第30回大会(2019年12月7日~8日)
於:京都府立大学
学会第30回大会を終えて
大会実行委員長 長谷川 豊(京都府立大学)
2019年12月7日(土)・8日(日)の2日間にわたり、京都府立大学において教育目標・評価学会第30回大会が開催されました。大会実行委員は、徳永俊太会員と細尾萌子会員、実行委員長は、長谷川豊が務めました。大会当日は130名の方々にご参加いただきました(会員86名、臨時会員33名、公開シンポジウムのみ11名)。
大会は、初日に2つの課題研究が行われ、夕方より稲盛記念会館内のレストランにて懇親会を開きました。2日目には、5分科会に分かれて20件の自由研究発表がありました。各分科会4件の発表となり、どの分科会も熱心な議論が展開されました。その後、総会と公開シンポジウムが行われました。
課題研究では、2つのテーマを取り上げました。課題研究Ⅰでは、「観点別評価を授業改善とどうつなげるか」(司会・コーディネーター:岸本実会員・赤沢早人会員)をテーマに、石井英真会員から「教育評価論の立場から――日本型『観点別評価』の問題」、木原成一郎会員から「教科教育論の立場から(小学校体育科を例にして)」、そして大阪市立本田小学校の銭本三千宏校長から「本田小学校の教育実践報告」という題目でそれぞれ報告がなされました。
課題研究Ⅱでは、「道徳教育における目標・評価をめぐる課題と展望」(指定討論者:大津悦夫会員、司会・コーディネーター:小林千枝子会員・川地亜弥子会員)をテーマに、河原尚武会員から「戦後道徳教育における目標・評価論の展開」、荒木寿友会員から「資質・能力と道徳性の関係――『活用する力』をどう捉えるか」、そして本田伊克会員から「道徳教育の目標と評価を問う――民間研からの提起をふまえて」という題目でそれぞれ報告がなされました。
また、公開シンポジウムでは、「貧困・格差から学校教育の目標・評価を問い直す」(司会・コーディネーター:長谷川豊会員・鋒山泰弘会員)をテーマに、江口怜氏(和歌山信愛大学)から「貧困と向き合う学校教育実践史――戦後夜間中学の事例を中心に」、前比呂子氏(追手門学院大学)から「反貧困を教育目標に据えた学校経営」、そして末冨芳氏(日本大学)から「学校教育は子ども・若者のウェルビーイングに取り組めるのか?」という題目でそれぞれ発表がなされ、議論を深めました。
30周年の記念にふさわしく、多数の参加があり、盛会のうちに終えることができました。無事大会を終えることができましたことを心より感謝申し上げます。本学会の発展と会員の皆様のますますのご活躍を心よりお祈りいたします。
【課題研究1】
観点別評価を授業改善とどうつなげるか
報告者:
教育目標論の立場から――日本型『観点別評価』の問題
石井 英真(京都大学)
教科教育論の立場から(小学校体育科を例にして)
木原 成一郎(広島大学)
本田小学校の教育実践報告
銭本 三千宏(大阪市立本田小学校)
司会・コーディネーター:岸本 実(滋賀大学)・赤沢 早人(奈良教育大学)
(1)課題研究の趣旨
司会・コーディネーターの岸本会員より趣旨説明があり、3名の報告者が20分程度の持ち時間で報告を行った。
(2)第1報告の概要
第一に、石井英真会員が「教育目標論の立場から―日本型『観点別評価』の問題―」をテーマに報告を行った。現代日本におけるカリキュラムと評価の動向の概括を行った上で、「児童生徒の学習評価の在り方について(報告)」のポイントを、(1)観点別評価の徹底と再構成(一体改革と一貫改革)、(2)評価観の転換に向けて(判定ベースからコミュニケーションベースへ)と整理。その上で、評価や指導の煩雑化の懸念として、指導の評価化にかかわる問題点を指摘した。
石井会員は、指導の評価化の回避のため、「観点別評価」のそもそもに立ち戻るべきであるという。観点別評価は、行動目標論を基礎にする目標の明確化によって、学力の「質」を見取る手立てである。しかし、元来の観点別評価は、毎時の目標・指導の規準としてではなく、単元レベルでの規準である。また、とりわけ日本の「観点別評価」は、情意の観点を含むものであるため、プロセス評価が無限拡大し、煩雑化した結果、評価材料集めのための授業になる危険性を有している。日本型「観点別評価」の問題点を乗り越えるためには、これらへの配慮が必要であると述べた。
