2026年度学費負担軽減!
高等教育予算拡充を求める
5・8院内集会
学生の発言
高等教育予算拡充を求める
5・8院内集会
学生の発言
2025年5月8日に開催しました、「2026年度学費負担軽減!高等教育予算拡充を求める5・8院内集会」における学生の発言です。
※当日、時間の都合や体調不良により登壇が実現しなかった学生の原稿も掲載しております。
※所属等は当時のものです。
実際のスピーチのようすや、院内集会全体の内容につきましてはこちらの動画をご覧ください。
https://www.youtube.com/live/V8ODuZ-3APk?si=OLpiA-R36204tJgu
また、Change.org様にダイジェスト動画を作成していただきました。以下よりご覧ください。
各国公立、私立大学でも学費値上げが相次ぎ、今後も波及することが予想される中、2月13日には、実際に学費値上げ反対運動に立ち上がった、東大、広大、
大阪大、熊本大、中央大、武蔵美大ほか、116以上の大学等の学生が結集し、院内集会を行い、その場で国会議員や省庁担当者と要請書を手交しました。
その後もロビイングを行い、3月27日時点で、国会で7回の質疑、地方議会で1回の質疑にて、学生の声が引用されました。残念ながら予算に反映されなかったため、再度、5/8に院内集会を行うことに致しました。5・8院内集会では全国の大学教員と連帯し、当事
者の生の声を国会議員の方々に届けます。学費値上げの撤回と漸進的な無償化を実現するために、私たちが全国の134以上の大学等の学生・院生・教員らと訴えているのは、教育の未来を支える予算拡充です。学費負担軽減、奨学金拡充は、学生も教員も共通の想いであり、通底する問題を抱えています。大学の基盤的経費を増額すれば大学の置かれている窮状も改善します。大内裕和(武蔵大学教授)、稲葉剛(立教大学大学院客員教授)、隠岐さや香(東京大学大学院教授)、小澤浩明(東洋大学教授)、杉田真衣(東京都立大学准教授)、山田哲也(一橋大学大学院教授)の6名の大学教員から参加の呼びかけが行われました。集会では、各党国会議員、総務省、 財務省、 文部科
学省への要請書の手交とともに、 高等教育政策のあり方について意見交換を行います。概算要求や予算案に要請項目を反映させるべく、「1.2025年度の「経済
財政運営と改革の基本方針」(いわゆる「骨太の方針」)に、添付資料の要請項目1〜4の内容を盛り込んでください!2.国の2025年度予算に、添付資料の要請項目1〜4の内容を盛り込んでください!」 と改めて要請します。105の大学、28の大学院、1の高等専門学校、合計134の高等教育機関の学生、具体的には約470の学生個人、17の学生団体が連名しています。
私たちは参議院選に向けて候補者アンケートを実施(6/13 15時会見予定)する他、9月以降に書籍も出版し、輿論を喚起していきます。毎日新聞の輿論調査では、若年層では「大学などの無償化」「同性による結婚」「2院制のあり方など国会改革」など、生活に密着したテーマを思い浮かべる傾向が浮き彫りになり、「大学などの無償化」が18-29歳では32%のトップ関度でした。高額な学費負担に苦しむ学生の置かれている現実を直視し、2026年度予算案に要請を組み込んでいただけるよう、再度お願い申し上げます。
ダイジェスト動画(Change.org様作成):www.instagram.com/reel/DLJK2AQzjAO/?igsh=MTQ0czY0MDdkcjJ5Yw==
中央大学では昨年11月、学費値上げ計画が公表されました。内容は、2025年度入学生から、授業料と施設整備費がそれぞれ毎年2%、約2〜3万円ずつ5年間にわたって値上げされるというものです。
この公表に至るまでに大学による学生からの意見聴取はほとんど実施されませんでした。値上げ計画の在学生向けの意見聴取は、昨年9月下旬に13日間という短期間かつ、在学生向けのポータルサイトに掲載するのみでした。通常は告知の手段として頻繁に使用される学生へのメール送付は行われず、9割を超える学生が値上げ計画を知らないままだったのです。
学費値上げに反対する中大生の会では、学内生向けのアンケート調査を行い、現在285名から学生実態を集めています。傾向として特に顕著なのは「学生生活の困窮とそれに伴う進路への不安」です。実に回答者の3人中2人が「生活に困っている。もしくは不安」と答え、「金銭的な事情により、自分の進路を諦めた、もしくはあきらめざるを得ないかもしれない」という学生も3人に1人以上の割合にのぼることが判明しています。
学費値上げの直接の当事者である1年生からも次のような声が上がっています「楽しい大学生活を送りたいと思ってはいたが、現実は出費を抑えるために食事を削っている状況で大学に通うことさえ大変だ。」「親が既に定年を過ぎており数年後には働けなくなる。しかし、給付型奨学金は現時点の収入を基準に審査されるため、自分はその受給要件を満たせなかった。このままでは、進路選択にも希望が持てず、目の前の現実に諦めるしかない」このように学費値上げなど到底受け止めきれる余裕がないのは明らかです。
また、私自身も母子家庭で生まれ育ち、食費や教科書代など切り詰めて生活しています。大学へは母の老後のための貯蓄を利用して通っています。老後について母に尋ねると「自分は早く死ぬから大丈夫だ」と言われます。こんなこと言ってしまう側も言われる側も、もう生きる限界です。
このように、学生も保護者も、学費を負担する当事者として疲弊しきっています。大学で満足に学ぶことはもちろん、将来への希望を見いだすことすら困難な状態です。
