第35回大会(2024年12月7日~8日)
於:東海大学 湘南キャンパス
学会第35回大会を終えて
大会実行委員長 前田晶子(東海大学)
大会事務局長 菊地愛美(東海大学)
2024年12月7日(土)・8日(日)の2日間に渡り、東海大学湘南キャンパスにおいて教育目標・評価学会第35回大会を開催しました。両日で88名の方にご参加いただきました。初めて湘南キャンパスにお越し下さった方は「こんなにも歩かされるのか!」と驚かれたかもしれません。幸いにも天候に恵まれましたので、大学のシンボルであるけやき並木の散歩道を少しでも楽しんでいただけたら・・・と願っておりました。
学会の開催にあたっては、学部を超えて教員と学生がスタッフとして関わって下さいました。また、東海大学総合研究機構から補助費を得ることができ、大学を挙げて大会を組織できたことはありがたいことでした。2018年の開催校であった和光大学にも協力をお願いして、“学会らしさ”を活かす運営を伝授していただきました。前回開催校の追手門学院大学の方々にも、重要かつ細やかな注意点を直前までご教示いただきました。ここにお礼申し上げます。
今回の大会では、課題研究Ⅰ・Ⅱと公開シンポジウムの資料をデータにてお配りいたしました。課題研究をご担当の先生方に助けられ、Driveを整えることができました。報告者の方には資料を作り込んでいただきまして、紙の印刷物よりも数段見やすいものをご準備いただきました。他方で、今回は大会HPを作成するには至りませんでした。データ配付と併せて、大会案内などもオンライン上でお知らせすることができていたらと反省しております。
大会の初日は、課題研究Ⅰ・Ⅱが行われました。課題研究Ⅰは、「調査書(内申書)と接続問題」がテーマでした。日本の戦後社会で「内申書」が背負ってきた諸問題の論点整理がなされた上で、後期中等教育をめぐる移行問題の国際比較と、観点別学習状況の評価を組み込んだ調査書の新様式についての調査結果が示されたことで、広がりのある議論が展開されました。課題研究Ⅱは、「教育目標・評価と学びの多様化」について、学びの保障への包括的な支援策が進行する中で不登校が再定義され新たな包摂と排除の構造が生起しているのではないか、特別ニーズに応答する学びの多様化は「自立活動」の位置づけをどのように深めうるか、かつて児童の村小学校で子どもの土性骨を問うた戸塚廉の煩悶にヒントがあるのではないかといった論点が提示され、こちらもユニークな論議が行われました。
大会二日目には、自由研究発表と公開シンポジウムが実施されました。自由研究発表では10件の発表があり、各分科会では充実した質疑応答がなされました。
公開シンポジウムは、大会校企画として「SDGs時代における教育の目標と評価を考える」と題して計画しました。東海大学にはASPUnivNet(ユネスコスクール支援大学間ネットワーク)に関わる教員の活動があり、大会を機に教育学研究としての視点を深めたいと考えました。木村裕氏にはこちらの企画主旨を十二分に汲んでいただき、ESDの教育目標・評価論の依拠すべき理論的立場について明確に示していただきました。また、先駆的なユネスコスクールの学校づくりを担ってこられた手島利夫氏と、地元平塚市の公民館活動にESDの評価軸を取り入れた海老澤建志氏にご登壇いただくことができ、会場との質疑応答も含めてオープンで前向きなディスカッションになったと考えています。
改めて全体を振り返り、実り多い大会となったことを参加者のみなさまに心より感謝申し上げ、次回開催校の広島大学にバトンを渡したいと思います。本学会の発展と会員の皆様のますますのご活躍を心よりお祈りいたします。
【課題研究1】
調査書(内申書)と接続問題
日本の学校間接続において重要な役割を果たしてきたものは、入試におけるペーパーテストだけではない。下級学校から上級学校に提出される調査書(内申書)も無視できない役割を果たしてきた。中学校から高校へ、つまり、義務教育段階から後期中等教育への接続において、調査書の記述がどのように点数として換算され、または考慮されるかは、保護者や生徒からの強い関心をひいており、とりわけ公立校の一般選抜においては自治体でその配点を統一するなどして、学校間の方法の差をなくすような動きも珍しくない。一方、高等学校から大学への入試において、一般選抜ではそもそも調査書を使わない方が主流である。そのようななかで調査書に観点別評価が加わり、選抜において多面的な評価が行われることも期待されている。そこで、本課題研究では、入試における調査書の役割について、理論的な検討を加えたのちに、具体的な検討を行う。
報告者:
内申書のあゆみとこれから
田中 耕治(佛教大学)
国際比較を通して考える中高接続
本所 恵(金沢大学)
大学入学者選抜における調査書と高大接続
大谷 奨(筑波大学)
司会・コーディネーター:次橋 秀樹(京都芸術大学)・川地 亜弥子(神戸大学)
(1)課題研究の趣旨
調査書(内申書)は、日本の学校間接続において、ペーパーテストと同様に、重要な役割を果たしてきた。大学入試の一般選抜では用いられないことが主流だが、高校入試、特に公立校の選抜では調査書が全国的に用いられている。
その運用方法は地域(都道府県)や学校、学科・コースなどによって異なっている。そのような中で、調査書に観点別評価を加えるという新たな動きも出てきており、その実態がさらに多様になっている。この実態の多様さから、調査書を一般化して語ることが難しく、その運用方法についての全国的な議論を妨げているのではないか。そこで、本課題研究では、入試における調査書の役割について、理論的・具体的な検討を行う。
(2)田中報告
田中会員の報告では、内申書問題の歩みを振り返り、教育接続としての入試における内申書の位置付けやあり方についての見解が示された。
