我々の里山研究フィールドは,佐岡地区にある.物部川を挟んで,高知工科大学の反対側に位置する地域である.佐岡地区にあった佐岡小学校は廃校になり,地域の方々が佐岡小学校の校舎をどのように活用するか,検討する協議会が立ち上がった.その協議会では,当時薬用植物の研究をしていた先生が招かれ,私も同席させてもらっていた.我々としても里山の研究に関して地域と連携したかったからである.最終的に協議会は,小学校を有用植物の栽培拠点にする計画を香美市に提案した.
しかし佐岡小学校は,普通のコミュニティセンターとなり,有用植物の拠点とはならなかった.そして教室の一部を里山研究拠点として使わせてもらうことも叶わなかった.一方で佐岡地区には,空き家バンクに登録していた物件(古民家)があり,その物件の持ち主は,協議会の事務局長であった.その物件を個人で購入し,私設の研究拠点にしようと考えていたが,大学の教員仲間に相談すると,それは大学で購入した方が良いと提案してくれた.当時の学長は,里山研究に理解を示し,佐岡地区の古民家を大学予算で購入することに了承してもらえた.その後とんとん拍子に購入まで漕ぎ着け,建築の先生が古民家の改修工事の陣頭指揮に当たってくれた.2016年のことである.
そんな縁で佐岡地区に里山研究フィールドを設置することができ,今も地域活動に積極的に関わっている.佐岡地区の人々は,イベント好きで,毎年餅つき会から始まり,豊穣祭,夏祭り,天空の郷ウォーキングなどを開催している.豊穣祭では,やっこネギ飛ばし大会が開かれ,我々の研究室では,計測係を担当している.このネギ飛ばし大会は,隣の市で行われているニラ飛ばしをヒントに企画されたもので,いわゆるパクリなのだが,地元の人たちは意に介さない.面白そうなことは,真似してどんどんやって行こうという精神である.佐岡地区は,やっこネギの特産であることから,ニラをネギに替えて実施しており,今年で8回目となった.数年前に地元のテレビニュースで紹介され,その後全国放送のバラエティ番組でも取り上げてもらえるほどになった.本家のニラ飛ばしより有名になってしまった.
ところで,高知県は地域活性化のため,集落活動センターを核とした集落維持の取り組みを行っている.平成24年から始まった事業で,現在68地区に集落活動センターが設置されている.佐岡地区での活動が高知県の人にも目に留まり,5年くらい前に集落活動センターの設置を促す説明会があった.私もたまたまその場に居合わせたので,状況を見守った.イベントにはノリの良い佐岡地区の方々だが,集落活動センターの設置については,あまり乗り気ではなかった.補助金をもらうと,活動を事業化することになり,大変な仕事になるというのだ.資金は潤沢でなくとも,自由に活動することを優先した.私自身,県の補助金を利用した集落活動センターではなく,自主的に頑張っている佐岡地区を応援したかったので,ホッとした.
今年も先月,佐岡地区の豊穣祭が開催された.やっこネギ飛ばしは大人気で,受付開始からほどなく定員一杯となっていた.テレビ番組などで紹介された効果は大きい.私にとっては,ネギ飛ばしよりも,地域の方との交流の機会にもなっていて,色々な情報が集まるのがありがたい.地元の人は,こういう大きなイベントに人は集まるが,小さな地域の氏神さまの祭事は人が集まらず,続けていけそうにないと心配していた.祭事もイベントの一つなので,アイデア一つでなんとかなりそうな気がする.氏神さまの合同イベントなんてどうだろうか.今度宮司さんに相談してみよう.
先日伯母が亡くなった.独り身だった伯母は,施設で暮らしていたが,手厚いサポートのおかげで97歳という長寿を全うした.伯母の兄弟は,私の父である弟一人.その父は既に亡くなっている.伯母の身内は,私と私の妹だけなので,相続は難しくないだろうと考えていた.妹と戸籍情報を取り寄せて,相続のための書類を準備していると,伯母には異母兄弟がいることが分かった.びっくりである.記憶を辿ると,自分が二十歳の頃に伯母から聞いたような気がした.当時は自分には関係のないことだろうと思っていたので,全く気に留めてなかった.ところが伯母の遺産相続においては,相続の権利がある重要な人物なのである.恐らく伯母は,相続のことを見越して,私が成人になった頃合いに話してくれたのだろう.こんなことになるのなら,その方々と年賀状のやり取りくらいはしておけば良かった.