「私立大学だから学費値上げは仕方ない。自己責任だ。」という声も存在しますが、現在、日本の全大学生のうち約8割が私立の大学に通っており、私立大学は日本の高等教育において不可欠といえる存在になっていると思います。
1975年、私立学校振興助成法が成立した際には、私立大学が果たしている社会的役割をふまえ、経常費補助を「できるだけ速やかに二分の一とするよう努めること」との付帯決議が採択されています。現在では経常経費の約1割にまで抑えられているこの助成金を、すでに採択されているこの決議に則して増やすことで、学費値上げを止めるだけでなく、あまりに高い現在の学費を下げていくことも可能だと考えます。
さらに、私立大学と国立大学との学費の差を問題にし、その差を縮めるために国立大の学費を上げようという議論もありますが、学ぶ権利を保障するうえでは私立も国立もどちらも値下げしていくことが何よりも必要であると訴えたいです。学費値上げで困難を抱える当事者に国立/私立または公立という分類は関係ありません。アンケート調査では、中央大学の9割の学生が学費値上げに反対と回答しています。
学費値上げ当事者である学生の実態や意見をこれ以上無視することは絶対にあってはなりません。これ以上の値上げを繰り返さぬように、来年度からの学費値上げをストップさせ、学費値下げにいち早く踏み出すことを強く求めてスピーチを終わります。ご清聴ありがとうございました。
東北大学の学生です。私からは、この20年間続けられてきた選択と集中政策が、学生に与える影響について話そうと思います。
大学における選択と集中の中身は、幅広く一律に分配される基盤的資金の削減と、競争的資金の拡充です。2004年の法人化以降、国立大学は運営費交付金を年々削減され続けるとともに、その分配にも成果に応じた傾斜がつけられて一律に保証される金額はどんどん少なくなっていますが、このことはまさに、今学費値上げの波を呼んでいる直接的な要因にほかなりません。かわりに拡充される科研費などの競争的資金は用途が厳しく制約される上、常に研究成果が求められるため、自由に教育に充てられるものではありません。国から教育費がもらえないために大学は授業料収入に頼らざるを得なくなっているのですから、学生も選択と集中における「選択されない側」であると言えます。
そのことは、国際卓越研究大学に選ばれた、いわば「選択される側」の典型である東北大学にいてもなお感じます。昨年東北大学が公表した改革計画の中では、学生への支援拡充に言及する項目もありました。しかしながら、そこで経済支援の対象となっているのはもっぱら博士学生で、学部生や修士学生への支援についてはほとんど言及されていません。もちろん日本の博士学生の収入が低すぎることは事実ですから支援拡充は必要ですが、当然ながら博士進学を望むなら学部と修士の学費を出せなければいけないという構造はそのままです。
専門的な人材確保のために、博士まで残った学生には投資するが、学部と修士は自己負担で行ってくださいねという方針は、高等教育の機会均等の実現とは性質が異なるものだと言えます。当然、この影響は身近なレベルでも目の当たりにする機会が多く、例えば私のある友人は学部時代から貸与型奨学金を借りていて、これ以上借金を増やせないからと学部で出ていく選択をしました。また、私自身も修士の学費をどのように工面するか決められていません。このような行き届かない支援を見て思うのは、国際卓越大という「選択される側」の中にいても、研究成果や経済的利益に直結しない「権利としての高等教育」の尊重は期待できないということです。
選択と集中批判として一般的に言われるのは、それが研究力向上のための施策として不合理であるということです。たしかにその主張は真っ当で、研究に携わる人が安心して食っていける環境を整備せずにどうやって研究力の底上げなど図れるのだろうかというのは私も強く思います。しかし、学費負担軽減の意義というのはそれ以前の問題です。なぜなら、高等教育とは社会に資する営みであると同時に守られるべき権利であり、誰もがアクセスできることそれ自体に価値があるからです。それはコストベネフィットの計算によって切り捨てられて良いような性質のものではありません。
国際卓越大に認定された東北大学の改革計画には、軽視されがちな基礎研究や人文社会学分野の尊重や、若手研究者の待遇改善が大々的に盛り込まれていることから、これまでの選択と集中政策の反省を一定踏まえたものではあるようです。もちろんその実態がどうなるかは今後注視する必要がありますが、少なくとも学内の研究環境の向上は期待できるのかもしれません。しかし、そこにおいて教育の機会均等という観点が軽視されていることは明白であり、それは選択と集中という路線が根底にある限り避けようのないことだと感じます。私たちは、学生の立場からその政策の下で切り捨てられる人の存在を可視化し、この20年間取られてきた学術政策の根本的な転換を求めます。今日お越しの皆さんには、ぜひその切実な声に耳を傾けていただくよう要望いたします。
皆さんこんにちは、私は千葉大学の学生です。
千葉大学では、2020年度入学の代から、それまで他の国公立と同様の年間53万5800円から年間64万2690円へ、約11万円の学費値上げが行われました。なおこの金額は、昨年話題になった東京大学の学費値上げ案と全く同様のものです。
そこで私からは、実際に学費値上げから数年経ってどうなったか、千葉大学の現状を共有させていただきたいと思います。結論から申し上げますと、この値上げに見合うような恩恵は受けられず、むしろ「学生」そして「大学」ともにお金に苦しむ状況ができてしまっています。
