を支える科学研究費は今年3300億円。しかし今年の防衛省の研究開発費はその2倍の6400億円もあるのです。おかしくないですか。しかも2020年には1600億円で科研費より少なかったのですが、5年間で一挙に4倍です。
なぜ急増したのでしょうか。専守防衛を掲げる日本は、これまで長距離ミサイルや攻撃的兵器は所有しないと世界に約束し、その研究もしませんでした。しかし3年前に敵基地攻撃能力を持つと決め、中国を射程に入れた長距離ミサイルや最新鋭戦闘機の研究などに莫大な費用を投じ始めたのです。憲法9条を掲げる日本が絶対に使ってはならない人殺しの兵器のために、教育も基礎科学研究も犠牲になっています。
しかしお金があっても研究者がいなければ研究はできません。そこで大学で軍事研究をさせたいのです。戦後日本の大学は、平和と人々の幸福のための学術研究と教育の場であり、軍事研究はしないと宣言してきました。その原点が、戦争加担を反省して結成された日本学術会議の1950年声明「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない」でした。2015年、安倍政権が軍事研究の新たな制度を創った時にも、学術会議は「学問の自由」を侵す可能性が高いという2017年声明を出し、今も多くの大学が応募していません。
そのことに激怒したのが軍拡派であり、安倍・菅政権は、学術会議に圧力をかけるために2020年に6名の任命拒否を行なったのです。さらに当時の下村自民党政調会長は「防衛省の研究を認めないなら行政機関から外れるべきだ」といい、2020年12月に早くも自民党は学術会議法人化を提言しています。それが今、国会で審議されている法案の元なのです。
これは憲法23条「学問の自由」を支えるために作られた学術会議を廃止し、新たな特殊法人にするものです。「独立性を高めるための法人化」というのは大嘘です。現行法の「独立」という言葉も新法案にはありません。しかも総理大臣が任命する「監事」は強大な権限を持ち、学術会議の業務全体をチェックし、さらに総理大臣任命の「評価委員会」が活動の評価、計画立案、予算にも口を出します。完全に総理大臣の統制下に置かれるのです。
この法案が通れば、現行学術会議は亡くなりますから2017年声明も死文と化し、大学での軍事研究は一挙に加速されるでしょう。大学院生や学部生も研究を担わされます。しかも軍事研究は秘密とされ、経済安保法により重要な研究には守秘義務が課せられ、もらせば懲役刑になります。中国などとの研究交流の制限も強まるでしょう。
「開かれた交流が、科学の過程の本質を成し、また、科学的成果の正確性及び客観性の強力な保証を与える」(2017 ユネスコ勧告)という学術の在り方が根本的に変えられるのです。
軍事研究だけではありません。従軍慰安婦やフェミニズムの研究者には科研費を使わせるなというネット右翼の動きがありました。「学問の自由」を守る防波堤としての学術会議がなくなれば、こういう動きはさらに強まるでしょう。
トランプ政権が学問の自由と独立を踏みにじっていますが他人事ではありません。日本でも1933年、京都帝国大学の滝川教授はトルストイの言葉を紹介しただけで大学から追放されました。それを機に大学の自治が破壊され、自由主義的思想や宗教なども弾圧され、37年に中国への侵略戦争へと突き進み、学生も動員されたのです。1938年に中国に送られた松永茂雄は、現地で出会った中国少年に「友だちでいようね いつまでも」と語りかけた心優しい青年でしたが、上海で25歳の命を閉じました。彼はこう記しています。
「学徒の魂は真実のない国家よりも、国家のない真実を求める。」
「真実」を国家が統制しようとする動きが進む今、真実を求め学び続けるために、学費問題で立ち上がった皆さんと心から連帯し、私たち研究者と市民も日本の学術の独立を守るために戦います。共に頑張りましょう。
