第33回大会(2022年12月3日(土)〜12月4日(日))
於:神戸大学大学院人間発達環境学研究科B棟
学会第33回大会を終えて
大会実行委員長 渡邊隆信(神戸大学)
大会事務局長 川地亜弥子(神戸大学)
2022年12月3日(土)・4日(日)の2日間にわたり、神戸大学において教育目標・評価学会第33回大会を開催しました。少し寒い日でしたが、両日ともに天候に恵まれ、111名の方々にご参加いただきました。3年ぶりの対面学会ということもあって、多くの人に無事お出で頂けたことに安堵しております。大会ウェブサイトは前回大会校の福井大学の遠藤貴広理事より譲りうけたものを活用しました。
大会は、初日に2つの課題研究を行いました。残念ながら懇親会は開催できませんでしたが、神戸大学院生が駅前飲食店マップを作成し、ご参加の皆様に配布しました。それぞれに親睦を深めてくださったことと思います。2日目には、10件の自由研究発表、総会、公開シンポジウムを行いました。
大会実行委員会は本学の学会員を中心に組織し、当日の運営は11名の学生・大学院生(3名の会員含む)にお願いしました。労いの言葉もたくさんかけていただきました。ご参加いただいた会員の皆様のご協力に感謝いたします。
本大会では、課題研究Ⅰで観点別教科の原理的検討を通して数学・国語・社会科それぞれの固有性と、教科の区分を超えた観点設定の是非が議論されました。課題研究Ⅱでは、well-beingの観点から、学校・学級が子どもと共にwell-beingを作り出すような場になっているかどうかが吟味されました。2つの課題研究で、教科を横断し、学校と学校外の生活を架橋した議論が行われました。自由研究発表も興味深いテーマで報告が行われました。自由研究発表には入ることが叶いませんでしたが、各会場で議論を深めてくださったと会場係からきいております。
公開シンポジウムは大会校で企画をたて、戦前から現代、幼児教育から高等教育までの2つの縦軸を通し、本学会で長く議論を重ねてきた学力と、近年注目を集めているコンピテンシー、資質・能力について幅広い議論を行いました。今回、大会をお引き受けするにあたって、歴史にねざし、広い視野で議論できる場を設定したいと願っていましたので、登壇者のみなさまにご快諾頂けて実現できましたこと、心よりお礼申し上げます。戦前の明石女子師範附属小学校についてお茶の水女子大学の冨士原紀絵会員に、現代の初等教育(幼稚園・小学校)における資質・能力の育成とその評価の研究・実践について神戸大学附属小学校の田淵知紗会員・俣野源晃会員に、現代の中等・高等教育については、対話型論証を中心とした取り組みについて京都大学の松下佳代会員に、それぞれご報告頂きました。質疑では、目標や評価の観点、実践の方法を自分たちで開発するところが重要であって他の場所で開発・紹介された方法の使用を「強制」されるとうまくいかないのではないか、資質・能力の観点を立てることは名人芸を読み解く道具として有効ではないか、2年生の1年間の中に発達の節目を見出し一人の教師が指導するとはどういうことか、マトリクス形式の評価項目の提示は目標つぶしの実践を誘発するのではないか等、重要な論点が明らかになりました。
至らぬ点も多々あったかと思いますが、参加者の皆様、学会幹事会、前回の開催校の福井大学の皆様のご助力により、無事大会を終えることができましたこと、心より感謝申し上げます。本学会の発展と会員の皆様のますますのご活躍を心よりお祈りいたします。
【課題研究1】
観点別評価の原理的検討
報告者:
到達度評価研究・実践の歴史から観点別評価の課題を考える
鋒山 泰弘(追手門学院大学)
社会科における観点別評価の批判的検討
川口 広美(広島大学)
国語の学力構造と観点別評価
八田 幸恵(大阪教育大学)
司会:渡辺貴裕(東京学芸大学)
コーディネーター:八田 幸恵(大阪教育大学)
(1)課題研究の趣旨
コーディネーターの八田会員より、趣旨説明が行われた(事情により来場がかなわなかったため、事前に収録した動画を再生)。まず、2019年改訂の指導要録の「観点別学習評価」において教科を共通して示された「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」の3観点に対し、能力の要素と階層が未分化であるという指摘がなされ、各教科における観点の内実、「主体的に学習に取り組む態度」の捉え方、能力観点の妥当性などの問題が提起された。そして、各教科における学力モデルや観点に関する議論の歴史を参照しながら、各教科における観点をいかに立てるべきかを考えていくという、本課題研究の見通しが示された。
(2)鋒山報告
鋒山会員からは、まず、指導要録改訂の歴史的変遷がレビューされ、「評価規準」という用語が「学習指導要領の目標に基づく幅のある資質や能力の育成の実現状況の評価」を目指すものとして導入された経緯があり、「観点別学習状況評価」は、学習指導要領の目標に向かう児童生徒の学習状態の「方向性」をつくりたいという教育政策側の意図の具体化であるという見解が示された。