戸籍情報には現住所が記載されていないので,連絡するには市役所で教えてもらう必要がある.妹がその手続きを行ってくれたが,住所が転々としていたため,幾つかの市役所を経由して,現住所を突き止めるのは大変だったそうだ.一般的には司法書士に依頼する仕事なのだろうが,妹は何でも挑戦するタイプなので,楽しそうにその苦労話を語ってくれた.自給率の高い暮らしを目指すという目標がここでも活躍している.
伯母が女学生の時代は,新居浜市の兵器工場で働かされたと聞かされていた.第二次世界大戦の最中である.当時松山の繁華街に住んでいた祖母は,爆撃機から焼夷弾が降ってくるので,サイレンが鳴るたびに防空壕に隠れていたという.戦争では多くの尊い命が失われた.私が現在住んでいる古民家の上には,戦争で亡くなった方のお墓があり,私が墓守をしている.そして現在「あんぱん」というドラマが放映されているが,やなせたかしの弟も戦死した.多くの若い男性がいなくなり,夫を失った女性や男手のない家が急増した.戦争は,今も世界各地で勃発している.歴史に学べない政治家が後をたたないのはどいうことだろうか.
若い男性が少なくなったことから,当時は養子縁組が盛んに行われていたようだ.改めて伯母に関する戸籍情報を遡って見ると,昔の戸籍は,出入りが激しい.多くのバツが書かれている.相続を巡っては,権利者が数十人になるケースもあると聞く.現在,土地の相続が進まない理由は,そんなところにもあるのだろう.特に山林は,誰が土地を管理しているのか分からないところが多い.土地の境界線を正確にデータ化する地籍測量もなかなか進まないのも理解できるが,使われていない山林を有効に利用できる仕組みも作ってほしいものである.商用地や住宅地なら土地を個人で所有するという意味は大きいが,農地や山林は公共財産として扱うのが理想だろう.守るべきところと,活用できるところを分け,活用の程度も自然条件を判断しながら管理運用すべきだ.
さて,伯母の相続のおかげで縁の途絶えていた親戚が見つかった.早速妹が連絡を入れてくれたところ,伯母の兄にあたる人は亡くなっていたが,子供が2人いるという.私にとっては従兄弟が増えたことになった.妹に聞くと,とても暖かい人たちで,すぐに打ち解けたと喜んでいた.親戚同士の不和はよくあるもので,相続を巡って裁判沙汰になることも多い.しかし今回の相続,手続きはややこしかったが,素晴らしい人たちに出会えることができた.御先祖さまに感謝である.
我が里山の背後にある奥山で,風力発電の建設が計画されている.計画地の場所を見ると,四国では稀少なブナ林が広がり,アケボノツツジも群生する非常に自然豊かな場所である.そんな場所に風力発電は必要ない.現在,風力発電に反対する住民運動が活発になって来ていて,近くで勉強会が開かれるというので,参加した.とは言っても3ヶ月以上前のことである.
会場は香北町で,200人くらい収容できる大きなホールだったが,駐車場はおろか座席も足らなくなるほどの盛況ぶりだった.早めに会場に到着して正解だった.ホールに入ると,ご近所さん,馴染みのお店のご主人さん,議員さんなど,知っている人も多いことに驚いた.勉強会は,数々の発電施設に関する反対運動を支援してきた弁護士の方からの講演だった.既に風力発電が設置されたところで発生している人間社会への影響や,環境調査をしてOKとされていても,その環境調査に抜け道を作っていることなどを分かりやすく解説してくれた.風力発電建設による自然破壊については,発電施設の敷地面積でしか評価されず,建設に伴う作業道は含まれないのだそうだ.酷い話である.作業道は,生態系を分断し,水の通り道となる.大雨の時は川のようになり,それが斜面崩壊のキッカケへと繋がる.
