第25回大会(2014年11月29日~11月30日)
於:群馬大学教育学部(荒牧キャンパス)
学会第25回大会を終えて
大会実行委員長 山崎 雄介(群馬大学)
2014年11月29日(土)・30日(日)の2日間にわたり,群馬大学教育学部(荒牧キャンパス)において,教育目標・評価学会第25回大会が開催されました。初日の理事会こそ雨にたたられましたが,それ以外は天候にも恵まれ,講演,課題研究,自由研究発表,公開シンポジウムのそれぞれの研究課題を深めることができました。参加の皆様に心より御礼申し上げます。
ドラマ「相棒」初期のサブタイトル「たったふたりの特命係」を下回る「たったひとりの実行委員会」のこととて(名簿によるともう1人会員が職場にいるらしいのですが,当日バイトで来てくれた学生に指摘されるまで気づきませんでした),司会を務めさせてもらった公開シンポジウムを除いてはせっかくの貴重なご発表もほとんど聴くことができませんでしたが,懇親会その他でお話しできた会員の方や,参加してくれた同僚の声を聴く限り,それぞれに充実していたようです。ご登壇・ご発表いただいた会員,司会やコーディネーターなどをしていただいた会員を始め,質問や意見で議論を深めていただいた参加者の皆様に重ねて御礼申し上げます。ありがとうございました。
個人的なことにはなりますが,11月の始めに帯状疱疹を患い,その後の不調を騙し騙し校務に臨んでいたこともあり,「本当にできるのかな?」,「『史上初,開催校事情により大会そのものを中止』にしちゃおうか?」とかいろいろ考えてしまいましたが,本部事務局のご高配,アルバイトで助けてくれた7名の院生・学生諸君,そして何より,参加者のみなさまのご協力により,無事に大会を終えることができて安堵しています。と書いてはみたものの,引続き諸々の業務に追われる日々ではあるのですが,これは会員の皆様もご同様かと思います。
個々のパートについては別途本通信に詳細に報告されるかと思いますので,最後に,司会で参加させていただいた公開シンポジウムについて,少々感想を述べさせていただきます。
プログラム上のタイトルが,「教育○○学の立場から」と,えらくザックリしたものが3本並んでいたので,(私自身も含め)ちょっと不安を抱かれた会員の方も多かったのではと思いますが,蓋を開けてみれば,この種の催しとしては異例といっていいほど,報告者間のやり取りがかみ合っていて,司会の出番があまりないほどでした。とくに,「リテラシー」の語義として昨今強調されている,「所与の情報を単に『読める/理解できる』にとどまらず,『使いこなす/発信する』」といった点をどう実現するかを,具体的な教育実践に即して考えるきっかけを与えてもらったことに,あらためて登壇者の皆さんに感謝したいと思います。
個人的には,この間,「道徳『教科化』」について書いたり喋ったりする機会がちょくちょくあることもあり,「道徳教育でもPDCAサイクルを機能させろ」,「パフォーマンス評価の導入を(←中教審答申では『数値的評価はしない』って言ってるのに,果たして出番があるのか...)」とかいう,中身を考えて言っているとは到底思えない軽薄な議論と対比させつつ,あらためて考えてみたいと思っています。
【講演】
批判的思考指導の理論と実践
講 師: 樋口 直宏 (筑波大学) 司 会: 大津 悦夫 (立正大学)
教育目標・評価学会では、第25回大会において、筑波大学の樋口直宏教授をお招きし、「批判的思考指導の理論と実践」をテーマとする講演を開催しました。講演は、樋口氏による『批判的思考指導の理論と実践―アメリカにおける思考技能指導の方法と日本の総合学習への適用―』(学文社、2013年)にまとめられた成果を土台に、1.現代における批判的思考指導の意義、2.アメリカにおける批判的思考研究、3.批判的思考力を育成するための授業実践、という構成で次のように行われました。
1.では、多義的な概念である批判的思考(critical thinking)が、「ある主張や事象に対し問題点を感じとり、根拠となる情報にもとづいてその構造や状況を分析、整理しながら、妥当性を評価するとともに、解決策や代案を含む判断、意思決定を行うこと」と定義されました。この定義では、第一に「おかしいぞ、本当か」と問題点を感じ取るということ、第二にそれが「どうおかしいのか」ということを分析したりすること、第三に、自分なりの判断や意思決定をしていくこと、という3つのポイントが含まれています。批判的思考に関する研究は、この3つの視点の違いとして整理することができます。加えて「誰に対して」という点で、他者と自己という視点を加えることで、包含的に批判的思考をとらえられる概念として批判的思考が示されました。
