第28回大会(2017年11月18日~19日)
於:金沢大学 角間キャンパス
学会第28回大会を終えて
大会実行委員長 土井 妙子(金沢大学)
2017年11月18日(土)・19日(日)の2日間にわたり、金沢大学において教育目標・評価学会第28回大会が開催されました。大会は、初日にふたつの課題研究が行われ、夜は金沢大学生協で懇親会が行われました。2日目には、15件の自由研究発表、総会、公開シンポジウムが行われました。金沢大学で本学会大会が開催されるのは初めてと聞いております。大会準備は、金沢大学教員の松田洋介、本所恵両会員が中心となって進めました。直前に入会した河合隆平会員も運営に協力してくれ、また、大会当日は、金沢大学の学生6名にも運営の補助をお願いしました。
当日は北陸らしい初冬の天気となり、足元の悪いなか、大会参加者は67名、シンポジウムを合わせますと70名の方に参加いただきました。例年より参加者数が少なかったようで、開催校側の力不足と申し訳なく思っております。2015年春に北陸新幹線が開通し、東京から金沢まで2時間半となりました。金沢は観光客が多くなり、ホテルの予約が取りにくくなっております。参加された皆さまは、宿泊の予約がスムースに行きましたでしょうか。少し心配しておりました。
私は運営の手伝いのため、全体を通して聞くことはできませんでしたが、課題研究Ⅱとシンポジウムに参加いたしました。私事で恐縮ですが、私は環境問題の研究をしております。環境教育は、「環境問題の解決のために行動する」ことを最終的な目標としておりますが、日ごろから「モノを言わない国民性」にがっかりすることが多く、課題研究Ⅱの「政治的主体形成の課題と教育目標・評価論」の各先生方のご報告は興味深く拝聴いたしました。国境なき記者団によりますと、日本の報道の自由度は、調査対象国180国中72位、G7では最下位です。何が事実なのか、重要なのかわかりにくいこの国で、「忖度もない」熟議空間が形成できるのか、社会科は「市民的資質を民主主義社会における自立した政治主体と捉え、その資質を計画的に育成することを明確に目指して成立した学校の一教科」とのことですが、高邁な理想とは裏腹に、社会科全体の中で市民的資質育成をするにしては時間も資源も限られており、政治的主体形成は、教育課程全体の課題として引き受けるべきですが、具体的にどのように実現可能なのか。今回の充実したご報告から関心が広がりました。同テーマは継続発展させていただけたらと切に願います。シンポジウムは、金沢大学の教員が中心となり、「障害のある人々の学卒後の生活・労働の現状から教育を考える」をテーマに行われました。金沢大学には附属学校が5校あり、その中でも特別支援学校では熱心に実践研究が行われています。障害のある人々の学校-社会へのつながり、移行の実際が具体的にイメージしにくく、専門外の私には少々わかりづらい面がありましたが、最も生きにくい方たちの生活保障を整えることは、健康な者の人権擁護にもつながる大事な研究テーマと思います。今後の研究の発展を祈ります。
参加できませんでしたが、「課題研究Ⅰ 生活世界における『つながり』と人間形成」では、田中正造をテーマとした教育実践の分析や、全生研、メキシコの貴重な事例報告がありました。このほか、自由研究発表の配布資料を拝見しますと、どれも熱心なご研究の成果報告だったようで、有意義な分科会だったと推察いたします。
2日間の大会を通じまして、行き届かぬ点が多々あったかと思います。この場をお借りしましてお詫びしますとともに、遠い金沢の角間キャンパスまでお越しいただき、参加者の皆さまの熱心なご報告、ご議論がなされましたことに準備委員一同、心より感謝申し上げます。
教育目標・評価学会は、2017年6月に「政府の教育勅語使用容認答弁に関する声明」を出した学会のひとつです。学術組織としての社会的意味を再確認させられますとともに、直接的にモノを言う学会でありますことに誇りを感じます。本学会の発展と会員の皆様のますますのご活躍とご健康を心よりお祈りいたします。
【課題研究1】
生活世界における「つながり」と人間形成―その目標・評価論的検討
報告者:
『地域』を教育目標とすることからみえてくる『つながり』の意義と課題
小林千枝子(作新学院大学)
全生研『集団づくり』における『つながり』形成
仲嶺 政光(富山大学)
20世紀メキシコの地域社会の変革と『つながり』形成
青木 利夫(広島大学)
司会・コーディネーター:長谷川 裕(琉球大学)
(1)本課題研究のテーマなど
最初に、コーディネーターより、上記のタイトルに表現される本課題研究のテーマについて、次のように説明された。
・「生活世界」とは、人びとがその意味づけやイメージを共有しつつつくり上げ、日常的に営んでいる、かれらにとって自明性を帯びた社会的世界のことである。本課題研究は、生活世界において取り結ばれる人と人との関係を「つながり」と呼び、それがこれまでどうあったのか、今現在どうあるか、進行中の大きな社会変動の中で今後どうありうるか・どうあるべきかを、特にその人間形成上の意味に焦点化し、目標・評価論的に考察することをテーマとする。
つづいて、やはりコーディネーターより、テーマ設定の前提とされていた、社会哲学者ハーバーマスの〈生活世界とシステム〉図式に依拠した社会理論的枠組みについて、次のように説明された。