さらに、現実世界の真正の活動では、実力は「舞台」で試され、「舞台」は豊かで「練習」は地味であるにもかかわらず、学校はその逆(すなわち、「練習」に相当する授業が豊かで、「舞台」に相当するテストが貧弱)の状況が起こっているとし、豊かな授業に見あう、豊かなテスト(評価場面)を開発する方向性を示唆した。
新しい3観点については、まず、評価の問題=目標の問題として、資質・能力の3つの柱との対応関係で考える一方で、3つの柱は、要素的にとらえられるべきではなく、三位一体のものとしてとらえ、むしろ学力の質を問うべきであると主張した。
(3)第2報告の概要
第二に、木原成一郎会員が「教科教育論の立場から(小学校体育科を例にして)」をテーマに報告を行った。2019年に改訂された指導要録から、(1)観点が3つに斉一されたこと、(2)観点別評価と評定と並べて記載するように様式が変更されたこと、が顕著な変更点であると整理した。さらに、観点別評価の「思考力・判断力・表現力」を、従来の3つの観点である知識・スキル(技能)・態度がより合わさった状態のコンピテンシーとして理解することの重要性を指摘した。
次に、体育科の事例として、フラッグフットボール(小3)を紹介した。本教材は、改訂版タキソノミーの2次元マトリックスをあてはめると、(1)活動前のルール理解や作成の立案と合意の段階、(2)活動中の瞬時の行動の判断と選択の段階、(3)活動後の作戦の評価と作成の改善の段階と、単元の展開に伴い知識・認知過程のレベルが上がっていく。こうした展開において、子どもたちの知識・スキル(技能)・態度は、バラバラにと言うよりも相互に関連して一体的に発揮されることを指摘した。
また、「主体的に学習に取り組む態度」を観点別評価に持ち込むことについて、「粘り強さ」のような価値は評定すべきではなく、一方で「メタ認知」のような高度な認知過程については、評価の対象とするもののその育成の難しさについて述べた。
(4)第3報告の概要
第三に、銭本三千宏氏が「本田小学校の教育実践報告」をテーマとして、勤務校である大阪市立本田(ほんでん)小学校での評価実践を報告した。学校現場では、授業改善の必然性が叫ばれる一方で、年齢構成のアンバランス化や急速な若年化など、職場環境の変化にさらされている。こうした中、子どもの学習観にも変容が見られ、勉強離れがさらに進行している。かかる時期だからこそ、銭本氏は、真正な学びに立ち戻る授業研究を行っていく必要性があると主張する。とりわけ、教育活動の目標(ゴール)の捉え直しが重要である。
銭本氏は、観点別評価を授業改善に生かすため、
次の3点を意識した取組を進めている。
ひとつは、「逆向き設計」による単元・授業づくりの視点である。逆向き設計論にもとづく単元設計のテンプレートを用いながら、音楽科を例にあげて、単元開発の実際が詳細に報告された。
ふたつは、職能成長と研修・研究の視点である。教員が新たなことに挑戦するとともに、得意分野を生かした公開授業を重ねていくことが重要である。かかる取組を通じて、職場におけるリーダーシップ、ヴィジョン、同僚性、雰囲気が醸成されていくという。
みっつは、教員の学習環境の整備の視点である。新しいことに挑戦しようとするためには、教員がエネルギーを充填する必要がある。それが授業改善の動力となる。また、外部の専門家を招き、新たな風を校内に吹き込むことが欠かせない。こうした条件整備が学校長の職務であると述べた。
(5)議論
報告ののち、報告者とフロアとのあいだで協議が進められた。フロアからのおもな指摘と報告者の応答は、次のとおりである。
(1)銭本報告の実践上の課題について
→「理解をもたらすカリキュラム設計」をベースにする場合、各教員が単元末の子どもの姿を明確に想定しないといけないことや、観点別評価の目的が、子どものアラ探しではなく、そのよさを幅広くとらえて、児童の理解の仕方と自らの指導の改善に生かしていく方向に結びつけることにあると教員が理解することに課題がある(銭本氏)。
(2)木原報告の改訂版タキソノミー活用の複雑さについて
→実践場面における「解像度」の問題であろう。「要素」という見立てより「階層」という見立てを大事にするべきではないか。また、部分の総和は全体にならないことにも留意すべき(石井会員)。
