第27回大会(2016年11月26日~27日)
於:一橋大学 国立キャンパス
学会第27回大会を終えて
大会実行委員長 山田 哲也(一橋大学)
2016年11月26日(土)・27日(日)の2日間にわたり、一橋大学において教育目標・評価学会第27回大会が開催されました。天気が大きく崩れることもなく、二つの課題研究、懇親会、自由研究発表、総会、公開シンポジウムが行われました。本学で教育目標・評価学会を開催するのは、第14回大会(2003年)以来13年ぶりで、当時の状況を思い出しつつ、前回の大会を開催された京都教育大学のみなさんから引き継いだ資料を参考に学会開催に取り組みました。また、一橋大学の大学院生5名に、大会運営のアルバイトをお願いしました。
参加者の内訳は、正会員・臨時会員が87名、学生会員が15名でした。また、公開シンポジウムだけの参加者は、正会員・臨時会員が7名、学生会員が2名でした。遠方からの大会参加者では、沖縄県や北海道の会員がお見えでした。おかげさまで100名以上の方が参加する盛会となりました。
私は大会運営の全体に関わっていたために、懇親会と公開シンポジウムを除く他の諸活動への参加はかないませんでしたが、それぞれのセッションで有意義な議論ができたと聞いております。要旨を拝見すると、課題研究・自由研究発表のいずれも興味深い内容が盛りだくさんで、有意義な報告と活発な議論がなされたと拝察しております。都内からやや離れた場所にキャンパスが位置するにも関わらず、多くの参加者が足を運ばれた理由は、やはり本学会の会員のみなさんを中軸に、さらには会員外の方々にも関与していただくなかで、魅力的な研究が多数発表されたことによるのではないかと思います。自由研究も13件の発表申し込みがあり、4会場で並行して開催されました。
大会準備委員会が企画した公開シンポジウムでは、「中内敏夫氏の教育学の現代的位相――変動する社会の中で――」というテーマを設定し、本学会の創設者のひとりである中内氏の仕事がもつ今日的な意義について議論することにいたしました。周知のように、中内氏が果たした仕事の範囲は非常に幅広く、かつ、各領域でなされてきたこれまでの研究に重要な問題を提起する意義深いものですが、シンポジウムでは中内氏の教育学の総体を「教育の社会史」「教育評価論」「(広い意味での)教育社会学」の三つに整理したうえで、中内敏夫氏の教育学の今日的な有効性と限界あるいは制約について、それぞれの立場から検討する内容を企画しました。
学会としても、また、それぞれの参加者にとっても、今日の教育をめぐる状況やそれに対して実践的、研究的にどうコミットしてゆくかという点について、中内氏が果たした仕事の意義を振り返りつつ、それを現代の文脈でどのように引き取ってゆくのかについて、改めて考えを深める機会になったように思います。中内氏の業績を整理する軸は他にもありえますし、限られた時間で結論がでるテーマではないことは承知しておりましたが、今後、さらに議論を深めてゆく手がかりとなる論点が提示されていたように思います。議論のための充分な時間を確保できず、その点に物足りなさを感じた会員がおられたかもしれません。進行の不十分さをご容赦いただければ幸いです。とはいえ、フロアのみなさまを交えたやりとりは一参加者としての私にとっても(おそらくみなさまにとっても)大変興味深く、今後も学会として議論が深まり、研究が進展してゆくことを期待しています。
至らぬ点が多々あったと存じますが、参加者のみなさまのご助力を得て、無事に大会を終えることができました。この場を借りて、参加者のみなさまにあらためて御礼を申し上げます。
大会の運営に際しては、学会幹事会・前回開催校の京都教育大学のみなさまから、きめの細かいご助言を頂きました。準備委員一同、感謝いたします。
【課題研究1】
目標・評価の視点から見たアクティブ・ラーニングの検討
報告者:
アクティブ・ラーニングの動向と課題――『資質・能力』の検討にもとづいて
松下 佳代(京都大学)
アクティブ・ラーニング時代の高等学校における『指導と評価の一体化』の可能性と課題――目標と活動の関係を問う
渡邉 久暢(福井県立若狭高等学校)
アクティブ・ラーニングと学習者の主体性――和歌山大学附属小学校での授業研究をふまえて
二宮 衆一(和歌山大学)
司会・コーディネーター:木原 成一郎(広島大学)・斎藤 里美(東洋大学)