・上に記したような生活世界を土台としながら、近代になると、特定の機能を専門的に遂行する「システム」が分出する。〈教育〉システムもそのひとつである。
・特に、資本主義的市場経済システムと近代的国家・行政システムの力が強大で、その論理(「貨幣」と「権力」)が生活世界におけるコミュニケーションに浸透していく(=「システムによる生活世界の植民地化」)。
以上の説明の後、今回の大会での報告は、上記のテーマを念頭に置きつつ進めている作業の中間報告という位置づけである旨が述べられた。
(2)第1報告の概要
(1)で示したテーマ・枠組みに照らすと、第1報告は、生活世界レベルの〈教育〉システムの様々な担い手が、またそこに影響を及ぼそうとする行政システムが、何らかの形で「地域」をコンセプトにもつ〈教育〉を提起するが、それらは地域のどのような「つながり」に依拠してどのような〈教育〉を行おうと提起するものなのか、またそれらは地域にどのような「つながり」をもたらすことになるのかを考察しようとするものとして位置づけられる。
報告ではまず、近年の学習指導要領や教育政策文書の中に「地域」が頻出している状況が見られ、そこには、①地域における「つながり」が希薄化しその「教育」力が消失しているという現状認識、②それ故学校教育制度が中心を担ってそれらの再生を図らなければならないという課題意識、③その実現の柱の1つとして、教育により、子どもたちに地域についての知識・理解の獲得を促し、それを通じて地域への愛情(「郷土愛」)を抱かせ、さらにはそれを国家愛(「国を愛する心情」)へとつなげようとする教育目標構想、が読み取れることが指摘された。
報告ではさらに、足尾鉱毒事件・渡良瀬遊水地問題を教材に取り上げ、その近隣地域の2つの学校で行われた、総合的な学習の時間の地域学習の事例の検討がなされた。検討の結果として、それら2つの事例のいずれもが上記のような中央の教育課程行政の動向に沿いながら取り組みが開始されつつも、1つの事例では、地域の中に生きる自分の生き方を考えさせることに、もう1つの事例では、教材とされた問題が発生した当時の政策に対して抵抗する人びとの闘いの事実について調査などを通じて認識を獲得していくプロセスを体験させることに主眼が置かれており、郷土愛→国家愛という前述の構想とは異なる展開を示していることが強調された。また、両方の事例の検討を通じて気づかれたこととして、中央の行政・政策サイドの上の①のような地域の現状認識とは異なり、地域には今なお教育の営みが依拠できる「つながり」が息づいていることが指摘された。
(3)第2報告の概要
(1)のテーマ・枠組みに照らすと、第2報告は、戦後日本における、主として公〈教育〉の初等・中等「学校」を舞台とした子ども・若者の「つながり」に着目し、その人間形成力を組織化しようとする「集団づくり」の〈教育〉実践の分析であり、特に、そうした集団づくり実践のうち1960年代・70年代に隆盛を見せたその類型を取り上げ、その当時の時代背景と関連づけた時、その性格をどのように把握できるかを考察するものとして位置づけられる。
報告では、そのタイトル通り全生研(全国生活指導研究協議会)の集団づくり実践を検討の対象とし、上記のように1960年代・70年代に隆盛を見せたその実践の類型(当時発刊され、全生研のこの時期の主流的実践の方法を定式化した著書『学級集団づくり入門』第二版の書名から、報告では「『入門』第二版的集団づくり」と命名された)に特に焦点が当てられた。報告は、『入門』第二版的集団づくりは、その成立の難しさを根本的に孕んだ方法である(①その方法の柱である班・核・討議づくりを通じて構築が目指される集団の組織性が極めて高度な性質のものであるゆえ、②またその組織性を達成するために用いられる、競争・追及・リコールなどの手法が子ども達にとっても教師にとっても過酷なものであるゆえ)が、1960年代・70年代の日本という特殊時代的背景(①教員組合運動を中心とした社会運動にコミットする教員が多く、運動の集団とその組織化の経験が『入門』第二版的集団づくりの方法への親和感を醸成した、②当時進展しつつあった企業社会統合に対する教員の批判意識が、集団づくり実践が理念とするところへの賛同を喚起した、③小集団活動の組織化・展開は、QC運動などの形で当時の企業社会でも推進されていたものであることに見られるように、教員・子ども双方を含む当時の人びとの「つながり」に関わるエートスと符合する性質を帯びたものだった)により、多少とも広範な教師たちを惹きつけそれを実践してみようと思わせることが可能であったのであり、またその対象となった子ども達からも一定程度受容され得たとの分析を示した。
(4)第3報告の概要
(1)のテーマ・枠組みに照らすと、第3報告は、20世紀初頭のメキシコ農村地域社会において、そこに着任した学校教師が、住民たちの「つながり」を含めその地域社会の生活世界の従前のあり方の変革を企図する国家という行政システムを一方では担いつつ、他方ではその従前のあり方の中に自らを位置づけ住民たちとの「つながり」を構築しながら〈教育〉をはじめとする諸活動に取り組む、そのプロセスを取り上げ、それを経る中で「つながり」をはじめ地域社会の生活世界が変容したケース/変容しなかったケースについて分析するものとして位置づけられる。
