2025年2月13日に開催しました、「苦しむ学生の声を聴く!2・13院内集会」の同時スタンディングにおける学生の発言です。
※当日、時間の都合や体調不良により登壇が実現しなかった学生の原稿も掲載しております。
※所属等は当時のものです。
みなさんお疲れ様です。院内集会に参加していた、田中と申します。院内集会、先ほど大盛況のうちに終わりました。立ち見もでき、報道メディアも多く来ていました。議員の先生もたくさんいらっしゃり、多くの方から発言をいただきました。そして大変盛り上がった結果、予定されていた私たち教員枠の発言は全カットとなりました(笑)それは別に良いんです。学生たちの声を議員へ多く届けることができ、学生たちがいかに「限界」であるかを、議員の先生たちに、はっきり示すことができました。議員も、そういった学生の声に触発される形でご発言いただいた。意味のある場だったと思います。けれども院内集会でお話ができなかったということで、院内集会スタッフのうち、最初にマイクをいただきました。院内集会で、さまざまな党の議員の先生に聞かれると思ったから、それなりに時間をかけて、オフィシャルな原稿を、一応作っていたんですが、もうここではそんなお行儀よくしなくて良いと思うし、言いたいことを言ってやろうと思うんですが、みなさんよろしいでしょうか?
まず考えなければならないのは、この学費問題が、往々にして、「学生」対「大学」という二項対立の構図で語られてしまうことの問題です。ただ、同時に、私は、学生たちがそのように語ることは仕方がないことだと思う。それだけ酷い思いをしてきたのだから。私は、今回教員枠で話す予定でしたが、大学院博士課程の学生でもある、という立場にあります。博士課程の院生である私にとって、学費問題は切実な問題です。また、私が若く・立場が近いことを知っている学生たちは、私にさまざまな相談をしてくれますが、その中に、経済的な事情やそれに伴うメンタルヘルスに関する切実な問題というのは、正直少なくありません。当然、どうにかしてあげたいと思う。けれども、私には、かれらをどうにかしてあげられる力はないんです。非常勤講師だから。大学内で力を持っていないから。だから私は、ただ話を聞いてあげることしかできない。そういう無力感や絶望感を抱える教員は、私だけではないはずだし、専任教員だからどうにかできる、という話でもないはずです。
学生と、非常勤講師という教員との、両方の立場からみたときに、私は、往々にして大学の側に問題や不誠実さがあると考えるのと同時に、大学側もまた限界なのだと、切実に感じているところです。だからこそ、私は、盛り上がったがゆえの結果で仕方がなかったとはいえ、やはり誰か教員が、あの場で発言すべきだったのだと思うのです。学生の状況を、リアルな場で、心を痛めながら、どうしようもないと思いながらみている教員の声を、伝えるべきだと思った。そして、そういう大学の「限界」は、私の雇用にとっても大きな問題です。私は、非常勤講師です。大学にお金がないということは、我々非常勤講師の雇用というものが、ずっと脅かされているのだということです。私は半年に一回という、とても短いスパンで、「次の仕事の依頼はいつ来るのだろう」と、ドキドキさせられています。直前に依頼が来ることもあります。直前に頼まれるとね、授業の準備、結構大変なんですよ!?(笑)けれども、私は大学を責めることなんてとてもできない。事情が色々あること、限られた予算で何とか非常勤に仕事を回そうとしてくださっているであろうことを知っているからです。
つまり学費問題とは、「学生」対「大学」というような、単純な二項対立の問題ではないんです。そう語られてしまうこと自体が一つの問題でもある、複雑で、構造的な問題なんです。けれども逆に、構造的な問題だから、解決しうる問題でもあるんです。そのことを、どうにか伝えたいと考えていました。
ここで、院内集会で話そうと思って原稿に書いていた内容を、少し紹介します。
「すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。」
この一文、みなさんご存知ですか?何の文章でしょうか?そう、教育基本法の条文です。これは、第四条の条文で、「第一章 教育の目的及び理念」に掲げられる、教育の機会均等を定める条文です。高等教育を受けること自体は、義務教育と同じように、誰に対しても保障されるべき権利なんですよ。高等教育を受けることが、お金をめぐって「特権」だと語られてしまうこの現実は、その語りが仕方ないとはいえ、本来おかしいことなんです。