私の心配しているのは,災害のような人間社会への影響だけでなく,そこに生息している生物たちのことである.風力発電が発する騒音や電磁波に対しては,人間以上に野生生物の方が敏感なはずである.既に里山が荒廃してしまった地域では,イノシシやシカの獣害が深刻な状況となっているが,奥山に風力発電ができてしまうと,さらにその被害は,深刻になるだろう.手付かずの奥山での建設は,本当にやめてほしい.
現在,原発の再稼働が次々と始まっている.都市部での電力需要が大きくなっているからということで,四国で生み出された電力は本州にも供給している.つまり四国内での電力需要に対して十分発電できている.都会で足りてない電力を供給するのに,なぜ田舎の美しい自然を提供しなければならないのか.理解できない.原発の設置場所にしても,迷惑しているのは田舎なのだ.
そして今後人口は,激減する.30年後,100年後を見据えた計画をなぜしないのだろうか.発電施設を更新する経済力は,将来見込めない.需要も見込めない.現在発電施設だけでなく,様々なインフラが老朽化している.埼玉県で発生した下水道施設の劣化による道路の陥没が話題になっていたが,目に見えない部分はよくわからないので,ほったらかしになっているようだ.インフラ設備の維持管理の費用は,電気や水道施設のほかに道路や鉄道も含まれるため,膨大な額になる.
家庭で使う電気や水道は,そう多く消費しない.電気は屋根に取り付ける太陽光発電で賄えるだろうし,水は雨水を溜めて浄化することもでき,汚水は土壌細菌に分解してもらう.敷地が広ければ地下浸透でも何とかなる.つまりインフラに頼らなくともオフグリッドで暮らすことが可能となってきた.2月の話題に挙げたトレーラーハウスはその一例である.インフラが必要なのは,工場や集合住宅など,大規模の施設に限られてくる.そんな未来を想像すると,快適で費用のかからない暮らしは,田舎の方が有利そうだ.
自然環境は,人間にとってなくてはならない存在である.進化の過程において,その自然環境だったからこそ生まれてきた人間なのである.その自然環境を壊すと,人間の生きられる場所がなくなる.オフグリッドで自然とともに快適に暮らしつつ,自然環境を整えていく社会こそ今求められている.
3月から4月にかけて,お酒を飲む機会が多かったが,毎回美味しいお酒を楽しめた.学生たちだけでなく,職場関係や研究関係の気の合う人々とお酒を酌み交わすことができた.お酒の場は色々なタイプがあるが,私の好きな飲み方は,少人数で他愛もないことを語り合いながら,食事とお酒を味わうこと.大人数だと,喋る量と飲む量が多くなり,味わうことが疎かになる.特に立食パーティーは,美味しい料理だったとしても味わう時間がなく,残念に思うことが多い.
私はもともとお酒が飲めるタイプではなかった.1980年代学生だった頃は,味も分からなかったし,すぐに酔っ払っていた.その時代,お酒自体の品質は良くなく,飲み方も雑だった.先輩からは一気飲みを要求され,「もう無理でーす!」と叫びながら口にしていた.思い返すだけでゾッとする.お酒の味が分かり始めたのは,30歳くらいだった.苦いとしか思ってなかったビールが旨く感じ始めたのである.それから徐々にウイスキーや焼酎の水割りなど飲めるようになったのだが,1997年35歳で高知に来て,改めて自分はまだまだであることを知る羽目になった.とにかく高知の人は,お酒好きの人が多く,日本酒を熱燗で酌み交わす.役場の方や高校の先生方と飲む機会が多かったが,彼らは夏でも熱燗で返盃をしながらガンガン飲む.私にとって熱燗は苦手で,相手から盃を差し出された時,熱燗の蒸気を鼻から吸ってしまうと,むせてしまうので,息を止めて飲んだものである.