報告によれば、1920年代以降のメキシコでは、連邦政府により全国への初等学校教育の普及が図られ、特に農村地域での教育普及が積極的に推進された。農村学校では、スペイン語の読み書きや算数の教育が行われたが、加えて地域社会の変革(「近代的」知識・「合理的」思考力・愛国心を身につけた「健全な」国民の育成とその統合、生産者・消費者の育成による経済の発展)の拠点として位置づけられ、それに向けた様々な活動が展開された。その農村学校の教師が、報告の検討対象である。
報告が提示した知見は、次のようなものであった。
・農村学校の教師は原則として国家の理念や計画に沿った教育活動を行おうとしたのに対して、住民は各々の立場から学校や教師を利用し自らの利益を守り追求しようとした。
・教師は、共同体内の権力関係や共同体のもつ価値観を理解した上で住民とのつながりを確立しようとしたが、それは相互の信頼関係に基づくだけではなく、相互に利用し合う関係に基づくこともあった。
・共同体内の権力関係や価値観を理解せず、国家の理念や計画を押しつけようとした時、教師は排除されることとなった。したがって教師は、地域の事情に配慮しながら、時には国家の理念や計画を無視あるいは修正しながら、教育普及活動の末端を担った。
・国家や教師は、学校教育を受け入れず社会変革に否定的な住民や村を「遅れた」者たちと見なしその啓蒙を目指すが、住民の側から見れば、かれらの行動は自らの価値や利益や権利などを守る主体的な行動だと捉えることができる。
(5)会場からの発言と報告者からの回答
会場からは、主として次のような趣旨の発言があった。なお、それぞれの発言に対して報告者からの応答もされたが、紙幅の都合でそれらの記載は省略させていただく。
第1報告に対して
①検討した実践の対象の子ども達の生活世界は元々どのようなものであり、それらの実践を通じてそこにどのような変化が生じたのか(特に実践が教材とした遊水地と子ども達との関わりを取り上げながらの質問)。
②検討対象の2つの実践事例を取り上げることによってこそ見えてくるのは、どのようなことなのか(特に1つ目の事例の、地域学習を通じて自分の生き方を考えさせるというのは、小学校の総合的な学習の時間の実践としてはよくあるものなのではないかと指摘しながらの質問)。
③検討された教育実践が行われた地域における地域づくりの取り組みとそれら教育実践との関わり、前者にとっての後者の意味はどのようなものか。
第2報告に対して
④『入門』第二版的集団づくりが退潮期に入った後1990年代初頭の『学級集団づくり入門』新版が発刊されるまでの期間に、どのような議論や実践が展開し、それがその後現在に至るまでの全生研の集団づくりへとどのようにつながっていったのか。
⑤『入門』第二版的集団づくりは、地域づくりの取り組みにとってどのような意味があったか。
⑥『入門』第二版的集団づくりが、その実践に関わる人びと(教師・子ども)にどのように受けとめられたかに関して、地域による差はないのか。
⑦『入門』第二版的集団づくりが退潮していったその後の全生研の集団づくりが、教育行政・政策が近年打ち出してきている「共同」「対話」などとの関連でどのような意味をもつものなのか、今学校においてどのような「つながり」を作り出すことが必要なのかを、今後ぜひ追究してほしい。
第3報告に対して
⑧対象とした20世紀初頭のメキシコの農村学校は、学校と生活世界との距離・葛藤の大きかった時代の事例であると捉えられるが、そうした事例を現代日本において検討することによってどのようなことが見えてくると考えられるか。
⑨農村学校の教師は、地域の生活世界との折り合いをつけようとしながらも、国家システムのエージェントとして一定の目標を貫徹しようとする立場にあったと考えられるが、その目標は結局どうなったのか。目標がそのまま貫徹したわけではないが、しかし生活世界の論理がそのまま維持されたわけでもないということか。
(6)まとめ
(5)の②⑧は、それぞれ個別の報告に対する発言ではあるが、いずれも報告の対象を検討することから引き出された知見の現代的なインプリケーションが何であるのかを問うものであった。その点を明確にしていくことは、本課題研究の共同研究が全体として、今後追究していかなければならないことがらの柱の1つであるだろう。
また⑦も特定の報告と関わらせての要望ではあるが、そこに示唆されているように、今回の報告と関連させつつも検討対象をより拡張することによって、今日生活世界諸領域の「つながり」がどのようにあることが望ましくそれはいかに可能なのかを明らかにすることも、共同研究の今後の追究課題となるだろう。
これらを追究する際、⑨が示唆しているように、システムが目標として推し進めようとするところが生活世界によってどのように屈折されるか、屈折されるとしてもその過程で発生する生活世界の側の変化がどのようなものなのかという観点が、有意義であると思われる。
総じて、冒頭に示したテーマを十全に追究することが、共同研究として我々が今後取り組んでいかなければならないことであるというのが、今回の報告とディスカッションを通じて、コーディネーターとして改めて確認したことであった。
文責:長谷川裕(琉球大学)
【課題研究2】
政治主体形成の課題と教育目標・評価論
報告者:
学習指導要領に浸透する新自由主義イデオロギー
久保田 貢(愛知県立大学)
社会科教育学は政治主体形成をめぐる課題にどのように応じてきたか?