どんな理由であれ、学ぼうとすることは尊いことですよね。にもかかわらず、現在、経済的な事情で、自由に大学等で学ぶことを諦めたり、心身の調子を崩したりする学生が、少なくない現状にある。私たちは、初等・中等教育課程の次のステージの一つである、高等教育機関へ、児童・生徒をどう送り出せばよいでしょうか。高等教育は、「お金」という「現実」や、「諦め」「絶望」を「学ばせる」ためにあるのでしょうか。先ほども申したように、また院内集会での声にあったように、学生たちはもう、「限界」なんですよ。
今高等教育をめぐって起きていることは、教育を受ける権利を保障できていないことであり、それだけでなく、教育を受けるために心身の健康が脅かされているという、人権・権利・尊厳に関わる問題なのです。それくらい重たい問題なのだということ、よくよく受け止めていただき、改善に努めていただきたい。そう願います。
権利って、「当たり前」であるということですよね。教育を受けること、当たり前にしましょうよ。今日を契機に、高等教育をめぐる社会問題を、変えましょうよ。ありがとうございました。
*
いや~、本当に寒いですね(笑)そんな中、二回目のマイクをいただきます、すみません。今日のお話では、私は教員という立場から話すという事でしたので、自分の「個人的なこと」をあまり話せずにいました。だけど、みなさんのお話を聞いていて、やはり話したい、と思いました。同時に、私がなぜ、個人的なことを話さない形で、スピーチをしたのか、それも話したいと思いました。そのあたりについて、少しお話させてください。
個人的なことを一切話さなかったわけですが、学生である私自身にとっても、学費問題って、結構深刻なものなんですよ。今から話すことは、少ししんどいエピソードになるので、辛くなったらすみません。
私は、修士課程も博士課程も、いわゆる規模の大きい、大手の大学院に所属しているわけではありませんでした。院生の数も、決して多くはありません。規模が小さいと、どうしても学部生優先で、院生に対する支援は手薄にならざるをえないところがありますよね。仕方のないことです。だって大学にはお金がなくて、リソースは限られているのですから。
象徴的なことですが、現在所属している大学院は、他の大学院にある、JST-SPRINGといった学振以外の支援は設置されていません。大学が国に申請していないからです。また、私は、博士課程で、所属する大学を変えています。修士課程の大学に、博士課程がなかったからです。だから、私は学振DC1の申請もできませんでした。院生として「当たり前」に保障されていると思われがちな経済的支援に、私はアクセスする環境にありませんでした。
学生支援をめぐる申請主義について、院内集会でもスタンディングでも、多くの問題が指摘されていました。私にはそもそも、申請する機会すら、まともに与えられていませんでした。だから私は、云百万という奨学金を借りて、親から学費等を支援してもらって、非常勤講師等の仕事を掛け持ちして、今何とかやっています。私は、第一希望でなかったとしても、支援の充実した、大手の大学院へ進学すればよかったのでしょうか。所属する大学院によって、支援にアクセスする機会すら不均衡であるというのは、問題ではないでしょうか。
私は、親から、博士課程への進学をずっと反対されてきました。そりゃそうですよね、こんなところに行くこと、賛成なんかできませんよね。今では親の気持ちも少しわかります。説得には、半年かかりました。一つだけ、忘れられない、母からの問いかけがあります。「普通の幸せを得られないかもしれないけど、いいの?」言わんとすることもわかります。だけど、私はこう言いました。「いいよ別に。やりたいことやるから。」この一言で、親は私の進学を応援してくれるようになったわけですが、実は私は、心の中で、こんなことを思っていました。「どうせ死ぬし。」どなたかがスピーチで、大学院生が抱える、経済面をめぐる深刻なメンタルヘルスの問題を指摘してくれていましたが、ご多分に漏れず、私もメンタルヘルスに大きな不調と傷を抱えていました。だから私は、博士課程に「来れてしまった」わけです。先ほどから申し上げているように、今私は多額の借金や支援、アルバイトをしています。これは、博士課程の生活費や研究費をまかなうだけでなく、修士課程までに失った心身の健康に対する、高額な治療費や生活上の余分なコストをも払うためでした。こんなんで、どうやって研究をやれっていうんですか。ありえないでしょう。