内申書は、旧制中学校への入試の激化を契機に誕生し、その際には学科試験によらず人物を総合的に考査する「内申書第一主義」が取られた。しかし、紋切り型で抽象的な「評語」のために主観的な評価(「絶対評価」)に陥りやすいことや中学校が求める学力を適正に判断できないという不満や批判が噴出したため、再び学科試験偏重となった。
戦後になると、新制高等学校への全入が基本方針とされ、入学志願者が定員を超過した場合は、「新制中学校よりの報告書に基づいて選抜する」入学試験を行うことができるとされていた。戦後初期の内申書は中学校からの報告書と位置付けられ、高校入学後の指導のための資料として活用することが期待された。
しかし、ベビーブームによる18歳人口の激増、高校進学率の急増、学校数の増加による縦並びの分化・序列化などを背景とした受験競争の激化や高等学校からの不満により、選抜のための学力検査が行われるようになった。希望者全入制から適格者主義へと転換していく中で、内申書は再び選抜のための資料としての性格を帯びることとなった。
この受験競争の激化に対応するため、文部省は受験科目削減と内申書重視の方針を出した。これにより一発勝負の選抜入試の弊害や受験生の負担が軽減されるとされた。
内申書重視の潮流の中で、内申点の比重が高まったため、その客観性や信頼性を高めるために業者テストが横行し、このテストによって算出された「偏差値」による「足切り」を伴う進路指導が行われるようになった。当時の内申点は「相対評価」が採用されており、「偏差値」と相対評価による内申書によって、受験競争がさらに激しくなり、ますます高校の分化・序列化が進んだ。
この対応のため、選抜方法の多様化と評価尺度の多元化が推進され、特に推薦入試においては内申書を重視することとなった。しかし、これは、事実上生徒の学力格差を追認することとなり、学力検査と内申書の入試における役割の差異を明らかにするという課題は先送りにされた。
2001年になると指導要録で目標に準拠した評価が登場し、内申書の評定にも採用することが促された。これを受けて、目標に準拠した評価と内申書についての議論が進み、①教育目標の設定に対する教師の主観や恣意的判断の混入、②内申書の信頼性の揺らぎと高校側の反発、③教師の権威性軽減のための内申書廃止などの論点が提起された。
しかしながら、1999年の中教審答申では入学試験を、下級学校と上級学校とを「接続する教育の一環」に位置付けるという方針が出された。これは、「選抜」としての入試から「教育評価」としての入試へと転換を促すものと理解できる。「真正の評価論」が、「学力の質」に適合した評価方法の開発を志向する立場であるため、教室の日常場面における「探究」を重視する「学力の質」を適切に評価し、次の指導に活かすためのよりふさわしい内申書の様式が求められるのではないか。また、目標に準拠した評価における入学試験とは、その学校で学習するのに必要な資質・能力を有しているのかという「資格」を重視するものであると同時に、教育課程上の教育目標を明確に設定し、その学習到達度に応じた中高接続が行われているのかを問うものであり、その受験時での生徒の到達度を評価しようとするものでもある。これに取り組んでいく中で、学力検査と内申書で各々評価する「学力の質」の区別やその評価方法・評価基準の開発が課題となるだろう。
(3)本所報告
本所会員の報告では、世界各国の後期中等教育の位置付けやその接続方法を比較し、内申書を語る上で前提となる中高接続の目的や特徴、課題について検討した。
まず、世界の学校制度について、後期中等教育は多くの国で3年間であるが、2年〜5年と幅がある。義務教育に後期中等教育が含まれている国が多く、イングランドやベルギーなどでは、後期中等教育全てを義務教育に位置付けている。分岐や選抜が行われている段階も国によって様々である。前期中等教育が始まる段階で選抜がある国もあるが、多くの国では後期中等教育が始まる段階で分岐・選抜が行われる。また、後期中等教育の終了後まで分岐・選抜が行われない国もある。
次に、カリキュラムの多様性とその選択について。後期中等教育では、高等教育への準備(普通科)や職業スキルの提供(職業科)、またはその両方といった多様なカリキュラムが用意されている。生徒の選択に注目すると、早期に分岐があり後期中等教育に四つ以上のプログラムを設置する「構造化されたシステム」、入学時にはプログラムに分かれず在籍中に選択する「個人化されたシステム」、その中間に位置する「中間的なシステム」の3種に分類される。
さらに、生徒の選択には社会経済的背景が強く反映されることも懸念され、国によっては、社会経済的に不利な状況にある若者が職業科を選ぶ傾向が顕著である。これにより、将来の職業が固定化し、社会的不平等の強化につながることも危惧されている。
最後に、後期中等教育への移行に影響を与える要因について、①生徒と家族の意向、②学業成績、③教師・学校の推薦の3つがある。
一つ目の生徒と家族の意向はすべての国々で考慮されているものの、その重要度は異なる。多くの国では、学業成績と合わせて考慮されるが、例えば学業成績による選抜がないチリでは生徒や家族の意向が決定的に重要な事項となる。反対に、競争的な選抜があるチェコや日本、トルコなどでは限定的な役割しか果たしていない。さらに、生徒や保護者の選択には適切なサポートが必要であり、選択肢や情報を提示するガイダンスや保護者への支援などが用意されている国もある。
二つ目の学業成績は多くの国で移行に影響を与えている。特に学業成績を重視する国では要件や選抜資料としても利用している。一方で、総合制を用いる国ではあまり影響力がない。対象となる成績が、学校のものか、外部試験の結果か、その双方を総合するかは、国によって異なっている。いくつかの国では、各プログラムの志願に必要な学業成績の条件を予め定めておくことで、選択肢を限定し過度な競争を防ぎ、生徒の不安やストレスを軽減しようとしている。
三つ目の教師・学校による推薦が移行に影響するのはフランスなど数カ国である。学業成績よりも包括的な評価が行われるが、教師の見解や偏見が影響しやすいという特徴がある。
