参議院選挙候補者
全国共通学費アンケート
公表会見
各大学・学生・院生の状況報告
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全国共通学費アンケート
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各大学・学生・院生の状況報告
2025年6月13日に開催しました、「参議院選挙候補者全国共通学費アンケート公表会見」における学生の発言です。
※所属等は当時のものです。
実際の報告のようすや、記者会見全体の内容については、以下の動画をご覧ください。
皆さん、こんにちは。お茶の水女子大学大学院博士後期課程1年の唐井梓です。2月、5月の院内集会に引き続き、本日もこの記者会見の場に登壇しております。
わたしからは、学費値上げ問題と、それに密接に関わる参院選の重要性についてお話しいたします。
まず、お茶の水女子大学の学費問題についてです。昨年7月の時点では「今後検討の可能性」という回答にとどまっていますが、決して楽観視はできません。実際、5月末に、中部地方で初めて来年度からの値上げを決定した名古屋工業大学も、以前は「授業料は運営交付金から出すべき。値上げはすべきでない」と回答していました。この事例から、お茶の水女子大学でも学費値上げが検討される可能性は十分にあると考えられます。
くわえて、今週11日には学術会議法案が通過しました。これにより、日本の高等教育や研究への介入が、もはや後戻りできない状況になりつつあります。こうした動きは、学問の自由と独立性を脅かすものだと危惧しています。
このような状況下で、わたしたちの声は大学に届いているのでしょうか。2023年10月にこれまでの継続的な人権侵害への抵抗を経て虐殺が開始されてしまったパレスチナの状況から、学生たちが日本における沖縄やアイヌ、部落問題についても植民地主義や暴力について自ら考え、声を上げようとしたにもかかわらず、大学当局がその声を抑圧した事例が数多く聞こえてきました。例えば、パレスチナに連帯する立て看板や学内でのスタンディングは「政治的」であるとして問題視されたのです。しかし、特定の政党への投票を促す「政治的行為」と、「虐殺に反対し、皆で考え、声を上げよう」という声は、果たして同じように扱って良いものなのでしょうか。わたしは、当局の「裁量」が学生の声を不当に抑圧していると考えるのは、決して極端な見方ではないと思います。
学費値上げ問題も、この学生の声の抑圧と根は同じです。大学当局は学生の声を聞くことを拒否し、現在の学生から考える機会や主体的に行動する力を奪っています。それだけでなく、これからの世代にとって高等教育の機会を限られた人々にしか開かないという、大学自らの存在意義を損なうような決定を下そうとしているのです。これはわたしたちにとって許しがたいことです。
そして、これは大学当局の背景にある、政府の高等教育や研究への消極的な姿勢が反映された現実ではないでしょうか。大学教員も、それを目指すわたしたち一部の学生も、大学の窮状については理解しています。わたしは、それを正そうとしない意思決定を行なっているひとたちは恥ずかしくないのだろうかと考えています。あるべき教育機関の姿を保つために、志のあるひとびとが一丸となって政府へと声を届けても、それを無視されている現状に怒りがあります。他の職業や仕事と同様に、学業や研究職という知を追求する営み無くしては、社会はたちゆかなくなってしまいます。
そして、教育を受ける権利は、若者だけでなく、学ぶ機会を望むすべてのひとびと、シングルマザーの方々などを含めた様々な事情を持つすべての人々に開かれるべき基本的な権利です。しかし、そうした基本的人権やその理念が日本全体で十分に共有されていない現状があります。その結果、同じように苦しいはずの人々が、わたしたち学生自身、外国籍の人々や、マイノリティ属性を持つ他者に批判の矛先を向けてしまうこと、そして声を上げること自体が「わがまま」だとされてしまうこと。これこそが、日本社会が政治的に厳しい状況にあることの表れだとわたしは考えています。