まあ、こんな風に、私の当事者性にかかわるエピソードは、挙げればキリがないわけですが、では、この話をしなかった私の先ほどのスピーチは、当事者性が薄い、価値が減ぜられたものでしょうか。というかそもそも、「夢」や「やる気」のある「真面目」な学生だから、何か困難を抱えているから、助けてもらわないといけないと、学費値上げをしないでくださいと、お願いしなければならないのですか。私たちは、教育を受ける権利を求めるため、自分たちの当事者性を「切り売り」しなければならないのでしょうか。違いますよね。
今回、多くの学生たちが、自身の当事者性に基づいて話してくれて、議員の先生たちからもそこに「胸を打たれた」というお話が多くありました。当事者としての学生のナラティブは、とても大切で、お話してくれたことを、とやかく言われるべきでは絶対にありません。それに耳を傾けることも、とても重要なことで、議員のみなさんは、本当に誠実にお話を聞いてくれていました。しかしそもそも、今回学生たちは、本来的には権利であり、当たり前に保障されるべきものが保障されていないから、自分たちのエピソードを必死に「切り売り」せざるをえなかった。この社会の構造的な問題が、学生たちに「切り売り」をさせてしまったんです。学生たちから奪ったものは、議員の先生たちがおっしゃっていた、「本来学ぶための時間」だけではありません。当事者性の「切り売り」とは、とてつもなく重たいものなのです。だからこそ、この運動は、匿名性や心理的安全の保障に対して、これだけ配慮しなければならない運動だったはずです。そのことを、関係各位には重々、ご承知おきいただき、この現実を重く受け止めていただきたい。そう思わざるをえないのです。
私は、この状況を、つまり教育という「当たり前」の権利を求めるために、当事者性を切り売りせざるをえないことが「当たり前」になってしまっている、このことが、教育に携わる者として、非常に恥ずかしい。これが当たり前であっていいはずがないんです。だから私のスピーチでは、教員という立場性ゆえに自分のことを話さなかっただけでなく、教育学者の意地にかけて、自身の当事者性をあえて開示せずとも、高等教育が抱えている現状はおかしいことが、十分証明・論証できるのだと示したかったからでした。
さらに一点加えるならば、この訴えに与党が来なかったこと、党派性がついていると認識されるのかもしれないこと、これっておかしいんですよ。もしかしたら、党派性というよりは、忌避感なのかもしれませんが。こうやって学生が集まって運動すること、それに対して何かしらの忌避感がある、というのには、もしかすると、数十年前、とある学生たちが暴力に訴える形で「革命」を試みた、あの時の記憶があるのかもしれません。あの運動自体が、妥当なものであったかは、ちょっと一旦置いておきましょう。あの時の傷も、決して軽いものではありません。ですが少なくとも私たちは、暴力等に訴えることなく、本当に誠実に、言論とデータとナラティブで訴えているはずなんです。
言いたかったのは、学生とは、若者とは、本来社会に対して口うるさいものだということ、最近の若者があまり物申さなくなっているというのは、「異常」なことだということです。先程から再三申し上げているように、学費や経済面をめぐって、学生や若者たちは、ずっと「諦め」という、隠れたカリキュラムを学ばされています。もしかしたら、「教育」よりも「国力の増加」や「上昇」を優先したい、という政治的な立場もあるのかもしれませんが、そういった立場に対してすらも、こうやって教育が「諦め」を教えることは、自分たちが目指す政治や国家像に対して逆行していると、言うことだってできるはずです。
長々と話してしまいましたが、私たちが闘い、抗っているのは、今まさにある現実です。共にできることを、私たちは行い、時に休み、労り、助け合いながら、「当たり前」が当たり前になる未来を、それでも諦めず求めていきましょう。ありがとうございました。
今日の院内集会なんですけど、本当に院内集会の会議場から溢れるくらい人が集まって、僕は大成功だったと思います。
だけど、そのうえで言いたいことがあります。
なんで自由民主党は、学費無償化するって言ってたのに来ていないんですか。
なんで公明党は、来ていないんですか。
なんで国民民主党は、来ていないんですか。
ここは、少し納得がいかなかったところです。