批判的思考は諸外国において、例えばOECDのDeSeCoプロジェクトに示されたキー・コンピテンシーや、昨今注目を集めている21世紀型スキル、KSAVEモデルなどにおいて、明に暗に言及されています。また、日本においても、「生きる力」、全国学力調査(例えば、平成24年の小学校理科2-(5))においては批判的思考の要素が含まれています。文部科学省による『言語活動の充実に関する指導事例集』では「クリティカル・シンキング」の語が用いられました。新しい学習指導要領の策定が進む中で、日本でも批判的思考の育成の必要性が高まっています。
こうした批判的思考の育成の背景に迫るべく、2.において、1910年代のデューイに始まり、現代に至るアメリカにおける批判的思考研究の展開が、各時代の豊富な事例と共に整理されました。1910年代に、デューイは批判的思考を「留保された判断」と定義しましたが、これは1930年代に変容し、反省的思考(reflective thinking)へと展開しました。その後の1930から40年代には、ビドルやエドワースらのプロパガンダ運動が批判的思考研究の端緒となりました。同時期、教育に関しては、タイラーの8年研究においても言及されました。また、ワトソンらによって批判的思考のテストが開発されました。
続いて、1950年代から70年代にかけては、論理学の発展の中で批判的思考研究が展開されました。論理学の中で規定したブラックや、概念の研究を進めたエニス、批判的思考に関して10の態度と50の技能を挙げたアンジェロらを挙げることができます。また、タバによる批判的思考のカリキュラム研究・開発は注目に値します。タバは、実際に社会科において、批判的思考を育成するカリキュラムを作っています。また同時期には、コーネル批判的思考テストをはじめとするテストも開発されました。
1980年代になると、平等性から卓越性へと教育観が展開する中で、高次の思考の育成が目指されるようになりました。スキルという形で高次の思考をどのように指導するのかが議論され、批判的思考の指導プログラムが豊富に生み出されました。また先のエニスも、1980年代にリフレクティブな思考へと概念を修正しています。その中で、教科の中で育成する集中アプローチ、思考技能を直接指導する一般アプローチ、教科内容と思考技能を折衷して教える注入アプローチという3つのアプローチが示されるようになりました。
しかし、1990年代になると、心理学における構成主義アプローチや批判的教育学といった概念が登場し、批判的思考ではとらえきれない思考が注目されるようになりました。それとともに、ポールによるハンドブック、ハルパーンによるワークブックの開発が行われ、概念の整理とともに、具体的な指導が示されるようになりました。こうした動向は、現在にも引き継がれています。
以上のように展開されている批判的思考とその指導に関する研究は、現代日本の学校教育にどのような示唆をもたらすのでしょうか。3.において、批判的思考力を育成するための授業実践について、報告が行われました。批判的思考を授業で扱う場合、教科学習に含めるのか、あるいは教科外の学習を含めるのかという軸、そして、思考そのものの教授、思考と教科内容とを関連付けた教授、教科内容から結果的に思考が形成される教授という軸による2次元マトリクスによって整理されます。
樋口氏は、総合的な学習の時間を利用した授業を学校教育現場で共同研究しました。たとえば、品川区の小中一貫教育におけるクロスカリキュラムの授業では、「町のカラスは住みやすいか」というテーマについて、なぜカラスは都会のごみ集積場に来るのか、といったカラスの立場から考えることを取り入れた授業が開発されました。また、アイスクリームの違いを子どもが分類する活動を通じて基準に気付く授業、テレビのニュース番組の比較を行う授業が紹介されました。他にも、小学6年生に対して20年後の自分達を、世の中がどう変化しているか、20年前と現在との比較を通じながら、論理的に考える授業が開発されました。