次に、小学校5年生の算数の単元「平面図形の面積」の「評価規準」(国立教育政策研究所2020年3月)を例に、3観点別学習状況評価の評価規準についての「疑問」が以下のようにまとめられた。①「知識・技能」の観点は面積の(公式の)求め方について「理解する」ことに裏打ちされた「知識・技能」の習得を表現できるように、もっと工夫する必要があるのではないか。②「面積の求め方の理解」にかかわる思考活動のプロセスを表現した内容は、「思考・判断・表現」の観点に書き込まれており、それは「知識・技能」の観点の評価規準と結び付けた方がよいのではないか。③「思考・判断・表現」の観点を、基本的な概念を理解し、技能を習得した上で、それらを活用・応用して、より複雑な課題・問題解決が「わかり・できる」学力として位置づけてはどうか。④「主体的に学習に取り組む態度」の評価規準は、「振り返り」という言葉で、「メタ認知」(自分の学習過程を反省・調整する能力)の評価規準を入れようとしているのがわかるが、書かれてあることは、「知識・技能」と「思考・判断・表現」の観点の評価規準に、「~しようとしている」という動詞を追加しただけであり、そのような評価規準ならば、「主体的に学習に取り組む態度」の評定・評価をする意味があるか。以上の「疑問」に基づいて、3観点を読みかえた評価規準モデル(「平面図形の面積」で例示)が示された。
さらに、1970年代から80年代にかけて、京都府で取り組まれた数学科到達度評価での教科目標の立て方が紹介された。<人格の形成>(情意領域)の教科目標には、「社会において数学の果たす役割を認識し、数学という人類が築いた文化の伝統に参加する意欲と探究心を養うこと。(主体性)」という目標が設定されており、このような方向目標は「認識、技能領域」の学力要素「応用」「適用」について、どのような問題や課題を選択・創造すべきかという教師の思考に影響を与えていたことが報告された。
(3)川口報告
川口会員からは、社会科教育研究の成果を中心にした発表が行われた。発表では、まず社会科においては、国語科や英語科とは異なり、観点の項目(例:「知識・理解」)は成立期より変化がなかった一方で、実践現場においては観点別評価に関する戸惑いも聞かれるというギャップがなぜ起こったのか、どのようにこれを受け止めるべきかという問いが示された。発表は、主に社会科の観点別評価の歴史的経緯から検討するというアプローチであり、関連文献を検討した結果、具体的には3期に分かれるとされた。
第1期では、主に社会科の学力論を巡る論争として現れた。大きく分けると、「知識・理解」を中心にするグループと「関心・態度」を中心にするグループとの対立である。「知識・理解」を中心とするグループは、学問の系統性や科学性を重視し、態度強化に対しての懸念を示した。一方の「関心・態度」を中心とするグループは、態度がない市民的資質育成は行えないとして、授業観察方法やテスト問題開発を行っていた。しかし、第2期では、観点別評価の実態調査が行われ、思考力や判断力といった観点は重視すべきという規範は形成されている一方で、実態は伴っていないということが示された。続く第3期では、こうした理念と実践のギャップを生めるために、多様なアプローチが示された。そこには第1期と同様の学力論の対立があるなか、勢いがあったのが認識論と方法論の統合を測ろうとする試みであった。その発展として、4観点を総合した能力の類型を設定し、類型ごとにテストで測ろうとした梅津正美の試行などがある。さらに、原田ほからの実践では、認識と方法論の統合はめざしながらも、結果の分析として観点を設定し、つまずきや振り返りをみとるといった試みも行われるようになった。
一方、現在の状況では、主に他教科ともあわせて揃えるべきという規範が強く、結果として社会科が重視してきた知識や、公民としての態度形成が学習上の態度に集約されてしまっている。また、高等学校のこれまでの教員文化とは相容れない状況により戸惑いを感じていることも見られてきた。今後は、こうした文化との整合性と共に、各教科の特徴を踏まえた観点別評価が重要ではないかとの提案が行われた。
(4)八田報告(事前収録動画の再生)
八田会員からは、①「部門による観点」とは何だったのか、②本来どのような観点であるべきか、③国語科における評価の対外証明機能、④現行の「三観点による評価」はどうか、という以上4点について報告があった。
①については、なぜ国語科が「部門による観点」だったのかは現在のところ不明であるものの、戦後初期に「部門による観点」が支持されていたわけではなかったこと、また「部門による観点」あるいは「知識・技能・態度」といった観点の双方を相対化するような観点が提案されていたということであった。
②については、読むことの学力モデルの歴史的展開を整理した上で、国語科では少なくとも「テキスト」「言語能力の要素」「認識能力の階層」という3点を念頭に言語パフォーマンスを分析する必要があり、したがって「領域観点か能力観点か」という問いで、国語科における望ましい評価の観点を考えることは困難だということであった。
③については、②と一部矛盾するものの、「テキストの幅や難易度」を学力モデルに位置づけることは是か否かという問題提起があった。すなわち、生徒がうまくパフォーマンスできないとき、生徒とテキストのミスマッチに原因があることが多いため、 指導の改善という文脈においては、「テキストの幅や難易度」は考慮した方がいい。しかしながら、外部の人々は「テキストの幅や難易度」で言語パフォーマンスの良さを推し測ろうとする傾向が強いため、対外証明という文脈においては「テキストの幅や難易度」は実践を拘束する大きな要因になるということであった。