だけど、他の政党には僕たちの生の当事者としての声を届けられたと思うし、今回来なかった政党にも要請書を提出しましたので、僕らの当事者としての声をぜひ国政に反映させてもらいましょう。
それと、なんか学校の先生みたいなこと言っちゃいますけど、今日で終わりじゃないんですよね。今回のこの運動は、ある意味「諸刃の剣」です。国は、金を出すと口も出そうとしてきます。だから今回の僕たちの要請は、大学自治を脅かさないよう、基盤的経費にかかわる予算措置に焦点をしぼっているんです。
だけど、仮に国が予算をつけたとしても、大学が学費を上げてくることはありえますよね。だから今日ここで終わるのでなくて、各大学で運動を起こしていくことが大切なんです。今回の院内集会にあたって、統一の運動団体をつくらず、各大学の学生団体や有志個人との連名・共催にこだわった理由は、ここにあります。
しかし、学生は一人では弱いです。今回の行動でできた、この学生の間のネットワーク、人間関係をうまく使って、これからの先の学費値上げを許さないっていうことをやっていきましょう。そういうふうに思っています。
皆さんぜひ、今後ともよろしくお願いいたします。
私は、一般的な学生よりおよそひとまわり年を重ねているのですが、それには理由があります。本当は学部を卒業したときにすぐに大学院に進学したかったのですが、それが叶うことはありませんでした。世帯年収で考えると、学費免除の対象にならないような比較的めぐまれている家計でありましたが、大学院進学にあたって親を説得できなかったことや自身で奨学金を得てまで進学しようと思いも寄らなかったこともあり、大学院に進むことを断念しました。世帯年収が高ければ学費を負担できるだろうという議論がありますが、学費を払っている家族にも様々な事情があるし、必ずしも理解を得られるとは限りません。
私は、幸いにも、社会経験を積んで働きながら大学院に戻るという選択をすることができましたが、大抵の人は一度諦めてしまったら、再び大学に戻ることないのではないでしょうか。学費値上げによって、そのように進学をあきらめてしまう人が増えてしまうのではないかと危惧します。それが、私が学費値上げに反対する理由です。
ごきげんよう。国際基督教大学、通称ICUから学費値上げ反対を訴えに来ました。
ICUって世界人権宣言の理念を体現しようってことで作られた大学で、背景も特性も違うあらゆる学生が尊重されて共存するっていう理想のためにある、すごい大好きな大学です。
でもうちの大学ただでさえ学費高くて、しかもいま5年くらいかけて値上げしてるんですけど、2028年度には160万円近くなります。文系でもですよ。ガチ高い。えぐい。院内集会でも話しましたけど、値上げ前でさえ学費が払えなくなって大学を去っていった子たちもいました。だってこんな高いの家計の急変とか親と決裂とかで1発アウトだもん。
去年東大の値上げ闘争みててすごいなーって思ってたんですけど、でも同じように大学を相手取って戦う気にはなれなかった。だってうちの大学本当にお金ないんです。実験の設備とかほんとボロくて、使い方なんも間違ってないのに試験管割れたとか、器具の故障に気づかず2時間無駄にしたとかあるあるです。高い学費とって、何度もキャンパスの土地売って、卒業生からもたくさん寄付もらって、それでも経営厳しくて値上げになっちゃいました。なんでそんな金ないのっていうと、これ少人数教育のコストなんです。そりゃ学生増やせば簡単に黒字にできますよ。大教室に学生ン百人ぶち込んでまとめて授業受けさせた方が儲かるに決まってる。
それでも増やさないのは、建学の理念のためです。目の前の学生と丁寧に向き合って対話をする、個別のニーズに応えるっていう人権尊重、その教育環境を守るために苦しくても足掻いてきたんです。さっき実験設備の悪口言いましたけど、そんな実験室も車椅子の学生が一緒に実験できるようにってゆとりのある作りになってたりなんかして、これものすごい愛じゃんか。その結果がこのたっかいたっかい学費。いやあ人権って金かかるんですね。
でもちょっと待ってよ、人権って金持ちだけの贅沢品なんですか?んな訳ない。誰だって互いに目を合わせて対話する、対等に尊重しあう、そんな学び方のできる大学を選ぶ権利があるはずです。だからって美しい理想のためにがんばってるICUを責めたくなんかない。大好きな母校が経営難で潰れたらなんて考えたくもない。それぞれの大学が提供する理想的な教育環境に、現状お金がないとアクセスできないのって大学の落ち度でしょうか?