川口 広美(広島大学)
熟議デモクラシーをめぐる議論の動向と教育目標・評価論の課題
鋒山 泰弘(追手門学院大学)
司会・コーディネーター:平岡 さつき(共愛学園前橋国際大学)・岸本 実(滋賀大学)
(1)概要
最初に、鋒山泰弘会員より課題研究のテーマの主旨が説明され、次に、3人の報告があった。さらに、フロアーと報告者間の意見交換という順で課題研究は進められた。
(2)報告者の発表
まず、久保田貢会員は、新自由主義イデオロギーが教育制度だけでなく、教育目標・教育内容にまで浸透していることを、主に、学習指導要領(1998年、2008年、2017年)の分析を通して明らかにした。特に、次期の学習指導要領でも強調されている「主権者教育」の問題点を指摘した。前提には、教育目標・教育内容(教育の内的事項)に、国家が立ち入ってよいのか、また、その内容が学問研究の成果として適切なのかという学習指導要領批判がある。
新自由主義とは「強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する」と主張する理論である。それは「資本蓄積のための条件を再構築し経済エリートの権力を回復するための政治的プロジェクト」でもある。(デーヴィド・ハーヴィ著、渡辺治・森田成也訳『新自由主義』作品社、2007年)。
そして、新自由主義と教育制度・教育行政との関係として、学校制度基準の緩和・撤廃、「競争的人材育成部門」への教育資源の重点配分、「競争・目標管理・評価による公立学校管理システム」、「教育の市場化」の状況を確認する。(中嶋哲彦「矛盾を内包する新自由主義的教育改革」教育科学研究会、佐貫浩編 『講座教育実践と教育学の再生第5巻3・11と教育改革』かもがわ出版、2013年)
新自由主義イデオロギーは1990年代後半より、教育目標・内容に浸透し始めていることを、教育課程審議会における「ボランティア活動」に関する議論の中で指摘する。そして、1998年告示の学習指導要領の総合的な学習の時間の「福祉」「健康」のテーマに、公的「福祉」の削減にともなう市民のボランタリーな動員や、「健康」の自己責任化の問題を指摘する。
2005年には、小泉政権期の経済財政諮問会議による「骨太の方針」が、中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会(第24回、8月29日)で議論された。そして、健康の自己管理のための食育、非正規雇用の増大、ニート・フリーターの増加の中、社会不安を除去するためのキャリア教育、そして金融を含む経済教育の問題において新自由主義の流入を指摘する。
さらに2017年告示学習指導要領においては、そのイデオロギーの深化が見られると指摘する。この学習指導要領では、現代的な諸課題に対応して求められる資質・能力の一つとして「主権者として求められる力」を位置づけた。しかし、それは、公的サービスが撤退した後、自らボランタリーに、自主的にそれを補完する市民、自己責任論を積極的に引き取る市民の創出をめざすものであると批判する。そこには、「人権主体」育成の視点が乏しいという大きな問題がある。さらに、国家が「主権者」像を定めること自体が問題であり、戦後教育学が蓄積した「主権者を育てる」教育実践と議論の蓄積をふまえていないと批判した。
次に、川口広美会員は、①どのような論点・争点が設定されていたか、②どのように研究を進めてきたかの2点から社会科教育学が政治主体形成をめぐる課題に応じてきたかを考察した。
社会科は、戦前の軍国主義的な地理・歴史・修身の反省のもとで、民主主義社会における市民的資質を学校教育において育成する目的で成立した教科であり、「政治主体」を育成する中心的な教科として成立した。2000年代以前は、社会科の本質や性質をめぐって「社会認識中心vs市民的資質中心」という論点で議論が行われた。すなわち、社会認識と市民的資質を統一的に育成すべきという一元論の立場に立つのか、それとも、社会認識と市民的資質育成を分離すべきという二元論の立場に立つのか。その議論は社会認識を、社会事象についての常識・教養という事実的認識、社会事象についての学問成果という科学的認識、社会事象についての判断や価値観という価値的認識の三層で構造的にとらえることを通して整理されてきたと指摘する。
その上で、川口会員は、2000年代後半以降の社会科教育学の研究において民主主義社会の形成者を育てるための学習対象と学習方法のどこに焦点を当てるかという点から、次の2つの軸からなる4象限で分類・整理し、分析した。すなわち、社会の形成者を育てる学習の対象として、社会を形成する個々人の選択・決定(ミクロ)に重点をおくのか、それとも、人々の権利を保障するシステムとしての制度・体制(マクロ)に重点をおくのか。また、学習の方法としては、社会のあり方や自らの経験の反省・批判という「自立・反省」という方法を重視するのか、外部に立ち向かい、社会との関係を構築する「自律・参画」という方法を重視するのかという軸である。(草原和博「社会認識と市民的資質」社会認識教育学会『新社会科教育学ハンドブック』明治図書、2012年)