④については、とりわけ読むことに関しては、「知識」「思考・判断・表現」が階層であることが共有されつつあるということであった。
(5)互いの報告に対するコメント
鋒山会員から、川口報告に対して、社会科教育学で「内容と(知識・理解)と形式(思考技能)は一体となったものであり、両者を切り離して捉えられない」という研究系譜に対して、「認識と形式の一体化を踏まえながらも、観点ごとに評価」する研究もあることが理解できた、その上で何のために「分析」するのかが問われてくるだろうというコメントがあった。
川口会員からは、鋒山報告・八田報告を踏まえて、観点別評価の「観点」をテーマなど他に変えることの重要性や可能性もあるのではないかという視点での提案が行われた。現在の観点別評価では、学習状況の振り返りや授業の見直しが難しく、観点をテーマとして設定することで行いやすくなるのではないかという提案である。
(6)質疑応答での論点および議論
まず、西岡加名恵会員から、学力の階層性と評価方法との対応は教科教育の立場からはどう考えられるのか、態度の観点を教科教育の立場から見て積極的に位置付けられる可能性はあるのかといった問いが投げ掛けられた。
鋒山会員からは、学力の階層性と評価方法との対応に関して、「思考・判断・表現」に限らず「知識・技能」にあたる概念的理解ももっと表現を通して評価されてもよいのではないかという指摘がなされた。態度の観点に関しては、算数数学教育の場合だと、「態度」を情意よりむしろ認知寄りで捉えて、「思考・判断・表現」問題の解答プロセスで「態度」も関連づけて見る例もあるということ、対外的成績証明機能のために「態度」を評価観点として独立させるという教育行政からの要求が現場を混乱させているということが述べられた。
一方、川口会員からは、「態度」は学習プロセスと一体化して捉えられがちだが、例えば、「公民としての態度」の育成はむしろ長期的に捉える必要があり、そのために分離するという方策も考えられるという指摘がなされた。
続いて、本田伊克会員からは、教科を横断することと教科の固有性とをどう捉えるのか、子どもに育てたい力を分析的に見ていくことがどうやって可能になるのか、松下佳代会員からは、課題ごとのルーブリックをまとめて「観点」にすることに伴う無理をどう考えるか、今回の企画は教科ごとに見ていく趣旨だったが教科を超えた共通点はあり得るのか、司会の渡辺からは、教科という大きな単位で「観点」を設定することの必要性は、といった問いが出された。
鋒山会員からは、算数数学に関して、イギリスのナショナル・カリキュラムのような内容領域ごとの観点にしないことへの疑問が示された。また、各課題のルーブリックについては、それが指導と評価の具体化のうえで有益であること、一方、英語などの教科では、個別課題を超えての観点の設定があり得るかもしれないという指摘がなされた。そして、子どもに育てたい力については、知識や思考のレベルを設定するときは階段モデルになりがちだが、ネットワークの広がりとして見る見方も必要ではないかという指摘がなされた。さらに、今回の3観点は、学習指導要領との形式的整合性という政策的意図が強く入ったものだが、あくまでもそれは「箱」に過ぎず、そこに内実を持たせるために教科教育学の知見や成果を活かしていくことが必要だという主張がなされた。
川口会員からは、現行の観点別評価が、生徒が自分自身何ができていないのかを見とって次につなげるという評価の本来の趣旨にかなうものになっていないこと、とはいえ、学力をどう分けて捉えるかという分析を誰がすればよいかという教科観そのものにかかわる難しさがあることが述べられた。また、欧州評議会のモデルを例に、より広い視野で、学校文化をつくっていくといった文脈のもとで「観点」を捉える可能性についても指摘がなされた。さらに、自身の専門のシティズンシップ教育という立場上、教科の固有性の大事さと同時に教科に閉じてしまう危険性も認識していて、例えば、「文化的な多様性に価値を置く」といったことは社会科だけで担えばよいわけではないこと、そのために、教科を超える見方も必要になるということが述べられた。
(7)八田会員からのコメント(後日)
来場がかなわなかったコーディネーター兼発表者の八田会員より、当日の映像を視聴のうえ、以下のコメントが寄せられた。
* * *
各教科における観点はいかにあるべきかを議論するという企画だったが、現在の日本で実践されている観点別評価はなぜそうなっているのか?どのような問題を引き起こしているのか?という問題と、各教科で分析的な評価を行う際にどのように分析すべきか?という問題が混在し、議論がやや複雑になってしまった。観点別評価と分析的評価を分けて、明確に後者に焦点化した企画を立ててもよかったのかもしれない。それでも、算数・数学は領域観点である「べき」という鋒山会員の立場、社会科は能力観点「である」という川口会員の立場、国語科は領域観点か能力観点かの二択で考える「べき」ではないという八田の立場の違いが徐々に浮き彫りになったように思う。以上がコーディネーターとしての所感・反省である。