いわゆるわかりやすい低所得、成績優秀者のための奨学金、個別の事情に合わせた救済だってうちの大学がんばってます。でも結局どれも条件つきですから、審査のための手続きが必要です。実際金ない、生活の基盤危ないってなったら今日明日のために働き詰めになるってわかるでしょ?生活全部が自転車操業の中、自分で制度探して書類かいて証明書とか準備して期限も守ってよし申請、なんて余裕ないんですよ。
そもそも18歳も過ぎて親の所得に紐づけられてジャッジされるのおかしくない?それ親の金であって学生の金じゃないし、親が学業に、研究に、協力してくれるって保証されてる人間なんかいないのに。
だから実家太くてもそうじゃなくても区別しないで、全員の学費安くしてください。お互いカツカツの大学と学生を分断しないで、国が金出して教育を守ってください。
小さい大学なので全国の学生と連帯できて助かってます。引き続きがんばりましょう。
院内集会では国際卓越研究大学制度について話しましたが、ここではもう少し個人的な体験ベースで喋ろうと思います。
私がこの3年間の生活で最も感じてきたことは、大学という場所で得られるものが本当に豊かであるということです。それはまず、出逢う人の層が多様であるためです。高校までの人生を地方の公立高校で過ごしてきた私にとって、多様な国籍、文化、バックグラウンドを持つ留学生、都市部で育った人や私立校の出身者、その他様々な体験をしてきた人に出逢うことは、全てが斬新なものでした。また、自分とは異なる分野で学問や活動をしている友人がすぐ近くにいたり、メールを一本入れれば気軽に専門家に会いに行けたりするような環境も、大学の外に出れば珍しいものだと思います。自分の知らないことを知っている人、知らないことをやっている人、自分と違うことを考えている人との関わりは、多くのものをもたらしてくれます。
しかし同時に、自分がいかに恵まれた立場に置かれているかも自覚させられます。私の場合は家族に一定の収入があり、進学に対する理解も得られたため、奨学金も受けずに大学に通うことが出来ていますが、そうでない人が自分の周りだけでも沢山いるからです。アルバイトに多大なリソースを割かざるを得なくなれば大学でできることの幅は当然狭まりますし、例えばそこに病気が重なれば、学費を捻出できなくて学籍を維持できないという状況も容易に生じうるのが現行の制度です。
大学が豊かな場所であるということを先に述べましたが、これは裏を返せば、経済状況や家庭の事情、病気や障害、その他のマイノリティ属性によって修学を諦めざるを得なくなったときに絶たれるものもそれだけ大きいということを意味します。
そしてもっと苦しいのは、困難な状況に置かれた当事者たちが、それが社会の問題、政治の問題であるということを認識できないような構造があるということです。今社会にどういうシステムがあって、それが自分や他者にどのような影響をもたらすかという視点が、私たちの日常からあまりにも欠如しすぎています。苦しいのに反発できなくて追い込まれた当事者は、時間的・経済的・精神的リソースを自分のために割かざるを得なくなりますから、悪循環が生じるのは当然です。
この惨状が教育の機会均等に反するということは言うまでもないですが、それだけじゃない、誰の得にもなってないじゃないかと言いたい。教育・学術への予算がこんなに絞られて、大学運営が苦しい、学生も苦しい、教職員も苦しいという状況は、20年以上続けられてきた新自由主義政策の成れの果てとも言えます。
今、学費値上げの波に抗う私たちがすべきことは、根本的な問題構造への認知を広めることではないでしょうか。様々な立場で疲弊した人たちと、これってやむをえない事ではないよね、政治のせいだよねって話をもっと共有したい。押し付けられた苦しさに誰かが一人でつぶれてしまうことを受け入れたくありませんし、小さなパイの取り分を競うような分断も望みません。もちろん、稼げる大学政策の被害者でもある大学側にも、学生自治を弾圧するのではなく対話をしてほしい、話さなければいけないことが沢山あるはずです。
最後に、今日院内集会の終了後に新聞の取材を受けたのですが、そこで記者さんから、大学問題を扱う活動をする中で成功体験はありますかと質問されました。もちろんこの運動で学費値上げ撤回や無償化を勝ち取れたらそれに超したことはないけれど、私たちにできることはこの現状を政治の問題として共有し、一緒に声をあげられるような土壌を地道に作っていくことではないでしょうか。それは成功とか失敗とか、そういう話ではないと思っています。今日は色んな大学でアクティブに動いている皆さんから学ぶことが本当に多かったです。これからも連帯を続けましょう。
今日は風は強いけれど青空の見える快晴だった。けれども学費問題や大学自治の問題では曇りどころか大雨です。しかし雨はやがて止んでまた青空はやってきます。それを願ってブルーハーツ「青空」(ハーモニカ演奏)。
あそこには国会議事堂、こちらには議員会館、遠くに止まる機動隊の車両。ここは権力の中枢でだからこそ議員や省庁、ジャーナリストに院内集会という形で訴えることができたが、声の上げ方、声の上げる場所はここ/これ以外だってありえる。音楽を奏でたり、文章を書いたり、ネットで書き込みやシェアするのも立派な「闘い」だ。このように路上でスタンディングして本当に「声を上げて」しまうことだってその一つだ。集まった100人で声を上げて、院内集会に来なかった政党の議員耳にこっちから言いたいことを入れてやりましょう!