わたしが友人たちと話すときも、そのような厳しい現実を切に感じています。現在研究を志すわたしとは異なる環境で働いている友人たちから、日々の会話のなかで共有されるもやもやは、わたしからすれば政治の問題です。多くのひとびとが非正規雇用化し、また正規雇用のひとびとも労働時間が多く、政治的な課題、社会について考える時間はおろか、趣味を楽しむこともできずにいます。休日はひたすらおうちで寝て、疲労を回復するだけの時間になっているという友人もいます。そんな中で、投票に行ったり、投票する候補をたったひとりで選ぶことは、非常に難しいことだとわたしは考えています。
だからこそ、誰かが声をあげるとき、わたしたちは「わたしたちも苦しいのになぜあなたは声をあげるの?」と誰かの声を否定するのではなく、「自分たちも声をあげられる」社会になることを目指す必要があると思います。「みんな苦しいから我慢しろ」という意識から脱し、「みんな苦しいからこそ、それぞれの立場で、みんなにとってよりよい社会を目指して、共に声を上げよう」という社会を目指す。そして、そのためには、声をあげる、投票行動をするための具体的かつ明確な物差し、つまり基準が必要になります。
わたしたちが実施した学費値上げに関するアンケートは、そのような物差しのひとつです。このアンケートは、立候補者の立場を明確にし、わたしたち有権者の投票行動の重要な指針の一つになると考えています。このアンケート結果を、皆さまの投票行動の参考にしていただければ幸いです。
月並みな言葉かもしれませんが、民主主義のもと、わたしたち一人ひとりの声が、この社会をより良くする力になると信じています。
ありがとうございました。
千葉大学の学生より、状況報告です。本日は事情により、代読による登壇とさせていただきます。
千葉大学では、2020年度入学の代より、約11万円の学費値上げがありました。その際、貧しい学生への支援の拡充が約束されましたが、実際には行き届いておりません。特に、学費値上げ騒動以前に入学し、現在博士課程に進んだ学生においては、「優秀な博士課程の学生を国が支援する「学振DC」の採択者が全額不採択になり、生活保護レベルの生活を余儀なくされている」「授業料免除の審査の基準は学生に開示されておらず、翌年度以降の生活保障がない状態が永遠に続くため、学びの道を諦める優秀な博士課程の学生が後を断たない」といった声が聞かれます。研究者としての人生を歩むことを決意した博士課程の学生が、このように金銭的な理由で途中でそれを断念してしまうこの状況は、本人のみならず、彼らを抱える研究機関・大学、しいては社会全体においても損失となります。
一方、学費値上げ決定以降に入学した、現在学部・修士課程の学生においては、また異なる状況が見られます。現在、経済的に困窮する学生の姿をほとんど見かけなくなったのです。これは、4年間で計約44万円の学費値上げや、学費値上げと同時に始まった「全員留学」制度に伴う負担増により、経済的に余裕のない学生から千葉大学が敬遠されているためだと考えられます。本来、国公立大学は、学費が「affordable」であり、ある程度の学力さえあれば誰もが均等に学びの機会を得られる場であるはずです。千葉大学ではその原則が失われ、経済的に厳しい学生が締め出され、学生層が私立大学に近い性質を帯びつつあります。これは、公教育としてあってはならない事態です。直近では東大や名工大などにおいても学費値上げが報道されていますが、学費値上げの広がりは、千葉大学のこのような状況がさらに広がることを意味します。これは、日本の公教育を揺るがす大きな問題であり、だからこそ、我々の訴える高等教育予算拡充、減らされ続けている国立大学運営費交付金の増額が必要です。
国立大学運営費交付金が削減される一方で、大学は寄付金や競争的研究費に依存した経営を余儀なくされています。しかし、これらの資金は用途が厳しく制限されており、近年千葉大が捻出に苦労している電気代や老朽化対策、教員の給料などには使えないケースがほとんどです。また、競争的研究費では継続的な成果が求められますが、大学で行われるような基礎研究とは本来、継続的な成果が得られるものではありません。未知の領域に挑み、実験や調査を通して、何か見出せるものはないか、と探っていく営みが、大学の基礎研究の本質だからです。
このように、予算の不足が原因となって、教育・研究の現場ではすでに高等教育の土台が揺らぎ始めています。このことは、長期的には我が国全体の衰退に繋がります。人づくりこそ国づくりです。私たちは、高等教育予算の拡充を政府に強く求めます。そして今回のアンケートを通じて、こうした課題を訴える候補者の姿を、ぜひ注目していただければと思います。