つくば市でも、21世紀型スキルを参考にしながら、つくば次世代型スキルが開発され、その中に思考スキルは位置付けられています。こうした思考スキルとしての批判的思考の育成は、広島県、新潟県、熊本県をはじめ、全国でも論理科などの名称で思考スキルの育成を目指した試みが進められています。
以上の報告に対して、次の質疑応答がなされました。第一に、批判的に思考する力を育成する教育における論点として何があるのかという質問です。これに対して、樋口氏は、「批判的(critical)」という言葉そのものがまず論点になると回答しました。これを自身や他者、さらには社会に対する課題の発見や提案という意味を含めて「批判的」と訳すのか、それとも、ロジカルな思考、意思決定や問題解決といった要素を中心に、クリティカル・シンキングとするかという点です。批判的教育学では前者の要素を含めて議論していると考えられます。
第二に、思考スキルを抽出して、トレーニングをする実践事例が紹介されたが、その効果はあるのか、という質問です。これに対しては、樋口氏は次のように回答しました。思考スキルの効果は、心理学では、論理的なつながりといった観点では効果があると言われています。実験研究や調査を通して、個々のスキルについては確かに効果が出ています。しかしながら、批判的思考のトレーニングの成果として全体的な力がついているかといえば、必ずしもそうとは言い切れません。また、教科内容と全く別に思考スキルを教えることが可能かどうかという点についても、懐疑的です。
それにも関わらず、なぜ思考スキルと抽出して教える必要性があるかといえば、内容を教えることになると、例えば数学では、数学的思考力は教科内容をふまえた思考力になってしまいます。もともと子どもが持っている考える力は、直接教えることは難しいという問題があるので、あえて切り離して扱うことが必要と考えています。そのため、思考スキルを練習し、思考のしかたの基礎を身に着けて、実際の教科に適用する時間があってもいいのではないかという問題意識から、思考スキルの授業研究がスタートしました。他方で、こうした汎用的な思考を扱うことそのものが、総合的な学習の時間の理念とも合致する側面を持っていると考えています。
第三に、階層格差や学校格差とどのように批判的思考の育成が関連するのか、という質問です。これに対しては次の回答が行われました。1980年代のアメリカで生まれたため、今日のアメリカや日本とは違いがあります。確かに、批判的思考の育成には、エリートを育てるという側面もあります。そのため、批判的教育学がcritical thinkingという用語を使用していないと理解できます。こうした動きの中に、階層の問題を受け止めている点を見出せます。
第四に、クリティカル・シンキングでは問う力も重要であるが、これがどういう社会的な文脈で可能になるのか、そしてこれを学習者はどのように自分の生活に活かすのかという質問です。これに対して、問う力そのものはクリティカル・シンキング研究の中であまり議論されておらず、授業の中で問う力を子どもたちの生活に活かしていくのかについては研究の余地があることが指摘されました。生活に活かすという点については、日本では総合的な学習の時間を中心にスキルを際立たせ、内容と関連付けながら、現実に近づけた授業を実践していく必要があると課題が示されました。
文責:大下卓司(神戸松蔭女子学院大学)
【課題研究】
教育評価再考 ――豊かな子ども、教師、学校へ――
報告者:
習熟論再考
小林千枝子(作新学院大学)
京都府教育委員会総括指導主事・遠藤光男氏に聞く ――公開ヒアリングその1~その3――
平岡さつき(共愛学園前橋国際大学)
森雅美のレポート指導の実践
平岡さつき(共愛学園前橋国際大学)
「地域に根ざす教育」と到達度評価
小林千枝子(作新学院大学)
司会:河原尚武(近畿大学)
コーディネーター:小林千枝子(作新学院大学)
最初に小林氏から、本研究について「中内敏夫の到達度評価=『正系の嫡子』論が研究の契機であり、習熟論も見直したい」との発言がありました。現代の評価論もふまえて今回の課題研究を進めたことが述べられ、課題研究の成果をまとめた冊子『教育評価再考』(全172頁)が配布され、これに基づいて説明が行われました。