阪大に「バーチャル自治寮」という建付けの「迷道舘」というコミュニティがあり、「茶屋次郎四郎」という仲間に今日私が東京に出ている間サークルオリエンテーションの書類仕事をやってもらっています。地方から来ている人は来れなかったそれぞれの地方の人に支えてもらって、彼らを代表してここに来ていると思います。それぞれの地方でみなさんを支えている人たちに感謝をしましょう。そして、議員とジャーナリストのみなさん、ネタになる大きい集会だけでなく、それぞれの地方で確かに行われている運動にもしっかり足を運んでください。
仮放免だった時は、普通の人が受けられる奨学金とかも申請できなくて、仕事をしていない両親が学費を自力で支払う状態でした。生活もままならない状況だったのに、学費やそれ以外の学校で使うものの支払いもしていたので、すごく苦しい生活を送っていました。そんな人がいる中で、学費が上がってしまうとなると、本当に“学費が払えない”もしくは学費が払えてもその他のことにお金を回すことができなくなってしまう人が出てきて、さらに生活困窮者が増えると思います。 仮放免の生活困窮者が増えたりすると、よく日本人は“国に帰れ”“俺たちは外国人のために税金を払ってるわけじゃない”とか言う人がいますが、私たち外国人も税金を払っていますし、参政権がないのに国が決めたことのせいで振り回されるのは、いつも外国人だなってすごく思います。 今私は、在留資格を得て大学に行けていますが、在留資格を得ても申請できる奨学金は限られているし、学費は今でも高いのに、一人暮らしになるとそれプラスで生活費もくるし、バイトをキツキツで入れないと生活ができないくらいなのに、学費を下げるどころか上げる?やめてください。その学費何に使いたいんですか?学校側が無駄にお金を使っている部分、この部分がなくなるだけで、生活がしやすくなる学生は多いと思います。
もっと文科省、財務省、総務省、厚労省の方々は、学生のこと考えるべきです。口だけじゃなくて、ちゃんと行動を示してほしいです。物価が高くなったから学費を上げたいとか、その他の理由があるのか私にはわからないけど、それは学生の責任じゃないし、国の政策で失敗して国民に負担をかけるのではないか、国自身が責任を持って国民をサポートしてください。特に日本生まれの外国人は、日本人となんら変わらないのに同等のサポートを受けられません。そういう人たちがいるということを頭に入れた上で考えてください。
というか学生にこんなこと言わせないでください。学生は勉強することが仕事で、社会に出る前の卵たちです。卵たちは、ただ勉強したいだけなのに、自分たちの知らない文科省の人たちのせいで、殻を見えないハンマーで叩かれて、ヒビがたくさん入りながらも卒業して、弱ったまま社会人になって…こういうサイクルを作り出してるのは、知らない大人たちのせいです。 本当にちゃんと考えてください。本当に学費を上げる必要があるんですか?“学費を下げる”もしくは最低でも“今の学費を維持する”それじゃダメなんですか? いま一度考えてください。文科省の建物に籠って紙やパソコンだけみててもわからないことが沢山あります。しっかり学生の声を聞いてください。みんな苦しんでいます。
今日、この議員会館前には、会場に入りきることのできなかった学生たちが集まっています。私たちがいまここにいるのは、急速に拡大していこうとしている学費値上げに対して、多くの学生たちが怒りの声をあげていることを広く知ってもらうためにほかなりません!急速な物価高で学生の生活はますます苦しくなっている。そんななかで、相次ぐ学費値上げ、慶応の塾長による学費3倍発言など、学生の現状を全く知らないかのような構想が次々と打ち出されています。
まず、いまの国の学生支援制度は、すべて家族の収入をもとに判断されるようなしくみになっています。私たちは、常々、こうした画一的な運用ではそこから取りこぼされてしまう学生が出るということを指摘してきました。たとえば、私は大学で哲学科に通っているのですが、哲学科という金にならなくて将来性もないような専攻分野の象徴のような場所では、親から学費を出してもらえないという事例、いわゆる経済的ネグレクトがしばしば見られます。そういう人の親は、むしろいい大学を出ていい給料をもらっていることが多い。その結果、国の支援制度に申請することすらできずに、アルバイト漬けになっている学生がいます。大学はとことん自分の学びたいことを追求することのできる空間であるべきです。しかし、家族との関係がうまくいかないだけで、学生生活の多くを学費と生活費を稼ぐことに費やさなければならない人がいるのです。最近、さまざまな障がいや生きづらさを抱える学生への支援は拡充しつつあります。しかし、結局は経済支援が貧弱なままだと、そうした学生は学業の継続を諦めざるを得ない、問題は根本的には解決していないのです。