登壇者としては、私自身は、国語科で分析的な評価を行う際にどのように分析すべきか?という問いで発表を行った。そのような文脈で見ると、各教科において学力を分析する観点は随分と異なる(おそらく教科の中でも分野によって随分と異なる)という感想を持った。そのため、鋒山会員が再確認したように子どものつまずきを発見するために教科の学力を分析するという原則は大変重要であるのだが、まさに子どものつまずきを発見するためには分析のための観点は教科・領域に固有であるべきだと考えた(国語科の場合は必ずしも領域観点だから分析的とはならないので)。
一方で、子どもの学力はカリキュラム全体を通して育つことも事実である。国語科や社会科は他教科に対して基礎的な立場や統合的な立場を与えられてきた教科でもあるため、カリキュラム全体として見たときに国語科や社会科はどのような観点であるべきかという議論がこれまでなされなかったことが不思議だと感じた(川口会員の報告からなされてこなかったと推察した)。
記録作成:鋒山泰弘(追手門学院大学)
川口広美(広島大学)
八田幸恵(大阪教育大学)
渡辺貴裕(東京学芸大学)
【課題研究2】
Well-beingの視点から教育目標を問い直す
報告者:
福祉・社会政策と教育の視点から――スウェーデンにおける若者の就業に着目して
本所 恵(金沢大学)
インクルーシブな場と障害児の学習権――特別支援学級・学校の在籍率の視点から
赤木 和重(神戸大学)
子どもたちが学習に参加するということ――権利主体として子どもを育てる視点から
植田 一夫(大阪青山大学)
司会・コーディネーター:
石井 英真(京都大学)・徳永 俊太(京都教育大学)
(1)課題研究の趣旨
司会の石井会員より、近年、学校が多くの子どもにとって生きづらい場になっているのではないかという問題提起があり、Well-beingの視点から教育目標を問い直したいという趣旨説明があった。それは、教育目標・評価学会の基盤でもある学習権保障の理念の問い直しでもある。一般的福祉の優先や多様性の尊重などの論調もある中で、学力、教育的価値、さらには学校や教師のあり方をどのように考え直すかという論点が提起された。
(2)第1報告の概要
本所会員からは、スウェーデンの福祉・社会政策において、①学校から社会への切れ目ないセーフティーネットがあること、②学校から離れる子ども・若者に対して、個別化による包摂が行われていることが報告された。
スウェーデンでは、社会参画が重視され、働くことにインセンティブを持たせる制度が設計されているという。その福祉・労働政策の中で、教育は広いセーフティーネットの役割を果たしている。その一つとして、高校入学の学力要件を満たさない生徒に対する教育課程「イントロダクション・プログラム(IM)」の3校の事例が挙げられた。1つ目のUven gymnasietは、市内の公立高校IMの連携をとりまとめ、生徒たちに専門家から個別プログラムを提供していた。2つ目のAndra Chansenでは、高校を中退した若者に、スウェーデン語、数学、英語の授業が行われていた。3つ目のLundelskaは、アスペルガーなどの診断を受けた生徒のためのプログラムである。このように、個別化にも多様な種類があり、各自治体が必要に応じてプログラムを作成している。IMでは、高校修了に至らないが学習を続ける人が多く、20歳以降は成人教育を受ける。さらに、IMにも通わない若者に対しては、自治体に課される活動提供義務(KAA)というシステムがあり、20歳になるまで個人に応じた支援や活動の提供が行われる。EメールやSNSなども活用し、若者に寄りそうことを重視している。以上のようなスウェーデンの特徴は、日本の教育を考え直すきっかけになるのではないかと問題提起がなされた。
(3)第2報告の概要
赤木氏からは、障害のある子どもの学籍の視点から「包摂・排除」にかんする報告がなされた。さらに、そのような「排除」を乗り越えていく萌芽となる実践について報告がなされた。
まず、現状として2022年9月に国連・障害者権利委員会総括所見から、隔離された特別支援教育(special education)の廃止が日本に対して要請された。その背景として、特別支援学級・学校の存在があり、かつ在籍児が増加していることが考えられた。さらに単なる増加ではなく、転籍も増加していることが指摘された。転籍とは、小学校在籍中に通常学級から特別支援学級・学校に籍が異動することである。この転籍率が1993年度から一貫して増加しており、「場が分離された教育」が加速化している。ここで、考えるべき問題として、赤木氏は、特別支援学級・学校は廃止するか否かではなく、一定数の子どもが特別支援学級・学校に行かざるをえない通常学級のありかたを問うべきではないかとする。では、通常学級が子どもたちを包摂できない原因はどこにあるのだろうか。その原因を二つ提示する。一つ目が、規範の強化と画一化である。その象徴として、授業スタンダードや学習規律の画一化があり、規範からこぼれおちる子が「気になる子」「発達障害」として顕在化・可視化されることを指摘した。もう一つが、学力差がある子どもたちを包摂するような授業づくりの問題がある。これらの二つの原因に対して、赤木氏は通常学級における包摂に向けて、授業づくりに限定して二つの提案をおこなった。一つが、ユーモアを利用した逸脱行為への教師の対応(規範の「享楽的脱臼」)である。規範を崩壊させるのではなく「脱臼」との線を探り、参加の幅を広げ、結果として多様な子どもたちを包摂することを目指す。もう一つの提案が、学習権が保障される授業づくりである。そこで鍵となるのが、集団での学びと真正の学びである。例として、創作熟語という実践を紹介し、教える-教えられるという関係性の固定化を回避し、むしろ学力差・能力差・個人差が学びの創発につながることを示した。