ところが今では,熱燗が一番のお気に入りとなっている.舌や嗅覚が老化で鈍感になったこともあるが,日本酒の品質が上がってきたことも大きな要因だろう.当時,純米酒は少なく,醸造用アルコールや糖分が含まれたものが多かった.それから徐々に酒米の品質が向上し,様々な酵母も開発され,純米酒で香りの豊な美味しい日本酒が増えた.それが吟醸酒ともなると,さらに飲みやすくなる.今も様々な酒蔵で新しい日本酒が登場している.美味しくて飲みやすい日本酒が増えるのはありがたいが,最近はちょっと行き過ぎているのではないかと感じる.メロンやバナナの香りがするのには驚き,美味しいのは確かだけれど日本酒から離れているようにも感じる.
日本酒のラベルを見ると,酒米品種,精米歩合,ものによっては酵母などが書いているが,地元の米,地元の酵母を売りにしているものは少ない.つまり地域性が失われているように思えるのだ.地域性にこだわると,売れるお酒でなくなるのかもしれない.昔は,各家庭でドブロクを作っていたと聞く.ご飯に水と麹を加え,50〜60℃で保温すると,麹菌がご飯の澱粉を糖に変えてくれる.いわゆる甘酒である.この甘酒にはアルコール成分がない.これに酵母が加わると,糖をアルコールに変えてくれ,ドブロクになる.それを濾過すれば日本酒なので,作り方自体は難しくないが,いつも同じ味に保つための品質管理は難しい.昔は家庭で,その家特有のドブロクを作っていたのだろう.手前味噌と同じだ.味噌も各家庭で作られていて,大豆に加えて米や小麦の配合,塩加減はそれぞれだった.澱粉の多い米や麦の量を増やすと甘めの味噌になる.
お酒の場合,今となっては家庭で作れない壁がある.酒税法という壁.お酒を一般家庭で作ることは,許されていない.明治時代に作られた法律で,当時国の税収の3割が酒税で,大きな財源だった.今は所得税・法人税・消費税が大きな財源となり,現在酒税は1%程度である.それなら家庭で楽しむことに関しては,もう緩和してもいい時期ではないかと思う.酒蔵が作っている高品質の日本酒は,家庭では到底作れない.洗練された味で埋め尽くされている今,野生味のあるお酒と出会いたいのだ.
私はたくさんの師匠に育ててもらった.最初の師匠は,博士論文の指導教員であった中村忠春先生.愛媛大学農学部に入学当時,農業土木の分野は,自然好きの自分にとって興味の湧かない授業が多かった.研究室配属では,土質力学に関する研究室を選んだが,その分野に興味があった訳ではなかった.この先生からは,学ぶべきものが多くありそうだと感じたからである.つまり自分にとって師匠と呼べる人か,という視点で選んだ.今になってみると,土質力学を学んでおいて良かったとつくづく感じている.
その研究室での大きな研究テーマは,農地で発生する地すべり現象の解明であった.農地は,斜面を緩やかにして畑にしたり,小さな区画の水田を広げて圃場整備したりして,力学的に安定する地形改変を行うのだが,そこに地すべりが発生する.非常に興味深いテーマだった.しかし卒論で与えられたテーマは地すべりではなく,アースダムという土で作ったダムの水分状態についてであった.ただ,地すべりの研究をやりたいこともあり,大学院に進学した.当時はバブル絶頂期で皆就職を急ぎ,大学院に進学したのは,私一人だった.
大学院では,新たな師に出会えた.それは西尾元充先生という外部講師の先生だった.西尾先生からは,衛星リモートセンシングを教わり,これからはフィルム写真ではなく,人工衛星を用いたデジタル画像が主流になると,熱く語ってくれた.西尾先生の研究にかける情熱はすごく,圧倒されっぱなしだった.博士課程に進学し,地すべりの研究を続けたが,衛星リモートセンシングで地すべりを解析したいと思いが膨らむ一方だった.そこで中村先生にその思いを告げると,「それは面白いが,自分には指導できない.今のテーマで博士論文を完成させて,その後西尾先生のもとで研究してはどうか」とアドバイスをもらった.
博士論文完成の目処が立った段階で,中村先生が西尾先生に相談してくれた.西尾先生からは,「衛星リモートセンシングを研究したいなら,東京大学生産技術研究所(東大生研)の村井俊治先生の研究室が良い」ということで,西尾先生から村井先生にお願いしてくれた.村井先生は非常に有名な先生で,そんな先生のもとで研究活動ができるとは,夢にも思わなかった.すごい先生は,とんでもないネットワークを持っていると,改めて知らされた.