これは一例ですが、しかし実際には制度から漏れてしまった学生は政治家や官僚が思っているよりはるかにたくさんいるのです。私は東北大学の学生寮に住んでいます。ここは非常に安い寮費で生活できる、いわば学生のセーフティネットのようなところで、ほんとうにさまざまな事情を抱えた学生やってきます。私の身近な例でいうと、躁鬱を発症して留年してしまったために、支援制度が止まってしまった学生。家族からの理解が得られず、奨学金を家に入れろと言われてしまった人までいたりします。
なぜ私の友人たちは苦しむことになってしまったのでしょうか。いまの学生支援制度は、過剰に「怠けている学生にお金が渡る可能性」を排除しようとしています。その結果として、成績が優秀かつ健康で家族との関係も良好な学生以外を排除しやすい制度になってしまっている。日本は2012年に国際人権規約の「高等教育の無償化への漸進」を受け入れて、高等教育の無償化をおこなっていくことになっています。
しかし、それを受けてうまれた就学支援制度には厳しい成績要件や家計条件がつけられることとなりました。そして、その制度に阻まれて進学や学教の継続を諦めた多くの学生たちがいるのです。今後、学費値上げがさらに波及すれば、最も影響を受けるのはこうした立場の弱い学生たちにほかなりません。経済的理由から大学に通うことを諦める学生をなくしたい、これが今日ここに集まっている学生たちの思いです。
苦しい状況に置かれている学生たちがどうすれば学びを継続できるのかを考えるのが政治の役割であるはずです。現在、ほとんどの国政政党が公約に学費の無償化や減免を掲げています。しかし、実際にそこに向かおうとする議論は活発ではありません。有権者へのアピールとして「学費無償化」が掲げられている一方で、それを切実に必要としている学生たちの実態がどのようなものかはあまり認識されていないように思います。だからこそ、私たちは今日こうして声をあげ、最も包括的に学生を支援することのできる学費の減免が必要だと訴えているのです。
学費を値下げする、ましてや無償化なんて現実的ではないという意見は当然あるでしょう。しかし、そもそも現在の学費は国立大の学費であっても高すぎるのです。年間50万円という学費は学生の家族が支払うことを前提としてしまっています。しかし、家族の協力が得られず、自分でそれを支払わなければならない学生にとって、学費と生活費を自分で賄おうとすれば勉強する時間はとても十分に確保できません。そして、多くの方に知ってほしいのは日本の教育予算はそもそもが少なすぎるということです。GDPに対する教育予算の割合は、OECD諸国のなかで下から2番目です。さらに政府予算は増大し続けている一方で教育予算だけは常に据え置かれています。まず、OECD諸国並みに教育予算を拡大させることで、学費の無償化、すくなくとも大幅な減免は可能なのです。
そして、奨学金は学生の抱える困難を解決することにはならないということを申し添えておきます。私たちの主張に対して、奨学金などをうまく利用することで経済的困窮は切り抜けられるだろうという反論がよくなされます。しかし、奨学金をはじめとする各種支援制度は非常に多くの種類があり、そのなかから自分が該当する支援制度を見つけて、膨大な書類を熟読し、自己アピールを作成し、長い審査を待たなければなりません。困窮している学生にのみこうした高負荷の作業が課される状態は果たして公正と言えるでしょうか?しかも、こうした支援を必要とする学生は、学費を稼ぐために長時間のアルバイトや、あるいは家族の介護などで認知リソースが非常に限られています。そして、こうしたハードルを乗り越えて申請をこなしていったところで、どれくらいの支援が受けられるかが判明するのはずっと先のことです。結局、こうした支援のもとで学もうとする学生が安定した見通しをもって、自分の進路を決めることは非常に難しいのです。
また、家計の変化などによって、受けられる支給額が急に変わることもあり、数十万円の急な支払いに直面した学生もいました。繰り返しますが、家族との良好な関係を前提に、困窮学生への多大な負荷を強いるいまの制度は、支援制度としてあまりに不十分です。
私たちが今日ここに集まったのは、もちろん学費値上げを止めたいという思いからですが、しかし私たちの仲間の主張には、高等教育とはなにか、大学とはなにかを問い直すような鋭いものがたくさんあります。
現在、大学改革が急速に進められており、大学の意味は大きく変わろうとしています。大学ランキングの上位に日本の大学をたくさん入れること、世界にアピールできるような独自性をもつ大学、そして企業と連携して日本経済の再生のためのイノベーションを生み出す大学など、政府の示すプランでは大学の担うべき役割は大きなものとして描かれています。しかし、そうした壮大な計画はいったい誰のためのものなのでしょうか?私が大学に入学したときに聞いた「大学は、人類社会全体への貢献と知の発展のためにあるもの」という言葉は、今の大学政策のなかではまったく実践されていないように思われます。代わりにあるのは、ナショナリズムの発露に駆動された、空虚な数字目標ではないでしょうか?