(4)第3報告の概要
植田氏からは、子どもたちを学習する権利主体にしていくための五つの重要な視点について報告がなされた。
一点目が、必然的な学びを組むということである。アレルギーを持つ志乃(仮名)という生徒がクラスにいたとき、総合学習「アレルギーはこわくない」という単元を組んだ。学級の子どもたちが志乃と共に給食をはじめとする生活を共にする以上、この学級にとって必然的な学びとなっていた。二点目は、学習課題そのものへの参加である。てこの授業では、はじめに「てこって何?」と聞くことで、子どもが「てことは何たるか」が認識されていないことがわかり、日頃遊んでいる「消しゴム発射装置」を教室に持ち込むことになる。また、三角形の単元では、生徒は90度が入った三角形ばかりを思い浮かべ、既習での三角定規の影響が見られた。そこで、三角形を三本の直線が作る形と定義し、自分たちで三角形を書くことを楽しんだ。子どもたちは角や辺などの観点から学習内容を導き出した。このように、学習前の子どもたちの認識に出会
い、その認識を高めるように学習展開することで、学習課題への参加を促すことになる。三点目は、学習過程への参加である。理科の「空気の不思議」の実験を通じて、子どもたちと共同追求することで、学習の過程で自分の考えを出し、そこへ友だちが自分の意見を言うことによって修正していく過程に学習が成立している。四点目は、学習したことで暮らしが変わるということである。3年生の理科「太陽の不思議」では、太陽の熱とストーブの熱のどちらが温かくなるかの実験を行った。予想外にも太陽の熱の方が温まった。この実験結果を活用して、窓際にペットボトルの水を置き、掃除の時間では温水を活用した。太陽の熱が暮らしを豊かにした瞬間である。五点目が、地域に根ざすということである。6年生の歴史学習では地域の教材化も行った。これらの実践では、子どもたちのノートに書かれた図を使ったり、学習過程から作問したりして評価へ子どもが参加することを通じて、指導と評価の一体化を図ることも重視している。
最後に、上記の五つの視点に加えて、子どもたちが「わからない」と発言できる集団を育てることが大切であり、集団づくりも並行して進めることが重要であるとした。
(5)司会・コーディネーターから論点整理と質問
発表後、司会の石井会員から各報告の要点整理と質問が行われた。まず本所会員の報告に対して、スウェーデンの事例では、Well-beingが個人の事柄ではなく社会の責任として捉えられている点が印象的だとした。その上で、近年強調される日本の「個別最適な学び」とスウェーデンの「個別化」の間にある違いについて質問がなされた。これに対して本所会員からは、後者の土台に社会参加があることが指摘された。その個別化された教育では、個人を重視しつつ社会参加が目指される。同時に、学校では文具なども提供・共有され、子どもの社会参加の感覚が養われていく。個別化や社会参加が、現在から将来につながっている点が重要であるとした。
次に、石井会員から赤木氏の報告に対して、インクルーシブな場における学校文化や構造が提起され、転籍という角度から「排除」が生じていることが示されたとした。それをふまえて、なぜ「排除」が起きているかをさらに詳しく聞いてみたいという質問が投げかけられた。この質問を受けて、赤木氏から転籍の理由として、既存の学級学校文化に子どもが息苦しさを感じていることが挙げられた。具体的には、勉強がわからないことや休み時間にみんなで遊ばなければならないことの息苦しさを指摘した。
石井会員から植田氏に対しては、「学習の参加」を目指した実践報告から、学んでよかったという充実を感じさせられたとした。一方で、そのような学びが多くの学級で生まれづらい実態があるのではないかという点についてお聞きしたいという質問が投げかけられた。これに対して、植田会員からは子どもと教師の関係性を変えなければならないということが述べられた。具体的には、子どもに任せたらうまくいったという経験が必要であるとする。植田会員が「学習の参加」を重視するようになったきっかけに阪神淡路大震災があり、子どもの存在がなければ成り立たないことを知った。また、子どもが年休権を持ったらいつ行使するのかなど、子どもの率直な思いと出会いながら学習を展開したいと述べた。
(6)質疑応答
続いて、会場全体からの質疑応答が行われた。主な論点は二つ提起された。一点目が、ユーモアによる規範の「脱臼」についてである。目標・評価論としてどのように捉えられるか、規範的な目標に向かって進むことと相容れないのではないかという論点が提起された。これに対し、赤木氏は、目標すら脱臼してよいと考えていると応答した。子どもの姿を追いながら、どうすればいいかを考えていくことであり、ちょっとした子どもたちのずれや、先生のアイデアによって、規範が変わっていくという。もう一つの論点は、これまでの議論をふまえて各学校では具体的に何ができるかという論点であった。これに対して、植田氏は教師が困る体験が重要であるとした。また、職員室で子どもについて話すなどの空間を広げていき、子どもの見方を豊かにすることを強調した。