(1)概要
最初に、司会の木原会員より課題研究のテーマの紹介と報告者の紹介があり、次に、3人の報告があった。さらに、3名の間での意見交換に続いて、フロアーと報告者間の意見交換という順で課題研究は進められた。
(2)報告者の発表
松下会員は次のように報告された。2012年8月の「質的転換答申」に始まり、2014年11月の次期学習指導要領についての諮問、翌12月の「高大接続答申」へとつながる一連の教育改革の中で、「アクティブ・ラーニング」は改革を象徴するキーワードとして機能してきたとし、普及とともに「主体的・対話的で深い学び」と概念が拡張されていると指摘した。そして、現在わが国で主張されている資質・能力の性格をふまえ、資質・能力との関係からアクティブ・ラーニングの動向と課題を明らかにするという目的から、「資質・能力」の入れ子構造を説明された。つまり、能力が知識(内容)と対で使われる第1の場合である(=能力1)。また、「資質・能力」のように、資質と対で使用されることが第2の場合である(=能力2)。そして、「能力」という言葉が資質も含みこんで用いられる第3の場合である(=能力3)とされた。
そして、世界的に議論されている資質・能力のモデルを大きく、以下の2 つのタイプに分け説明された。第1のタイプは、OECD のEducation 2030 プロジェクトでは、知識、スキル、人格(character)の3 次元に「メタ学習」を加えた4 次元モデルによって、コンピテンシーを捉えているとされた。第2のタイプとして、OECD-DeSeCo のキー・コンピテンシーを取り上げ、「道具を相互作用的に用いる」(対象世界との関係)、「異質な人々からなる集団で相互に関わりあう」(他者との関係)、「自律的に行動する」(自己との関係)という、学びを構成する3 つの関係性に対応する3 つのカテゴリーからなり、それが3 次元座標のように組み合わさって機能すると考えられていると言われた。さらに、その中心に置かれているのは、「省察性(reflectivity, reflectiveness)」であるという。
「学力の3 要素」は、改正学校教育法、高大接続答申、次期学習指導要領に向けた「審議のまとめ」と、少しずつ内容を変えているが、いずれも〈知識-能力(能力1)-資質〉という第1のタイプの3 次元構造をもっているとされる。一方で、協働性が態度の中に組み込まれたり、アクティブ・ラーニングが「主体的・対話的で深い学び」と言い換えられたりしていることから窺われるように、第2のタイプの視点も部分的には内包されているとされた。そして「3 ・3・1 モデル」に照らしたときに欠落しているのが、単に環境に適応するだけでなく批判的スタンスを取るという意味での「省察性」であるという点を最も強調された。
2人目の渡邉会員は次のように報告された。最初に、本日議論したい問いとして、第1に、「高次の学力を育む豊かな学習活動は、どのようにすれば構想できるのか。」、第2に、「その構想方法は、どこまで伝達可能・共有可能なものになるのか。」の2つを示された。この問いの背景に、「目標の精緻化は進んでいるが、豊かな学習活動は目標から直線的に導かれるものではない。」「授業者は、教材選定・発問設定において、「ひらめき」や「直観」に基づき学習活動を構想している。授業者は、このような「ひらめき」や「直観」をどこから得ているのか。」という問題意識があるとされた。
近年教科固有の学力構造の検討が進み、アメリカでは高次の「読みの理解」に「評価(evaluate)」「批評(criticize)」「鑑賞(appreciate)」といったプロセスが位置づけられる。また、日本では、能動的で主体的な世界に対する意味生成という包括的な行為として読みの行為を捉え、そういった読みの行為を育成する指導の研究が進展したとされた。ただし、能力の分析・構造化が直線的に学習活動の構想につながるわけではないのであり、高次の能力を培う豊かな学習活動が、どのようにして生み出されるのかを明らかにする課題があるという。
