テーマ:
教育目標・評価研究の視点から過去を振り返り、
未来を見据える
2024年6月15日(土)10:00-12:00
於:Zoom
登 壇 者:鋒山泰弘会員(追手門学院大学)
質 問 者:本所恵(金沢大学)、菊地愛美(東海大学)
コーディネーター:二宮衆一(和歌山大学)
2024年6月15日(土)の10:00から12:00、「教育目標・評価研究の視点から過去を振り返り、未来を見据える」と題した中間研究集会をオンラインにて開催した。参加者は約40名であった。
この中間研究集会は、学会30年の歴史を振り返る企画として一昨年から開催されてきた企画の第三弾となり、前学会代表理事でもある鋒山泰弘会員(追手門学院大学)に登壇いただいた。鋒山会員には、第一弾の中間研究集会にて田中会員から提起された教育目標・評価論の課題も念頭におきつつ、教育学研究の発展や教育実践の創造において教育目標・評価学会が果たしてきた役割や教育目標・評価論の課題などについて語ってもらった。その後、本所恵会員(金沢大学)と菊地愛美会員(東海大学)から質問やコメントをもらい、応答をしていただいた。以下、当日の発表と議論の様子を報告する。
1.労働能力の基礎としての「到達目標」(とその「(診断)評価法」)を明らかにすること
鋒山会員からは「教育目標・評価研究の視点から過去を振り返り、未来を見据える ――全国到達度評価研究会での経験を振り返って、考えてみる」というタイトルのもと、大きく分けて7つの課題が報告された。まず第1の課題として報告されたのは、労働能力の基礎としての「到達目標」とその「(診断)評価法」を明らかにする課題であった。この課題は、例えば中内敏夫氏が労働現場における職務に関連する「資格」的能力に着目し、「これを、社会的な価値意識として洗練し、具体的には『学力モデル』論や『到達目標』づくりに生かしていくしごと」として言及したことである。その後、この課題は、沖田弓子氏による「『一般教養診断テスト』をどうつくったか」など、全国到達度評価研究会においても検討されたが、作問が困難であることなどから、今後の検討課題として残されることになった。
鋒山会員からは京都到達度評価研究会・科教協会員のN先生から「義務教育段階で十分に習得できなかった学力で、成人後の『働く・自立する』ために、学び直しが課題となる、最も中心的な学力とはなにか?」という問いかけがあったこと、それに対して労働の現場にて必要となる学力の基準を「透明化」することで、子ども・青年・成人・高齢者の「学び直し」を保障していくことが大切であると応答したことが紹介された。
また、斎藤里美氏の論考(『教育目標・評価学会編学<つながる・はたらく・おさめる>の教育学』日本標準、2021 年)では、耳が聞こえない「ろう者」の子どもを「ろう文化」の担い手として育てようとする実践に着目し、マジョリティ社会で目標とされる「能力」が必ずしも「ある文化の担い手」たちが求める能力ではないこと、むしろ「あるコミュニティの一員となることこそが生の原点」であると指摘し、「いかなる能力の獲得・発現・承認が行われるコミュニティ(生成的なもの)の一員になることを自分は選択するのか?」という探究と結びつく形で、「到達目標・評価」に基づく、 学び(直し)の「見取図」が構想される必要があるのではと鋒山会員は問いかけた。
さらに日本では「目標に準拠した評価」が導入されたものの、以前として評価基準は不透明なままであり、「(透明な)目標に準拠した評価」を押し進めるアメリカとは異なる。ただし、アメリカ社会では横断的・自由労働市場のもと、自己責任の考え方が基本となっており、経済格差や社会的な分断などが今日的な問題となっている。「(透明な)目標に準拠した評価」と「(良い意味で)包摂的な」、かつ「経済的な発展・豊かさ」の実現を維持・発展させる社会制度とはどのようなものか、という大きなテーマも、この課題に関連すると鋒山会員は指摘し、北欧の社会制度について意見を聞かせてもらいたいと、本所会員に質問を投げかけた。
2.新しいライフサイクル、新しい入試制度
全国到達度評価研究会編著『子どものための入試改革―「選抜」から「資格」へ』(京都法政出版、1996年)の中で指摘されているように、日本にも「学校歴社会」とは異なる「資格の社会」の水脈が存在しており、中内は「偏差値・選抜型入試に代わる到達度評価・資格主義入試」として学校教育制度の中に位置づけようとした。