多様な後期中等教育とその移行を踏まえると、若者に円滑で有意義な後期中等教育を保障する際には、個人の関心・ニーズに合わせて教育を選べることが重要であり、それが公正な社会参加や高等教育へのアクセスの基盤となる必要がある。学校段階やカリキュラムだけでなく全体的な制度から包括的に議論する必要があるのではないか。
(4)大谷報告
大谷氏からは、観点別学習状況の評価が導入された、新たな調査書の大学入学者選抜における利用法と高大接続のあり方について、県立高校対象の調査の結果をもとに報告がなされた。
2022年度、高等学校生徒指導要録の記入法が変更となった。主な変更点は、①総合的な探究の時間の記録について、各学校が自ら決めた観点を記入した上で、その観点に照らして学習状況や身についた力を記述すること、②特別活動の記録については、各学校が自ら決めた観点を記入した上で、それに照らして十分満足できる活動の状況にある場合には○印を記入すること、③各教科・科目等の学習の記録に、観点別学習状況の評価を記入することの3点がある。
これに伴い、2025年度から大学入学者選抜に用いられる調査書の様式も変更される。大学入学者選抜の調査書は、高等学校の生徒指導要録を転記することが通例だったが、今回の改訂では、先述の変更点のうち、①②が掲載される一方、③が記載されないという異例なことが起きている。
観点別学習状況の評価の調査書への掲載は、高等学校がこの評価に不慣れなことや大学側の理解の不十分さなどを理由に、保留されている。これに対し、文科省は条件が整い次第観点別の項目を設けることを目指し、高等学校での学習成果を大学入学者選抜等に活用するための委託事業を公募した。以下は、その事業として採択された「観点別学習状況の評価の運用実態を踏まえた大学入学者選抜および大学入学後の学修指導への活用可能性の検討」の成果の一部である。
この事業では、大学が高校現場における観点別学習状況の評価の実施状況を把握し、その趣旨の理解するため、茨城県内の高等学校12校を対象に、ヒアリング調査、質問紙調査を行った。
以下では、昨年度の調査結果を報告する。まず、観点別学習状況の評価の影響として、ペーパーテスト以外の評価の場面の存在に気づき、定期考査の頻度を見直したり、評価内容を授業改善に活かしたりといった回答が見られた。しかし、この評価に要する時間の捻出や「主体的に学習に取り組む態度」の評価方法に関しては苦慮しているという実態も明らかになった。
次に、観点別評価と大学入学者選抜の関係については、大多数の高校で、この評価を大学に示すことには消極的だった。特に、大学入学者選抜のうち、一般選抜では利用しないのが望ましいという回答が多い。一方で、学校推薦型選抜の利用については抵抗感が下がっていた。
最後に、観点別学習状況の評価を大学入学後の指導に活用することについては、6割以上で「大いに活用すべき」「活用しても差し支えない」と回答されている。なお、この評価について大学に認識してもらいたい事項として、評価方法や方針が学校毎に異なることという回答が9割を超えていた。
以上から、高等学校は観点別学習状況の評価に不慣れな状態であり、大学に開示することに消極的であることが読み取れる。一方で、先行してこの評価を導入していた高校への聞き取り調査によれば、次第に慣れていくとのことだったので、観点別学習状況の評価の高大接続における利用法の検討は意義のあることである。評価方法が高校によって異なることを踏まえると、点数化するといった「強い」使い方ではなく、面接場面を豊かにするための資料といった「弱い」使い方が妥当ではないか。また、法的に明記されていないが、高大接続を重視するのであれば、調査書の位置付けやその記載内容について、双方で協議を続けていく必要である。
(5)質疑応答での論点及び議論
フロアから以下の質問・論点が示された。①本所会員へ。職業プログラムの比率が高い国は、多様性多元性が担保されていると考えることができるのか、それとも何か問題があるのか。また、今日社会が変化している中で、社会で生活する基盤として不可欠な後期中等教育、ということの具体的な中身を補足してほしい。②大谷氏へ。ある自治体で、内申書を参考にしながら面接・集団討論で発揮されるパフォーマンスを能力を推測するというやり方の中で、一生懸命作っている書類は参考程度で十分使い切れていないという現状がある。また、入学してから観点別評価の状況を見て生かすことについて、高校の先生とは好意的だが大学ではどうか。③三者に。三者とも選抜を相対化する話だった。調査書と接続問題では、作成側と受け取り側の論理がある。中学受験と高校受験、大学受験は違い、スケールも制度設計を広げると新自由主義的なものがマクロなレベルで入ってくるのでは。三者の話はどう位置づくのか。
以上について、三者から以下のような回答があった。
○本所会員
後期中等教育は普通教育と職業教育の2つに分類されるが、どこに在籍するかだけでなく、そのプログラムの中で生徒がどう選択し、主体的に学習を構成していくことが可能なのかを語ることで、後期中等教育における多様なカリキュラムの様相を捉えようとした。
生徒が自分の学習や将来のことを考え選択し、さまざまな経験を積むことが社会生活を送る上で求められているため、全ての若者がアクセス可能な後期中等教育の中でそれを保障していく必要があるのではないか。
○大谷氏
観点別学習状況の評価に関しても積極的に利用しデータを収集することで適切な利用法を探っていく必要がある。
小中、中高の接続において指導要録の写しを送ることとされているが、高大ではそれをする明確な法的根拠がない。また、指導要録の利用法についても、指導の参考か選抜の資料か、学校の間で捉え方が異なるため、学校種間で協議する必要があるのではないか。
○田中会員