そして、渡邉会員の実践的研究から、単元構想のプロセス(読むことの単元設計の場合)が以下のように紹介された。つまり、最初の教材の選定基準が最も重要とされ次の観点が説明された。つまり、・現在担当している生徒の「心を揺さぶる」か、・扱われている語彙や概念のレベルが適当か、・幅広い多くの読みの能力の確実な獲得を促すか、・文学の場合、主題・解釈の広がりがあるか、・評論の場合、知っておきたい重要な概念の理解につながるものか、・古典の場合、特に強く学習意欲をかき立てるか、である。さらに、最終的にどの教材を選択するかの判断は、「ひらめき」や「直観」に基づくとされ、それは、「生徒の心を揺さぶる」としか表現しようのない、教材の「面白さ」「わからなさ」「深さ」「鋭さ」を最優先するというものであった。
次に、学習課題(発問)の考案として次の観点が紹介された。つまり、高次の読みの能力を引き起こすための学習課題を考案する際には本物の文学批評に近い活動を意識し、文学の研究者による先行研究を確認して、そこから論争的なテーマを採用し、大学でのゼミ活動のような相互批評を可能にする課題を選定するとされた。
3人目の二宮会員は、「囲い込まれた学び」と学習者の主体性という視点から学習指導要領に示されたアクティブ・ラーニングの問題性を次のように指摘された。つまり、学習者の能動性が重視されているアクティ
ブ・ラーニングの議論の中で、問われなければならないのは、それによって促されようとしている学習者の「主体性」であるという。現在のアクティブ・ラーニングによる教育改革において目指されている「主体性」とは、主体的に認知活動に携わることである。参加や主体、対話、協同といった言葉によって彩られているが、そこでの参加や主体性の意味は、カリキュラムとして定められた知識や技能を能動的に学び取ること、目標に向かって協同して進むことではないだろうかと疑問を提示された。つまり、そこでの学びは、用意された学習の筋道を教師の教えを汲み取りながら、能動的に進む活動にとどまる恐れがあるというのである。
そうした、いわば「囲い込まれた学び」を越えていくためには、学習者の主体性の意味を吟味する必要がある。日本の授業研究において、学習者の主体性は、生活と教育の結合に象徴されるように、子どもたちの生活現実や生き方と関連させて、追究されてきた。和歌山大学附属小学校でも、「学びをデザインする子どもたち」「問い続け、学び続ける子どもたち」といった研究テーマを掲げ、学習者の主体性を問うてきた。それは、教師の指示通りに学んでいく子どもではなく、自分の切実な「問い」を持ち、教室の仲間との対話と協同を通して、子どもたちの学びの「物語」を紡ぎ出すことを追究しようとするものであった。
紹介された授業研究は、6年生「わたしたちの願いと政治の働き」と5年生「わたしたちのくらしと工業」であった。自分の切実な「問い」としてそれぞれの授業で以下の事実が紹介された。6年生の実践では、教師が計画していた「6C議会を開こう!(各グループが長期総合計画を作り、まちづくりについて話し合う)」の学習に対して、子どもから「長期総合計画じゃなくて、地域の人を集めて、カフェを開いたらどうか」という提案がなされ、教師が授業計画を修正することになったという。5年生の実践では、大企業の新日鉄趣味金の鉄づくりに係わる工夫や努力を理解することを単元目標としていたのに対し、子どもは「新日鉄住金はよくても湊組の人は困るんじゃないか」という関連会社の立場の視点から発言した。この発言をきっかけに、教師が単元の目標を変更することになった。この授業実践から、授業の中での学びと子どもたちが生きている生活の現実が、何らかの切り口で結びついた時に、子どもたちは主体的に学ぶに向かうのであると主張された。そして、最後に子どもの「主体性」を担保するためには、「何ができるようになるか」よりも「何を教えるか」「何を子どもたちと共に考えていかなければならないか」を問うことが必要と指摘された。
(3)報告者同士の意見交換
ここで司会が斎藤会員に交代し、松下会員から、「3つの報告の底流にある共通性」として、それぞれに異なる観点から「現在のアクティブ・ラーニング論への批判的視点」が出されているのではないかという論点整理があった。まず、松下報告については、「教育政策における目標設定、目標と方法の関係という観点」から、文科省の提案する資質・能力やアクティブ・ラーニングに「批判性」「異質性」が欠落している点が指摘された。また渡邉報告については、「異なる視角に立つ」や「自己認識する」といった高次の読みの能力が自然と引き起こされるような豊かな学習活動は目標から直線的に導かれるわけではないという主張をふまえて、「教師の授業づくり(学習活動の構想)の観点」から批判が行われているという指摘があった。さらに二宮報告については、文科省のいう「主体的な学び」が、設定した目標や用意された学習の筋道に向けて「囲い込まれた学び」になっているという主張を取り上げながら、「子どもの学びの観点」から批判が行われている、という整理がなされた。