これら2つの軸により、マクロな制度・体制を学習の対象として、自立的に反省し、批判する学習方法を構想する研究と「自律と参画」という学習方法を構想する研究、そして、ミクロな選択・決定について自律的に反省し、批判する方法をとるものと、「自律と参画」という学習方法を構想する研究との4つのタイプが析出される。全国社会科教育学会編集の『社会科研究』における、28の論文を分析・整理した結果が報告された。図の数字は論文数である。
「選択・決定」×「自律・参加」の事例として、路上禁煙・ポイ捨てを禁止する千代田区の「生活環境条例」とマナーとして規制しようとする文京区の方法を比較しながら、「改正条例」を提案していくという学習が紹介された。また、「制度・体制」×「自立・反省」の事例は、ナイジェリアとシエラレオネの内戦の原因、内戦の解決と民主化を妨げている構造を学び、アフリカの内戦を止めるための条件を考える学習である。
28の論文の分類結果は図の通りであるが、「制度・体制」×「自律・参加」が1件と少なかった理由については、学校教育の一教科として、制度を構築する学習は時間的に難しいのではないかと分析する。また、そもそもなぜ、本質論を問う論文が減っているのかという点については、「社会科はどうあるべきか」という規範的な研究から「どうなっているか」を探る実証的な研究が重視されてきたこと、また、教師・生徒の意思決定の主体性が重視されてきたことからではないかと指摘した。
最後に、政治主体育成をめぐっては、4つのタイプなど多様な論点が設定できること、現実的な文脈の多様性を考慮すること、そして、どのような政治主体を育成すべきかを決めるのは誰かという論点の設定が必要であると結んだ。
三人目の登壇者として鋒山会員からは、熟議デモクラシーに関する議論と慶應義塾大学DP(討論型世論調査)研究センターによる社会実験が学校教育に示唆することが報告された。
熟議とは「法案や政策立案を正当化する理由を、また市民自身が提起する政策課題を正当化する理由を公共の議論を通じて検討すること」である。「選挙や世論調査を通じて特定されるそのつどの多数意思」ではなく、「理由の交換・検討」(公共的推論)を経て形成される意思が尊重に値する「市民の意思」とされる。「問題を多角的な角度から検討するという点から見ておのずと限界」があるような「少数の専門家のみによる熟議」ではなく、「市民自身が熟議に携わり、法や政策の正当化理由を検討する」ことにより「熟議とデモクラシーとが離反しないようにする」ことが「熟議デモクラシー」であり、それは「意思決定の内容をより正しいものにしていくうえでも不可欠」である。
しかし、現状は、「コミュニケーションがそれぞれの集団の内部に閉じ、それらを相互に媒介するようなコミュニケーションが有効に働いていない」という「公共圏の分断化」が広汎に見られる。さらには「そもそも異なった意見をもつ人々との対話それ自体を避け、多分に暴力的な仕方で自らの一方的な主張を示す動き」さえも散見される。(斎藤純一『不平等を考える』ちくま新書、2017年)
こうした状況の中、「自生的には生じにくい多様な意見の媒介をはかり、より正確な情報の取得(情報過程)と意見の交換・理由の検討(討論過程)を通じた意見形成を導く制度」としてミニ・パブリックスがある。特に、スタンフォード大学討議型民主主義センターのフィシュキンが考案した討議型世論調査に注目する。これは、議題となる政策課題について、世論調査の回答者を基礎として無作為に選定された市民によって討論フォーラムを形成し、そこに参加した市民に対して、資料によって十分な情報を提供し、小グループに分かれて他の参加者とともに討論させ、さらに全体会議で専門家による解説を与えたうえで、これらの過程が、市民の意見形成へどのような影響を与えたかを選定するという社会調査である。
鋒山会員は、その具体的事例として、慶応義塾大学DP研究センターが2011年に実施した「日本での初めての本格的な『討論型世論調査』」(柳瀬昇『熟議と討議の民主主義論』ミネルヴァ書房、2015年)を検討した。そこではまず、公的年金制度について、日々の生活に忙しいため、自ら進んで深く考え、他者との議論に積極的に参画することは少ない普通の人々に対して、制度についての正確な事実認識レベルを向上させる中で、どのように意見が変容するかが記録された。また、他者との対面での討議により社会制度に対する価値意識のレベルが変容したことが報告された。
市民にとって意見形成に有益と評価されたものは、①全体会議での専門家との質疑応答、②討論資料からの情報、③小グループ討論への参加であった。十分な情報と多様な背景を持つ他者との議論は、公共政策決定のための有益な参照情報を提供する意義がある。
教室という空間は、社会での熟議デモクラシーの予備的体験の場としての条件を備えている。専門家の役割あるいは専門家をコーディネートする役割を教師は果たすことができる。また、小グループ討論への参加を教室での実践として具体化することは可能である。熟議の空間がどこまで形成されたかを評価する規準として例えば次のような観点がある。「異論を認知的に見て生産的なものとしてとらえる」こと。「理由の検討に積極的にフィードバック」が与えられること。
(3)会場からの質問と意見と報告者からの回答