中学校における教育活動を高等学校が十分に受けとめていないのではないかという問題意識が根底にあり、内申書と入試は不可分なものと捉えている。「内申書=低学力層、学力検査=エリート層」と類型化するとそこから脱しにくくなるため、教育課程に求められる「学力の質」をおさえた上で、それを評価する妥当な方法としての学力検査や内申書のあり方を考察する必要がある。
競争のあり方が問題である。相対評価でお互いを蹴落とし合うような競争ではなく、同じ目標に向かって切磋琢磨する中で、全員が目標をクリアできるようにすることが求められる。
(6)司会からのコメント
次橋会員は、日本と海外、中高接続と高大接続というように、今回発表された内容だけでも、内申書にまつわる問題が多様であるとした。さらに学校の性格による内申書の取り扱いの違いや不登校生徒の内申書の記載内容、観点別評価の利用などといった新しい問題にも触れ、さらにその内容が多様になっているため、論点を整理し、細かく論じ分けて内申書についての議論を進めていく必要があるのではないかと指摘した。
川地会員は、本課題研究において入試の役割変容など、内申書そのものだけでなくそれを超えた接続についても議論できたとした上で、これらの問題と新しい評価をつなぎ合わせた時にどういう展望を持つべきかということを深めることができたとコメントした。
文責:川地亜弥子(神戸大学)
賀内 望(神戸大学大学院)
【課題研究2】
教育目標・評価と学びの多様化
不登校の児童生徒が過去最多となり、日本の学校教育のあり方が問われるとともに、「学びの多様化学校」の設置の推進が行われている。本課題研究では、不登校現象をめぐって学校にはどのような実態・課題があるのか、多くの子どもたちが学校に通いやすくなるためには教育目標・評価をどのように構想し、実践しうるのか、といった問いについて検討する。
そのため、まずは教育社会学的な視点で、不登校現象の背景や支援策の現状と課題を検討する。続いて、特別支援教育の立場から「学びの多様化学校」の実践もふまえて、子どもたちの学びの多様性に応じた取り組みをめぐる論点についてご報告いただく。さらに、教育方法学的な視点で、生活と教育といった切り口から、子どもたちの学びの多様化をふまえた教育目標・評価のあり方について検討したい。
報告者:
不登校支援の(再)制度化にみる包摂と排除の諸相
山田 哲也(一橋大学)
「特別な教育的ニーズ(SEN)」概念からみる<学びの多様化>の論点
加瀬 進(東京学芸大学)
生活学校にみる多様性の意義と限界
――後期池袋児童の村小学校における葛藤から学ぶ
中西 修一朗(大阪経済大学)
司会:斎藤 里美(東洋大学)・奥村 好美(京都大学)
コーディネーター:奥村 好美(京都大学)・山田 哲也(一橋大学)
(1)課題研究の趣旨
まず、コーディネーターの奥村会員より本課題研究の趣旨が説明された。そこでは、昨年度の不登校児童生徒数は30万人を大幅に超えるなど、不登校の児童生徒が過去最多となり、学校教育のあり方が問われていること、こうした状況を受け令和5年3月に文部科学省より「誰一人取り残されない学びの保障に向けた不登校対策」(COCOLOプラン)が発表され、現在「学びの多様化学校」の設置が推進されていることが確認された。そこで本課題研究では、不登校現象をめぐって学校にはどのような実態・課題があるのか、多くの子どもたちが学校に通いやすくなるためには教育目標・評価をどのように構想し、実践しうるのかといった点を追求することが提起された。
(2)山田報告
山田会員からは、主として二つの観点から文科省が構想する包括的な不登校支援策を検討する試みがなされた。一つ目の観点は、COCOLOプランでは、子どもたちの「多様性」をどのような枠組みで把握しているのかという点である。ここでは、文科省主導で不登校支援のあり方を協議した四つの会議における議論の展開が、①欠席をめぐる意味論の複層化、②望ましい不登校理解・対応の枠組みの変化という二点から整理された。まず①に関して、従来は「心の問題」や「進路の問題」として捉えられがちであった不登校による欠席の意味が、近年の会議ではそれらに加えて子どもの学びの「権利保障」をめぐる課題として意味づけられ、欠席が学校からの排除やその帰結としての社会的排除につながる点が強調されるようになった。次に②に関して、従来は病欠や経済的理由など理由が明確な欠席と対比される妥当な理由に基づかない行為として不登校は理解されてきた。他方近年では不登校は個人の問題ではなく、その個人のケースにとっての妥当な理由を探究すべき現象になっており、不登校を問題ではなく課題として捉えること、その際にBlumerが提起した感受概念として不登校概念を位置付けることができるのではないかということが確認された。
二つ目の観点は、倉石一郎氏が提唱する「包摂と排除の入れ子構造」論の観点に照らすと、不登校支援策にはいかなる排除の契機が含まれているのかという点である。ここでは、COCOLOプランには脱学校化と再学校化という二つの方向性が含まれており、後者の方向性がより重視されていると伺えることが確認された上で、「包摂と排除の入れ子構造」論に依拠してCOCOLOの三つの柱(①不登校の児童生徒全ての学びの場を確保し、学びたいと思った時に学べる環境を整える、②心の小さなSOSを見逃さず、「チーム学校」で支援する、③学校の風土の「見える化」を通して、学校を「みんなが安心して学べる場所」にする)の批判的検討が行われた。第一の柱に対しては、学校方式による学べる環境の整備補充では、そうした学校方式になじめない子どもを「学びの多様化学校/校内教育支援センターにも通えない子ども」として排除するのではないか、第二・第三の柱に対しては、「チーム学校」や「学校風土」尺度・指標による不登校の未然防止・早期介入は学校による監視強化として子どもたちに受け止められるのではないかとの指摘がなされた。最後に、三つの柱全体を通して、COCOLOプランでは学習の成立をもって多様な子供を把握し、支援しようとする傾向性があるため、学びが成立する以前の生活基盤に対する支援が後景化する危惧が示された。