小林氏から次のような報告がありました。
近年ではパフォーマンス評価、ポートフォリオ評価研究が進められ、現場に降りてきています。その一方、批判も行われています。佐貫浩(法政大学)は、「田中グループと中内の一元論はちがうのではないか」との観点から論考も発表しています。態度の評価について、中内は「内言」に注目し、態度と述べるべきではないと主張し、習熟は発展性段階の学力がついたときにあらわれる人格や行動に関わってくる部分であり、知の個性的なあり方と限定しました。さらに、中内の指導過程の三次元モデルにおいて、中内自身の説明によると深みの軸は習熟ではない、とも述べました。中内は指導過程の円形(球形)モデルで習熟を位置付けました。ここでは指導過程の最後に習熟が位置づく、としています。学力形成の延長上に位置づく習熟としての人格形成は人格形成全体のごく一部分にすぎませんが、それでも、科学的・論理的な思考を踏まえた人格形成であるという点で、人格の骨格に相当するだけの根強さをもつと考えています。
一方、京都府の到達度評価における「長帳」では態度が学力として位置付けられ、稲葉宏雄も態度を学力として位置付けています。情意と認知を並行に位置づける図を最初に出したのは中原克巳で、ここにも習得→習熟の順序性はあります。稲葉および長帳では、態度が学力の一要素として位置付けられています。稲葉は情意的性向の習熟について「習熟としての態度、態度としての習熟」と述べています。そして、習熟を内面化し、それを定着させた子どもの育成を目指しています。態度の習熟は、認知や技能の習熟と関わるというとらえ方で、中内が排除した態度を強調しています。生活指導からの学力形成があるという立場ということになるでしょう。中内は生活指導からの学力形成はありえないとの立場であり、違いは鮮明です。
整理すると、稲葉は態度を伴ってこそ学力が学習者自身のものになるという立場です。一方、中内はこれを入れると教化になると考え、教師が関与できるのは内言指導にとどまるとの立場をとりました。中内の習熟論では教育を知育に限定するものととらえ、教科外活動や生活綴方は教育ではないと明言したことも、この辺りと関係があるのではないでしょうか。以上のような報告が行われました。
次に、平岡氏から京都府教委総括指導主事であった遠藤光男の公開ヒアリングをもとに次のような報告がありました。
京都府では、1973年4月に、①庁内の指導主事会議のプロジェクト、②研究所員も加えたプロジェクト、③各教育局の教育課程担当指導主事を加えた閣外プロジェクトの3つの評価検討プロジェクトが設置されました。
評価の検討の際、「3(普通)」に大変困りました。学力の中身を数量に直す必要は本来ないのですが、しかし、要録や入試との関係ではその必要が生じていたからです。学力態様はスパイラルに力動的なものであり、知識あるいは技能について明らかにしたうえで、どのようについていくのかという部分を発展性と考えます。発展性の中には、応用力、速度、巧緻性、創造性、発展的思考性が入っています。今日、到達度評価に貼られたラべリングとは異なり、学力は子どもたちが主体的に獲得するものであり、子どもたちの獲得過程に目を向けるということ、子どもたちに課題の追求という方向性を持った意欲的で最適な学習過程・認識過程を求めたい、との立場でした。
ここでいったん質疑応答を行いました。事実問題として、長帳が出るところで中内はどの程度かかわっていたのかという質問があり、関わりはなかったと思うとの回答がなされました。また、中内習熟論について遠藤光男は読んでいたかとの問いについては、『学力と評価の理論』は読んでおり、続有恒の著作も読んでいたとの回答がありました。学力の段階として、「123が縦、45は横」というのは中内の影響と言えるかとの問いには、中内の習熟論の方が後との回答でした。中内が生活綴方は教科外活動で教育ではないと言っているときの教育の定義は何かについて質問があり、回答としては、教育(education)は知育であって、教材等を介して行うものであり、教科外活動は生活訓練であるとの発言がありました。教化(instruction)及び生活訓練と教育はどう違うのかとの問いに対しては、社会集団の中での人間関係の結び方、職務等の全うの仕方が教化であり、教育の方は熟慮と自由で批判的な表現の方法の獲得に重点がおかれるとの回答がありました。