村井先生は,私にとって最大の師匠となったが,村井研究室自体がとんでもない師匠であった.汎用コンピュータで難しい解析プログラムを書く助手,各業界の研究テーマを遂行する受託研究員,様々な研究をサポートする技官,そして優秀な博士課程の学生.年齢は自分より若い人が多かったが,優秀な兄弟子達に囲まれて研究ができた.村井先生は,国際学会の会長を務めていたこともあって,ほとんど研究室に来ることはない.衛星リモートセンシングのイロハは,兄弟子から教わった.
やがて村井研究室の助手として働くこととなり,研究室のコンピュータ環境を整備し,研究室メンバーの研究をサポートした.ちょうど汎用コンピュータからUNIXワークステーション,そしてインターネットへの移行期であり,C言語とネットワークの基礎を学ぶこともできた.
高知工科大学との縁は,村井先生が繋いでくれた.これまで師匠が提案するままに動いた結果,今の自分がある.就職活動は結局したことがない.良い師匠に巡り会い,そこで修行を積むと,また良い師匠に巡り合い,自分を高めることができた.高知工科大学では,自分が師匠となって学生を導く側に立っている.学生に良い縁を繋いで行くのが師匠の役割である.ちゃんとその役を演じられているかなぁ.卒業式を前に色々と考えてしまう.
私の行きつけとなっているゲストハウスには,実に様々な人たちが集まっている.そんな人たちと交流を深めたいと思い,昨年末に忘年会を企画してもらった.集まった人たちは,すごいキャラクターの持ち主ばかりで,色々な話題で盛り上がることができた.その参加者の中には,トレーラーハウス型の宿泊施設を経営している卒業生がいた.建設系の学生であれば覚えているはずだが,彼は航空宇宙系の学生だったので,面識はなかった.
トレーラーハウス型の宿泊施設は,物部川沿いで眺望の良いところに建てられている.彼の狙いは,顧客満足度だけでなく持続可能性.地元の木材を利用し,電気は太陽光,水は雨水で賄うため,公共インフラに頼らない.設計自体は,建設系の卒業生が立ち上げた設計事務所に依頼したそうだ.非常にオシャレな空間としていながら,外で焚き火をしたり,室内で料理ができる.エアコンも完備されているので,アウトドアが苦手な人でも,泊まってみたくなることだろう.我が家も持続可能性を追求している点では,方向性が合致しているが,暮らしのコンセプトは異なる.
例えば,我が家にはエアコンがない.意図してつけなかった.風呂は薪風呂で,冬場は沸かすのに1時間以上かかっている.薪風呂のじわじわと温まる感じは最高である.隙間風の多い屋内は,そのままではさすがに寒いので,行火炬燵(あんかこたつ)や薪ストーブで暖をとる.行火炬燵は,熾火や炭火を小さな火鉢に入れ,上まで陶器で覆われた櫓(やぐら)にその火鉢を入れて,小さな机と布団で覆って使う.熾火は風呂を沸かすとたくさんできるので,それを使えば効率的.炭を一緒に入れて灰を被せておけば,朝になってもほんのりと暖かさが残っている.
この暮らしには多くの薪がいる.冬場に薪用の木を切り倒し,次の冬に備える.チェンソーで木を切るだけならあっという間だが,その後の枝打ちや玉切りは重労働である.切った木がちゃんと倒れず,隣の木に引っ掛かるとさらに大変.滑車をかけてハンドウインチで引っ張るが,どこに滑車を取り付けて,アンカーをどのようにすべきか,頭と体はフル回転である.そして木は,よく燃える木となかなか燃えない木があり,それらを上手く組み合わせて使うため,切り倒す木の種類にも気を遣う.この気遣いは,生物多様性への配慮にまで及び,カブトムシの幼虫のことまで考えながら里山の再生につなげている.木を切り倒して枝打ちしていると,野鳥が必ず来てくれるので嬉しくなる.このように手間のかかる暮らしを楽しんでいる.