鋒山会員は、この点についてフランスの教育を研究している細尾萌子氏に「なぜ日本では大学入学試験の資格試験化は行われないのか?」と尋ねたところ、大学教育が大衆化した日本を含む先進諸国においては、資格の有無だけで大学入学者を決定することは困難であり、何らかの振分けのしくみが必要であること。とはいえ、大学教育の質保証の観点からは、資格試験は有効であり、選抜のためではなく接続のための資格試験がこれからは求められるのではないかという応答があったと紹介された。
また資格試験と到達目標・評価論との関係について、「文化享受できる」「文化的実践に参加できる権利の保障」を到達目標・評価論が支えるという関係になるのではないかという考えが示された。
3.主権をもつその構成員に最低限要求される学力とこれを保障する目標とは
第3の課題は、主権者として最低限要求される学力とこれを保障する目標に関する課題である。鋒山会員によれば、かつて中内氏は到達目標や到達度の評価基準を考えることで、「目立った変化ではなく、目標えらびや教材づくりの次元に具体化されてくると微妙な変化にすぎぬものかもしれない」が、教育を質的に転換する変化がもたらされると指摘した。
この「微妙な変化」について鋒山会員は、木原成一郎氏(広島大学名誉教授)や小泉卓氏(元聖徳大学)に体育教育や美術教育での具体例を尋ねている。例えば、体育教育では、体育の授業目的が「運動の得意な子も苦手な子も体育授業でうまくなることができるという能力観を育てることに」変化する中で、「ここまで引っ張り上げる授業」(教師が設定した目標を、子どもがつまずき乗りこえる過程で子どもの学習が成立する)から「場を提供して押し上げる授業」(子どもたちを、ひっぱりあげてうまくするのではなく、適切な場を提供して支えていけば、自分たちでうまくなっていく)へと変わり、教育内容も「体育科の教育内容をスポーツの競争の過程の競い合いの実態である運動技能の習得」だったものが、「体幹部を意識的に操作すること」といった、運動種目を超えた教育内容へと変化してきていること。そうした変化の具体例として体の動かし方の内的感覚を子どもに体験させる教材「ねこちゃん体操」が広まっていることが紹介された。
4.自治体の構成員の運動としての到達度評価というとらえ方について
到達度評価・目標運動は、革新府政下にあった京都で生まれた。その意味で、自治体構成員の間に発生した、生活を守り発展させる地域自治体の住民運動という意味合いを持っていた。そのことは理解できる一方で、個人としての実感としては、京都で育った自身の生活体験とそのことが結びついてこなかったと鋒山会員は述べた。
そして、遠藤光男氏による「小学区制」をめぐる議論を紹介しながら、鋒山会員自らの個人的な経験・印象としては、京都の高校は公立中学校の延長線上にあり、義務教育以降の学力保障の問題(とりわけ、進路選択に応える教育目標設定)にどのように応答していくのかについては到達度評価は十分に対応できていなかったのではないかと述べた。
また1970年代到達度評価が提起した「学力評定」は、本田由紀氏が述べるメリトクラシーを弱毒化するための「水平的多様化」の提起と「通底」しているのではないかとも述べられた。さらに小熊英二氏の分析を紹介しながら、1970年代前後に生まれた京都における到達度評価や高校の小学区制の導入は、「閉じられた競争」が到来する前に訪れた「もっとも格差の少ない時期」という時代背景に支えられていたのではないかとの意見も述べられた。
5.ディスカッション・質疑応答
第5の課題として鋒山会員が指摘したのは、ドメイン準拠の到達度評価の実行可能性という課題であった。評価の指導機能の強化をうたい、教科内容の分析と多数の評価項目の列挙は、特に小学校教師に大きな負担感をもたらしたのではないか。学習指導要領・検定教科書にもとづく到達目標作りは、ともすればドメインの細分化を招き、その評価を教師は担わなければならなくなった。ドメインを関連付けてみる評価方法や後の学年での包括的な概念の習得と結びつけて、到達を捉え直すなど、評価の工夫が必要であった。言い換えるならば、単元の到達目標を関連付けて、統合的な理解をめざすことで、細分化した到達度の階段モデルではなく、統合的・発展的に指導と評価基準を捉える必要性があったのではないかと鋒山会員は指摘した。
6.「すべての子ども」という到達度評価の運動スローガンに対する障害児教育研究からの批判への応答