ありがとうございました。
中央大学では2025年度入学生から、授業料と施設整備費がそれぞれ5年間にわたって毎年2%ずつ値上げを行うことが決定されています。今回の値上げ前の学生と今年度の1年生の学費負担の差は4年間で合計20〜30万にも上ります。
今回の中央大学の対応において特に問題があったのは、その公表に至るまでのプロセスでした。値上げ計画の在学生向けの意見聴取は、9月下旬に13日間という短期間かつ、在学生向けのポータルサイトに掲載するのみであり、告知手段として頻繁に使用されている学生へのメール配信は一切行われませんでした。
昨年度、「学費値上げに反対する中大生の会」でアンケートを取った際には、約9割の学生が今回の学費値上げの内容/またはその計画自体ついて「知らなかった」と回答し、「知っていた」と回答していた学生のなかでも「ポータルサイト上で知った」という学生はわずか6人しかおらず、これは回答者の内わずか2%に留まるものでした。
昨年12月には、10727筆の署名とともに、学生の草の根で集めた274名分の中大生の生活実態アンケートを提出しましたが、それらの学生の生の声に対して大学は「ご意見として受け止め、今後の検討の参考にする」という回答のみで学生当事者や世論の声に対する大学としての具体的な価値判断はありませんでした。
「学費値上げにあたって学生の生活状況をどこまで考慮したのか?学費値上げ以外の手段はどこまで検討したのか?学費値上げに対してなぜ学生支援の拡充がないのか?この先の未来に学費値上げをする際に同じような対応をするのか?」大学側から説明はないままです。
学内 生向けのアンケート調査では多くの学生の苦しい声が上がっています。「経済的な理由から望む進路を諦めざるを得なかった学生」や「病院に行くことすらもためらう学生」が約10人に1人の割合でいることも調査から明らかになりました。
「私立大学だから学費値上げは仕方ない。自己責任だ。」という声も存在します。
しかし、1975年、私立学校振興助成法が成立した際には、私立大学が果たしている社会的役割をふまえ、経常費補助を「できるだけ速やかに二分の一とするよう努めること」との付帯決議が採択されているにも関わらず、現在の経常費補助は約1割に留まり、政治的・道義的責任を果たしていないことなど、今現在の高等教育政策そのものに大きい問題が孕んでいます。
私立大学に通う学生の負担の重さは、決して学生本人やその保護者の自己責任ではなく、政治的な問題です。
現に、日本は国際人権規約において2012年に国際公約に掲げた「高等教育の無償化」と逆行しているこのような学費値上げに対して、それを止めるための具体的な手立てを打つことが今の政治に求められています。
また、私立大学と国立大学との学費との差を問題にし、その差を縮めるために国立大の学費を上げようという議論もありますが、学ぶ権利を保障するうえでは私立も国立もどちらも値下げしていくことが何よりも必要です。
学費値上げ当事者である学生の実態や意見をこれ以上無視することは絶対にあってはなりません。これ以上の学費値上げを繰り返さぬように、来年度からの学費値上げをストップさせ、学費値下げにいち早く踏み出すことを今の政治に強く求めます。
学費の問題の重さ、広がりは他の方も指摘する通りですので、私からは簡単に学費問題を政治化する理由を指摘したいと思います。
その理由とはまさに、学生はもう万策尽きて政治に介入せざるを得ないということです。個人レベルでは「支援」の定番学振DCの採用率は30%台どころか10%まで落ち、世帯レベルでは学費の高騰と学生の労働市場化により支持が及ばなくなり、大学レベルでは大学執行部から交渉拒否を食らって武装警察力を動員されています。もう個人でも世帯でも大学でもどうにもならないから、そして他の個人・世帯・大学でも類似の困難が生じていることを認識して、こうしてやむなく学生自ら学費問題を政治化することになっている訳です。
もう国の責任――一方で大学の大学院重点化、研究力、国際競争力といい、もう一方では安全保障管理、「稼げる研究」、交付金減額という、大学の実情を無視して矛盾する結果を都合よく要求する政策の責任――或いは国際化といいつつ英語帝国主義化や論文数など都合のいい切り取り方をして、教育支出軽視、女性問題、ジェンダー主流化、主権者教育など特定の分野では国際水準を否定する政策の責任――は誤魔化せません。