以上の報告に対して、会場の参加者と報告者の間で次のような論点で議論が交わされた。
まず、政治的主体形成に関わる目標論については、誰を定めるのかという論点である。国家が目標を決め、目標が上から降りてくるという状況への危機意識が語られた。それに対するオルタナティブとしては、国家は選択肢を提供することに留めるべき、子ども議会の取組などに着目し、目標設定の地域性を考慮することなどの意見が出された。
また、どう生きるのかについてSNSではつぶやくが、教室空間では語らない、教師からも、子ども同士からもお互いの生活が見えない、そういう子どもたちに、どんな目標をどのように設定していけばよいかという論点も提起された。
次に、評価論については次のような議論が出された。国家の意思に対抗して、教室で政治的主体が立ち上がっていくという営みが成立したとき、それをどう見取っていくのか。政治的主体形成を目標として掲げることは理解できるがそれはどのように評価していくことができるのか。また、それは誰が評価するのかという問題が提起された。
それに対して、レポートや集団での討論の質を相互評価・自己評価すること、自己評価できているかどうかを他者が評価することが出された。しかし、食育の自己評価が健康の自己管理や自己責任を補完するだけのものになるなど危険な面もある。振り返りやペアレスポンスなどが表面的になってしまう現状をどう打ち破っていくかを考えるべきという意見が出された。
さらに、政治主体形成につながる学習経験の保障に関しては、考えの違う人と協力して何かを為し遂げたという民主的な成功体験が必要という意見、ドイツの政治教育から学ぶこと、機械的で形式的な中立ではなく、憲法や人間の尊厳を尊重するという観点で政治的中立を捉えるべきではないかという意見等が出された。
(4)まとめ
本課題研究の目的は、「自分たちが生きる社会における公共的な利益や価値について、自ら定義しようとし、自分も参加して定義された公共的規範には進んで従うという態度」(山口二郎)や「自分たちが考え抜いた公共的な利益や価値にもとづく政治的決定に主体的に参画するための知識や技能、思考力・判断力・表現力」を児童・生徒に育成するためには、学校教育はいかなる教育目標・教育内容を開発し、その成果をいかにして評価していくことが求められるかを探究することであった。新自由主義に対するオルタナティブとしての新しい公共性を再構築していくこと、熟議のための専門家との対話能力、資料を読み解くリテラシー、多様な意見を持つ他者とのコミュニケーション能力を身につける教室空間をつくること、そして、ミクロな選択・決定とマクロな制度・体制を自立的に反省し、自律的に参画するという4つのタイプの多様な授業実践を開発していくこと、これらが、3名の報告者より示されたその問いへの回答であったと考えられる。
会場の参加者との議論は、構造的に再生産されている政治的、経済的、社会的意思決定に参画できない人々も含め、すべての市民を政治的主体へとエンパワーする教育の目標と評価論の根本問題についての議論であった。
文責:岸本実(滋賀大学)
【公開シンポジウム】
障害のある人々の学卒後の生活・労働の現状から、教育を考える
シンポジスト:
特別支援教育制度のもとでの学校から社会への移行
河合 隆平(金沢大学)
国際比較からみる障害者の学卒後の就労支援・生活支援
田邊 浩(金沢大学)
障害のある人の学卒後の生活の現状と教育への期待――障害者相談支援の活動から
村田 南美(金沢市障害者基幹相談支援センター)
司会・コーディネーター:八木 英二(京都橘大学)・松田 洋介(金沢大学)
今回大会では、大会実行委員企画枠で、「障害のある人々の学卒後の生活・労働の現状から、教育を考える」というテーマでシンポジウムを行った。このテーマにしたのは、学会として「学校から仕事への移行」をめぐる問題に教育目標評価論として本格的に取り組んでいく意向を持っていると聞いていたこと、また、金沢大学には障害児教育のスタッフが充実しているので是非その方たちに参加してもらいたいという声を聞いたからである。障害児教育学・障害児教育史が専門の河合隆平会員に声をかけたらすぐにご快諾いただき、またこのシンポジウムのために学会にまで入会してもらった。また、現在進行形で発達障害者の学校から仕事への移行支援に関する国際比較調査を実施している同僚の田邊浩会員にも声をかけたら、すぐにご快諾頂けた(松田も田邊会員の科研のメンバーであることもあるのだが)。そしてその二人と初の会合をもったときに、やはり現場の実態を熟知している人に話してもらいたいよね、ということになり、金沢市で障害のある人の相談支援に長年携わってきた村田南美会員の名前が河合会員から挙がり、依頼を差し上げたところ、これまたすぐにご快諾いただけた。司会は、松田、それに加えて学会理事であり、長年、障害児教育をめぐる問題を国際的な視野から追跡し続けてきた八木英二会員にお願いしたところ、これまたすぐにご快諾いただけた。その後、村田会員、田邊会員、河合会員に松田を加えた4名で、おおよそ月に1度のペースで研究会を開催して、問題関心を共有してきた。