まず学生の状況に目をやると、学費値上げに見合う恩恵や、当初言われていた貧しい学生への支援が行き届いておりません。「優秀な博士課程の学生を国が支援する「学振DC」の採択者が全額不採択になり、生活保護レベルの生活を余儀なくされている」「授業料免除の審査の基準は学生に開示されておらず、翌年度以降の生活保障がない状態が永遠に続くため、学びの道を諦める優秀な博士課程の学生が後を断たない」といった話が、ここ数年でも出てきています。このように、学費値上げ騒動以前に入学した学生が、現在博士過程に進んだはいいものの、金銭的に苦しみ研究どころではなくなっているケースがあります。
各研究室における研究費の不足も深刻な問題です。現在ほとんどの研究室において、大学から支給される研究費では到底資金が足りず、競争的研究費や寄附金、企業からの共同研究費などの外部資金に頼っているのが現状です。これでは、資金のある研究室とそうでない研究室が生じ、資金のある研究室は成果を出してさらに研究費を獲得する一方、資金のない研究室では成果が出せず引き続き資金繰りに苦しんでおり、格差拡大の悪循環が生じています。
そのため、研究室配属の際には、どの研究室が資金を持っていてどれが持っていないのかという「情報戦」が学生間で繰り広げられていました。本来、利益度外視で基礎研究ができる機関であるはずの国立大学において、このようなことが起きてしまっているのは、恥としか言いようがありません。
全学的な目線で見ても資金不足は深刻です。近年では大学から学生の保護者に向けて「寄付してください」という旨の手紙が不定期に届いています。既に11万円多く払っているにも関わらず、さらなるお金を学生の親に求めているということです。東京大学でも、一昨日の読売新聞のインタビューにて、学長が「寄付金は伸びしろが大きい」と発言していました。
国のお金で運営されるはずの国立大学が寄付金に頼らなければいけないこの状況は、大学間の格差や裏口入学のリスクなどを高めるものであり、早急に改善す
べきです。
このような状況の中、昨年7月、学長より大学全体にメッセージが送られました。一部抜粋してお伝えします。「日本の国立大学は2004年に「法人化」されました。それ以来、国からの経済的支援が徐々に減少してきました。その分を外部資金などで補っているのが現状ですが、比較的自由に使えるお金は減り続けており、その上、物価や光熱費の高騰も加わり、現場が教育・研究の基本的活動に支障を感じるようになってきました。千葉大学の中でも、各学部に特有の課題のほか、「退職した教員の後任を自由に雇えない」「校費が足りない」「施設・設備が老朽化している」「電子ジャーナルが契約解除されて困る」など、全学に共通するご苦労をお聞きしました。」とのことです。
これらの事象の背景には、物価高や円安の影響があることは間違いないでしょう。さらに近年の急速に変化する社会の中では、情報系人材やグローバル人材の育成をはじめ、大学として新たに投資しなくてはいけない領域があります。これらの結果、ここまで述べたように、大学と学生がともに経済的に苦しい立場に置かれ、基本的な足場固めが失われている状況にあります。
このような現状を打破できる、唯一の解決策は、国や政府が、物価上昇などの社会的状況を踏まえ、必要なだけの資金を各大学に提供することです。他の学生のスピーチからもわかるように、これ以上のいかなる学費の値上げも、今の学生にとって受け入れられるものではありません。学生やその家族にとって、年間11万円というのは大金です。学生はお金がない、大学もお金がない、ならこれを救えるのは政府のみです。先進国であり続けるために欠かせない、大学の教育研究活動を、政府の力で守って頂きたいです。
ご清聴ありがとうございました。
早稲田大学では、昨年度の学部1年生、私の代から学費が年間8万〜14万円値上げされました。さらに、今年度からは修士課程の学費が年間5万〜12万円値上げされました。これらの学費値上げについて、大学から学生や受験生に対する説明は全くありません。そのため、多くの学生・受験生は学費が値上げされていることを知らない状態です。私自身も、大学入学後に学費問題に関心を持つまでは知りませんでした。当事者である学生の声を聞かずに学費を値上げした上に、値上げしたという情報すら公開されないのです。これは全く不当なことです。
さて、これらの学費値上げを止め、学費負担を軽減していくためには、高等教育予算の拡充が必要です。しかし、現在行われている大学に対する財政支援制度の中には、大学の自治を脅かす恐れのあるものがあります。
例えば、早稲田大学も認定を目指している「国際卓越研究大学制度」は、大学に対してガバナンス強化を求めるとともに、政府から大学への介入を強めるという点で、大学の対内的・対外的な自治を圧迫するものです。また、「安全保障技術研究推進制度」など、政府によって大学が軍事研究に誘導される危険のある制度もあります。
このように、個人の学問の自由、そして大学における学問の自由は、学費問題をめぐってより一層危険に晒されています。これは学生だけでなく、教員にとっても重大な問題だと思います。学問の自由に関して、学生と教員は同じ立場にあります。学生と教員が連帯し、高等教育予算の拡充、学費無償化を求めていく今回の集会は、非常に大きな意義があると思います。