学生のみなさんが主体となって、学生として学ぶ権利を確保するための運動を展開されていることに心から敬意を表します。しかも、授業料値上げ撤回を求めるばかりではなく、根本的な問題解決のためには「高等教育予算の拡充」が必要だとしている点に、わたしは大きな希望を感じます。
現在の日本の高等教育制度の内部には、さまざまな格差や差別が組み込まれています。
国立と私立、大都市と地方都市、4年制大学と短期大学と専門学校、理系と文系、さまざまな違いにより獲得できる予算も異なってくるために、相互に嫉視や反目が生じがちです。教職員のあいだにも常勤と非常勤という格差があり、学生のあいだにも、出身地や性自認や民族的バックグラウンドによる格差が存在しています。
授業料値上げは、こうした格差をいっそう強化し固定化しようとするものです。
わたしたちは、あたかもどんどん椅子の数が少なくなっていく「イス取りゲーム」の中におかれているようです。そこから一歩でも足を踏み外したら置いてきぼりにされるという恐怖感を完全に拭い去ることは困難です。
ですが、ひとりひとりがその恐怖感を克服して、このゲームの仕組みそれ自体が間違っているのだと今こそ叫ぶ必要があります。
高等教育をめぐるもっとも根本的な対立軸は、高等教育予算拡充を否定する人々と、これを求める人々とのあいだにこそ存在します。ひとつひとつの格差を是正する措置は重要ですが、この根本的な対立軸を見誤るべきではありません。
しかも、「高等教育無償化」の必要を叫びながら、そのために必要な予算措置をとることには消極的というケースも山ほど存在することにも留意しなくてはなりません。「高等教育無償化」という国際人権規約を遵守するための大前提は、高等教育予算全体の拡充です。その大前提を確認し、広く共有し、予算の立案から審議、採決にいたる過程を、主権者としてつぶさに監視し、予算案に反映させる必要があります。
明治時代に東京谷中の貧民窟に生まれ育ちながら小説家となった添田知道という人物は、自分自身にとっての学問の意義をかえりみた文章でこのように書いています。
学問はかつて特権階級の道具であり、学者は特権階級の太鼓持ちであった。そうした事態は本当に嘆かわしい。
「智識を、学問を、日光の如くあらしめよ、空気の如く、水の如くあらしめよ」(添田知道『私の雑記帳 冬扇簿』1979年、65頁)。
水すらも「民営化」によって企業の儲けの道具とされる時代にあってはたいへん難しいことではありますが、大学を、学問を、知識を、日光や空気や水のように誰もが享受できるものにしていく必要があります。
そのための第一歩として、高等教育の予算拡充を実現しなくてはなりなせん。
とりわけ大学教員たる者は、学費滞納を重ねた学生を教授会で除籍処分とする権限を与えられている以上、そうした事態を少しでも食い止めるために高等教育予算の拡充を求める学生たちの要求に賛同し、それぞれの職場における組織人として、またひとりの主権者として、この要求の実現に尽力する責務を負っています。わたし自身も、さらに多くの大学教員の賛同を呼びかけたいと思います。
千葉大学大学院理学研究院の松井宏樹です。専門は数学です。
本学の学費値上げについて、情報を共有させていただきます。千葉大学では、2020年度からすでに学費が年額およそ10万円上がっています。学費値上げは、ある日突然、トップダウンとして学内に伝わりました。教職員の間で議論されたわけではなく、ましてや学生の意見を聴く機会もありませんでした。
値上げの理由は全員留学を目玉とするグローバル教育の推進でした。卒業するには1回以上の留学をしなければならないという制度です。しかし、円安と物価高も重なり、費用が高額であることがあらためて問題となりました。欧米のプログラムですと、2~3週間の短期留学で最低でも60万円ぐらいはかかります。ところが、大学からのサポートはたった10万円です。
残りは、学生や保護者の負担となります。留学そのものには、もちろん意義があります。