シンポジストの中で、共有してきたのは、第一に、2013年に障害者差別解消法が成立し、日本社会においても、障害のある人々を包摂するための取り組みが本格的に始まっている時代であり、「発達障害」への社会的注目ともあわせて、「健常者」を前提とした社会の仕組みのあり方それ自体が問い直されている時代になっていること、第二に、しかしながら、その一方で新自由主義的政策がとられる中で、全般的に雇用が不安定化し、また福祉が削減される状況にあるということ、いわば福祉主義の再編が生じているということである。こうした状況に、障害のある人々の労働や生活のあり方にかなりの程度影響を受けざるをえない。第三に、第二の点とも関わるが、雇用が全般的に不安定化し、賃金所得の低い層が増加する中で、賃金と福祉のセットで生活していくというスタイルは、障害のある人のみならず、多くの人が共有する前提になるということである。そうした状況の中で、わたしたちはどのような教育目標を立て、どのような教育を構築していけばいいのか。
当日の報告は、以上のような問題関心を松田が説明した後、三人のシンポジストが報告した。最初の報告は、「特別支援教育制度のもとでの学校から社会への移行」というタイトルで、河合会員から行われた。まず、障害者の中等教育終了後の進路は、労働法制を基本とする「一般就労」と社会福祉法制を基本とする「福祉的就労」に二元化してきたこと、その中でもとりわけ一般就労を目指し、そこへの適応可能性を目指した教育が行われてきたこと、にもかかわらず「一般就労」の枠は著しく限定されてきたこと、そして、高等教育部への進学は基本的には一般就労できなかった人が選択する進路であり、だからこそ、高等部教育において、職業教育や社会的自立が大きな課題・争点となってきたという基本的な問題把握が示された。その上で、そのような「職業教育としての高等部教育」が成立した経緯を1980年年代にさかのぼって説明された。1980年代を通じて形成されたのは、軽度の生徒に対しては「専門教育としての職業教育」を、重度の生徒には「普通教育としての職業教育」をという構図であった。しかし、その区分はあくまで相対的なものであり、基本的には知的障害のある生徒に高度な専門教育は不可能であるという認識を前提にし、「作業学習」によって限定的な作業の反復を行い、具体的な知識や技術の習得よりも、就業に必要な態度・習慣の形成・社会適応が目標とされていった。また、その中で、職業教育や作業学習に極端に傾斜した教育課程、職業自立を軸にしたコース制、「特殊教育」対象外の軽度の生徒を受け入れる高等部単独設置校=「高等養護学校」も形成されていった。そうした状況の中で、教育運動の側からは、障害程度に応じた能力主義に歯止めをかけ、極端な職業教育偏重や進路選択を是正し、人格と能力のトータルな発達保障(全面発達)と自分で進路・職業を選択する力量の形成を目指す取り組みが産まれた。そこでは、職業的知識・技能を到達目標化するのではなく、カリキュラム上のバランスとすることが課題となった。1990年代以降、高等部進学率が上昇し、多様化する中で、政策の側からも教育目標として「自立と社会参加」が強調されるようになったことが指摘された。河合報告で強調されたのは、「愛される障害者」「社会的自立」という教育目標は、学校(特殊教育)の側が社会的要求に過剰適応することでつくり出したものであるということである。その上で、今後の障害のある人々の教育を考えていく上で重要なことは、「障害者」として生きる権利・働く権利、生活の知恵と技を伝達することにあることはもちろんのこと、その内実を当事者とともに考えていくことである。
次に、田邊会員が「国際比較からみる障害者の学卒後の就労支援と生活支援」というタイトルで報告した。エスピン・アンデルセンの福祉レジーム論に依拠して、アメリカ(自由主義)、ドイツ(保守主義)、スウェーデン(社会民主主義)の3つの国を対象とし、障害のある人々の生活保障や障害者の就労に関する政策について比較し、国際的な視野の中で日本の障害者の就労支援システムの特徴を浮かび上がらせようとするものであり、田邊会員自身がここ数年間にわたって実施している国際比較調査で得られた知見をまとめた報告であった。3カ国の中では、やはり社会民主主義のスウェーデンの支援システムが充実していることがわかる。完全雇用の理想が徹底しており、障害のある人びとの働く権利も当然のこととして尊重されており、だからこそ法定雇用率も存在していない。
就労支援についても、職業安定所やグループホームなどで、1人1人の状況に応じて手厚い支援がなされている。ドイツは、伝統的に、障害のある人々に対して、雇用率制度によって就労支援を進め、障害のある人々を保護しようとしてきた。一方、教育においては、特別支援学校卒業後、職業学校に進むことによって、就労が目指されるシステムが確立しているが、成人以後の支援システムについては課題が残っている。最後にアメリカは、雇用率制度は存在せず、基本的には1990年に成立した障害のあるアメリカ人法(ADA)に定められた差別禁止によって、障害者の就労を進めるという方向性にある。ただし、保護雇用は全体的に縮小する方向にある。さらに、障害を認められた場合、福祉の支援は手厚く受けることができる。