この整理に対し、渡邉会員は、「高次の学力を育む豊かな学習活動は、どのようにすれば構想できるのか。」、「その構想方法は、どこまで伝達可能・共有可能なものになるのか。」という問いを是非深めたいと繰り返された。二宮会員は、松下会員の指摘に同意したうえで、子どもが「囲い込まれた学び」を越えていくためには、子どもたちが授業の設計に直接かかわる回路が必要であることを実践の具体例を引用して付け加えられた。
(4)会場からの質問と意見と報告者からの回答
会場の参加者と報告者の間で次のような質疑が交わされた。渡辺会員(東京学芸大学)は、渡邉会員に対して、生徒の態度形成が渡邉会員の実践に特徴的な学習形態によってどのような影響を受けたのかという質問をされた。教科の内容と密接に結びついた態度形成の意図についても質問があった。渡邉会員からは、生徒自身が自分を発揮できる学習形態、つまり意図的に教室を教師が抜け出ることで生徒に自主性を促したりする学習形態をとっているが、そのことで育成される「協働性」「批判性」は、直接の教科の目標ではなく、包括的に形成される能力と考えていると回答された。松下会員は、「坊っちゃん」に登場する教師の人格がその担当教科と関連していた例をあげて、資質・能力の「人格(人間性)」の部分が教科によって異なりうることに同意された。鋒山会員(追手門大学)は、渡邉会員の「直感やひらめき」や二宮会員の「子どものつぶやき」という目標の捉え直しは、「2030年代の未来像」をどう描くかという提案につながるのではないかと指摘し、二宮氏の授業では、子どものつぶやきが今後のどういう地域社会を描くことにつながるのかと質問された。二宮会員は、5年生の授業を取り上げ、「新日鉄住金」の掲げる「総合力No.1(環境・安全・信頼・技術」)というスローガンが、グローバル化する鉄鋼市場の中で、中国企業に勝つための戦略であり、関連会社を訪問しその悩みを聞いた中で子どもは「湊組の人たちは新日鉄住金の路線が進めば仕事がなくなってくるのではないか。」ということに気づいたと紹介された。そして、教師が自分の設計とは異なるが、この発言をとりあげればもっと授業が深まると考え、授業の進め方を見直した点に、子どもたちの授業設計への参加を受け止める教師の姿を見出したと述べられた。徳永会員(京都教育大学)が、「最初から全開で主体的にやっていると子どもは疲れるよね。」という現場の声を紹介され、確実に学ばせたいことがあり、その学習が進んだ単元後半で「主体性」を問題にすべきではないのかと質問された。渡邉会員は、「深くて、おもしろくて、わからないから主体性が出てくるのではないかなと思っているので、単元最初はわからなくても単元後半で深まってくるという意見に賛同された。短歌の単元では、山川登美子記念館に自分の短歌が掲載されたという社会とかかわれる場面を持ってきたことが主体性を生むと紹介された。二宮会員は、徳永会員の提案に賛同すると同時に、教師が授業の設計と評価への子どもの参加の契機を作ると同時にと子どもに意見表明をする能力をつける必要性を提案された。柴田会員(福岡県飯塚市小中一貫校教諭)は、ひらめきや直感から高次の読みの能力を引き起こすための単元設計を行うという渡邉会員の発表に共感する一方、そこで求められる教師の資質・能力とは何であり、どのように養成していくと考えられるかを質問された。松下会員は、特に教科担任制の中高教諭は学校で教えようとしている教科の学習活動に類する学校外の活動に参加して楽しむことが重要である。そして、学校の外にある社会の文化的な活動の内容を教育学的な屈折を経て学習活動としてとりこむとともに、与えられた目標や自分の設定した目標を問い直していくことが求められると回答された。二宮会員は、小学校の教諭の議論に限定すると、アクティブ・ラーニングの視点を入れた授業づくりが上から下りてくる実態があり、若い先生を中心に低学年の授業等でクラスが落ち着かない現象が起きてきている。その中で、ノート指導や板書計画という日本の教師が伝えてきた教師文化が継承されずにアクティブさのみを求めていく状況に危機感を覚えると述べられた。