実際に参加した学生に感想を聴くと、みんな「楽しかった」「いい経験になった」と答えます。
しかし、学生の経済状況はさまざまです。学費を払うだけで精一杯という者もいます。
実は、今年度から大学の方針が転換され、これまでは代替措置として位置づけられていたオンライン留学が、全面的に認められることになりました。何十万円もの留学費用を払わなくて済むという意味では、これは改善です。しかし、グローバル教育と全員留学を掲げて、授業料値上げしたにもかかわらず、結局は留学はオンラインでよいというのは、いかにも行き当たりばったりの進め方だと、私は思います。
東京大学は、昨年、学費値上げを発表し、それに対して多くの学生や教職員から反対の声が上がりました。「学習環境改善のために、学費値上げは待ったなしだ」と東大は言いますが、千葉大学の事例と同様に私は説得力を感じません。
一人の教員の実感として、確かに今、大学にはお金がありません。例えば、理系の学生にとって最も基本的な微積分や線形代数などの教養科目は、その大部分を非常勤講師に依存しています。そのほうが安く上がるからです。それほど大学にはお金がないのです。
しかし、だからと言って授業料を上げて、学生の負担を増やすのは間違っています。教育の受益者は、私たちの社会全体です。私たちの社会が今直面している深刻な困難を乗り越えていく力となりうるものは、教育をおいて他にはありません。
国立、私立を問わず、多くの大学の学生が行動していることに、心を打たれています。
力を合わせて、よりよい社会を作っていきましょう!
以上です。ありがとうございました。
こんにちは。田中と申します。
「お金がないから週末はアルバイトに明け暮れていて授業に起きれない。」
「教職課程を取るために云万円を支払った。」
「親が急に病気で倒れて、大学を辞めないといけなくなるかもしれない」
「短大や私立大学がどんどんつぶれていく。将来就職先になるかもしれない学校もあった。研究を続けた先に未来はあるのか。」
これらは全て、今年度に入ってからわずか1ヶ月の間で、実際に私が見聞きした声です。
現在、私は大学院生として研究をしつつ、大学の非常勤講師として、教職課程や初年次教育の授業を担当しています。国立・私立や学部、学年の別を問わず、さまざまな大学や、そこに生きる人びとと関わるなかで、個々の事情があまりに多様であることを実感しています。
ちなみに、私は国公立大学出身でして、一部の私立大学では、教職を取るために、すなわち私の授業を取るために、学費と別で追加の費用を払う必要があることを、今年初めて知りました。「経済的な困難と高等教育の学び」に関心を持ちながら大学で過ごせば過ごすほど、より包括的な支援制度の早期確立が必須であると考えさせられます。
ところで、博士課程に在籍しながら、いくつかの大学で授業科目を担当すること、これはとても恵まれた立場であります。実力だけでは如何ともしがたく、はっきり言ってしまえば、運です。ただし運良く働けても、決して同世代の人並みな生活は送れません。私たち大学院生、そして非正規雇用の研究者たちは、人生と実力をかけて研究を続けています。
が、その私たちが生活の糧を得るため、専門を活かして仕事する、つまり研究職に就職することですが、最後は運要素が大きいという現実は、実態に即して知られていないと考えます。
周囲の理解を得られず気を病んでいく友たち。気のいい、同世代の研究仲間がうっかり口にした「研究成果は自分の方が出てるのに、お前は恵まれてるよな」という一言。私の周りには、「運も実力のうち」という言葉に抑圧された人びとの苦しみと呪いで一杯です。大学において、私たちは既に分断されているのです。
本日お集まりのみなさんは、何かしら若者を助けたいという気持ちがあってのことと思います。しかし、どうか忘れないでください。「想像も及ばない」ことは、必ずあるものであり、そしてその具体とは、絶えず私たちの想像力の外にあるものなのです。