続いて、平岡氏から綴喜郡草内小学校における森雅美のレポート指導について、以下のような報告がなされました。
森は新卒で草内小に着任して12年間勤めましたが、1977年に遠藤が着任するまで6年間同校は技術論中心の校内研修で、通信簿論争をきっかけに通知表改訂をおこなったにすぎませんでした。遠藤校長着任後、学校ぐるみで基礎学力の充実をめざし、子どもの主体的学習活動を育成しつつ、①基本的指導事項をとらえて到達目標を設定する、②基本的指導事項を構成する教材群を精選し、子どもの理解の道筋に沿って配列する、③分析・総合の思考操作を通して、法則・原理がわかり、それを実際の場合に用いることができるようにする、④評価を以後の指導に役立てる、などの共通課題が設定されました。
また、日常の授業実践を記録化することを重視し、研究の中心が授業論におかれ、授業の構造が研究されました。1977年以前と以後では校内研究に連続性はありませんでした。わかることとできることの結合や、教科書教材の問題性にも気づいていきました。草内小プランでは、授業構造が明確化され、1978年に基本性と発展性の二段階でとらえるようになりました。「内語」の発達をうながすものとして生活綴方が注目されましたが、森実践では、概念を自分の言葉でまとめることを重視しました。このような指導の中で、「いじめや万引きが減り、生活指導がいらなくなった」とのことでした。「教科指導と生活指導、特別活動を機能的につなげる」実践は、授業や特別活動も子どもたちが進めるものでした。森は2013年に実施した聞き書き調査に際し、草内小における到達度評価実践の取り組みは、学校教育におけるイノベーションであり、しかもイノベーションの本質は非連続性にあるため、さらに新しいイノベーションを起こさない限り消滅せざるを得なかったと述べていたとのことでした。
次に、小林氏から、京都府奥丹後の教育実践について以下のような報告がありました。奥丹後の峰山中では、「目標学習」という名称で、道徳の時間を使って総合・特活・卒論・聞き書き、地域調査などをしました。また、奥丹後の教師たちは村を捨てる学力を選択するのではなく村を解放する学力を展望し、なぜ村で生活できないのかについて探究しました。到達度評価については熱心に研究し、「丹後プラン」を作成しました。川上小では地域に根ざした教育が始められていました。75~76年度を境に到達度評価の比重が大きくなり、教育視察へも行いました。教師が親を啓蒙する姿勢がなくなり、教師の教育力を問題にするようになりました。加えて、授業を記録する、労働に伴う情意に加えて認識を重視するようになりました。非行問題も全国的にいろいろありましたが、峰山中では管理主義の対応をしませんでした。転機は1983年度1学期にあり、到達度評価の形骸化を反省する契機になりました。これは、生徒自身の目標づくりに転化できなかったことによると分析されました。1988年度に生徒の側から級・段位方式が提案され、これは学ぶことが子ども自身の目標になっていった例と言えます。親たちの家庭教育の見直しも行われました。詳しくは小林千枝子の近著『戦後日本の地域と教育―京都府奥丹後における教育実践の社会史―』(学術出版会)と合わせて見てほしい、との発言がありました。
以上の提案を受けて、質疑応答が行われました。
まず、中内氏の教化と教育の区分について、人間形成の動機で分けていた当初のものの方が分かりやすいと思うが、新しいものは科学や知は教育、人間関係を担う力をつけるのが教化と言う区分になっている、なぜかという質問が出されました。これに対しては、しつけの部分、職業訓練などは教化のなかでも生活訓練であるとの発言がありました。
続いて、子どもたちは結局どうなっていったのか、また地域と学校が対立したこともあったはずで、それを歴史としてどう叙述するのかとの質問がありました。それに対しては、子どもたちの中にはUターンした者もたくさんいたが、その後仕事がなく厳しい状況になったこと、地域と学校が対立していたとは考えていないとの回答がありました。