(7)コーディネーターとしてのまとめ
最後に、司会である石井会員と徳永会員から全体をまとめる発言がなされた。石井会員は、生きづらさの問題は、つまりWell-beingをどのように保障するのかという問題であり、求められるのは単に主体に任せるだけではなく、客観的な視点も含みこむ必要があるとした。また、緊張関係がゆるんだ瞬間にこそ生じる学びがあり、日本の教育実践の蓄積においても、「脱臼」という言葉は直接的には使わないが、それらを追求してきた側面があるのではないかと述べた。徳永会員は、規範があるからこそ「脱臼」があるという関係性に言及した。また、Well-beingについても、社会として合意形成があるから個人の幸せがあるとして、本学会としては客観的に目標や規範を捉え直していく必要があると締めくくった。
記録作成:明石寛太(京都大学大学院)
【公開シンポジウム】
現代の教育における資質・能力の育成とその評価
話題提供:
日本の教育における資質・能力の育成とその評価の史的変遷
冨士原 紀絵(お茶の水女子大学)
現代における資質・能力論とその評価1
田淵 知紗(神戸大学附属小学校)
俣野 源晃(神戸大学附属小学校)
現代における資質・能力論とその評価2
松下 佳代(京都大学)
司会・コーディネーター:渡邊 隆信(神戸大学)・川地 亜弥子(神戸大学)
(1)課題研究の趣旨
学校教育を通じて学習者に形成したい能力とはなにか。なにを重要な目標として設定し、いかに評価していくのか。史的変遷をふまえた上で、現代における初等教育および中等教育以上の取り組みの分析を通じて、現代の教育における資質・能力の育成とその評価について、展望と課題を見出す。
(2)冨士原報告の概要
冨士原会員からは資質・能力の育成とその評価についての史的変遷の報告がなされた。冨士原会員は、資質・能力の育成とその評価についての戦前における一つの到達点として、明石女子師範学校附属小学校(以下、明石附小と略称)と同校主事の及川平治による教育実践「カリキュラム改造」を取り上げられた。冨士原会員は、当時の小学校教育の目的との折り合いのつけかた、そのなかでの教育実践の意義を明らかにすることを目的とし報告された。つまり、明石附小と及川による「カリキュラム改造」は、「小学校令」・「小学校令施行規則」・国定教科書によって規定された教育目的・教育内容を、子どものリサーチを軸に到着(到達)目標として設定し、目標に到達するための活動を組織するものであったという。当時の教科課程や国定教科書などを新たに意義づけることこそが、それらの制約を乗り越える現実的な方法であった。こうした方法を当時の革新的な教育実践=明石附小や及川がおこなってきた点に歴史的意義がある。
(3)田淵・俣野報告の概要
田淵会員と俣野会員より神戸大学附属小学校(以下、神戸大附小と略称)の「資質・能力」とその評価について報告があった。神戸大附小の「資質・能力」は、社会的資質・能力(人格形成の基礎となる資質・能力)・固有的資質・能力(知性につながる資質・能力)・汎用的資質・能力(思考力)の三つで構成された。それぞれの資質・能力をさらに、11、32、11と全54の資質・能力に分けた。全54の資質・能力は、幼小中の全教員で書き綴った学びのカードを分類することで導出され、独自に開発されたものだ。これを踏まえて作成された「資質・能力カリキュラム」から「教科等カリキュラム」への移行をおこなうために、子どもの発達の節目が検討された。神戸大附小は、子どもの発達の節目を明らかにするために、その節目を「無自覚的な学び」から「自覚的な学び」という子どもの記述の異なりにみいだし、「自分についての評価や活動についての感想」から「学習に対する計画や単元後の見通しに関する記述」に子どもの記述の質が変化する7歳1年間を発達の節目と結論づけた。
(4)松下報告の概要
松下会員より中等教育・高等教育の観点から資質・能力とその評価についての報告がなされた。まず、学力と資質・能力の関係について、両者は二つの点で対照的であるという。第1に、学力が〈過去から現在へ〉の方向性にあるのに対し、資質・能力は〈未来から現在へ〉の方向性にある点が対照的である。現在の教育政策において、資質・能力はバックキャスティングの手法によって描かれたものである。第2に、学力が教科という〈境界設定〉をしているのに対し、資質・能力は空間軸や時間軸を超えて設定され、〈境界横断〉的であるという点が対照的である。松下会員によれば、こうした学力と資質・能力はどちらがよいのかという二者択一ではなく調停すべきものである。すなわち、過去に根差し未来に開かれた能力、境界の中に足場を置きつつ境界を越え出る能力をいかに形成していくかが求められる。この調停に示唆的なのが「コンピテンシーの三重モデル」である。この「コンピテンシーの三重モデル」を用いて、知識、スキル等を何らかの要求・課題に対して結集・統合する機会をカリキュラムや評価の中に設けることが必要となる。こうした枠組みのもとで有効となる具体的方法が、対話型論証であり、PEPA(重要科目に埋め込まれたパフォーマンス評価)である。
(5)質疑応答
3つの報告に対して、次のような質疑応答がなされた。