私が、大学の授業科目は学費さえ払えば誰でも自由に履修できるだろうと考えていたように。日ごろ付き合っていて、まさか他人を傷つけるようなことを言うわけがないと確信できるその人の心の奥底に、表に出せずにいるドロドロした感情が、実は眠っているように。
自分が知っている事実だけで、ある問題のすべてを分かった気になってしまう危険性は、共通の見解を作れるでしょう。だからこそ、表に上がっている苦しみを「掬う」という思考の支援だけでは不十分だと伝えたいのです。上がっている声に誠実に耳を傾けたうえで、その現実の「外」にまで想像を広げ、より包括した支援の形を目指すという発想によって、初めて救われる学生の存在は、決して少なくないはずです。そのような支援は、「選択と集中」の理念に反する、「非生産的」な方法なのでしょうか。
一人でも多くの学生・若者が救われて欲しい。お金を気にせず学び、幸せに日々を送ってほしい。この願いは、「非効率的」で間違っているのでしょうか。
順番をつけている場合ではありません。学生たちはまさしく生のあやうさに晒されており、「選ぶ」余裕なんてないのです。可及的速やかに、包括的な学費値下げの方策を!以上です。
「末は博士か大臣か」。
いくら欺瞞や建前であはあれ、そうした物言いが力をもっていました。誰もが自由に学問にありつける。それもある職能集団で働くための「技能」ではない。人間が人間を治める方法としての「学問」です。
かつては「徳」をもつ選ばれた者にしか許されなかったこの営みを、身分を問わずに全員に開くことで、「万人が万人の主人であり奴隷である」、考えてみれば限りなく奇妙な政体、「民主主義」ははじめて可能になったのです。
大学を頂点とする学校社会は、この国で150年以上、残酷な犠牲や不条理な格差を生み出してきた一方、国民すべてに限りない探究の場をもたらしてきたことは確かです。
翻って今日、世界各国の「学問と近代」はご覧の通り、風前の灯です。大学で腰を据えて物を考えることへの風当たりは強まっていますが、私の専攻する歴史学に限ってみても、各分野が時間をかけて紡いできた研究・教育の伝統が、昨日もひとつ、今日もひとつ、明日もひとつ、櫛の歯が欠けるように、消えていくのを目にせねばなりません。
この怒りと悲しみを共有する人々が心をひとつにする。決起集会とはそういうものでしょう。しかし同時に私は恐れています。この場に集まる勢いある言葉が、内向きの螺旋を描くあまり、外で聞いている大多数の人からすれば、単なる「学者・先生」のポジション・トーキングになってしまうのではないかと。
要請書曰く、大学の経営は火の車、教職員には十分な給与も時間もなく、現場は人手不足で、施設維持もサービスも限界、一定の研究水準と教育環境のためにはお金がどうしても必要だが、学生も大学も貧しい。そこで国家に財政出動を頼みます。でもって、ステークホルダーを握るのは国民です。その半数近くは大学教育には縁もゆかりもございません。そうした方々を含めて、ただ国からもらうだけでなく、国に対して何を提供することができるのか。そこのところをちゃんと言葉にしておきたいというのが正直なところです。
そこで緊急行動の3つの要求(①学費値上げ撤回、②高等教育無償化、③奨学金負担の軽減)に賛意を表明しつつ、いくつかの論点を共有させてください。
⒈ 留学生への学費値上げは人種差別であるのか?
民族や人種に関わらず誰もが教育を受けられることは理想です。しかし日本語能力が不十分なまま多くの留学生を受け入れた結果、教育現場が混乱する事例、また国際化の名の下に英語化をむやみに推進し、需要と供給のミスマッチに至る事例を耳にします。日本の大学は、日本国民と全世界にとって、どういう段階を踏んで貢献できるか、その上で留学生や難民・移民出身の学生を包摂する方策を慎重に検討すべきです。
⒉ 大学と社会の緊張関係をいかに結ぶか?