感想として、計算つまずき実態調査などが評価できるとの発言がありました。さらに、教材構造と教材の系統というのは分かるが、授業構造(『教育評価再考』p.87、6行目)とは誰のことばかという質問が出されました。これに対して、授業構造は授業構成の意味であると思われるが、森が使ったか確認するとのことでした。
次に、中内氏の教育概念は近代の概念(近代国家に近代学校ができて成立したもの)として語られているが、教材を媒介とした知と芸の伝達と限定すると、江戸時代の狩野派にも細かいカリキュラムがあること、フランスのペダゴジーの歴史にも細かいカリキュラムがあることを考えると、近代以前のこれらのものはなんと呼ぶのかとの質問が出されました。『教育評価再考』p.3のd)における教化あるいは生活訓練についても同様の疑問が出され、その違いをどう表現するのかという質問がなされました。絵師育成のカリキュラムは教育ではなく職業指導であると、小林氏は答えました。一方、平岡氏からは、中内は、社会史が提起した概念を用いて人づくりのさまざまなものを明らかにしたいという意図があった、江戸にも「教育」概念の萌芽があったと考えられているとの回答がなされました。
意見として、生活綴方は生活訓練だが、生活を変える道筋を重視しているため教化ではないのではないか、到達度評価では教師が子どもに自ら生活の目標を立てる力がつくように教科の目標を立て、子どもの認識をくぐらせ、態度も育てているのであって、生活綴方とは違い、正系の嫡子と言い切っていいのかどうかは疑問だとの発言がありました。また、現代の問題としては、教師に目標を立て評価する権限がなく、もともと教師の主体的な目標設定を重視して始まったものでも導入されたときに変質してしまう中で問題が起きているのではないかとの意見が出されました。
これに対しては、目標の持ち主が誰かということを深めないといけないこと、到達度評価と生活綴方は、子どもを知る、生活概念と科学的概念を結びつける、自分のことばで認識を深めるということは共通だが、やはり異なるものではないかとの回答がなされました。生活綴方が目指したのは生活力であること、ただし子どもの作品を検討しながら評価規準の検討をしており、方法論があったが内容論がなかったとの説明がありました。それをついたのが生活教育論争であり、教科研が内容論を考えたとのことであった。教師が教師として自立することを重視したという点では正系の嫡子ととらえることができるとのことでした。
最後に、小林氏からパフォーマンス評価やポートフォリオ評価を批判するのは勇気が必要だった、議論できる学会でありたいとの発言がありました。西岡氏から、到達度評価と「真正の評価」が対立するものとは考えていないこと、直訳語がよくないというのは同感だが、ぴったりの訳語がないための選択であったこと、また、現在の政策との関わりとしては、学テでの管理・競争の政策の中で、これに対抗する論理として少しでもよい政策をつくっていくこと、あくまで参考資料だと明言した上で資料を示し、学校の創意工夫を生かした特色ある学校づくりを励ましていくことが重要だと考えているとの発言がありました。司会の河原氏から、よい議論ができたことに感謝したいとの発言があり、拍手の中で終了しました。
文責:川地亜弥子(神戸大学)
【公開シンポジウム】
今、教育関係者に求められる評価リテラシーとは
シンポジスト:
今、教育関係者に求められる評価リテラシーとは―教育社会学をもとに-
山田哲也(一橋大学)
今、教育関係者に求められる評価リテラシーとは―教育心理学をもとに-
山口陽弘(群馬大学)
今、教育関係者に求められる評価リテラシーとは―教育方法学をもとに-
八田幸恵(大阪教育大学)
司会・コーディネーター:山崎雄介(群馬大学),鋒山泰弘(追手門学院大学)
最初の報告者である山田哲也会員からは、近年の学力テストの結果が教育政策や教育実践に強い影響力を及ぼしている「学力テスト体制」といえる状況の中で、学力テストの結果の表現、解釈、公開の在り方についてどのように考えればよいのかについて以下のような内容で報告された。