それ故に、これまでの国の政策の実務を執行してきた方々の見解を確認した上で、今後国の政策を執行しようと志す方々の意見を伺った次第です。個人や大学が万策尽きても国の責任である、学生自身もこの点を追及する重要性を強調したいと思います。
授業料、そして就学支援新制度の問題は、確実に若者の未来を左右してしまいます。その実例について、複数の学生の実例を取り上げます。
2022 年度に東京大学に入学したある学生Aは、2024 年度の前期まで、JASSO から給付型 と貸与型の奨学金を得て、優秀な成績をおさめました。しかし一時は、研究者になる夢夢を諦めかけることになりました。
Aは、修学支援新制度の問題点は、二点あるといいます。一点目は、多子世帯の要件、給付する範囲です。多子世帯だから給付奨学金を貰えていた、たとえば三人兄弟の真ん中、下の子は、上の子が大学を卒業すると同時に奨学金を貰えなくなってしまう場合があります。しかし、奨学金を当てにして大学に来ていますし、上の子も奨学金で生活しているわけですから、「上の子が卒業したなら、親の金で十分下の子達は養える」という考え方は見当違いです。奨学金を受け取っている上の子が在学中だろうが卒業しようが親の負担は変わらずゼロであり、子供を養う能力は上の子が卒業する前後で変化しないからです。二点目は、給付型奨学金と授業料免除がセットになっている点です。給付型奨学金を受けられなくなれば収入は減るのに、授業料の支払いが生まれるので出ていくお金は増えます。もらえなくなった分と、払わないといけなくなった分、バイトをしなければならなくなります。
2024 年 9 月、支援区分が第 4 区分、対象外に引き下げられ、尋常ではないパニックに陥ったそうです。「家計基準該当」を理由に奨学金が停止されたようです。給付型奨学⾦を提供するかの判断基準は、前年度の家計です。Aには 3 年早く⼤学に⼊学した姉、 1 年遅く⼤学に⼊学した弟がいます。その姉が 23 年 3 ⽉に⼤学を卒業、4 ⽉から社会⼈になったため、親の扶養から外れました。これにより、23 年度の⼀家の家計には、 被扶養者がAと弟の⼆⼈になり、多⼦世帯の要件から外れたのです。 奨学⾦の給付を⽌められてしまい、 授業料免除もなくなりました。 Aの学業成績が良いこと、Aと弟⼆⼈分の⽀援が同時に⽌まったこと、 そして親の収⼊が変化していないことから「多⼦世帯ではない」ということで親の収⼊のハードルが変化し、対象外になってしまったのだろう、と話しています。
Aは、11 月の振り込み日までに約 26 万円を用意しなければいけない状況に追い込まれました。東京大学独自の授業料免除制度に申請し、支払いは申請結果の出る 1 月まで猶予されることになったものの、免除申請が通らなかった場合に備え 1 月までに授業料を用意しなければいけませんでした。東京大学のような支援制度がない大学の学生は、11 月までの、たった二ヶ月間で 26 万円以上を稼がなければなりません。Aの弟もそうでした。兄弟は、自分たちで授業料を用意しなければなりませんでした。
Aは、塾で週 3 回アルバイトをしていましたが、受け取れなくなった給付型奨学金の分と、授業料を稼ぐため、スーパーマーケットでも週3回働き始め、塾と合わせて週に6回働くようになりました。スーパーに採用されるまでの間は日雇いのバイトを転々としていたので、体への負担が大きく、授業を休みがちになってしまいました。家で勉強する時間もないので成績は下がり、24年度後期は10単位も落としてしまいました。支援区分の通知がもっと早ければ、週6回のアルバイトなんて無茶はせず授業料を用意できたはずですが、あまりにも猶予がなかったために、金銭面だけでなく、身体や精神の面でも追い詰められてしまいました。 成績が悪かったから奨学金がもらえなくなったという偏見に晒されるのが一番辛かったといいます。今年の改正で学業要件がさらに厳しくなりました。 これが本当に恐ろしく、怪我をしたり、 障害があったり、 病気だったりで、 授業に⾏けなくなることはあります。 Aも、バイト詰めの時期は体も疲れ、精神も病んでいたので、 授業にほとんど出られませんでした。 実家暮らしや、 奨学⾦なしで仕送りで⽣活できる⼈の⽅が余裕があって授業に出やすく成績は上がりやすいです。 逆に、 地⽅から出てきて⼀⼈暮らしの⼈や、 奨学⾦とバイト代で⽣活している⼈などは必然的に成績は下がりやすくなります。 奨学⾦が必要な⼈ほど、 受け取りにくくしているのが学業要件です。