(3)加瀬報告
加瀬氏からは、東京学芸大学こどもの学び困難支援センターでの営みから子どもの多様な学びのあり方についての報告がなされた。まず自己紹介として、同センターの役割や研究紹介がなされ、2023年度に実施された「学びの多様化学校」調査の結果が共有された。そこでは、①「児童生徒理解・支援シート」策定の実質化・必須化と「学習支援コーディネーター」の加配、②教員・支援員の研修体制づくり、③評価・評定の切り分けに関する理解・承認とマッチングのためのシステム構築の三点が必要とされること、④分教室型多様化学校という運営形態の可能性が示されていること、⑤学習活動の把握及び評価・評定問題は、教科の特性や学年に応じて異なるという前提で検討していく必要があることが確認された。
続いて、「特別な教育的ニーズ」の起源としてイギリスにおいて1978年に提出されたウォーノック報告の内容が確認され、従前の1944年教育法で示されていた障碍分類が廃止され、特別な教育的ニーズが新概念として導入された背景が紹介された。同概念は従来の医学的な障碍の捉え方を固定的なものとして批判し、複数の専門家による子どもに対する評価を行うこと、特別な教育的ニーズは環境との相互作用で大きくも小さくもなるものとして捉えることに特徴があるという。特別な教育的ニーズは通常の教育ニーズが満たされていない場合に発生するものであり、個別最適な学習環境を提供するためにはアセスメント/意思決定支援とマッチング/移行支援が重要になることが示された。そして、こうした視点から学びの多様化の議論を検討した場合、日本の特別支援教育と通常教育の歴史的な分断という経緯を反映して障碍児の多様な学び方と不登校児の多様な学び方がパラレルに議論されている状況であるといえるのではないかとの問題提起がなされた。
最後に、特別支援学校の学習指導要領上では自立活動という独自の領域が設定されていることが確認され、不登校支援における自立活動や生活そのものの支援をいかに行っていくかを検討する必要があるのではないかということが確認された。
(4)中西報告
中西会員からは、後期児童の村小学校における野村芳兵衛と戸塚廉の対立や葛藤をめぐる論点を析出することを通して、現代の多様化学校の問題に示唆を与える発表がなされた。具体的には戸塚の日記を史料として1934年秋に生じた野村に対する戸塚の疑念が、野村の態度に対する疑念と子どもの教育のあり方に対する疑念に整理され、紹介がなされた。
第一に、野村の態度に対する疑念については、学校に対する親たちからの信用問題に関する野村と戸塚の応酬に焦点が当てられた。ここでは、野村は母親が子どもを預けた以上は、学校を信用せねばならないと語るのに対して、戸塚は野村ほど簡単に割り切っていいものかと懸念を示した。またそこから、野村は戸塚に「止むを得ず別れなくてはならぬかも知れない。そこはデモクラシーでは行かぬから」と述べ、喧嘩別れしても致し方ないという態度を表明した。この点に対して、中西報告では、普通の学校に「いられなかった」からこそ児童の村を「選択」した子どもや教師に対して、選択による信託の責任を選択者らに求める野村の主張では、「合わなければ出ていっていいよ、他を『選択』すれば」という論理が組み込まれたことが指摘された。この点を敷衍し、公立学校制度の中に、適性による「選択」を導入することは、翻って排除を許容にする論理につながるのではないかということが指摘された。
第二に、子どもの教育のあり方に対する疑念については、なんでもうまくこなすが土骨性、すなわち泥臭く抵抗する骨のある精神が見えないこと、それを助長する児童の村の過保護な配慮に対する戸塚の批判的視点が紹介された。戸塚は、個性を尊重し多様性を保障する児童の村において、子どもたちが温かい環境と空気の中で満足することが、時に現状の漂泊に陥り、彼彼女らが現状に疑問を抱いて学習や活動を切実なものとする機会を奪いかねないことを懸念していた。こうした点から、多様性を尊重するがゆえに生じて来る対立や障壁に関しては、先回りした援助が必要である一方で、時に自らの力で障壁をのりこえることによってこそ、子どもたちの可能性を伸ばし鍛えることにつながること、そしてその多様性を引き出し、活かし、障壁を克服するためには、環境を自分たちで決めていく自治がどのように保障されているかが重要となることが指摘された。
最後に、後者の戸塚の疑念に対しては野村も自覚的であったことが指摘された。そして、こうした野村の葛藤を現代的な視点に惹きつけた際に、特殊な空間である多様化学校の性質を教師たちはどのように受け止めて悶えているのか、そしてその悶えの中に、補償ではなく、どのような可能性を見出すことができるか、さらには旧来の公立学校に通っている子や学校に行けてしまう子はどのような悶えをかかているのかという論点が示された。
(5)登壇者間の質疑応答
まず山田会員から加瀬氏に対して、①自立活動的内容を支えるのは重要だと思うが、学びの保障と生活基盤の保障をどう両立させるのか、②多様な子どもを想定する、ジェンダー、エスニックグループなどの社会的な属性の問題はどのように考慮されうるのかという二つの質問がなされた。加瀬氏からは、①教育と福祉の連携をするしかない点、youtube上に掲載されている「仁の物語」の例などを引き合いにして、排除の中に生活支援が入ることで社会参加につながっていく、そうした構造を教育と福祉の構造として達成できるかが重要である、②教育的ニーズの個人因子と環境因子を整理し、今後そうした点を検討課題とすべきことが必要であるとの応答がなされた。次に加瀬氏から山田会員へ、「学びの成立以前が後傾化されるのではないか」とあるが、後傾化させないための研究とはどのようなものがあるか。どういった研究が必要かとの質問がなされた。回答として、まず欠席状況の子供達に対する実態調査が必要とされる点、次に福祉関係者の問題の捉え方を学校に反映させていく回路が強くなっていってもいいのではないか、福祉的な観点をどういうふうに学校教育に組み込んでいくのかを考えなければならないのではないかという点が示された。