→授業者の単元計画は知識・内容ベースで行われ、一方、授業途中の授業者や支援者の単元過程の形成的評価や単元後の総括的評価は資質・能力ベースで行われる。教育実践の現実において、評価の規準と方法をうまく「運用」できるような教師たちの力量を育てるように支援することが重要(木原会員)。
(3)学校現場における観点別評価の活用について
→評価は「子どもを好きになる」ための道具であるという理解を教員に促すことが重要(銭本氏)。
→教育目標・評価に関する教育行政の意向は厳格におりてくるが、学校現場にあっては、目標・評価の計画を「させられる」のではなく、実践に役立つようにやりくりしてうまく「凌ぐ」すべを(木原会員)。
→現場の手に目標設定権を取り戻すべきである。評価は子どもが「見える」ようになるためのツール(石井会員)。
(4)来年度からの年間指導計画の作成について
→まずは無批判な前例踏襲はやめるべき。習得しなければならない知識・技能はおさえつつ、実現可能で児童が学びの実感を持つことのできるゆるやかな指導計画を(銭本)。
記録・構成:赤沢早人(奈良教育大学)
【課題研究2】
道徳教育における目標・評価をめぐる課題と展望
報告者:
戦後道徳教育における目標・評価論の展開
河原 尚武(元・鹿児島大学)
資質・能力と道徳性の関係 ――『活用する力』をどう捉えるか
荒木 寿友(立命館大学)
道徳教育の目標と評価を問う――民間研からの提起をふまえて
本田 伊克(宮城教育大学)
指定討論者:大津 悦夫(元・立正大学)
司会・コーディネーター:小林 千枝子(作新学院大学)・川地 亜弥子(神戸大学)
(1)課題研究の趣旨
最初に司会の川地より、特別の教科道徳について、来年度の指導要領完全実施を前に、子どもたちの生活や他教科・領域との関係をふまえ、道徳に関する教育目標をどのようにとらえ、設定し、実践に生かし、評価していくのかが問われていると考え、今回の課題研究を設定した旨説明があった。
(2)第1報告の概要
河原会員からは、以下のような提案があった。
道徳の教科化の是非について持続的に検証することが今後の道徳教育のために必要だ。「教科への転換が必要」という議論で共通しているのが、生活経験の話し合いや登場人物の心情の読み取りに偏っているとか系統性計画性も「欠けていた」、というものだ。しかし、読み物教材は今も主流であり、「道徳の時間」の中で積み上げてきたものの何が不十分だったのかを問わなければ、繰り返しに終わるのではないか。
「道徳の時間」の中で積み上げてきたものは多く、系統性計画性も「欠けていた」と言われているが、学校で全体計画をもつことは今や当然とされている。
カリキュラム構成論から見ると、「自由研究」や「総合」の系譜を含んで、教科・教科外の連関を明らかにすることが、新しいカリキュラムを考えるうえで重要だ。道徳の時間は、「時間」として、ささやかな自由度がありながら今日の形を生み出したのではないか。
むしろ徳育の教科化という点では、1958年の特設道徳以上に教育界として応答があるべきだった。本質的に教科とは何かという問題は残されたまま、評価の導入に備える議論が進み、教育実践論としていかに総括するのか、という議論も不足している。
目標と評価の問題では、「道徳の時間」で長年なじんできた「補充・深化・統合」、また、「道徳的実践力」も表現を変えた、ということだが、そのような説明で十分なのか。価値理解と行動の距離を短くするという考え方があったのではないか。
学習指導要領の基調はほぼ同じだ。評価についても、教科における学習の評価とは異なるという位置づけは変わっていない。観点別評価ではなく総合的に評価するという扱いを継承し、個人内評価を採ることになった。ただし、道徳的諸価値の理解をもとに、という点をどう解釈するのかが明らかになっていない。
行動の記録の各項目は、ほとんど道徳の内容と一致しているが、指導要録の扱いについても慎重な姿勢が求められる。
教科外活動から道徳が分離する時点で、特別教育活動と道徳の関係をどう考えるのか、という課題はすでに提起されていた。道徳という枠の中で見るのか、教科外領域を含む広い視野で考えるのかは重要である。「観点別評価からの自由・道徳的価値の理解という基準」をどう位置付けていくのか。自然な評価と応答によって進める方がよいのではないか。