最後になりますが、要請書は「本要請の実現のため、お力を貸していただきたく存じます。よろしくお願いいたします。」と締め括られています。しかし、そもそも私たちは何故お願いしなければならないのでしょうか。政府に要請するのであれば、まずは今まで何をやってきたか分かっているのか、何故今まで声を聞いてこなかったのか、というところから始めなければならない。真摯に受け止める、適切に対応していく、と不毛な答弁を繰り返す横で、私たちは進学を断念し、アルバイト漬けになり、借金を背負わされています。それにも関わらず、何故お願いしなければならないのでしょうか。本来なら「よろしくお願いいたします」なんてあり得ないのです。私たちにはまだ予算を決める力はないので、今ある力を振り絞ってお願いをしています。しかし、学生・教員をはじめとする全ての人たちの連帯がさらに強くなれば、私たちはさらに大きな力を持つことができます。絶対にこれ以上声を消させないために、そして私たち自身が力を取り戻すために、連帯の基盤を共に作っていきましょう。ご清聴ありがとうございました。
今日は静岡から来ました。私がここで述べたい論点は、「大学の偏在・大学空白地帯」の問題、「大学の財政難」、「地方国立大学の使命」です。
まずは大学の偏在について、度々指摘されている東京一極集中に限らず、地域中核都市以外になると大学の数が激減するということも重大な問題です。私の地元静岡を例にご説明します。ご存知のとおり静岡県というのは東西に長く、西部中部東部それぞれに100万人規模の都市圏が存在します。しかし、文理にまたがる「総合大学」は国立の静岡大学、公立の静岡県立大学、私立の常葉大学の3校しかありません。県西部の一大都市である浜松市には、静岡大学の工学部・情報学部、浜松医科大学、人文系の公立大学である静岡文化芸術大学、それらに加えて私立単科大学が2校あるのみです。政令指定都市である浜松市がこの有様、高等教育の需要を十分に満たしているとは言えないでしょう。
かたや県東部は、そもそも本部を置く大学が存在せず、実家から通える範囲に医学・工学などが学べる大学が存在しません。これより厳しい環境がいくらでもあることは重々承知のうえですが、人口第10位とそれなりの規模である静岡県に大学のエアポケットが存在しているというのは、住んでいる人間でないと見えてこないのかなと思います。
地方国立大学の置かれた現状を端的に言えば「極度の財政難」でしょう。静岡大学が発表している財務資料をみると、2024年の収益は2010年と比較して約5億円減少しています。要因は言うまでもなく運営費交付金の減少です。総収益の3分の1を授業料等が占めており、中小規模の国立大学は授業料収入頼みの大学運営になっていることがわかります。このような大学の目に昨年の東京大学授業料引き上げはどのように映ったでしょう。費用は収益と対応しますから、物価高騰や働き方改革、デジタル化といった状況下でありながら、今までよりも小規模の予算しか組めません。その結果として古い設備は更新されず、教員の補充がされないなど教育の質低下に繋がっています。移転から半世紀が経ち老朽化した建物の補修・建て替えには国の支援が必須ですが、補助金はほとんど採択されません。
地方国立大学が担う役割とはなんでしょうか。多くの方は「出身地や経済状況にかかわらず高等教育を受けられることを保障すること」のような感じで考えたのではないでしょうか。私もその一人です。しかし、最近の政策は違う観点から行われているようです。国立大学強化プランにより、ほとんどの地方国立大学は掲げるミッションを「地域のニーズに応える人材育成・研究」と類型化されました。これに基づいた研究目標を掲げ実行しているかが運営費交付金の予算配分に大きく影響しています。
ダイジェスト動画(Change.org様作成): www.instagram.com/reel/DMIFl2ezD_n/?igsh=MXc5ZWg1aDJzYzBy
私たちは、武蔵野美術大学で導入された「留学生修学環境整備費」に関する制度的な問題に対して、学生と関係者の立場から声を上げています。この整備費は、2025年度より留学生を対象に年間36万3,000円、4年間で145万円を超える金額が追加で課される制度です。しかし、この決定に際して、当事者である留学生へのヒアリングは一切行われず、費用の使途や導入理由の説明も不十分なまま進められました。この問題は、一大学の学費問題にとどまりません。
留学生のみの値上げに関してよく聞かれるのが、「海外でも、留学生の学費が自国の学生の学費よりも高額であることは普通なので問題がない」という声です。一部の国の大学で留学生と自国学生の学費に格差があるのは、自国学生が公立学校を支えるための税金を家庭から納めているため、公立学校の学費が減免されているからです。その背景を無視し、留学生に特別費用を新設する武蔵美の突然の決定は、世界的に見ても非合理的な施策であり、決定に至るまでの経緯を含めて批判されるべき点が多くあります。
また、整備費の導入により、学内では学生同士の分断が生まれています。「留学生は支援を受けている存在だから、負担は当然」といった認識が広がり、差別的な言動や誤解が日常的に交わされている現実もあります。現在修士2年の留学生Rさんから、整備費施行以降、大学が偏見と外国人排除的な思想が共有されている環境になっているという報告を受けました。新入生の「留学生ってお金持ちだよね」「外人多くないか」というような発言を学内で度々耳にし、発言が周りの共感を得ている状況を目の当たりにしたといいます。大学がもはや心理的安全性が保たれない場となっているのです。Rさんは、アルバイトをしながら大学院に通い、優秀な成績を納めていますが、整備費の施行によって、同学での博士進学を諦めざるを得ませんでした。「修学環境整備費」が、留学生を能力と学習意欲ではなく、経済力によって選別するシステムであることが、現れた事例だといえます。