そして、学業要件は⼤きく⼆つあり、⼀つは修得単位数、もう⼀つは GPA です。前者は学業要件として設けるならまだ適切だと思いますが、 GPA だけはありえません。 なぜなら、「GPA が所属学部の下位 4 分の⼀の場合警告。警告が 2 回続くと廃⽌」という相対評価だからです。 相対的に成績が低い⼈、 という存在は、 どう頑張っても無くなりません。「成績が下がりやすい⼈」 は、 奨学⾦を必要としている⼈です。 つまり、 学業要件は、 奨学⾦を必要としている⼈ほど奨学⾦を受け取りにくくするシステムです。そして、 ⼀度奨学⾦がなくなればバイト漬けの⽇々が始まります。 成績はさらに下がります。学業要件を達成することはできなくなるかもしれません。 「奨学⾦もらえるように頑張りなよ!」 と⾔われるでしょうが、 どんどんそれは困難なことになる。 悪循環を⽣み出すシステムです。
Aの周りにも、同様の状況におかれた友人が複数名いました。修学支援新制度についての、具体的な現状を調査するとともに、支援から漏れてしまっている学生にも支援が届くような制度改正を、切実に、お願いしたいです。
もう一人事例を紹介します。宇都宮大学を休学中の友人Bの話をします。卒業も間近に控えた去年3月、Bが「再判定により3年後期から学費を免除しすぎていたことが判明した」と大学から通告、「3週間以内に44万円を払わなければ除籍処分」と迫られる、という事件が起こりました。「移民の支援問題を勉強し、低所得の外国人でも大学を卒業できることを示すため必死に頑張ってきた」と話す彼女は、フィリピンから8歳で来日し、努力の末大学に通っていました。23年の秋、彼女は大学から、後期の授業料について「両親の所得区分が変わったので免除額を縮小する」と通告され、疑問を感じて再判定を申し出ました。これによって、なぜか、学生が判定を求めていない22年度後期にまで遡及して判定が覆り、免除しすぎた授業料の請求を受け、分割払いも拒否されました。また、支払いすぎたとされる奨学金の返還を求められました。遡及して判定が変更された不可解な対応の理由も、日本支援機構は開示しませんでした。「3週間以内に44万円」に加えて、さらに、日本支援機構へ返金26万円、大学の後援会からの貸付金20万円、当初分割払いを強硬に拒否していた大学との交渉を引き受けてくださった弁護士の費用などで、計100万円以上も1-2ヶ月で用意しなければなりませんでした。金融機関からの借入なども、彼女の「定住者」の在留資格を理由に全て断られていました。新聞に問題を報じていただいて、返金期日に善意の寄付が集まり、除籍という最悪の事態は免れました。しかし、経済的圧力やルーツによる様々な差別で、社会起業家の夢をもっていた友人は、心身ともに限界まで追い詰められました。
また、私は、難民申請中の在留資格のない高校生の受験相談に乗っていますが、彼らはJASSOの奨学金の申請すらできません。理解のない大学、短大、専門学校の対応によって、受験拒否や入学拒否をされる事例も多数ありました。法務省や文科省に申し入れをしても、学校の経営方針だから仕方がないという返答でした。
このように貧困下にある若者の教育を受ける権利は、日本では制度や行政によって制限されています。私は、あらゆる個性やマイノリティ性によって、本人に何ら責任がないのに負担だけ背負わせるシステムは間違っていると思います。これまで見過ごされてきた声なき声を取り上げ、真摯な見直しを求めます。
学費問題へ本格的に関わるようになってから約半年の間、多くの声と私は出会いました。「奨学金の要件ひとつで大学生活が左右される」「生活の不安で心身の調子を崩している」「病気や障害、家庭の事情といった、どうしようもない事情で困っているのに、誰も助けてくれない」「本当に困っている人は、声をあげることすらできていない」学費問題とは、姿かたちを変えて、多くの学生たちを苦しめるものである。これは「現実」です。
この問題の「当事者」が、今の学生たちだけではないという、「当たり前」の事実が持つ重さも、改めて実感してきました。学費を払う親、奨学金を返し続けるかつての学生たち、この問題に怒る大学教員、そういった方々が、たくさん私たちに声をかけてくれました。かれらの語りが、「学費問題」として、どれだけの切実さや重みをもってこれまで受け止められてきただろうか。そういったようなことを、考えさせられてきました。