(3)第2報告の概要
荒木会員からは以下のような提起があった。
道徳の教科化への流れを見ると、2014年10月中教審で決まった。2014年はまだ2017版学習指導要領の諮問が始まったばかりで、学習指導要領の一部改正がなされた2015年3月の段階では、まだ「論点整理」もなされていなかった。この時期のずれは大きな影響を及ぼしている。道徳の指導要領の根本はあまり変わっていない。道徳性をどうとらえるかというと、心情と判断を入れ替え、実践力が消えたくらいではないか。
2013年懇談会で「多角的・批判的に考えさせたり、議論・討論させたりする授業を重視することが必要であろう」が「考え」や「議論」の初出である。「批判」は消えて、「多面的」「多角的」が残った。「批判」は非難するという意味でとらえられるということでなくなったのではないだろうか。
道徳科の目標は、通常の教科の目標とは違う。「自己を見つめ…学習を通して」と学習活動が書いてある。判断力、心情、実践意欲と態度は書かれているが、道徳的行為は含まれていない。最も問題なのは、道徳性を養うために道徳性を育てるという同語反復になっていることである。学校教育全体を通じて行う道徳教育によって育成する道徳性と道徳科で育てる道徳性は何が違うのか。
「3つの柱」は入っておらず、どう結びつけるのかは専門家会議で議論された。学習活動と対応させるためにまとめてしまった点が問題である。教科では、「どう使うか」という活用する力は、思考力、判断力、表現力等とほぼイコールと考えられるが、道徳教育は「どう使うか」は思考力判断力表現力とイコールなのか。「どう使うのか」は何を指し、どこまでを射程にするのかが不明であり、大きな問題である。
むしろ、キャリア教育との重なりから考える方がよいのではないか。自らの生き方を育んでいくこと、「よりよく生きるということを考える」ということは、キャリア教育と重なっている。ただし、部分としては正しいように見える行いでも、目標が問題だと全体としても問題が生じる。たとえば、話をきいてあげる、承認欲求(を満たす)、という目標が、「振り込め詐欺」でも掲げられている。よりよく生きるためにということが重要である。こうした問題意識を持たないと、道徳的技能(スキル)獲得授業、道徳的行為のみの授業(訓練)が横行するかもしれない。
学びに向かう力と人間性を無理にまとめていることも問題である。道徳科においては人間性を育てていくために知識も必要である。情意そのものや、全体を俯瞰するメタ認知も扱う必要がある。同語反復になってしまうのではなく、こういう力を、と明確にすることが重要だ。
(4)第3報告の概要
本田会員からは以下のような提起があった。
教育科学研究会の道徳と教育部会を中心に報告していくが、自分自身は道徳の専門家でもなく、この部会のメンバーでもなく、その点はご了承頂きたい。教科研に限らず、民間教育研究団体には様々な立場の教師と研究者が参加し、子どものための教育内容と教育実践を構築している。ただし、道徳の問題を1958年から引き続き議論してきたのは教科研のみである。道徳と教育部会の議論は、生活指導ともかかわりを持ちながら展開してきた。子どもの自主的な価値選択と行為の能力を育てることと、人権尊重を基本とする民主的な価値・規範意識を育てること、この両方を統一的に追求してきた。現代の道徳を、人類共生のための規範の到達点と位置づけている。学校の管理運営の民主化の問題、言い換えれば教師と子どもの学び合う関係にも注目してきた。また、学校にとどまらない社会との協同による統一的な道徳性形成にも着目し、特に乳幼児保育の実践を重視している。児童館活動にも注目してきた。「道徳」の時間に道徳をやれという圧力の中で、学校は知育を行い、しかも「道徳化」されない教科指導について研究すべきと考えていた。
「道徳と教育」という部会名には、子どもに培われるべき道徳性の内実とは何か、教育といかに結びつけることができるのか、教育実践を通じてどのように捉え返すのか、それを可能にする評価はいかなるものか、といった問題意識が示されている。子ども像、価値の体系、民主的な道徳性等についても追求すべき課題である。