第一に、「平均(点)主義」の根強さの問題とその背景である。「学力の質」の問題を提起する新聞記事であっても、「都道府県別・地域規模別・設置主体別(国公私立)の平均正答率の一覧が掲載され、記事中も正答率が重要な指標として繰り返し言及されているように、日本では「平均点」によって改善の方向を考える思考パターンが根強い。このような「平均(点)主義」の根強さの背景としては以下の点があげられる。①「学力低下」論で水準の低下が強調された(水準低下/格差拡大のうち前者が注目される)。②日本型の「面の平等」(苅谷剛彦:個人ではなく「学校や地域といった集団的・空間的な集合体を単位に資源配分の平等を考える原理」)の影響③平均値がなじみ深い指標である。④学力獲得をめぐる競争圧力を高める指標である。
第二は、家族的背景の捉え方をめぐる問題である。日本では長年、教育調査で保護者の家庭的背景を把握することは忌避されていた。しかし、学術システムの世界では親の社会・経済的地位といった家族的背景が学力形成におよぼす影響を解明する活動は「真理探究の学術研究」として当然とされる。教育システムの世界では、社会・経済的地位といった家族的背景は学力形成への制約要因であるが、副次的な要因としてみなされる傾向にある。個別の教育実践にとって家族的背景の規定力は所与のもので、教師によってコントロールしようがないと考えられるからである。
第三は、調査データの疑似相関をめぐる問題で、因果関係と相関関係の混同という問題である。たとえば、「総合的な学習の時間」の取り組みに熱心な程度と学力テストの成績に相関関係があるデータが新聞で報道されるが、見出しや本文では因果関係と誤認されがちな表現が用いられている。相関関係が認められる変数間に、因果関係が成立するためには、さらなる条件が検討されなければならない。
山田会員は以上の問題点を指摘し、学力テストの結果を公開する際の「よりましな方法」として、三点をあげられた。①テストの結果の平均だけではなく分布を示すこと。②付加価値方式(どれだけ学力を伸ばしたか)で学校を評価すること。③家族の社会経済的な背景など、学校だけでは対応できない要因を統制した結果を示すこと。このような点を考慮しているものとして、オーストラリアの事例が報告された。
2人目の報告者である山口陽弘氏からは、群馬大学教職大学院で、大学院生がミドルリーダーとして学校現場で若手教員に「評価」の指導ができることを目標にして指導している経験から以下の報告をされた
「評価リテラシー」の重要部分を占めているのは「統計学」と考えるが、学部生を含めて、特に現職教員一般に統計学の習得を求めるのは困難であると感じている。そこで極力数式を使わないようにして説明し、統計リテラシーの基礎を教えている。優先して教えていることは、統計手法の全体像を把握できるようにすること、ユーザーとしての統計学を説明することである。また統計学の論理構造を理解できることも重視している。
現職教員の大学院生への教育評価に関する指導で重視している概念は、たとえばある単元のまとめのテストの場合、教えるべき内容の全体像を把握した上で、その本質を問うテストになっているかどうかという意味での「内容的妥当性」である。よいテストというものは、全体像についても問うが、同時にそれを構成している重要な部分もうまく問題に入れている。「内容的妥当性」は、数式を使わないので簡単そうであるが、実は一番難しい。ある課題の本質を見抜く力が求められる。全体と部分を抑えた単元理解が必要になってくるので、現職教員が力を発揮できる。教職大学院を出たミドルリーダーが、若手教員にアドバイスできるためには、「内容的妥当性」が高いかどうかを判断できる力が必要である。「内容的妥当性」の検証には、評価基準=ルーブリック作成にあたって、複数人が検討する場、すなわち集合知、実践知が機能するような場が必要である。教職大学院で研究者教員と実務家教員が、協同して指導に当たるティームティーチングは、そのような場として機能している。そこでは、統計や研究理論に詳しい研究者と、単元理解や現場での実践知のある実務家との協同が実現できている。
3人目の報告者の八田幸恵会員からは、PISAの「読解力」調査において評価対象になっている「熟考・評価」の能力をどのように捉え、そして高校の国語の教師とともに授業実践の成果に基づいて「熟考・評価」に当たる生徒の学習成果・評価基準を明らかにしていったのかについて以下のように報告された。