だが、それを認められるまでが容易ではなく、交渉等にかかるかなりの労力を必要とする。また、障害を認められなかった人びとは、適切な支援を受けることができなくなってしまうし、福祉全体も縮小傾向にあることが指摘される。3カ国はそれぞれ異なっているが、社会保障給付から、就労による所得保障への重視に向かっていること、また、インクルージョンが強調され、一般就労がより望ましい目標となりつつあることは共通している。その上で、これらの国と比較すると、日本は簡単には位置づけにくいが、おおよそドイツとアメリカの中間的な位置にあると指摘される。障害のある人々を支援するための法や制度がようやく整備されてきたが、現実的にはいまだ、障害のある人々の就労はさほど進んでおらず、その背後には、欧米に比して、障害者に対する差別が根強く残っていることがあるのではないかと指摘される。インクルーシブ教育もすすんでいない一方で、雇用率制度はあるが、ドイツと比較してその率は低い。保護雇用も、差別解消への取り組みも弱い。学校から就労への移行がスムーズになされ、切れ目なく支援を受けることができるということが重要であるが、この点で日本にはなお問題があると指摘された。
最後は村田会員が「障害のある人の学卒後における生活の現状と教育への期待—障害者相談支援の活動から—」というタイトルで報告がなされた。最初に近年の障害者施策の変遷について整理しながら、「ノーマライゼーション」理念が浸透してきたことが示される。続いて、生活を支える制度として、「自立支援給付」と「地域生活支援事業」を示した上で、障害のある人の学卒後の生活を支える仕組みとして、一般就労、福祉就労、とりわけ就労継続支援A型、B型から、生活介護、自立訓練など制度について、その概要が示された。それらを踏まえた上で、村田会員が相談支援に関わる中で、出会った事例が紹介された。ひとつは、高校卒業後に障害が表面化した二つのケースである。大学への進学後、一人暮らしをはじめたとたん2週間で生活が破綻するケース。高卒後、就職するが、職場で上手くいかず、数日から数ヶ月の単位で転職を繰り返すケースである。両ケースとも専門医から「自閉スペクラム症」の診断を受けることで、相談支援につながった。本人は自分の困難さが障害に起因していることがわかり、生活の立て直しや再就職に向けてトライすることができるようになるが、こうしたケースの場合、障害の受容はむしろ家族のほうが難しく時間がかかる。
また、家族や学校に相談できずにネットで検索し、支援者につながるケースもある。二つ目は、17歳で相談支援につながった引きこもり状態の男子のケースである。小学校高学年から不登校気味になり、中高とほとんど引きこもり状態にあった。別居していた母の努力でどうにか公的機関につながり、療育手帳を取得し、相談支援へとアクセスすることができた。このように、本人も家族もどうしてよいか分からぬまま、20〜30年にもわたって引きこもり状態が続き、家族の高齢化により、顕在化して支援につながる人も多い。そこから、他職種連携により、困難の早期発見・早期介入の必要性が指摘される。以上のような知見を踏まえ、村田会員は当事者が卒業後に必要な力として、「自分で考える力、選択できる力、決める力」、「他者との信頼関係を構築する力、自分らしさを大切にする力、支援を求める力」が必要であると指摘する。そのためにも、学校教育には、個々の段階に応じて選択したり決めたりすることのできる体験や機会を保障すること、同じように、自己肯定感が持てるような、他者とのコミュニケーションの機会を保障することが必要だと指摘する。と同時に村田会員が強調するのは、社会を構成する一人ひとりが多様性を認め人としての尊厳を大切にできる力を、障害のない人も含めてもつことであり、そのような力を身につけさせることが教育が担う役割であることが指摘される。
3人の報告を受け、司会者である八木会員から、教育目標・評価学会の蓄積と、以上の知見を架橋するための問題提起がなされたのを皮切りに、参加者から意見・質問が出された。具体的には、河合報告については、対抗的な高等部実践の具体例、インクルーシブ教育が進展するなかでの特別支援学校の機能・役割などに質問が寄せられた。支援学校の教員からは、保護者からも就職率で学校を評価される現状があるなかで社会で生きる力をどのように育てるか、そのためにも権利教育をさらに深める必要があるとのコメントが寄せられた。田邊報告に対しては、コンピテンシー概念、特にEUにおけるコンピテンスの標準化について、ヨーロッパにおける障害者福祉の制度を支える理念とその教育について、特別支援学校とインクルーシブ教育の問題についてなどの問いが投げかけられた。村田報告に対しては、就労移行を支援する場面において、様々な担い手との間の連携をいかにするのか、また、障害の判断・診断はどのようにおこない、どのように支援していけばいいのか、などをめぐる質問や意見が出された。大会日程の最後の時間帯での開催だったこともあって、参加者はやや少なめであったが、活発な議論がなされると同時に、障害のある人々の視点、とりわけ彼ら彼女らが直面する労働や生活の実態から、教育を再構築することの意義が確認されたシンポジウムであった。
文責:松田洋介(金沢大学)