2025年2月13日に開催しました、「苦しむ学生の声を聴く!2・13院内集会」における教員の発言です。
※当日、時間の都合や体調不良により登壇が実現しなかった教員の原稿も掲載しております。
※所属・肩書等は当時のものです。
実際のスピーチのようすや、院内集会全体の内容については以下の動画をご覧ください。
大学院生として初等・中等教育について研究しており、学生として今回運営に関わっています。また、私は非常勤講師として、大学で教える立場でもあります。私からは、教育学に学び、複数の立場で大学にいる者として、お話します。
「すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。」
今日のお話を、私はこの一文から始めたいと思います。教育基本法第四条の条文です。この条文は、「第一章 教育の目的及び理念」に定められるものであり、義務教育であれ、大学等の高等教育であれ、あらゆる教育に対して適用されるものであります。
今日、私たちが学ぶ意味や理由はさまざまでしょう。「夢を叶える」「将来お金を得る」、あるいは、「予測が困難な時代」に「生きる力」を育む。何であれ、学びや学ぶ意欲は尊いものです。
にもかかわらず、現在、経済的な事情で、自由に大学等で学ぶことを諦めたり、心身の調子を崩したりする学生が、少なくない現状にあります。学費値上げは、この現状に追い打ちをかけるものであります。私たちは、初等・中等教育課程の次のステージの一つである、高等教育機関へ、児童・生徒をどう送り出せばよいでしょうか。大学で現に困っている学生たちに、私は何を伝えればよいでしょうか。高等教育は、「お金」という「現実」や、「諦め」「絶望」を「学ばせる」ためにあるのでしょうか。
「そんなはずはない」という共通理解が得られることを、私は信じたいと思います。加えて、学校も、学生に「現実」や「諦め」を学ばせるために、値上げを考えているわけではないはずです。そもそも学費問題は、大学等にお金が足らず、この社会が高等教育機関で学ぶ権利を十分支えられていない、構造的な問題です。ゆえにこれは、十分に解決可能で、解決は教育の権利保障、そのものなのです。
ご参加のみなさん。今日を契機に、高等教育をめぐる社会問題を、共に変えていきましょう。
近年、経済的な困窮に陥っている大学生を多く見かけます。学費と生活費を奨学金と自分のアルバイトで賄っている学生も少なくありません。同時に大学もまた貧しくなっています。学費値上げの直接的要因は大学の財政状態の悪化にあります。この大学の貧困をもたらしたの要因は過去20年間の大学政策でした。
2004年に国立大学が国立大学法人になり、日本育英会が日本学生支援機構になって以来20年間、国立大学の運営費交付金、私立大学への私学助成金が削減され、競争的資金が増加し、大学ガバナンスのトップダウン化が進められてきました。基礎科学分野では研究資金が枯渇し、研究者の不安定雇用が増加し、日本の学術研究の水準は、様々な指標で見て、国際的地位を低下させています。
大学財政の悪化と学費値上げはこうした過去20年間の大学政策の失敗の結果に他なりません。いま、学費値上げ反対を運動を出発点に、学生、教員、職員などすべての大学関係者が一体となって、大学政策の方向転換を求めていくことが大切だと思います。
大学で授業をしながら見ていても、学生さんたちは経済的に困窮している人がとても多く、アルバイトに追われて疲弊しきっています。わたしたち上の世代が世論形成して「学費値上げ反対」の声を上げる学生さんたちを後押しします!
一例としては、「勤労学生、苦学生」には「美談」のイメージがついていて、「えらいね、大変だね」で終わらせてしまう人がとても多いのですが、そこを美談で終わらせず、「そもそも国や公共が、学びの平等な機会を提供するべきだ」という視点にまで相手を連れていこうと思います。
「努力は大事」ではありますが、人間の体力・集中力には限りがあります。働きすぎて疲弊していたら学ぶことなんてできません。不必要な労力など、学ぶ立場にある人にかけさせてはならないのです。
必死でアルバイトをしながら働く「学生がえらい」のではなくて「わたしたちの社会がダメ」なのです。さまざまな事情で働くことができず学業をあきらめる学生がいたら「しかたない、かわいそう、大変だね」ではなくて「わたしたちの社会がダメ」なのです。
「若いころの苦労は買ってでもしろ」などという通俗道徳をこのケースに当てはめることは社会全体にとっても百害あって一利なしです。上の世代がマウントを取りたいだけ、あるいは、自分と同じ苦労を味わわせたくて呪いをかけているだけです。
高等教育を受けることが贅沢品になってしまうなんて、民主的な社会とは言えませんし、社会として発展を望むこともできません。
ましてや少子化の世の中、予算を割いて若い人たちを社会全体で育て、また、教育費の高さに阻まれて子どもを持つことを断念してしまう人を減らすことも、持続可能な社会を構築していく上で最重要の施策のひとつなのではないでしょうか。
「公共、コモン」ということを社会全体で考えるべきですし、公共を破壊する政治家を選んではいけない。学びたい人が自由に学べる社会を実現する議員を、責任を持って選び、社会全体で後押ししていかねばなりません。