第6の課題は到達度評価の運動スローガンに対する障害児教育研究からの批判にどのように応答するかである。例えば、窪島務氏は著作『発達障害の教育学』(文理閣、2019 年)において「一般教育学」=「多数者教育学」となっており、「多数者教育学の有効射程範囲は『通常学級』の子どもの6割から7割程度であろうとみ」、残りの3割程度の何らかのサポートや特別な配慮を必要とする子どもたちを含み込んだ理論と実践を展開してこなかったのではないか、言い換えるならば個々の子どもの発達的多様性を十分に考慮してこなかったのではないかと指摘している。
到達度評価では、「子どもの6割から7割」を8割から9割に引き上げようとしてきたが、残り1割の子どもたちの学力保障をどのように担っていくのかは課題として残されている。漢字の指導をどのように行なっていくのか、遠山啓氏が提起した「原教科」の評価などを手がかりに、この課題を若い研究者に担ってもらいたいと期待の言葉を投げかけられた。
7.<教育>の「内部矛盾」と教育目標・評価基準としての「よくわかる・できる」(エクセランス=卓越性)をどう構想するか
鋒山会員から提起された最後の課題は、教育が持つ「内部矛盾」を見つめながら、教育目標・評価基準としての「学力の発展性」「高次の学力」をどう構想するのかという問いであった。鋒山会員は、まず長谷川裕氏の「<教育>の誕生、内部矛盾、死滅あるいは内部矛盾からの脱却:中内敏夫の所論の検討」(『教科外活動と到達度評価』第24号)を引用し、資本主義体制下にある教育が持つ矛盾について言及した。
その上で、「学力の発展性」「高次の学力」の意味を問うこと、「知識・技能を使いこなすこと」や「 有能さ」とは何を意味するのか、すなわち「有能さ」の社会的意味や責任について考えることや、個人が能力を獲得・所有するということの倫理的問いについて深く考え る必要があるのではないか。そうした問いと結びつけ、かつ「学力と人格」というテーマでこれまで追究されてきた研究に学びながら、教育目標・評価基準をどのように構想するかという課題があると、提起された。
8.本所会員と菊地会員、参加者との応答
本所会員からは、スウェーデンの人たちは「学ぶことは社会のためでもある」「学ぶことは社会的な活動」と捉えているとの応答がまずあった。また成績に対する意識の違いも存在し、自分で目標を決めることが大切にされているなど、日本との違いが述べられた。その上で、鋒山会員に対して「透明性」とはどのような意味か、総括的評価と形成的評価の区別が日本では曖昧でないのかなど質問が投げかけられた。
菊地会員からは、高校三原則について、小学区制があったからこそ到達度評価が花開いたと考えられるが、総合制については理論と実践共に進んでいかなかったのではないか、総合制こそ議論を行なっていくべきだったのではないかと感じるとの応答がなされた。その後、総合制がどのように京都の子どもや保護者に経験されたのか、学会の成立までの30年間をどのように時代区分し、どのように評価するのかなど、鋒山会員の報告に対する意見と質問が出された。
本所会員と菊地会員の意見や質問に対して鋒山会員は、目標準拠型評価の目標を具体的に明らかにしていく、つまり到達すべき学力の水準を具体的に明らかにしていくこと、そして労働市場においてはジョブ型雇用や職業資格のようなかたちでの透明化を「透明性」と捉えているとの応答があった。また総合制を議論すべきだったという菊地会員の主張には同意しつつ、総合制のカリキュラムをどう作っていくのか、特に現在の課題に引き付けるならば、大学受験のためではなく、普通教育の教養という意味での学びと生徒の個性的な進路選択の基礎となる学びの統合を実現するカリキュラムをどう作っていくのかが課題になっているのではないかとの応答があった。また、30年の歩みについては、到達評価研究会の学会版にはしないということであったが、学会発足から10年程度は到達評価研究会と類似していたと感じる。けれども、目標に準拠した評価が国に取り入れられ、真正の評価論が提起されて以降は学会としての独自色が出てきたのではないかとの応答があった。
参加者からは、労働能力の基礎としての到達目標を明らかにすることと、コミュニティの一員となることとの関係をどのように考えるのか、コミュニティによって基礎となる到達目標は異なるため、両立することが難しいのではないのか、コミュニティそのものを維持するための共通性が、そもそも現代の日本社会の中では揺らいでいるように感じる、日本では目標準拠を透明化することがなぜ進まないのかなどの質問が出された。
(文責:二宮衆一)