民間研の道徳教育がとらえるべき課題として、経済文化格差が拡大し、分断・多様化されている状況の中で、道徳の到達点とは何かが挙げられる。教育的関わりのあり方、人類が共通に目標化しうる道徳的価値とはなにか、その価値の実現に向けてどう合意していくかが求められている。道徳教育に固有の目標・内容・評価をどう捉えるか。「目標像としての人間像」のみではなく、村井実が「過程像としての人間像」(1967)と述べたものを今日的に継承する必要がある。国家の提起に対抗的な「目標像」を子どもと共に創りだす過程を展望すべきだ。
研究課題としては、自主性と社会性の相互規定的な関係、集団認識の発達と発達一般に対する集団の機能、共感を通じて自主性が社会性を獲得する基礎を獲得させることなどがある。ヨコへの発達課題として共感を位置づけ、タテへの発達課題としての夢・希望に迫っていくことを位置づけている。夢が現実の悩みを吹き飛ばすことの意味や、夢のもつ力をさらに詰めていくべきであるとされている。
教科研では、道徳の時間の特設、道徳の教科化の動きを批判してきた。道徳教育を特定の授業だけでやることを批判してきた。
生活指導については、教科指導の前提にとどまらず道徳教育のもう一つの筋道としてとらえている。道徳教育において要求と必要は重要なテーマであり、全生研の集団に合わせていく方向よりも、個の要求を重視している。要求をもたない子どもについては、生活から子どもが疎外されていると考えてきており、願いをいかに引き出していくかが重要だとされる。作文・文学・歴史教育の授業の中で道徳性の育成をしていくことや、学級づくりと生活指導に結び付けた実践などもある。
(5)議論
以上の報告を受けて、指定討論者の大津会員から以下のような指摘があった。
目標の話としては、教科化の際に学校教育全体で行う目標と道徳科の目標を区別するとあるが、実際は同じではないのか? それも教科化の一つのねらいなのか。「行動の記録」もあるので目標の区別をしてもらいたい。
よりよく生きようとするとはどういうことなのか。「解説」では国のためによりよく生きることを求める項目が多い。郷土、国家、国際社会、我が国に生きる日本人としての自覚、などが出てくる。勤労も、誰かのために働く、とすべてに入っている。よりよく、とあり、今の状況を肯定していない。批判、考える道徳と関わると思われるが、自覚的に追求しなくてはいけない。
もう一つ、本当に教科と呼べるのか。教科は、どんな条件のもとでも、教えたらできるようになることを前提にしている。しかし、道徳は状況によって変わる。いじめは徳目を知らないから起こるのではない。
指導の問題としては、教科書は読み物教材が主で、35単元ある。つまり、1単元1授業の設計だ。次の授業に生かすための評価をするはずなのに、その内容が1回で終わるのでは評価が役に立たない。教科書掲載の読み物そのものにも課題があり、生活実感がないものがある。たとえば「手品師」は、男の子の生活が分からず、手品師の成育歴もつくりもの。考える道徳といっても時間が足りない。
評価の前提は道徳的価値の理解であろう。しかし、評価になると価値の理解について規準を設けることはできないといっている。これは矛盾である。
そもそも、「特別の教科道徳」の学習指導要領解説が、支離滅裂である。
評価としては、先生からの評価は難しいのに、子どもには自己評価をさせようとしている。私学ではさまざまな工夫もできるだろうが、公立では大きな制約がある。
フロアからは以下のような質問があった。
Q1. 教科で科学的認識、総合・特活で生き方を学ぶ、ということでいいと思う。その一方、道徳の授業でおもしろいものもある。現代に引き継げるおもしろい実践、明日からの実践をつくるヒントになる実践はないのか。ある道徳授業では、一緒の高校へ行こうと約束した恋人同士のうち、一方が自分の夢を追求した方がいいと考えた、という設定でロールプレイをしていた。こうした授業もあるのでは。
Q2. 河原会員の「自然な評価」をもう少し教えてほしい。荒木会員からは、こういう力をと明確にした評価が重要と指摘があり、ここは両会員で違う点だと感じた。
Q3. 現場では、教科書教材を使わないわけにはいかない。保護者から、子どもが援助交際について、「誰にも迷惑をかけずお金を手に入れて何が悪いのか」と言っているがなんと返せばいいか、という相談があった。こういう相談に道徳教育は有効か?