PISA調査の「評価の枠組み」や国際的な「読みの理解」に関する研究史を検討すると、テキストの読みの「熟考・評価」は、基準に基づく価値判断を含むが、その判断には、①テキスト(作者)の目的や意図(主題)を明らかにし、信頼できる客観的な基準を組織し、その基準に基づいて価値判断することと、②読者の基準(経験、生活、生き方)で価値判断し、読者がテキストを読む目的や意図を創造することの2つの意味がある。共同研究を行った高校の国語教師は、2011年度の実践では、生徒が「テキストに基づいて自力でストーリーを構築する力をつける」ことを目標に、「熟考・評価」の①の意味にあたる「テキストから出来事を抽出して脈絡づけることで、登場人物の心情の変化のストーリーを構築すること」「登場人物に対して、この登場人物はこのような生き方をしたという価値判断・評価を行うこと」といった小説の読み観に基づいて、学習活動をデザインし、生徒の読解の成果の評価を行った。しかし、その後移動した高校で、「なぜ小説を読まなくちゃいけないんですか」と問う生徒たちと出会い、それまでの読み観と読みの授業を問い直すことになった。また、前任校の授業においても、生徒たちがしばしばノートに、「この小説から何を学ぶべきか考えた」「友達と話し合うことで、自分の読み方・考え方が問われた」「自分はこんな読みをする人間なんだとわかった」といった記述をしていたことが意識化されるようになった。そこから教師は、小説の読み観を、テキストの「語り手」の物の見方・考え方を問うとともに、読者である自身の物の見方・考え方も問うものに変容させた。2013年度においては、「熟考と評価」を上記の②の意味である「自己のあり方や自己を取り巻く状況のあり方の理解」まで含むものとして捉えるようになり、それに依拠して学習活動がデザインされた。以上の高校国語の教師の事例から、「現場の教師に求められる評価リテラシー」として以下の点がまとめられる。・教師にとっては、自身の教育実践も、「評価の枠組み」も、よりよく理解する対象である。・教師は、自身の教育実践に対する理解に基づいて、評価の枠組みを理解する。・また一方で、「評価の枠組み」に基づいて自身の教育実践を理解し、これまで認識していなかった生徒の学習の成果を認識する。・その新たに認識された「生徒の学習成果」が、教師によって「価値ある成果」と判断されれば、それを次の授業において生徒に保障すべく、これまでの「評価の枠組み」や単元や授業設計のあり方を再考する。
以上の3人の報告をもとに、報告者同士で質疑が行われ、また、フロアからも質問・意見が出された。紙幅の関係で議論された3点をピックアップして以下にまとめた。
・山田氏の報告に関して、教育調査によって明らかにされたデータをどのように公開することが望ましいのかという点について、議論になった。山田氏からは、以下の意見が述べられた。多様な評価情報を利害当事者、関わる人々で共有すべきである。たとえば、類似した社会的文脈におかれた学校同士で共有するなど。ただし、誰でもアクセスできるように情報公開がなされることは問題である。データは教師だけがもっていればいいのではないが、不特定多数に知らせる必要はないものもある。
・山口氏の報告に関して、評価方法の「内容的妥当性」の検討方法について議論になった。山口氏からは、「内容的妥当性」の社会的文脈というものを考慮する必要性が指摘された。現場の教員との共同での評価基準=ルーブリックづくりにおいては、その学校の状況を大事にしていること。その学校の「子どもができる、のびしろの部分にはたらきかける」ということを意識しながらルーブリックをすり合わせることが重要であると述べられた。
・八田氏の報告に関しては、読みの「熟考・評価」など、日本の多く教師にとっては新規な評価基準が、国際的な「目標に準拠した評価」の基準として外から押し付けられる側面も強いと考えるが、それに対してどのように「抵抗」していく道筋が考えられるか、また、1人の教師の個人としての実践の成果をどのように教師集団としての成果に広げていくかについて質問がなされた。八田氏から、高次の思考力育成などが政策に絡み取られるのを防ぐためには、実践の事実に基づく強力で安定した学習成果物を蓄積していくことが大切であることが述べられ、共同研究した高校の国語の教師と作成した「生徒の論文集」を多数掲載した実践記録・研究成果物の刊行が、地域の他の国語教師にも影響を与えたことが紹介された。
文責:鋒山泰弘(追手門学院大学)