先日,森林ボランティアメンバーのスタッフとして,薪作りと焚き火体験のお手伝いをした.私が担当した参加者は,40歳代と見られる男性2人だった.薪割りは楽しんでくれてたので,話を聞くと,二人とも田舎暮らしを夢に描いているようだった.私が実践している田舎暮らしを紹介すると,非常に興味を持ってくれたが,奥さんの賛同が得られないと嘆いていた.そこでトレーラーハウスを勧めてみたところ,期待に胸を膨らませていた.卒業生の始めたトレーラーハウスの事業は,宿泊施設だけでなく,セカンドハウスとしてもニーズはありそうである.息子夫婦にもトレーラーハウスについて情報提供しておこう.
星空の魅力は,なんと言っても変わらない美しさにある.地球上の自然環境は,人為的な改変や,気候変動に伴う変状もあり,美しい光景を保つには,保護する必要がある.子供の頃,遊び場だった美しい松林の光景は,もはや存在しない.松枯れによる被害のあと,宅地化により,景観は一変した.一方,太陽系の外側の星空は,宇宙のスケールがとてつもなく大きいため,その変化は地球からは分かりにくく,変わらぬ美しさが保たれているように見える.都市部は無駄に明るい照明のせいで星があまり見えないが,空の暗い山の中に行くと,幼い頃に見た光景が蘇るのである.都市部でイルミネーションが灯される頃,夜空には冬の大三角を構成するオリオン座,おおいぬ座,こいぬ座に加え,おうし座やぎょしゃ座など,賑やかな星々が輝いている.里山暮らしにイルミネーションは必要ない.
あまり変わることのない星空ではあるが,太陽系に属する天体は,太陽の周りを回っているので,星座の中を動き,その時々の夜空を賑わしてくれる.今だと夕方西の空には宵の明星である金星が煌々と輝き,東のおうし座に木星,ふたご座に火星がいて,それぞれの星座にアクセントが添えられている.そういえば,中学生の時に望遠鏡を買ってもらい,初めて見た惑星は木星で,その時も木星はおうし座にいた.木星の公転周期は約12年なので,あれから4周分の48年経過したことになる.
さて昨年,四国天文協会の方から「小惑星の名前に高木さんの名前をつけませんか,東亜天文学会の人が推薦してくれています」という連絡を受けた.びっくりである.無類の星好きで,天体観測は今も行っているとはいえ,天文学にはあまり貢献していない.観測写真を雑誌に投稿したり,個人的に小規模の星空観望会を催している程度である.人工衛星による地球観測については,長年JAXAと共同研究してきたが,著しい成果があるわけでもない.
天体の命名は,国際天文学連合(IAU)が行っている.彗星は,発見者の名前がつく.昨年現れた紫金山・アトラス彗星は,紫金山天文台とアトラス観測システムによる発見である.小惑星については,非常にたくさん発見されていることもあって,発見者が命名権を持っている.宇宙探査衛星「はやぶさ」は,小惑星「イトカワ」の岩石を採取した.「イトカワ」は,日本でロケット開発の父と言われた人物,糸川英夫の名前にちなんでつけられたものである.
火星軌道と木星軌道の間には,無数の小惑星が存在する.膨大にあるからと言っても,小惑星の名前の一つに自分の名前がつくとは気が引きける.東亜天文学会の人は,どういうつもりなのだろうか?その人とは学生時代に,四国天文協会の設立で関わった.愛媛県支部を任され,各県支部と連携しながら観望会を企画・開催した.ハレー彗星が接近した時期とも相まって,各イベントは盛況だった.あれから40年以上経過し,会員数は減少,高齢化している.今回の小惑星への命名は,協会存続や天文ファン拡大に対する私への期待に感じた.
昨年11月にIAUから正式発表があり,1989年に北海道の観測グループによって発見された登録番号29167の小惑星に「Masataka」の名が授けられた.現在の心境は,天文学をはじめ,様々な分野の市民研究者を掘り起こし,サポートする役割が与えられた思いだ.研究は,博士号を持たないとできないものではない.誰でもできる.定年もない.そんな楽しい趣味の研究を多くの人と楽しみ続けられるよう,もうひと頑張りするか.