(5)司会のまとめ
最後に司会の木原会員から次のようにまとめが述べられた。渡邉会員の単元設計の「ひらめき」や「直感」は、渡邉会員が文芸批評のような社会の文化的活動に浸りきるという経験が生み出したと考えられる。目標内容を自分で作り出すことができ、それに加えて目の前にいる子どもに教えるための教材を発明する教師の資質・能力が必要と思われる。また、切実な問いを自分で発することのできる能力を教師は子どもたちに育てる必要がある。教員養成に従事する大学教員として、現在の学生が社会の文化的活動に浸りきる経験が困難な現状を危惧している。その後、アクティブ・ラーニングを問い直す契機をいただいたことへの感謝の発言の後、報告者への拍手の中で本課題研究は終了した。
文責:木原成一郎(広島大学)
【課題研究2】
高大接続改革の課題
――「教育接続」のための目標設定と評価改革の課題とは――
報告者:
奈良県内の高校と大学の教育接続――教員養成の分野で
赤沢 早人(奈良教育大学)
大学ユニバーサル時代の高大接続システム――オーストラリアとカナダの事例より
山村 滋(大学入試センター)
司会・コーディネーター:平岡 さつき(前橋国際大学)・鋒山 泰弘(追手門学院大学)
最初に、コーディネーターの鋒山から、この課題研究の趣旨が次のように説明された。「高大接続システム会議」による最終答申が2016年3月に出され、そこでは、「現状の入学者選抜では、知識の暗記・再生や暗記した解法パターンの適用の評価に偏りがち」で、「一部のAO入試や推薦入試においては、いわゆる『学力不問』と揶揄される状況」がある問題点が指摘されている。そこから「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の導入や高等学校での「多様な学習活動・学習成果」の「多面的評価」が「継続的に行われ、適切に活用」される事が提言されている。高等学校での教育・学習改革の成果と大学の教育・学習改革を、受験者の「選抜」を通して整合的に結びつける「教育接続」を実現するためには、目標設定・評価手法改革にどのような実践上・研究上の課題があるのか。この課題研究では、教員養成の分野で高大連携を進めている地域での大学の実践例の報告と、オーストラリアやカナダでの事例の検討をふまえた報告をもとに考えたい。
赤沢氏から「奈良県内の高校と大学の教育接続」について以下の報告が行われた。奈良県では教育委員会と奈良教育大学など県内の大学が共同で「奈良県次世代教員養成プログラム」の開発に現在取り組んでいる。このプログラムでは奈良県の教員を目指す者を高校段階から選抜・育成し、大学入学後に養成し、教育委員会が採用し、研修を行うという一連の過程の一体的な改革をめざすものであり、教員養成の分野における高大接続の取り組みである。
高校2年と3年にわたる「前期プログラム」では、「よき学習者」を育成することを目指して、「コミュニケーション力」をつける演習、「奈良県の教育課題」についてのグループ討論、優秀教員による授業体験、ディベート学習、奈良について学ぶ探究的な学習等を行うことが構想されている。
大学の4年間では、奈良県の教育の現状・課題・展望を理解し、次世代の奈良県教員として課題解決に当たることができる「よき指導者」を育成することを目指して、講義科目として「世界遺産・文化遺産・ESD・環境教育に関する科目」「学校におけるICT活用に関する科目」「小学校における外国語(英語)指導の充実に関する科目」「ユネスコ・スクール推奨授業科目」の単位を取得すること、「県内学校等におけるインターンシップ活動と高校生に対するメンター活動」を行うことが構想されている。
この「次世代プロジェクト」の目的・目標である奈良県教育委員会の教員育成指標と大学の教職課程のポリシーとの整合性を考えていくことが今後の課題であり、またこのプログラムを通じて2回ある「接続(選抜)」(大学入試と教員採用試験)での、「公正・公平性」「信頼性」「妥当性」などを高める方法が今後の重要な検討課題としてある。