私は以前から、大学の相談員として学生を支える仕事をしていました。だから、この問題をある程度知っているつもりで、私自身も決して部外者ではないという思いもあったことが、関わるようになったきっかけでした。けれども、関われば関わるほど、多様で、あまりに不当で、悲惨としか言いようのない、さまざまな声が聴こえてくる。自分の見立ての甘さを痛感してきました。そのせいで、これまで見過ごしてしまっていた「何か」や「誰か」があったかもしれない。けれども、知ったとて、何ができたであろうか。私の内には、そんな声がずっとこだましています。
現実は、絶えず私自身の無知と無力さを突きつけるものでした。加えて、決して楽でも暇でもない、大学院生としての日常と、非常勤講師としての仕事を送りながら、+αで問題に関わるのは、本当に難しいものでした。学費問題を通じて、私は、人の苦しみに向き合うこと、声を聴くことの困難を、改めて学びました。
それでも関わり続け、今日ここにいることができているのは、ここに並ぶ仲間たちや、ここには並んでいない仲間たちの、そして、この半年出会ってきた、「声」そのものに支えられてきたからです。決して身内びいきをしたくて言っているのではない、ということを予め断っておきたいと思います。声は、時に苦しみや悩み、痛み、困難としても立ちはだかるのですから。
声を聴くこと――それはいかなる行為なのだろうか。こんなことを考えてみたいのです。声は生ものです。声は、時にチクチクしたり、苦かったり、苦しかったりする。けれども時に、たった一人を支えたり、癒やしたりもする。重なった声は遠くとおくまで響き渡る。うるさい・わずらわしいと思う人もいれば、それで助かる人がいる。共にまざりたいと思う人もいる。絶望の内言に耳を傾けている、あの人の声に救われた。声の先に、聴こえない何かはないだろうかと、必死に耳を傾けようとする人がいる。もちろん、声があるから、時に声なき声がなかったことにされてしまうことを忘れてはならない。「声」を聴く――あるいは「それでも聴こうとする」。その意味は様々あるかもしれないが、何かしらの意味は必ずある。そう私は信じますし、少なくとも私にとって、それは「諦めない」ためのものでした。
さて、今回私たちが行ったのは、学費問題について、参議院選挙が持つ「声」を集め、みなさんに届けることです。さまざまな声があることは、ご理解をいただけたかと思います。「無言」を含め、彼らは何かしらを語っています。みなさんにも是非、その「声」を聴いていただけたらと考えます。そしてできれば、聴こうとする「声」の背景や前後には、「声なき声」「他なる声」が絶えずあるのかもしれないということを共有しながら、学費問題について、一緒に考えていきたい。そう願っています。
こんにちは。私は、東北大学法学部3年、高橋です。私は、東北大学の日就寮に住んでおり、寮生などとともに、学費減免アクション宮城を立ち上げ、東北大学、東北学院大学の学生を中心に活動しています。
私の住む寮には、生活に困窮する学生が多くいます。親から多くの仕送りをもらえない学生はアルバイトを掛け持ちしながら生活しています。学費を稼ぐために休学をして住み込みのアルバイトを始めた人もいます。現状の画一的な就学支援制度では、取りこぼされる学生が存在してしまいます。そういった人たちのセーフティーネットとして、安価な自治寮は存在します。学生の現状をよく知る、学生自身によって運営される自治寮は、より柔軟な対応が可能で、制度の取りこぼしをすくい上げる手助けとなっています。さらに、日常の業務から、年をまたぐ方針の決定まで、徹底的に議論し、行動する。自由な空間の使い方をみんなで模索する。こういった機能を持つ自治寮の存在は単なるセーフティーネット以上の積極的な意義を持っています。しかし、全国では学生寮は減少傾向にあり、大学設置基準の変更により、寮の設置は義務ではなくなりました。
自治寮が残り、学費の増額も行っていない東北大学ですら、苦しむ学生をたくさん目にします。このような現状において、さらに学生の負担を増加させようという動きは、学生の自由な学びの時間を奪い、日本の研究力低下の要因になるのではないでしょうか。