これらについて、以下のような応答があった。
河原会員:道徳の時間の形式は決まってきている。指導主事が「『立派な授業』を見るたびにがっかりする」と発言した(これでいいのか、と)。子どもの心に刺さらない授業という意味だ。「考え、議論する」ことを重視するなら、オープンエンドが基本だろう。教師がどんなふうに意図を組んでいけるのか、そこを研究する必要がある。自然な評価とは1時間の授業の中で議論が落ち着いたところで講話するというイメージだ。評価は応答だと考えている。「道徳の時間」の時代にはあった自由な部分を拡大することが重要だ。親子の間で請求書、動物園を閉園後に見せてあげたら退職処分という無理な流れの教材はおかしい。ノーマン・フィールドは、正義が信じられなくなっている時代にフィクションは重要だと言っている。
荒木会員:読みもの教材中心の道徳になっている実態がある。教科書作成の際に新教材を開発する余裕がなかったのも事実だろう。ジレンマ教材は再び脚光を浴びている。ただし、読み物教材も使い方が重要で、たとえば「雨のバス停留所で」について、マナーを守ろう、ではなく、規則を創りだす、という授業もある。「百万回生きたねこ」を使い、最後は死ぬがハッピーエンドだ、という矛盾をついていく授業もある。評価については、目標と評価の関係を考え、目標に書いてあることに基づいて評価すべきだ。3つの学習活動について先生が扱うことが前提で、子どもの認識が変わったのかどうかを見るべきだ。
本田会員:どの教科にも収まらない道徳性に関わる実践の蓄積もある。北朝鮮に帰った子どもからの手紙に、今の祖国の状況と、「だから自分はこれからこうしたい」と書いてあった。それを読んで、これから自分たちはどうする、と生き方を考える実践などがそうだ。また、「走れメロス」を下敷きにした話について、生徒たちが「こんな王様だめ」と話していても、先生が介入してしまい、自分が考えていた方向(友情)に持っていくことがあった。複数の価値項目の間を行き来する過程も保障されるべきだ。モラルジレンマ教材は、そもそも2項対立するものでない事項の間での葛藤が想定されていたり、ひとのことと個人の都合のどちらを優先するかという対立に解消されてしまっていたりするものが多い。
大津会員: 読み物だけでは価値は教えられないので、事実等を指導することは重要になると思う。日本国の課題を考えるときに食糧自給率を教えるなど、つながるものが重要だ。総合学習も重要で、子どもが変わっていくという報告もある。「総合的な学習の時間」の蓄積は大きいのではないか。
文責:川地亜弥子(神戸大学)
【公開シンポジウム】
貧困・格差から学校教育の目標・評価を問い直す
シンポジスト:
貧困と向き合う学校教育実践史――戦後夜間中学の事例を中心に
江口 怜 (和歌山信愛大学)
反貧困を教育目標に据えた学校経営
前 比呂子(追手門学院大学)
学校教育は子ども・若者のウェルビーイングに取り組めるのか?