以上がこのプログラムの説明であったが、赤沢氏からは、教員養成教育を高校段階に前倒しをするということではないこと、高校教育の徹底の上に立って、教員志望の学生を入学させたいというであり、大学入試選抜という入口のところで高大接続するのではなく、教育プログラムを高大両方が組みながら、両方のプログラムを「つなぐ」という発想が必要ということから今回の取り組みが生まれたことが強調された。
赤沢氏の報告に対しては、フロアーから「師範学校的な発想ではないか」「囲い込むプランではないか」「今の高大接続の傾向として、抵抗なくスムーズに条件整備をすることが目的となっているのではないか。成長・発達に必要な抵抗ということにも意味がある。抵抗・脱皮・成長というダイナミックなプロセスも考えるべきではないか」という意見が出された。
これに対しては、赤沢氏からは「(プログラムは)高校2年生から実施で、高校1年生から囲い込むということのデメリットに対してであるが、高校段階では、高校生がプログラムに出入りできる、ゆるやかさをもたせた制度を計画している」「奈良の先生になるためという目的なので閉じた世界を作りがちなので、インターシップでは多様な対人援助現場に訪問して視野を広げるようなプログラム内容も考えられている」と説明された。
次に、山村氏からは大学・短大への進学が50%を超えた「ユニバーサル段階」では、「入試選抜による接続」に頼れず「教育接続」が課題になっている、この点に関わる諸外国の事例として、単線型中等教育制度の積み上げの結果として、大学入学者選抜制度を作ってきたオーストラリアとカナダの事例が「教育接続」のあり方を考える上で参考になるとして、以下の報告が行われた。
まず、教育接続の要件として①「大学で学ぶために必要とされる能力・技能」と②「各教科・科目の体系的な学力」がある。前者に関しては、日本の学生を対象に行った「高校で身についた能力」と「大学で必要な能力」のギャップに着目した調査研究によって、「体系化・構造化」「分析・評価・結論」「創造・発表」する技能・能力は、「把握・収集」の技能・能力と比較して、高校では身についていないが、大学でより必要とされるものであること、4種類の能力・技能を通して見ると「発表・表現力」が不足していることが明らかになっている。このような結果をふまえると、従来の大学入試の筆記試験のみでは限界があり、「思考力・判断力・表現力」に関してパフォーマンス評価などを行い、高校側に評価を委ねるのが現実的・より適切で、高校の成績を大学入学者選抜資料に活用する方法が考えられる。また、「各教科・科目の体系的な学力」に関しても、大学での学びに必要な科目とその水準を設定し、高校での科目選択と履修によってその水準が満たされているか評価するという形で、①の評価とあわせて高校側に評価を委ねることが考えられる。
このような高校側の成績評価に基づいて実際に大学入学者選抜を行っているのが、カナダのオンタリオ州であり、オーストラリアのクイーンズランド州である。オンタリオ州では大学入学者の主な選抜資料は中等教育の最終学年の6科目の成績である。クイーンズランド州では、中等教育最後の2年間の5科目の成績で大学入学者の選抜が行われる。どのちらの国も各教科の目標と評価基準が、知識・理解に加えて、思考やコミュニケーション、応用などの能力カテゴリーごとに定められており、筆記試験以外にレポートや論文による評価、パフォーマンス評価によって成績が判定されている。そして、大学で専攻する分野ごとに高校で履修しておくべき科目要件と成績基準が定められている。
以上の山村氏の報告に対しては、まず「高校の成績を入試選抜に使う場合、評定の区分が5段階など少ない場合は、多数の入学希望者を選抜する際に困ることはないのか」「高校の成績という内部評価の信頼性はどのように担保されるのか」という入試制度運営上の質問がなされた。山村氏からは「大学進学率が上がると、選抜のための区分数値が細かくなっているのが実態である」「内部評価といっても、州で定めた評価基準にもとづいて内部評価が行われている。また、クイーンズランド州では各学校の評価結果を検討・調整するためのレビューアーの訓練が行われている」ということであった。次に、「日本よりも進学率が高い国々は、どの国々も教育選抜を考えているのか。教育選抜の考え方は、どの程度、日本で実現可能性があるのか。選択肢の一つか」という質問がなされて、それに対して山村氏からは「高大接続の問題は大学と社会の在り方も視野に入れて議論しないといけない。オーストラリアのクイーンズランド州では、社会人の大学生はあたりまえで、社会と大学の行き来は頻繁にある。必要があれば大学に入るという関係である」「日本でも、大学と高校の教育接続は、全国レベルでは無理でも、ローカルな単位で、複数の大学と複数の高校で提携し、定員の一部を割り当てるような形で部分的に導入していくことは可能であると考える」という回答であった。