学生の自由は、大学と社会の互いの信頼の上にあることは忘れてはなりません。社会の側からすれば、彼らが多少バカやっても人間として大事なことを学んでいるわけだから長い目で見守ってやろうと。一方、学生は甘えた特権階級になるのもどうでしょう。時間の貧困はいけませんが、少しはバイトをして経済という名の世間に触れて、それを大学での学びの糧にするというのも大事です。「金はないけど暇はある」。そうした緊張感のある自由をどう作っていくことができるか。
問題は多岐に渡りますが、ともかく、大学をどういう場所にしていきたいか。私たちはどう生きていきたいのか。一人ひとりの欲望の方向が歴史を作っていくはずです。
私は今、大学の労働組合代表として学校法人当局に対して賃上げを要求して闘っています。私の勤務する大学に限らず、多くの大学法人は、激しいインフレ状況が続いているにもかかわらず、賃金のベースアップをかたくなに拒否する姿勢を貫こうとしています。
さらに、教職員への任期制の導入や雇い止め、非正規雇用への置き換えなど、雇用を不安定化させる人事労務政策をいっそう推進させつつあり、大学の教職員の賃金・労働条件全般にわたる実質的な切り下げ攻撃を強めています。
そうした態度をとる理由として、各大学の法人当局が必ず挙げるのが、「18歳人口が減少してゆくのでこれから大学財政はますます厳しくなるので、人件費は抑制・削減せざるをえない」ということです。
国立大学の場合、さらにこの背後に、国家財政の危機を理由とする、また長年にわたる「選択と集中」を前面に打ち出す文部科学行政の下、運営費交付金が削減されつづけているとういう問題を挙げることができるでしょう。
しかし、大学の将来を危うくするものは「18歳人口の減少」ではなく、社会の貧困化により、若者を中心に意欲ある多くの人々が学ぶ展望を失うことではないでしょうか。
多くの大学の経営体が、「18歳人口減少への対応」「財政危機」を理由に、片や教職員の賃金・労働条件、研究条件を切り下げて、大学の教育・研究の質を低下させ、他方では、ただでさえ高額な学費をさらに引上げることを通じて、学びたい、学ぶことを必要とする人々の可能性を狭め、奪い、またなんとか入学に漕ぎつけた学生にも長時間のアルバイトを余儀なくされるような状態を作り出しています。こうしたやりかたは、研究・教育機関としての大学のさらなる貧困化をもたらすものに他なりません。
「18歳人口減少」「財政危機」対応を印籠として、不毛な競争と、学び働く条件の切り下げをひたすら強いる先に、日本の大学の未来は決してありません。
今こそ教育・学術研究への公的資源投入の大幅拡大によって、大学の教育・研究条件と、労働条件の改善、学生の学費負担の軽減を実現しなければならないのです。国公私立全ての大学に学び・働く人々の団結と連帯によって、教育・研究に対する公的支出の大幅拡大と学費引上げ阻止、労働条件の引上げを、共に実現してゆきましょう。
大学で教員をしている一人として困ってきたことについて、申し述べたいと思います。
私が所属している教室の必修の授業で、高校の見学に行った時のことです。帰りに学生たちとともにその高校の最寄り駅に近づいたところで、一人の学生が、隣の駅から乗ったほうが電車賃が安くなると言って、皆と別れて違う方向へと一人歩いて行きました。
1駅の電車賃の差は数十円です。もしかすると他に理由があったのかもしれませんが、別の方向へと歩いて行くその学生の後ろ姿を見ながら、必修の授業であるのだし、学生が直面している現実を考えれば、交通費を支給したほうがよいのだと思わされました。
「交通費は出ないですか?」と学生からたずねられたこともあります。遠方にある高校の見学をするのはどうかとゼミで学生たちに提案した時にも、旅費の捻出が難しいという声が挙がって、行くことにはならなかったという経験もしました。
授業のレポート課題として書籍を読むことを課す際には、安価であるか、また大学や近隣の図書館に入っているかを確認してから書籍を選ぶようにしています。このように、大学で、決して高望みではない、当たり前の教育を保障しようとしても、学生の経済的な事情が立ちはだかるのです。