親の仕送りを前提とした学費も、全国的な学生寮の廃寮も、憲法が要請する教育の機会均等とは逆行するものです。国からの基盤経費の拡大によって、学費値上げの停止に留まらず、その無償化に向けた値下げと学生寮の存続を強く訴えます。
早稲田大学の学費値上げに関する現状報告です。まずは、先月の院内集会でもお話ししたことになりますが、早稲田大学では、昨年度の入学者から、学部の学費が年間8万〜14万円値上げされました。また、今年度の入学者から、修士課程の学費が年間5万〜12万円値上げされました。これらの学費値上げは学生の声を聞かずに決定され、大学からの説明もありませんでした。
さらに、先月の院内集会後に早稲田大学の昨年度の事業報告書が公開され、今後の学費値上げの計画が明らかになりました。
まず、2025年1月24日の評議員会で、来年度から経営管理研究科の学費をさらに10万円値上げすると決定されていたことが分かりました。つまり、2月の院内集会の時点で新たな学費値上げが既に決まっていたということになります。今回も、学生が意見を言う場は設けられず、決定されてから4ヶ月以上も情報が公開されませんでした。
次に、2025年3月15日の理事会集中討議で、留学生学費についての議論が行われたことが分かりました。「留学生学費についての議論」というのは、当然値上げを想定した議論を意味します。2月と5月の院内集会では、留学生のみ学費を値上げした武蔵野美術大学の方から発言がありましたが、それと同様の問題が、早稲田大学でも起こる可能性があるということです。
そして、今後は教務部内の会議体や法人会議で、2027年度以降の学費を議論し決定する方針であることが分かりました。つまり、早稲田大学では、今後も学費がさらに値上げされると考えられます。またその際には、これまでと同じように、学生の声を聞くつもりがないことも明らかになりました。
学生の声が無視され続けているという不当な状況は、大学内に限りません。学費をめぐる政策や、学校の自治をめぐる政策など、学生の声がかき消されているのは政治の場においても同じです。今回のアンケートを通じて、私たちは政治に対して、声を聞くのかどうか問い掛けました。今回は選挙です。私たちは、お願いするだけではなく、選ぶことができます。投票を通して、声は無視しにくいものになります。そして、選挙が終わった後も声を聞いているかどうか監視すれば、声はますます無視できなくなります。さらに、学生・教員も含む全ての人たちの連帯がもっと強くなり、もっと大きな力を持つことができれば、誰も声を消すことは出来ないでしょう。今回のアンケートがそのための一歩であると信じています。
ありがとうございました。
ごきげんよう。国際基督教大学、ICUから参りました。
ICUの教育は、少人数学級による互いの顔が見えるインタラクティブな授業、個別の事情に配慮したサポートが特色です。
しかしそんなICUも多くの大学の例に漏れず、学費値上げが決定されてしまいました。もちろん値上げ前から高かったことに違いはなかったので、いわゆる「実家が太い」学生とそうでない学生の分断は厳しいですが、それがこれから更に加速すると考えると憂鬱です。いえ、それどころか、これからは高所得者しか入れない大学になって、分断を産むほどの多様性すらなくなっていく可能性もあります。
一方で、値上げに踏み切った大学の苦い選択を思うと、それを責める気にもなれません。ICUは慢性的にお金がなく、特に学生数の少ない理系の領域では十分なコストをかけられず、ボロボロの器具や設備を騙し騙し使っています。それでも経営のためにむやみに学生数を増やしてしまえば、ディスカッションベースの授業も、学生が必要なサポートを受けることも難しくなってしまう。大学も追い詰められての学費値上げだったと、ある先生に伺いました。
対話的な教育を受けるために学費に苦しむのは果たして自己責任でしょうか?でも考えてください。受ける人に合わせるのではなく効率を重視した、淡々と運ぶ大規模な授業。特性や障害があるなら受けられる授業は限られると、授業に合わせて人を選別する学校。安い学費のために工業製品のような扱いに耐えなければならないのも自己責任でしょうか?どちらを選んでも学生は理不尽な選別を受けます。
母校が目指す人権尊重の理念、お金をかけて守っている教育が、すべての大学で当たり前になってほしい。それを実現するのは学費を払う学生の責任ですか?いいえ。これは間違いなく社会が、行政が、実現するべきことです。
以上です。