末冨 芳 (日本大学)
司会・コーディネーター:長谷川 豊(京都府立大学)・鋒山 泰弘(追手門学院大学)
(1)企画趣旨
本シンポジウムは、「格差・貧困をめぐる問題に対処するためには、学校は学力を保障するだけでなく、ケアと承認の場に組み替えてゆく必要がある」という主張と実践がなされている中で、「子どもの貧困・格差をめぐる問題をどのように捉えるのか、その捉え方の違いは教師の仕事にどのような違いを生むのか」という問題意識のもとに報告と議論を行うことをねらいとした。
(2)第1報告
江口怜氏(和歌山信愛大学)からは、「貧困と向き合う学校教育実践史―戦後夜間中学校の事例を中心に―」というテーマで報告をしていただいた。江口氏は、教育史研究の立場から、事例として夜間中学校(主に1950~60年代)を取り上げ、夜間中学校がいかに貧困と向き合ってきたかについて報告された。
夜間中学校が貧困と向き合う時に、福祉的機能とともに、「統治性」の問題が切り離せなかったことを、京都市の事例とその中心的役割を果たした社会福祉学者寺本喜一の学校社会事業論をもとに説明された。当時の夜間中学校の教師たちは、複合的困難を抱えた生徒たちに対して、「生活指導」や「ガイダンス」の名のもとに、生徒たちに対して、家庭訪問、病院への付き添い、家庭裁判所訪問、職探し、生活保護の手続きの支援等の「教育福祉実践」の模索が行われた。しかし、他方で、青少年の非行・不良化の早期発見、未然予防という関心への傾斜や警察との連携もみられ、一部の生徒を「異常児」と表象し、その「感染」を防ぐという表現もみられたことは「統治」の場として学校観が根強く残っていたと考えられる。
次に、東京都荒川区の夜間中学校の教師であった塚原雄太における貧困認識の転換と権利論が検討された。塚原が、親の語りに触れる中で、啓蒙主義的まなざしからの貧困認識を転換し、生存権と教育権の価値へ気づいて教育実践・運動に取り組むようになったことが紹介され、教師の「生徒の理解しがたい生活現実への想像力と、他者性を尊重する姿勢」が、学校を統治の場として意味づける言説(例えば、「不良化・非行防止」)からの離脱を可能にしたのではないかと考察された。
以上のような夜間中学校の歴史の事例は、貧困と向き合わざるを得ない学校であったため、通常の義務教育学校がいかに貧困(及び関連する諸差別)と向き合ってこなかったかを可視化してくれると江口氏は指摘し、そして荒川九中の塚原の教育実践の基盤にある「子どもや親が既に生きている現実への接近」「理解しえないものへの想像力」が、貧困問題への学校の対応が「統治」ではなく「生存権の保障」としての取り組みに転換するために、鍵となったのでないかと指摘された。
(3)第2報告
次に、前比呂子氏(追手門学院大学)からは、「『反貧困』を教育目標に据えた学校経営」というテーマで報告をしていただいた。前氏は、2006年から2009年までの3年間、大阪府立西成高等学校校長として反貧困を軸にした学校経営をどのように進めたかを報告された。西成高校では、「想像の範囲を超えていた授業料減免率」と中退率の高まりなどの現状と課題の把握を基に、「格差の連鎖を断つ」を学校目標に掲げ、そのために生徒に「学力を伸ばす」「人とつながる」「将来ビジョンを描く」「規則を守る」という4つの力を生徒に身に付けさせるキャリア教育のカリキュラムが立案、実施された。
1年目は、反貧困の観点に立ったキャリア教育の基本確立が行われ、「学校のやる気」を発信し、地域との信頼関係の再構築が目指され、学校内の組織では、中期ビジョンの下に方針が出せる組織づくりが行われ、特に「教員が生徒と向き合う時間を確保するための機動的な組織づくり」が取り組まれた。
2年目は、西成区6中学校、地域連携の再構築の場としての「西成教育フェスタ」開催や「地域まるごとエンパワー事業」の一環として「ふれあい農場パーク」の建設が取り組まれた。
3年目は、進路実現につながるカリキュラム改編として「ITビジネスエリア」と「人文・理数エリア」の設置が行われた。