続いて、中西会員から、①感受概念として不登校を捉えるのは興味深いが、それ以外の概念で不登校を捉えることはできるのか。②学校的なるもので不登校を産んでいる存在はどのようなもので、それをどう捉えればいいのか、③不登校に関わってきた立場から、どのような悶えがあると考えるか、何に悶えればいいのかという投げかけがなされた。応答として、山田会員から①酒井朗氏の「学校にいかない子ども」概念や中野綾香氏の「見過ごされた子ども」概念が紹介されるとともに、②不登校の子どもというように集合的に子どもを捉えている点に課題があるとの回答がなされた。加瀬氏からは、多様化学校に異動してきた教員が直面する戸惑いとして、いい授業をしたいという教師のアイデンティティが揺さぶれられる点が示され、教師の支援(支援者支援)の問題をどうするかという点が示された。また、教員養成では「自分一人でできて一人前」と育てるので「誰かに助けてもらって一人前」と教わってこない問題が指摘された。
(6)全体での質疑応答
京都大学の西岡会員より、全体に対して、①幅広い学びの場が広まること自体は望ましいが、他方で学力保障論の立場からすると、学びの多様化学校では相当枠が緩やかになっている点を受け、学力保障を重視してきたことと学校の枠組みそのものが揺れていることをどう理論的に整理したら良いか。②通常の学校も変わった方がいいと考えるが、多様化学校があるから普通の学校はそのままでいいといった言説に対して、どのように対応すべきかという質問がなされた。次に、京都教育大学の徳永会員より、課題研究Ⅰの接続の問題が関連するのではないかという観点から、別の場所・世界に移っていく時に、どうその接続を支援していけるのかとの質問がなされた。最後に、長野保健医療大学の駒井会員より、欧州のCEFR (外国語の学習・教授・評価のためのヨーロッパ言語共通参照枠CEFR: Common European Framework of Reference for Languages)においてはソーシャルエージェントとして学習者を包摂していくという考え方があるが、ソーシャルエージェントという視点が日本の学校では弱いと捉えている。三人の発表はこうした点とどう接続していくかとの投げかけがなされた。
山田会員からは、接続の問題をどう考えるのかは課題であるとの確認がなされた。加えて、中西報告の児童の村小実践では野村も戸塚もあるべき人間像が明確なのに対し、今多様な学びの話ではあるべき像がないまま、どうすれば自立できるのかに対して回答がないままであるとの指摘がなされた。関連して、欠席問題の変遷(心→進路→権利)は生じたが、保護者や当事者は進路の問題として捉えている。それをどう考えていくのかも課題だとされた。最後に、普通の学校の変化に関して、現実の不登校の子どもたちの増加や学校への異議申し立てが状況を変えていくのではないかとの展望が語られた。加瀬氏からは、かつて勝田守一はものを作る、ものがわかる、人をつなぐ、表現すると整理し、どの能力に価値を置くのかが大事だと論じた。人をつなぐや表現することに価値を置く社会では、多様化学校の学力保障の問題に光が見えてくるのではないかとの投げかけがなされた。また、通常の学校の変化に関しては名古屋市内で実践している自由進度学習がどの程度成功するのか、接続問題に関しては市の教育支援センターから学びの多様化学校への移行がどのようにすればうまくいくのかといった点を研究課題としていることが紹介された。最後にソーシャルエージェントに関して、愛着の形成が必要な子ども達にとって概念の有用性があるのではないかと述べられた。中西会員からは、いい授業をするか、いい授業から子どもが出ていくかという二者択一で考えるのではなく、その子が参加したい授業を求めることが大事なのではないかとの視点が示された。また接続問題に関して、児童の村小の実践では、受験を必要悪として捉えるのではなくて、それに価値を見出すこともしているので、その可能性とは何だったのかを捉えなおすことも必要ではないか。自立活動に関しては、特別活動等で実践されてきたものや可能性として示されてきたとも重なる点を確認することが必要でないかとの回答がなされた。
最後に、司会の斎藤会員から会のまとめとして、多様性を推進していくとして、今の学校は今のままでいいのか、学校的なるものは何なのかといった本質的な問いかけが生まれて来たこと、UNESCOの4つのlearning(learning to know, learning to do, learning to be, learning to live together)の整理などを参照しつつ、もう一度学力保障の本質を考える必要があること、マイノリティが包摂されていく社会における学力のあり方としてlearning to knowやlearning to doだけでよいのかという問い直しを行う必要があることが示された。
文責:岡村亮佑(京都大学大学院)
【公開シンポジウム】
SDGs時代における教育の目標と評価を考える
近年、教育のなかでSDGs(持続可能な開発目標)に取り組む実践が目立っている。OECD教育2030を受けて、各教育機関は、これまでの教育実践をSDGsと関連するものとして再定義したり、あるいは新たな教育活動として導入するなどしている。教育目標・評価の視点から見るとき、この動向は、教科の枠組みに沿って伝えられ形成される学力のあり方そのものの問い直しとともに、そうした学力と地球規模のウェルビーングを目標とする社会形成者としての資質・能力をどのようにつなぐのか、という今世紀の教育の中心課題を具体的かつ広範囲に問うものであるといえる。