【冨士原会員】まず、生活単位と教科の関連性について、特に教科の中でされていたのか、1つの教材としてなのか、現在でいう「総合的な学習の時間」的なのかという質問が寄せられた。これに対して、当時の明石附小の時間割はわからないが、3つのパターンが考えられるとの回答があった。それは、①1日中生活単位みたいなものをやっている、②数ヶ月やっている、③教科教育案を作っているの3つである。そして、おそらく傾向からすると、1、2、3年生くらいまでは、いわゆる今日でいうところの「総合的な学習の時間」みたいなものだけを1日中やっており、高学年、高等科になるにしたがって、教科中心とか教科の教育枠にかかっていっていると推察できるという。
【田淵・俣野会員】7歳の特定の時期になったら、大きく教育内容等を変えられるのかとの質問があった。これに対して、基本的には、7歳の1年間で子どもたちの「自覚的な学び」が可能になるのではないかということが本校での研究の成果となっている。そして、「無自覚的な学び」が多い子どもと「自覚的な学び」が多い子どもが、時々によって違ったり、内容によって違ったりする。その両方の子どもを支えることができるような単元を、1年間通して、一定の教員で、徐々に教科に合う、教科、教科等カリキュラムに合うような単元に変えていく、子どもたちの様子をみながら変えていくということで1年間取り組んだというところであるので、ガラッと変わるというよりも、1年間のなかで行ったり来たりしながら、そのカリキュラムを実践していったということになるとの回答があった。
次に、7歳という節目について現在の学説とは異なるのではないかと質問があった。これに対しては、現場としては子どもたちの様子をみていると、その「自覚的な学び」・「無自覚的な学び」、要は見通しをもって活動できるかとかしっかり自分たちのことを振り返っているかということを考えたときに、現場レベルでは7歳の1年間じゃないのかということをみとって、調査・ワークシートを分析して結果を出したので、あくまでも本校の実態というところも大きく関わっているため、学説とは異なる部分もあると思っているとの回答があった。
さらに、資質・能力が54というのは多く、赴任してきた先生は、抵抗はないのかという質問が寄せられた。この質問に対して、いきなり4月1日に赴任して2日にできるようになるというのは絶対無理なので、それまでにやってきたこととその学校で新たに学びながら、学んでいく必要があるという回答があった。そして、54の資質・能力を実際に目指す姿をみながら、他の先生方の実践をみながら、なるほど、今まで技として気づいてなかったのが、こういう視点で子どもたちの能力を伸ばすということをされているからできるようになったのだということがわかるようになる。そういう自分の実践をつくるのと、他の先生方が実践されるのを資質・能力という目でみることによって、徐々に修得していける。
最後に、附小では資質・能力という言い方をいつから用いているのかという質問が寄せられ、この研究が始まったのが2013年で、その年から資質・能力を使い始めたという記録が残っていると回答があった。
【松下会員】コンピテンシーを資質・能力といってしまうことの違和感や問題性をどのように感じているのかという質問が寄せられた。これに対して、以下のような回答があった。以前は、結構違和感を感じており、コンピテンシーと区別してコンピテンスという言葉を使うようにしていた。コンピテンシーが流行り言葉のようになっていて、さらにそれが政策用語としての資質・能力と結びつくのが嫌だと思っていたからだ。ただ、実際のところ、コンピテンスとコンピテンシーというのは、最近はそんなにも区別されていない。だから、最近では、言葉にこだわるよりも中身を説明する方に重きを置いている。
次に、松下会員自身の大学や学部ではどのように使っているのかという質問が寄せられた。これに対して、以下の回答があった。新潟大学と9年ほど共同研究をおこなっている。PEPAはそのなかでつくってきたやり方であるが、京大では使っていない。京大は部局自治の強い大きな組織で、しかも、これまで高等教育センターにおり学部のメンバーではなかったため、学部での導入も難しかった。ただ、歯学部だけだと分野が限定されるので、現在、東京の総合大学でも試みているところである。
PEPAを大学教育に普及させていくうえで求められることは何かという質問も寄せられた。これに対して、以下の回答があった。チームでパフォーマンス評価をやっていくことが求められるが、誰がやるのか、どういうふうに舵を取るのか、というところでカリキュラム・マネジメントも必要である。また、医療系は、目標について合意しやすいので重要科目も設定しやすいが、それ以外の分野でできるかについては、今課題として取り組んでいるところである。
コンピテンスの三重モデルで行為形成、他者に働きかけるということが出てきたが、平和教育や道徳の場合、行為の形成まで目標化することには慎重になるべきではとの感想が寄せられた。これに対して、以下の回答があった。他者や対象世界に行為を通して働きかけ、それについて省察をすることでコンピテンシーを育てていくという話をしたが、こういう行為をしなければならないというところまでは目標に入れていない。行為志向性をもつというのがコンピテンシーの本質的特徴の1つであり、なんらかの知識やスキルなどを結集して行為というかたちで表わすというところは重視するが、それがどういう行為でなければいけないというところは目標としては設定しない。