大学は、いま再びその原点に立ち返り、どうすれば社会に貢献できるよりよい研究を生み出していくことができるかを考えるべきです。そして、その構成員である学生の声を民主的に反映させ、学生が経済的不安に苦しむことなく学ぶことのできる環境を整えるべきです。いま、日本の研究職は大きく低下しています。この原因は、予算配分の方法が根本から間違っているからにほかなりません。学生への支援だけでなく、大学への支給や研究プロジェクトへの予算など、とにかくすべての支援が作文をして、他人と競争することでしか獲得することができないのです。こうした考え方から脱却して、諸外国並みの教育予算のもと、裾野を広くする広く薄い予算配分、そして学生への包括的な支援が行われることを望みます。
皆さん、寒い中お疲れ様です。こんにちは。本日、院内集会でもお話させていただきました、お茶の水女子大学の唐井梓(からいあずさ)と申します。修士課程2 年です。これから博士課程の進学を希望していて、専門領域はジェンダー/セクシュアリティ、性的労働と政治学です。
今日、院内集会では、ちょっと短く喋らなきゃいけなかったので、喋れなかった部分についてお話しさせていただきます。
まず、スタンディングで、ずっとこちらでやっていてくださった方々、本当にお疲れ様でした。めちゃくちゃ寒かったと思います。本当に。院内は暖房が効いていましたが、ここにいる皆さんはほんとうに寒かったことと思います。ありがとうございます。
わたしからは、修士課程、博士課程という高等教育のなかで、大変だという気持ちを少しお話しさせていただきます。まず、今日、申請主義のお話があったと思うのですが、わたしのポジショナリティとしても、クィアに頑張っているひとびとが、やはり、その申請のシステムから除外されていて、それは、外国籍の人や障害を抱えている人、疾患を抱えている人とも、差異がありながら、そのような脆弱性は共通し、また交差していると感じます。申請書を書くときに、男/女というカテゴリー、そのどちらかを選ばなければならないっていうのが、たとえば学術振興会の学振などもそうだと思うんですけど、そのような申請のありかたに違和を感じている人たちが、身を切るような思いで申請書を書きながらも、結局はそのような申請という実践をすることができない、ということは、あると思いますし、日々、脆弱性、社会から排除されていることによる精神的負荷から。
わたしはいつも、......今日もそうなんですが、このようなスタンディング、デモ活動をしていたりする時に、今日、わたしのようにはここに来られなかった人たちのことと考えています。障害を持っているひと、病気を持っているひと、困難があって駅まで行けないといったようなひとから、そして、現在働いており、今この時もわたしたちと同じように奨学金を返済しているひとたちは、その奨学金を返す、そのためにここには来られていません。そういったことを考えながら皆さんも来てくださっているのではないでしょうか。なので、わたしはこの連帯にすごく感謝しています。また、我々は、国際条約に基づいて、また日本の憲法に基づいて、教育の権利というものが我々に保障されているということを、今日も再三申し上げてきたと思います。
わたしは、元々は国際法学を専攻しており、自身の国でこんなにも人権が守られていないということに問題意識を持ち、今の政治学という専門領域に移ってきました。やっぱり現在、先ほどもお話あったと思うんですけど、わたしの大学でもそうですし、皆さんの大学でも、このように運動する中で、「デモってうるさい」とか、「何やってんの」という声が、同じ学生から本当にいろんな声があると思います。でも、そのように当事者意識を持てないこと、人権意識を持てないことは、その学部生、学生個人の問題なのかというと、それは絶対に違います。それは誰のせいなのかと言えば、今日のお話もあった通り、教育のせいであり、政策の失敗であり、政府の責任です。国際条約では、政府が積極的に我々の教育の権利を保障するということ、そのために積極的な措置を取るということが第一義的な義務として記載されています。それを全く守ろうとしないこの日本という政府に、本当にずっとこれから継続して皆さんとアクションをしていかなければならないと思います。
今日、わたしはここに来れなかった友人たちのために立っています。わたしは、皆さんにもいろんな脆弱性があるのと同時に、我々の中にも差異がありますし、個人には特権性が、モザイク状に重なっていると思います。大学院生は「学べている」というだけでも特権がある、という風に、社会にはさせられることも多いんですが、研究職を志すなかで先の見通しは、まったくありません。それはいくら優秀だろうが変わらない、大学院生そのものの窮状があると思います。
今日、切迫している状況にいる皆さんと今日こうやって連帯することだけができて本当に嬉しいです。これからも一緒に頑張っていきましょう。今日このアクション、ここに来れた人にやれることがあった、やれることをやったということだと思います。何ひとつ無駄じゃありません、これからもよろしくお願いします。本当にありがとうございます。