この問題は、日本の留学政策とも地続きです。少子化により多くの大学が経営難に直面し、留学生の受け入れが急速に進められています。しかし、数の拡大と裏腹に、実際の受け入れ体制や支援制度は追いついていないのが現状です。またこのような制度設計の歪みが起きる背景には、美術大学という環境に特有の、閉鎖的で上下関係の強い組織文化があります。私たちが通う武蔵美では、学生からの声が制度に反映される制度がほとんどありません。それだけではなく、教員やスタッフもまた、声を上げにくい環境に置かれています。
美術大学では、卒業生がそのまま大学内で職を得てキャリアを築くという昇進のルートが制度的・文化的に定着しており、外部からの多様な視点や新しい知見が入りづらい、非常に閉じた構造になっているのです。
こうした構造の中では、学生、教職員、そして運営側の間に健全な緊張感や対話の文化が育たず、上意下達型の運営が常態化しております。制度に対する疑問や学生の声への共感を公にすることすら躊躇せざるを得ない現実があります。本来であれば、知を育むべき教育機関が、内部の自由な議論すら許さない空気を持っているということ自体が、極めて深刻な問題です。
教育機関は、不平等や差別、沈黙と服従によって成り立っていてはならないと、私たちは強く思います。武蔵美で起きていることは、日本の教育の将来を考えるうえで、決して無視できない重要な社会的トピックです。私たちは改めて、国籍による学費差別の禁止を求めます。どうか、この問題に耳を傾けていただき、よりよい制度のあり方について、共に考えていただけたら幸いです。
東京大学修士2年の高柳摩季です。本日は私自身の経験を伝えることができればと思い、この場に立っています。
高等教育の学費無償化に向けた院内集会は今年2月にも行われました。そこでも私は今のようにスピーチをする予定でしたが、その直前に持病が再燃して入院してしまい、代読してもらいました。
ちょうど6年前に発症したこの病気は難病で、学業と闘病生活の両立のために、留年したこともあります。長期履修制度を使って修士課程も3年目になりますが、2月の入院により、現在は休学中です。
退院直後の休学手続きは大変なものでした。2月というタイミングがギリギリだったのです。4月からの休学で授業料を免除するためには、退院から数日以内に家族や指導教員、大学事務などと連絡、相談、書類の手続きまで終えなければなりませんでした。
しかし、退院したとはいえ静養が必要なことに変わりはありません。頭も体もうまく動かない上、精神的にも追い込まれて“退学”の二文字が脳内を占領する中、周囲のサポートを受けながら――今ここにいる学生たちも背中を押してくれましたが――なんとか完了させました。
東京大学は授業料区分に合わせた休学を決められた期日までに申請すれば授業料は免除されます。授業料区分というのは、4月または10月スタートの6ヶ月のことです。しかし、中には休学中であっても学費の支払いが必要となる大学もあります。そもそもこのシステム自体にも疑念が湧きますが、学費が低廉であれば、無償であれば、退院直後の心身に鞭を打つことなく、もっと穏やかに休学手続きを終えられたでしょう。幸いにも私はなんとか乗り越えられましたが、それは結果論でしかありません。少しの状況の違いで、結果は全く異なっていたでしょう。
遡りますが、6年前の5月に私が初めて病気を発症した際、別の大学にいましたが、授業料区分による休学の手続きは既に締め切られており、授業料を支払う必要があると言われました。一度支払った授業料は返還されないという説明を受け、休学することの意義を見出せないほどでした。
これらの経験から、私は強く確信していることがあります。高等教育の学費無償化は、経済的な理由で学ぶ機会を諦める人をなくすだけでなく、病気や障害を抱える学生が安心して学業を続けられるための重要な基盤となります。誰もが安心してそこにいられる。そのような社会こそが、真に豊かで活力のある社会だと信じています。
私は2021年度から24年度まで琉球大学で学部時代を過ごし、今年度から九州大学に入学しました。
両大学ともに、正式な授業料値上げの検討はまだなされていません。しかし共通して「学費」の問題があります。琉球大学は沖縄県における交通機関の本数・時間的安定性の乏しさもあり、6割以上の学生が自動車で通学しています。このような中、琉球大学は大学財政の厳しさ・施設老朽化を理由に学内の駐車場を有料化し、利用者のうち教職員に年最大24000円、学生に年6000円を課そうとしています。この問題は有料化それ自体にとどまりません。琉球大学には家から片道1時間以上かかる遠方通学者、バス事情故に自動車なしには通学できない人、経済困窮者、21時台の最終バス後も研究に勤しむ学生・教職員などがいます。また琉球大学では交通の便が悪い地域、例えば本島北部ほど経済的に困窮しているケースが少なくなく、彼らはさらなる負担を負うことになります。これら弱者に対する減免措置を経営担当理事は、それに要するコストによりさらに料金を上昇させる、稼ぎにならないとして一蹴しています。大学理事が教育を受ける権利を侵害する発言をしたことは当然問題です。しかしこれら問題の背景には国立大学が運営費交付金を減らしたことで厳しい財政状況に追い込まれたこと、学生が大学近くで生活できる安価な寮がなくなったことがあります。
交通問題・学生生活のための施設の乏しさは九州大学も同様であり、キャンパス周辺からスーパーのある駅周辺までいかなければ食料品・食事すら満足に得られず、そのためには現在の多額の家賃光熱費に加えて交通費も出さなければなりません。
また物価上昇に加えてバスの運賃も相次いで値上げがなされており、学生の負担は増す一方です。
琉大・九大ともに授業料値上げの問題は確かに出ていませんが、「学費」は上昇し続け、また今後急増しようとしています。