また、私は教職課程の運営に携わっているのですが、総合大学である弊学では教員免許を取得するのは「オプション」であるため、教職にかかわる授業はどうしても、午後5時50分に終わる5限と、7時30分に終わる6限に設定せざるを得ません。このことは、アルバイトで学費や生活費をまかなっている学生にとっては、高いハードルとなります。
経済苦など子どもたちの多様な背景を認識、理解できる教員になれるはずの学生たちの中に、教員免許の取得を諦めなければいけない人がいるとしたら、社会にとって大きな損失になります。
以前、学費と、家賃を含む生活費をすべて奨学金とアルバイトでまかなっていた学生が、自分と同じような境遇にある学生たちの現状を明らかにする卒業論文を書きました。インタビューに協力してくれたある人は、インタビューが終わったあと、「話を聞いてくれてありがとう」と言ったそうです。似た状況にある学生たちは実はたくさんいるのに、それほど自分の事情を話せず、孤立させられていました。
いま、たくさんの学生の方たちがつながり、ともに声を挙げていることを素晴らしいと感じます。とともに、一大学教員としての責任もいっそう感じています。今日発言の機会をいただいたことに感謝します。
新潟大学からやって参りました原と申します。地方国立大学の現状を踏まえて、連帯の挨拶をさせていただきます。
新潟県は大きな県ですので、県内出身の学生でも、多くが大学の周辺に下宿をして通学しています。首都圏や関西圏と違って、公共交通機関の便も悪いので、同じ新潟市内の学生も下宿をしたり、家庭の支援を受けて購入して貰った自家用車で、大学付近の月極駐車場の料金を払ったりしながら―これは、大学内の駐車場スペースが、原則教職員(及び一部の認められた学生)のみにしか開放されていないという事情があります―、通学しているのが現状です。
さらに学生の半数以上は、近隣の東北・関東・甲信・北陸地方をはじめとした、他県からそれこそ全国的に集まってきた学生で、もちろん下宿をして通学しています。聞くとほとんどの学生が、「学費の高い私大、あるいは家賃・生活費が高い首都圏の大学には通わせられない。せめて学費と家賃・生活費が安い地方国公立大学に入学して欲しい」という、ご家族の期待に応えて、受験勉強を頑張り、入学してきたのです。
幸い新潟大学では、執行部は学費値上げの議論は時期尚早だと考えているようです。しかし広島大学など、すでに値上げの方向を打ち出している地方国公立大学もあり、全国の高校生の保護者の皆さんは、固唾を飲んでいると思うのです。
義務教育はもちろん、中等教育そして高等教育も含めて、基本的に無償とし、全ての国民、多様な人びとがアクセスできるようにすることは、よりよい未来を作るための政治の責務であり、今や基本的人権のひとつを構成します。国際人権規約に、高等教育の漸次無償化が謳われたのはそのためです。日本政府はこの条約を批准しながら当該条項の実施を長くサボタージュしてきました。是非今こそ、大きな声をあげて、実現に向けた施策を求めましょう。
私は今のこの一連の運動が、自分たちの置かれた状況への疑問や、真摯な問いかけに基づいた、学生さんたちの自主的な行為から、自分たちを大学を構成し運営に責任をもまたつ正当な主体のひとつと位置づけて、議論し行動する、素晴らしい活動を続け、育ててこられたことに、深く尊敬の念を抱いています。かつて1970年代までの学生運動は、大きな犠牲も払いつつ、「全構成員自治」という大学自治の原則を、皆が共有する成果をも生みました。
しかし国立大学法人化政策をひとつの大きな山場とする政府の一連の大学政策のなかで、職員は文科省のいいなり、教授会の自治も奪われ、旧来的な学生の自治会活動も頭打ちとなって行きました。
そのなかで、新しい感性で、あらたな全構成員自治の理念のもと、活動を大きく広げて言っている皆さんに、こころから敬意を表し、連帯の挨拶を送らせていただきます。