がんばって声をあげてくれた学生さんたちに応えて、上の世代のわたしたちの力で、社会に蔓延する「自己責任論」をストップさせましょう。
ひとりひとりが当事者意識を持ち、社会を作り上げるという視点に基づいて行動する、それがわたしたち世代の責任を果たすことでもあると強く思っています。
千葉大学では2020年度から既に、全員留学を目玉とするグローバル教育の推進を理由として、学費が値上げされています。学費値上げは、ある日突然、トップダウンとして学内に伝わりました。教職員のあいだで議論されたわけではなく、ましてや学生の意見を聞く機会もありませんでした。
一人の教員の実感として、確かにいま、大学にはお金がありません。しかし、だからと言って、授業料を上げて学生の負担を増やすのは間違っていると、私は思います。
教育とは、長い歴史のなかで培われてきた人類の知恵を、次の世代へと継承して発展させていく営みです。だから、教育の受益者は私達の社会全体なのです。私達の社会はいま、さまざまな点で深刻な困難に直面しています。その壁を乗り越えていく力となりうるものは、教育をおいて他にはないと私は確信しています。
国立私立を問わず、多くの大学の学生が行動していることに、心を打たれています。応援しています。力を合わせて、より良い社会を作っていきましょう。
学生の皆さんの切実な訴えに胸を打たれました。わたしが何よりも訴えたいのは、大学当局は皆さんの運動の傍観者であるべきではなく、態度決定が迫られる第一の当事者だということです。国公立も私立も大学自体が疲弊し、競争原理で分断され、追い詰められています。追い詰めてきたのは、あきらかに政治です。政権主導の「改革」の連続と運営費・補助金の削減で、じつは文科省もコントロール能力を失っている。その結果が無秩序な学費値上げラッシュや留学生差別という現在の混乱です。残念ながら、東大も日本の大学全体を考える大局観を失って、目先の学費値上げに走ってしまった。政治による混乱はもはや早急な政治的決断で収拾するしかありません。その意味で学生の皆さんが大学の壁を越えて学費値上げ反対で連帯したことの意義は大きい。それぞれの大学当局はいったん立ち止まり、学生や教職員、他大学と連帯して、国費による基盤的経費の回復や学生支援をもっと強く社会に訴えてほしい。それこそが大学の果たすべき社会的責任だと思います。
例えば医学部ほどではありませんが、「芸術大学」は一般的に、教育に必要なコストが高いため、学費が高く設定されているのは、みなさまご存じでしょう。芸術の道に進みたい学生は、私大を選ぶこともできますが、けっして安くはない学費を負担できない学生の受け皿として、国公立の芸術大学が、進学する選択肢としてある、と言えます。
少なくとも私が知る限り、国公立の芸術系大学で、学費を値上げするという議論が進んでいるという事例を、耳にしているわけではありません。しかしながら、教員として働いている実感として、例えば研究費が漸減していたり、学内設備の修理や整備もままならぬほど、運営資金に苦慮していたりするのも事実で、そのために研究者であるわれわれ教員にすら「経営努力」を求められたりするわけです。正直言って、私も含め、少なからぬ大学教員は、大学組織に「お金がない」ために、大学外部に研究予算を求めるなどの業務負担が年々増大しており、とても疲弊していもします。
私自身が疲弊するのはまだ我慢できるとして、研究者であるわれわれが疲弊することで、いちばんの損害を被るのは、大学生です。教育にも携わる研究者が疲弊し、研究の蓄積もままならなくなればなるほど、良い教育を行うのは、論理的に言って困難になるのは当然で、そんな教員に教えを請いたいと思うかと考えれば、私が学生だとしたら、そんなの願い下げです。何が言いたいかというと、この「お金がない」の負のループで、最も被害を被るのは大学生であって、日本国内にそんな大学ばかりしかないとしたら、いったい何に希望を見い出せばいいのでしょう?
芸術がしばしばそうであるように、教育はそもそも、未来に対する投資です。教育にお金をかけない国家の政治は、投資を怠っているのだから、未来の可能性が閉ざされるのは、論理的な帰結です。私たち国民は、この日本にそんな希望のかけらもないような未来を望んでいるでしょうか?
先にも記したとおり、私の知る限り、国公立の芸術系大学で、学費値上げを行うという議論は、耳にはしていません。しかし、東京大学をはじめ、負のループのツケを、学費値上げによって、教育機会を公平に受ける権利を持つ学生のみなさんに払わせる方針を、大学経営陣が取ることによって、いったいなにが起こるか。「東大が学費値上げするんだから、うちの大学も値上げしていいや」と、極めて軽率に、値上げの方針が全国規模で蔓延するのは、火を見るよりも明らかです。私はそんな未来が遠からず訪れるのは嫌ですし、なにより、未来世代を担う学生のみなさんに、そんなツケを押し付けるのは、我慢できません。
芸術がまったく存在しない世界が、人間が生きていくうえで極めて「貧しい」のと同様に、そうした芸術を担う未来の世代に学費の負担を押し付けるのは、将来への希望を「貧しくさせる」のと同義です。人間が人間らしく、精神的に豊かに生きられる社会であるためには、芸術が豊かであり、かつ、そのための教育も豊かに享受できるようでなければなりません。だからこそ、安易な学費値上げには、強く反対するとともに、このアクションに連帯します。