そもそも、国立大標準額に当たる年53万円の授業料を含めた現在の学費は非常に高く、そこに生活費が入ることを考えると親からの支援や奨学金なしには学業・研究を行うことは困難です。奨学金制度にも問題はありますが、特に地方大の大学院における支援はそもそも存在しないこともあります。たとえばSPRINGに琉球大学は採択されていません。もちろん大学独自の支援にも乏しいものです。この下で学生は家庭の収入額とは無関係に親から大学や学部の選択・院進等の進路選択で強く拘束され、真に自分がやりたい学問をできない構造が形成されます。2021年に流行語大賞入りした「親ガチャ」はこれの反映とも取れます。
政府は地方大学に「地方のニーズに応えること」「特色ある研究」を求め、また修士・博士の価値を謳いますが、地方の学生が大学院の教育研究にありつけない状況です。親が学部の学費を負担できても、院では無理とされた友人がいます。自分のやりたいことを親-学費の関係であきらめる人が多数います。
学生・家庭の負担軽減、さらには学生が親から経済的に縛らず自由に進路をとれる社会の実現のため、高等教育予算・交付金の増額・安価な自治寮の整備を強く求めます。
こんにちは。お茶の水女子大学大学院博士課程1年の唐井梓と申します。わたしは現在、商業的セックスについて政治学の領域で研究活動を行う大学院生です。
2月の院内集会では、さまざまな立場の学生が共に切実な声を上げることで、問題の可視化が進んだと感じています。しかし、これは「はじまり」に過ぎません。2025年度から値上げの当事者になっている1年生を含め、全国で困難を抱える学生同士のつながりを確かなものとしていくことが必要です。本日の院内集会を、全国の学生・教員の皆さまがつながり、国家の税の使い方を変えるという実現可能な目標に向け、共に行動するための一歩を踏み出す場にしたいです。
結論から言えば、わたしたち学生が望んでいるのは、 学生を含む市民への 「増税」ではなく、現在の税金を適切に活用することです。前回の院内集会へのご反応としてあった「教育費補填という要求は増税を行うべき」ということなのか、について、そのように応答します。そして、この問題への関心を喚び起こしていくわたしたちの試みは、大学に通っていないひとにも通ずる、「公的なお金」の使い方の是正と、市民の権利と自由の保障につながっていることを再度強調したいです。
家族主義に紐づけられた狭い射程の修学支援制度、教員の非正規化、大学のガバナンス問題、教員や学生による「自治」への介入────学費値上げ反対のアクションは、さまざまな社会の不公正と解決策を同じくしています。 納税の義務を果たしているわたしたちに対して、本当に政府、官僚、国会議員は我々の代表としての責任を果たしているのでしょうか。わたしたちは、そのあり方を問うています。長年の政治不信のなかで、自己責任に慣れすぎた社会に、どのような言葉が届くのか正直わたしにも見当がつきません。だからこそ、声をあげ続け、一緒に考えていけたらと考え、このアクションに関わっています。
文教ならびに科学技術振興費は2025年度の計上で約5兆円となっていますが、過去最大規模の防衛費、8兆円には及びません。また、高等教育や研究のための教育費は「個人」あるいは「家族」に任せれば良いという自己責任的風潮があります。「学ぶ権利」は誰しもに保障されるものにもかかわらず、確かな格差があり、現状それが保障されていると言えません。わたしもすんでのところで、研究活動をやめることなく留まり続けていられる状況です。
わたしは当初、研究にかかる費用や物価は高まっているにも関わらず、国が定める「優秀さ」があったとしても、その鉤括弧付きの「優秀」な若手すら、毎月手取り16-18万円での研究活動を営む生活が強いられている点についてご説明をしようかと考えていました。しかし、問題の根本はもっと根深いところにあります。それは、研究職・学生の、勉学や研究といった社会を問う姿勢への軽視や、そこに含まれるジェンダーの偏り、そしてそれらを是正してこなかった政治への不信感や諦めです。
わたしの周囲では「女が研究者になるなんて」「家計が厳しいから諦めろ」といった言葉が聞かれ、「研究って何になるの?」「自分で金を貯めてから行け」「好きなことをやっているくせにお金が無いなんて言うな」といった、学問を志す人々への心無い言葉が立ちはだかっています。研究は「楽しいことを突き詰める」だけでなく、社会に生きる人々の困難に立ち向かおうと、自らの生を賭けて闘う抵抗の営みでもあります。そして、それは必ず社会に生きるひとびとに還元されるものです。だからこそ、わたしは友人たちと共に闘おうとこの場に立っているのです。
わたしたち学生は、大学という自身が属する小さな「社会」から、そこに繋がっている大きな「社会」全体のあり方を考え、構造の見直しを求めます。 したがって、わたしたちは、現に今困窮している学生の方々はもちろんのこと、学生を大学に通わせている保護者の方々、大学に通う前段階の高校生の方々、そして、大学を卒業し、今まさに「貸与型奨学金」という名前の「借金」を返済している皆さん、そしてそのような方々の友人やパートナー、家族の方々、 そういったすべてのひとに自分ごととして考えてもらいたいと思います。
東京都は都議選を控えています。公示日は6月13日、6月22日に投開票です。5月は、鹿児島県、石川県、京都府、和歌山県、茨城県、大阪、香川、沖縄県で地方選挙があります。そして、千葉県の旭(あさひ)市長選挙と同日である7月20日に第27回参院選があります。わたしにとって学費値上げ問題を考えることは「社会」のあり方を問うことです。是非とも皆さん、高等教育費無償化や研究という営みについて声をあげている候補を選んでください。力を合わせて、わたしたちの社会のあり方について考え、行動していきましょう。