以上のような貧困・格差の連鎖を断つという観点にたち、進路保障と一体化したキャリア教育を具体化していくことで、同校の就職内定率を飛躍的に伸ばす成果をあげることができた経験を報告された。
また、とりわけ「女性の貧困」に端を発する「貧困の連鎖」を断つために、「要保護児童対策地域協議会」など地域連携による、早期発見、状況把握、支援体制のネットワークづくりが欠かせないこと、校内では「ケース会議」を行い、チームとして生徒を支える体制づくり、そして、不登校・中退防止、孤立化の防止のための「校内での(生徒の)居場所づくり」が「学校にできること」であると報告された。
(4)第3報告
最後に、末冨芳氏(日本大学)からは、「学校教育は子ども・若者のウェルビーイングに取り組めるのか?」というテーマで報告していただいた。末冨氏は、子どもの貧困の定義・測定に関わって、家庭の低所得など経済的指標で考えるのではなく、子どもの幸せ(ウェルビーイング)が満たされていない状態として多元的に測定・把握する国際的な動向の意義について述べられた。
次に、改正子どもの貧困対策法・大綱の内容の意義を述べられ、有識者会議にみる改革プロセスの大きな特徴について、高校生の声、ひとり親の声を聴いた有識者会議の提言が反映されたこと(改正法第8条第4項で「大綱作成は、子どもや保護者、学識経験者、支援者の意見の尊重」が追加)に触れられた。ただし課題としては、「所得の再配分の強化」規定が盛り込まれなかったことを指摘された。
以上のような貧困対策法・大綱の改革の前進にもかかわらず、教育政策が貧困・格差を可視化できない問題点について、全国学力・学習状況調査と子どもの貧困指標をめぐるエピソードに言及しながら指摘された。例えば、平均点主義と呼べるような指標の重視やランキングに注目が向く傾向から脱却できない文部科学省の政策スタンスが批判された。
最後に、「学校教育は子ども・若者のウェルビーイングにとりくめるのか?」について、「子どもの貧困対策法改正は学校教育に対して何を促そうとしているのか?」「子どもの貧困対策における政策の頑健性と教育政策の脆弱性」「能力からウェルビーイングへの政策目標ウェイトの転換がなぜ必要か?」という観点から述べられた。とりわけ、教育政策の根本的な課題として、「学力・能力の政治性・権力性の問題」(「貧困の罪悪視」をする社会では、貧困は能力(学力)がない個人が罰せられているととらえられてしまう「学力重視政策自体の排除性」等)を教育関係者が自覚し、「ケアする学校」「学校内居場所づくり」「若者に寄り添う教育や福祉現場の実践」から学び、「子ども・若者が『達成』(Achieve)することとは何なのか?の本質論からの学校教育の在り方(目標や評価だけでなく、文化も)の問い返しが、子ども・若者を大切にできる公教育につながるのではないか?」とまとめられた。
(5)質疑応答および議論の論点
フロアからの質問にもとづく質疑で焦点となったのは、「学力・能力」という学校教育目標観を批判的に捉えなおし、ウェルビーイングやケアの観点から「学校の役割」を再定義する場合に、「子ども若者の『変容』についてどう語れるのか?」ということであった。末冨氏からは、居場所づくりや学習支援の取り組みをもとに、「ケアと安心を子ども・若者に保障することで生まれる変容のメカニズム」「幸福追求権の中での学び」「変容の対象である子どもにとって、その変容とはどのように意味づけられたのか」等を捉えられる「教育の語り」が求められていることが回答された。前氏からも、困難を抱えた若者との「対話」のプロセスから生まれる「変容」を語ることの重要性が述べられた。江口氏からは、夜間中学校の実践で「学力の中身」として、「なぜ学ぶのか」について「自分自身の生い立ちと尊厳」にもとづいて考えられることの重要性が指摘された。
「貧困・格差」という問題を取り上げたシンポジウムであったが、3氏のリアリティのある報告内容によって、「学校教育の役割と目標についてどのように語ることが今求められているのか」という問いをめぐって、参加者に大いに刺激を与えるシンポジウムとなった。
(文責:鋒山泰弘)