本シンポジウムでは、従来型の学力論と生涯学習型の資質・能力論の連結は、学校づくり・学びづくりと不可分であると考え、この課題にかねてから取り組んできたESD(持続可能な開発のための教育)実践の経験と成果に注目したいと考える。木村氏には、ESDをめぐる国内外の動向を踏まえ、目標・評価論の現状と課題について論じていただく。続いて、手島氏に先駆的なユネスコスクールの学校づくりについて、海老澤氏には公民館の地域ESD活動における評価づくりについて発表していただき、全体として公教育におけるESDの教育目標・評価論について検討したいと考える。
報告者:
ESDをめぐる教育目標・評価論の射程と検討課題」
木村 裕(花園大学)
ユネスコスクールの学校づくりと目標・評価論
手島 利夫(元 江東区立八名川小学校校長)
公民館のESD活動――nadeshiko viewで未来を魅せる
海老澤 建志(平塚市役所)
コメンテーター:田中 統治(東海大学)
司会・コーディネーター:前田 晶子(東海大学)・菊地 愛美(東海大学)
主旨説明
近年、教育の中でSDGs(持続可能な開発目標)に取り組む実践が多く報告されている。OECD教育2030を受けて、各教育機関は、これまでの教育実践をSDGsと関連するものとして再定義したり、あるいは新たな教育活動として導入したりしている。教育目標・評価の視点から見るとき、この動向は、教科の枠組みに沿って伝えられ形成される学力のあり方そのものの問い直しとともに、そうした学力と地球規模のウェルビーイングを目標とする社会形成者としての資質・能力をどのようにつなぐのか、という今世紀の教育の中心課題を具体的かつ広範囲に問うものであるといえる。
本シンポジウムでは、従来型の学力論と生涯学習の資質・能力論の連結は、学校づくり・学びづくりと不可分であると考え、この課題にかねてから取り組んできたESD(持続可能な開発のための教育)実践の経験と成果に着目し、公教育におけるESDの教育目標・評価論について検討することとした。
(1)第1報告の概要
木村裕氏の報告では、ESDをめぐる国内外の動向を踏まえ、教育目標・評価論の現状と課題について論じられた。まず、ユネスコにおける定義を概観した上で、ESDの特徴が「個人の変容と社会の変革」「生涯学習のプロセス」「ホリスティック」「学習者の力量形成の必要性」という4点に整理され、ESDの教育目標・評価論の射程の広範さが指摘された。その上で、ESDをめぐる教育目標・評価論について、大きく3つの視点から問題提起がなされた。
1つ目は、個々の学習者の確かな力量形成に向けた教育目標・評価論の検討である。上述したように、ESDでは「学習者の力量形成の必要性」が示されている。この点も踏まえて、木村氏は、個々の学習者全員に最低限保障すべき知識やスキル等の設定とその習得という視点から、「目標に準拠した評価」の可能性に注目している。これまでESDは到達目標の設定やそれに基づく評価、あるいは評価者が持ち込む指標に基づく評価にはなじまないとされてきた。それに対し、「目標に準拠した評価」における教育課程の「民主編成」という方法原理を再確認することを通して、ESDの教育目標・評価が画一的・固定的ではないかたちで実施され、かつ「学力保障」という視点を位置づけることも可能であることが示唆された。
2つ目は、各学校や各学級の実態にあわせた目標設定と評価実践を実現するための方途の検討である。日本の学校現場では、国立教育政策研究所が示した「ESDの視点に立った学習指導で重視する能力・態度(例)」がしばしば参照されているが、その際、これが半ば普遍的なものとして扱われる傾向があることが指摘され、カリキュラム・マネジメントの目的も踏まえつつ、各学校や各学級の実態等をふまえながら、必要に応じて変更を加えることの重要性が主張された。そのための方途の1つとして、「社会認識の変化」「自己認識の変化」「行動への参画」という木村氏による3観点に基づいた教育目標・評価の枠組みが例示され、既存の枠組みの問い直しの可能性が具体的に提起された。
3つ目は、大人と子どもの協働を視野に入れた教育目標・評価論の検討である。ESDの特徴の1つである「生涯学習のプロセス」を念頭におくと、ESD実践の場は、学校教育のみならず、社会教育や地域社会や家庭にも広がりをみせる。大人と子どもがともに学び、ともに成長や変容をし続けることを視野に入れた教育目標・評価論についての検討の重要性が示された。
(2)第2報告の概要
手島氏の報告は、日本におけるESDの先駆的実践であるユネスコスクールにおける学校づくりについて、既存の教育課程編成との対比を軸に論じられた。
SDGs実現の鍵としてESDが位置づけられていることが改めて確認され、その推進に向け、現行の学習指導要領が前文に「持続可能な社会の創り手」の育成を掲げていることの重要性が示された。その上で、各学校における教育課程編成は、「学校教育目標の明確化」「教科横断的な教育課程の編成」「主体的・対話的で深い学びに向けた授業改善」という視点から、従来のあり方を見直すべきであることが説明された。
その具体的な取り組みとして、手島氏が取り組んできたのが「ESDカレンダー」「ESDストーリーマップ」等を用いた教育課程編成である。SDGsの観点と各教科の教育内容とを照らし合わせ、教科横断的あるいは総合的につないでいく教育の姿を可視化する取り組みである。この取り組みの過程において、教員たちが年々、教科を横断しながら教育内容をストーリーとしてつなぎ共通理解をはかっていく様子が報告された。
また、その際、子どもたちの主体的で探究的な学習活動を充実させることが目指されるのであるが、それについても既存の学校教育の価値転換の必要性と課題が示された。まず、明治以来の日本の教育が「基礎・基本」「知識・理解・技能」という学力の習得を重視するあまり、思考力・判断力・表現力等の育成を常に後回しにしてきたこと、また、教育評価においても評価基準に照らして到達度を測り、数値化し、序列化するという方法をとってきたことが批判された。その上で、日本の教師の多くは「主体的・対話的で深い学び」を実現する指導力を持たなければならないことを自覚し、既存の学びのあり方を変容させねばならないことが主張された。その際、予測不能で正解の分からない時代を生きるために必要な学びを作る教師の力として挙げられたのが、手島氏の主張する「子どもの学ぶ心に火をつける」ことの重要性である。子どもの学びを「仕掛け、寄り添い、ともに悩み、共感していく」教師の存在の重要性が具体的な実践を例に報告された。