どうも、東京大学の左です。
大学院生とはそもそも何をしているのか、というところから始めたいと思います。結論から申し上げますと、資料を調査したり、論文を書いたりしてます。この過程から、我々の状況を説明し、訴えたいと思います。
資料調査には資金が必要です。論文を書く時、文献を買ったり取り寄せたりすることがありますが、10頁20頁そこらの文章1本買うのに何千円もします。海外から取り寄せると10000円を越えることも少なくありません。数件でも、これらの数値を合算すると論文を一本書くのに数万円かかります。生身で現地に行き、調査したらしたで、渡航費が何万円もかかります。そして資料のコピーや書籍購入でまた数千円数万円です。
次いで、執筆にかかる資金です。英語論文の執筆で英文校正サービスを使うとそれだけで数万円。投稿すると、英語圏の有名雑誌では、著者から料金数万円相当を持っていくことがあります。
時間もかかります。見たこともない手書き文字、慣れない言語で、何冊もの数千頁の辞書で単語を一つ一つ検索して、文意も理解しながら文章を読むこともあり、大変な時間がかかります。(因みに私はこのTシャツ1行の解読に2-3時間かかります。)そして、雑誌への投稿から採用まで、編集部とやり取りして数箇月かけて内容を調整することになります。こういう訳で、準備に1年以上かかることもざらです。
これらの条件が重なると、1年以上かけて数千円で済めば相当廉価で、調査と執筆だけで数万円・数十万円が必要になるのが当たり前になります。この期間の生活費も必要です。なぜ大学院生に支援が必要か、お分かりいただけたでしょうか。
では、支援は行き届いているのか、といえば、恐らくそうではないのです。「支援」の典型として有名な学振DCですが、採用率11%です。もはや運です。博奕です。万馬券100本セットまとめ買いみたいなもんです。この「万馬券100本セットまとめ買い」が「支援」の典型です。「これで学生を支援できていると思っているのか」、否支援とは言えないと、私は思います。
この「万馬券100本セットまとめ買い」は、月給20万円程度です。類似制度も含め、手取りになる頃には生活保護レベルで、兼業が要る場合もあります。毎食牛丼並盛ならいいですが、最低限の保障でしかないのです。
そして、大体の「支援」は、3年で打ち切りです。我々の分野では、往々にして3年で博士は取れません。それから収入無しで博士号を取得をするのが常態化しております。この後、決して雇用は保障されません。雇用されても給料が出なかったりします。高学歴ワーキングプア、ポスドク問題と言われるゆえんです。
この状況でどうして研究ができるのでしょうか。研究力強化などと言うなら現場に即して下さい。現場を見た上で改善せず研究力強化を目標にするなら、バカにするのも休み休みやってくださいと申し上げたいです。我々学生研究者が、研究活動を全うしつつ生存できる社会を構築せよと立法行政、そして日本国主権に与る全ての人々に訴えて、私の言葉を締めたいと思います。ご清聴ありがとうございました。
国際基督教大学、ICUの学費は、値上げが始まる前から高額な方でした。それでも本学の特色である少人数教育を守るためにはコストがかかり、経営は常に思わしくありません。
この少人数教育の方針は、対話的で双方向的な学びを多様な学生に保障するために必要不可欠なものです。それには、障害のある学生に対する学修環境の調整、いわゆる合理的配慮のための万全なサポート体制も含まれます。
しかし高等教育の環境整備の問題として見れば、うちの大学サイコーなどと無邪気に感謝している場合ではありません。
少し個人的な研究の話をさせてください。
日本で障害のある学生が学修環境の調整を必要とするとき、多くの高等教育機関では、その責任を持つ専門の部署がありません。既存の部署で対応を兼任する大学は増えているものの、十分な受け入れ態勢が整っているとは言いがたく、高校生が障害を理由に受験自体を断られることも珍しくありませんでした。
昨年度の差別解消法 改正以降、そういった対応は「不当な差別的取扱い」として禁じられました。しかし、今度は無計画に学生を受け入れたうえで必要な調整をしない、すべてをボランティアの支援員に丸投げするなどのケースが出ているそうです。
調整を必要とする学生に支援が行き届かなければ、自身のニーズを説明し交渉する責任は全て学生自身に降りかかります。個人で余裕を持って教員に連絡を取り、ニーズを満たすためにどのような選択肢があるか話し合い、教員を説得するという気の遠くなるような作業が、履修する全ての講義で発生するのです。
立場の弱い学生にとって、この交渉にどの程度応じてもらえるかは教員次第で決まる場合も多いです。話し合いで協力が得られなければ、もはや残された選択肢は履修を諦めるか、一か八か自力で乗り切るかの2択です。
己の存在が想定されていない仕組みの中で、たった一人で学問と取っ組み合う大学生活が想像できますか。
研究でお世話になっている特別支援学校の先生は、ICUを含む私立大学の名前を二つだけ挙げて「生徒を安心して送り出せる」とおっしゃっていました。それが逆に障害者にとっての高等教育の門戸の狭さを物語ってもいます。
さて、これは大学の怠慢として責められるべきでしょうか。ICUの経営難と学費を見れば明らかなように、アクセシブルな教育にはコストがかかります。どの学校も採算を考えざるを得ないために、ある学生は高額な学費に苦しみ、ある学生は画一的な工業製品のように扱われる。教育の機会、フェアな制度、基本的人権はどこに?