次に、「高校の大学化」について、とくに探究や課題研究ではその分野において生徒が教員の力を超えることがあるが、そのときに、教員が生徒の資質・能力を評価することがいかにして可能かという質問が寄せられた。これに対して、以下の回答があった。スポーツでも同じであると思うが、指導する側が指導される側の能力を超えていないと指導できないかといえば、そうではない。ただし、附属小の話とも関わるが、どういうところをみないといけないのかというところは重要である。また探究とか研究というものをやったことがない先生がそれを指導するのはかなり厳しいだろう。うまくいかなかった経験も含めて自分が探究や研究をやってみた経験が指導には必要なので、そういう経験をしていることが前提条件になると思う。
対話型論証モデルは教科・科目に関わらず汎用的に使える。総合的な探究の時間における探究スキルにつなげるツールとして、教科を越えて実践したいと思うが、どのように考えるかという質問が寄せられた。これに対して、以下の回答があった。高槻中高では、教科でも使っていたが、現在は主に総合的な探究の時間で使われている。一方、小倉中学校では教科で使うとともに、教科同士をつないで大きなパフォーマンス課題に教科横断的に答えていくということにも使われている。
学力と資質・能力の調停が重要であるとの提起に共感しつつも、今の高等教育の政策動向は未来への焦点化と応用性重視の境界横断の動きがあまりにも強すぎるように思う。この点についてどのように考えるのかという質問が寄せられた。これに対して、以下の回答があった。大学によっても違うが、内閣府とか文科省が総合知とか文理横断といったことを強調しており、それが補助金絡みで政策誘導されたりするので、そういったところに敏感な大学ほど、こういう傾向が強くなってくる。以前、京大の全学シンポでこのテーマが議論になったときに、蛸壺化でいいじゃないか、ただ他の壺にも入って、自分の専門を俯瞰・相対化できることが必要だ、ということで意見が一致した。専門を身につけることはとても重要なことで、少しずつ多くの分野をかじって結局自分の専門は何かわからなくなるということは避けたい。ただ、1つの専門だけでいいかというとそうではなくて、他の専門のことも知ってみることによって、より自分の専門を深めることができる。また、それによって、分野を超えて協働するということが可能になる。専門を深めていくことと、他の分野の人と手をつないで大きな協働の仕事をするということは両立できるのではないかと思う。
最後に、PEPAの実践例、専門的成長の場合は、ジェネラリスト志向、メンバーシップ型雇用にはうまく接合しづらいようにも思うが、これらにも適用できるとお考えか、それとも適用のしくみを組み替えることが必要かという質問が寄せられた。これに対して、以下の回答がなされた。発表で示した例が専門職養成であったので、この質問が出たのは当然だとは思う。ただ、これからの社会は、ジェネラリスト志向・メンバーシップ型雇用からジョブ型雇用に少しずつ移っていくかもしれない。ジェネラリストはどういう時代でも必要だと思うが、そのジェネラリストというのが、単に広く浅くだけではなく、ある分野のことを特によくわかっていて他の分野のこともそれがどんな分野であるかは知っているということが望ましいだろう。そのようなジェネラリスト養成であれば、これとPEPAとは必ずしも相性が悪くないと思っている。
(6)司会・コーティネーターによる総括
【渡邊会員】子どもをリサーチして教育を作っていくこと=学説を作っていくことは、及川の時代から現在の附属小学校にまでつながっていると思った。及川の時代は史料が限定されていて、なかなか実践記録というものは残らないものだが、今、行われている実践の記録を残していくということも大事だと思った。中等と高等教育については、組織として、この資質・能力の育成をどう実践していくのかということも大切になっていくだろう。ゲリラ的にモデルを提示しながら、どう広く共通の理解をはかっていくのかはこれからも考えていかないといけないことだと思った。
【川地会員】先生が子どもといっしょに楽しめるかどうか、54の資質・能力でみたときに、より一層楽しくなるのか、自分がこれはもう楽しくなくなったと思うようになるのか。以前は子どものやっていることが生き生き輝いてみえていたのに、あれができた、これができたとみる自分になってしまうということがある。そうならないのは、つくった人であればつくったものから自由になれるからなのではないか。バックキャスティングについてはその功罪を今後研究する必要があると思う。学力も、過去のなかの価値あるものを取り出すというところでものすごく権力性がある。誰がどのように取り出すのか。だが、未来を仮定して、それに向けて、という作業はもっと権力性がある。つまり、誰がそんなこと言いうるのか。過去であれば事実としてあるから、みんなが議論に参加していけるが、未来をどう考えるのかは議論には、参加もしにくいし、おかしいとも言いにくい。議論が開かれているようで、実はものすごく閉じられていて、人をコントロールする術として使われていっているのではないか。
記録作成:瀬川千裕(神戸大学大学院)