3)第3報告
海老澤氏の報告は、平塚市における「公民館のESD活動の教育目標・評価」についてであった。平塚市は、2019年東海大学のコーディネートのもと、ユネスコアジア文化センター公民館研究グループの事業協働地域に選ばれており、ESDの取り組みを意識した事業が展開されている。世界規模で展開されるESDの取り組みが、公民館における個々の学習といかに結び付けられてきたのかという点について、公民館事業の教育目標・評価論として述べられた。
取り組みの当初、ESDという大きな課題に負担感をもつ職員が、先駆的な取り組みをしていた岡山市との交流から意欲を喚起されたことや、コロナ禍においても学びを止めたくないと動いた職員や地域の人々との交流から、「地域に根差した持続可能な開発のための教育(ESD)」の取り組みが意識化され、事業化されていった過程について報告された。
例えば、2020年度には、公民館事業にESD要素がどれくらいあるのかという点が、7つの指標(自分事、学び合い、展望、参加、育て合い、行動、一緒に)で評価されたが、その際、「行動(小さくても次の行動や行動の変容に繋がるような要素があったか)」の項目に高得点がついたことが報告された。筆者の見解を付言しておくと、ESDを意識することなく展開していた公民館事業に、ESDの要素が含まれ高評価を得たという気づきが、次年度以降の平塚市独自の指標づくりに繋がっていったものと思われる。また、公民館職員自身が、世界規模のESDと個々の学習を起点とする公民館事業とを実感を持ってつないでいく契機となったのではないかと推測された。さらに、2022年度からは市民の花「なでしこ」になぞらえて作成された5つの指標「nadeshiko view」をもとに、学習報告書が作成され、ESD度が数値化されるのであるが、それは、学習と事業の振り返りのための指標のみならず、新たな企画を練り上げる際の指標としても位置づいていったことが述べられた。「大きな力はすぐには生まれない。動かす力はきっと、一人の小さな行動から始まるはず」という平塚市の公民館の考えは、「課題と自分とのつながりに気づこう」という、自分と世界とのつながりを認識し行動にうつす事業のあり方へとつながっていったことが報告された。
(4)コメンテーターからのコメントと質疑応答
以上3報告について、コメンテーターの田中氏からは、次のような質問とコメントがあった。
まず、ESDにおける「Development」は経済的な文脈で語られることが多いが、教育の領域においてはどのように解釈すればよいかという質問が出された。それについて、報告者からは、共通して「人間開発」という人の可能性の開発の視点を持っているという応答があった。これについては、コーディネーターの前田氏からも「Developmentが意味する“成長”は“到達”ではなく“変化”として捉える必要があるのではないか」という補足があった。
また、ESDにおける「学力保障」の視点をどう位置付けたらよいかという論点が提起された。加えて、生涯学び続ける力が求められている現状においても、既存の学力観の転換はできていないのではないか。ESDは、身近なものへの着目や大人と子どもの協働(対等性)を示唆する点から、パラダイムシフトであるとも捉えられる。生涯にわたって学び続ける力の基礎であると思われるが、生涯学習者を育てるために、学校教育は何をすればよいか、という点も提起された。これに対し、報告者からは、生涯学習における連続性や更新の必要性と、正解がない/分からないことを自覚した上での学びの継続の重要性が指摘された。
(5)コーディネーターからの感想
ESDの先駆的取り組みとして急拡大したユネスコスクールは2024年現在で1088校に及ぶ。本シンポジウムは、東海大学がユネスコスクールへの認定をめざしたことを契機に企画されたという経緯があった。様々な取り組みを見る中で、ESDという地球規模の教育が既存の学校教育の現場といかにして接続するのかという論点が浮かび上がった。
手島氏が手厳しく批判したように、日本の学校教育は学力形成に重点を置き続けてきた。一方で、木村氏が可能性を見出したように、それは大人が子どもに保障すべき文化であったし、今もあり続けている。一見すると、両氏の既存の学力についての評価は対立しているように見えたかもしれないが、教師や学校という存在への期待は共通していたのではないだろうか。もちろん、文化伝達の方式と場は変わりつつある。海老澤氏の取り組みは、学校だけでは生き抜けない社会、生涯学習社会における公教育の可能性を示唆するものであった。既存のあらゆる枠組みが不安定さを増す中で、それでも日々の教育実践を作り続ける公教育は、この問題にどのように向き合い、個と世界をつなぐのか。教育目標・評価の検討は、それを可視化し、議論の俎上に乗せる役割を果たすのではないかとも思われる。
本シンポジウムは、このような趣旨からもオープンエンドな終会となった。あまり学会然とした雰囲気でもなかったように思う。報告者の趣向を凝らした発表には、クイズあり歌ありと、しばしば笑い声も聞かれるほどの和やかさであった。また、開催校である東海大学の教育学内外の教職員及び学生を含む一般参加もあった。それゆえ、参加されたそれぞれにおいて、「自分事」としての論点が喚起されたのではないかと思われる。本学会の結成趣意書にもあったように、教育に関心を持つさまざまな人が教育目標・評価を軸として集う「開かれた」会として役割を果たすことができていれば幸いである。
文責:菊地愛美(東海大学)