いかなる学生にも誠実に学びの機会を作ろうとするICUの姿勢は誇るべきものです。しかしそのために学費が上がれば、それが別の学生を切り捨てることにつながるのも事実です。
大学が経営に苦しむ一方、学生は自分ではどうしようもないことで学びの機会を奪われる。こんな不公平で理不尽で悔しいことはこの世代で終わりにしたいのです。公の責任を果たしてください。どうか教育に充てる予算を惜しまないでください。
皆さん、「逮捕」されたことはありますか。「処分」を受けたことはありますか。知人がそうなったことはありますか。私はあります。
兵庫県庁に意見書を提出するために入った学生ら2人が逮捕されました。京都大学で総長との対話を求めた学生らも停学処分の末逮捕されました。逮捕までは行かなくとも、意見表明を試みた末学内処分を受けた学生の例は、特に近年においては枚挙にいとまがありません。
ではなぜ私はこの「学費値上げ反対」の会で逮捕や学内処分の話をしているのか。それは、「高額な学費」は、「学生の自由の弾圧」と強く関係するものであるからです。学費免除や、奨学金のほとんどには、学内処分時に支援を取りやめにするという規定があります。そうでなくても、処分により授業を休めば、支援除外の対象となります。実際に、先に述べた京大生らの中には、休学中にも関わらず停学処分となり、その学期中の学費を払わなければならなくなった学生もいます。現在、兵庫県庁関連で弾圧を受けている2学生も、3回授業を休んでいることになり、奨学支援の廃止対象となります。
すなわち、学生の意思表明への弾圧において、彼らに直接加えられるのは処分でありますが、その度合を高めるのは学費の高さや支援制度の高い継続要件なのです。「学費値上げ」「申請主義」「自由の弾圧」の3つのことが組み合わさり、この日本では進んでいる
のです。
「あなた(学生)や、あなたの家族(議員とかそのあたり向け)には関係ない」と思っているかもしれない。しかし、あなたや家族の学生生活を脅かす出来事なんていつ起きるかわかりません。実際に、この学費値上げ反対運動も、今まで「運動」とは無縁だったような多くの学生が、自分ごととして参画しています。そのとき、不当な処分と高額な学費があなたや家族を襲うかもしれません。「学費値上げの代替として奨学支援が拡充される」という時、その裏には奨学支援というのが「大学に不都合なことをしたら打ち切る」という脅しの道具になるという現実があることをも認識しなければいけません。
学生の自由のためにも、学費値上げは止められなければいけません。最後に、今不当に勾留されている全ての人々の解放を訴えて私のスピーチを締めくくります。
東京大学総合文化研究科の三宅と申します。
私は、一般的な学生よりも年を重ねて、昨年度大学院に入学し、働きながら通学をしています。本音を言いますと、学部を卒業してからすぐに大学院に進学したかったのですが、当時、仕送りをしてもらっていた親を説得できないまま、就職するという選択をしました。大学進学を期に上京したのですが、それまでの人生で金銭的な苦労をしたことが全くなく、親からの仕送りだけで生活ができるくらい余裕のある暮らしをしていました。そうした事情もあって、奨学金という借金を背負ってすぐに親から経済的に自立してまで、大学院に通おうということに思い至りませんでした。
昨年、学生の意見を聞かないまま、藤井輝夫総長や相原博昭副総長をはじめとする東大執行部は、学費値上げ決定を強行しました。この決定によって私が危惧しているのは、過去の私のように、サイレントで進学をあきらめてしまう人を増やしてしまうのではないかということです。例えば、本日の院内集会でもご尽力いただいている中央労福協が実施した2024年6月のアンケートでは「実際の子どものいる人の年間教育費を確認すると中央値 28.3万円で、この教育費に「負担感がある」という人が4人に3人と多い」といった結果が出ています。子供のいる親のうち教育費に負担感があると答えた親が多いということです。親が教育費に負担を感じたら、子供の進学を認めないこともあるでしょうし、子供も親に気を遣って進学を諦めてしまうということもあると思います。
私たちの社会は、そうした表に出ない子供たちのあきらめに思いをいたし、最善の選択をする必要があるのではないでしょうか。コロナ禍や物価高といったさまざまな社会的背景のなかで、文科行政、大学執行部という一部の決定権を持つものたちによって有無を言わさずに教育費負担の増加を決めてしまうのではなく、「学びたい」「学びつづけたい」という学生たちの声のない声、そして、それらの声を伝えるこの集会の声に、決定権者は耳を傾けて教育予算を増加してください。最後に一言、教育をぜいたくにするな。
国会議員のみなさん、省庁のみなさん、私は大学院に通う学生として、訴えたいことがあります。それは、この国の高等教育が、大学での学びが、どんどん経済的に余裕のある人たちの特権になりつつあるということです。
まず、そもそも経済的な理由によって高等教育への道が断たれています。5年前、私のバイト先の同僚に、高卒で一生懸命に働いている人がいました。ある日「学費がなかったら大学に行きたかった?」と聞いてみたことがあります。その人は、迷わず「行きたかった」と言いました。彼女は、とても柔軟な考えを持っていて、私が仕事や研究で悩んでいるときに、よく話を聞いてもらっていました。修学支援新制度など、国としてやれることをやっているのはわかっています。しかし、それでは全然足りていないのです。学費のせいで高等教育から閉め出されている人たちの存在は、その本人にとって権利侵害ですし、この社会にとっても大きな損失です。 そして、高等教育機関に入学できたとしても、経済的な理由から学ぶ機会が奪われています。私の友人は、単位が取れていたはずなのに、学費を払えずに1年間の単位が全て認められず留年しました。またオンライン授業の際は、電気代の支払いが厳しいため真っ暗な部屋で参加している学生がいました。学費減免など、既に多くの支援がありますが、まったく足りていない現状があります。
私自身は母子家庭で育ち、大学の経済援助を受けながら私立大学に通いました。しかし親にこれ以上負担をかけられず、大学院に進学するには国立大で授業料免除を受けなければなりませんでした。今でも「この半期免除されなかったらどうしよう。退学するしかないのか。」と、恐ろしいです。
高等教育機関での学びは、すべての人に開かれるべきです。さまざまな立場にある人たちで多角的に追求しなければ、私たちは真理には近づけないからです。学問を、再び、経済的に余裕のある一部の人たちだけの特権にしないでください。
私たちの高等教育を受ける権利を保障するためにも、知的生産を担う高等教育機関の構成員が視野狭窄に陥らないためにも、まずこの要請書にある事項に着手してもらいたいです。よろしくお願いいたします。
大阪公立大学大学院の学生です。
大阪公立大学では大阪府の制度により、授業料の完全無償化が導入されていますが、在住要件など複数の条件を満たす必要があり、全ての学生に対して授業料の無償が実施されているわけではありません。私も制度の対象外のため、毎年約50万円の授業料を支払っています。
公立大学の財政は主に地方公共団体からの運営費交付金に依存しており、都市部か地方かでも財政の状況が変わってきます。
国から地方へ教育支援が多くなれば、学費の負担軽減はもちろん、学内の学びにおける様々な利便性の向上など、公立大学に通う多くの学生が安心して勉学・研究そして課外活動に取り組めることにつながります。
より多くの学生が学費の減額、将来的には無償化の恩恵を受けられるように、国と地方が強力して学費問題の改善に向けて大きく動くことを望みます。