赤沢氏と山村氏の両者への質問としては、「高大接続の際に、選抜の資料となる『能力』の範囲は、どこまでのものと考えるのか。人格的要素をも含む能力まで含むのか」という質問がなされた。赤沢氏からは、奈良県で取り組み始めている教員養成分野での高大接続では「人格的要素を含む能力」を含んで高大接続が考えられているということであった。山村氏からは、「人格的要素を含む能力まで入試選抜に活用されることには反対である。教科の知識の活用と結びついた能力に限定すべきである」という回答であった。
以上、赤沢氏と山村氏の報告にもとづいて議論が行われたが、高大の「教育接続」が今後日本で行われるためには、高校の教科教育の目標が、「知識・理解」以上の「思考」や「応用」「表現」などについても地域単位で共通の評定尺度が作成されており、その評定尺度に基づく授業と成績評価が信頼性と妥当性をもって行われるための高校教師の力量形成や仕事上の条件整備が不可欠であることが明らかになったといえる。
文責:鋒山泰弘(追手門学院大学)
【公開シンポジウム】
中内敏夫氏の教育学の現代的位相――変動する社会のなかで――
シンポジスト:
中内教育学と家族の「個人化」――親子関係の変容の中で教育目標を考える
太田 素子(和光大学)
中内敏夫による到達度評価論の現代的意義――「真正の評価」論の視点から
西岡 加名恵(京都大学)
中内敏夫における「能力主義」把握と「現在主義」の位置づけ
長谷川 裕(琉球大学)
司会: 木村 元(一橋大学) コーディネーター: 木村 元(一橋大学)・山田 哲也(一橋大学)
本学会は、教育目標・評価論の総合的な研究を標榜してきたが、学会の創設者の一人であり、その重要な理論的な枠組みを提出されてきたのが中内敏夫氏の教育学であった。氏は去る3月22日に逝去された。中内氏を偲びながら、大きな社会変動のなかにある現代的な状況において、改めてその教育学を再検討し、新たな展望を得ようとしてこのシンポは企画された。企画・コーディネートには木村元と山田哲也(ともに一橋大学)があたった。
本シンポでは、そのなかで教育の社会史、教育評価論、教育社会学という領域における研究を振り返った。こんにちの社会を特徴づける社会変動のなかで中内氏の教育学はどのような有効性をもち、あるいは限界や制約があるのかを確かめ、その作業と重ねながら同時に本学会の課題を確認した。
報告は太田素子(和光大学)「中内教育学と家族の『個人化』──親子関係の変容の中で教育目標を考える」、西岡加名恵氏(京都大学)「中内敏夫氏による到達度評価論の現代的意義-「真正の評価」論の視点から-」、長谷川裕(琉球大学)「中内敏夫における「能力主義」把握と「現在主義」の位置づけ」からなり、それを踏まえてフロアーとの議論を行い、最後に司会(木村元)から総括的な質問を示しそれに答えることでまとめとした。
太田報告は、1「中内教育学の骨子と比較発達社会史」、2「デモグラフィ研究・家族史研究の進展から」、3「中内敏夫の時期区分論とその後」、4「近世子育て史研究:<家と共同体の子育て>から」、5「家族の「個人化」と「教育」の終焉?」からなった。まず、中内氏の教育、教化、形成の人間形成の枠組みが整理され、「家族の行う教育と家庭教育」の差が説明された。比較発達社会史研究は形成や教化の仕事の思想と実践を実証的に解明するとともに、その中から<教育>の誕生を見つめるものであるとする。さらに比較発達社会史の方法として子育て書、家政日記などの文書史料に加えて図絵、玩具、子墓など物質文化資料を、人口動態史と付き合わせながら援用することが語られた。また太田氏自身の研究が振りかえられた。すなわち、武家家訓分析を通しての17世紀半ばの子育て書の分離、15世紀初頭の家訓書への幼年期の教育への言及、18世紀後半から19世紀に胎教、出生後からはじまる「教へ」の強調、農書の中の子育て意識などが解明された。それらにかかわらせて宗門改人別家別帳、近世日本の家族構造研究が検討され、中世の家族生活から近世家族への変化が、家の継承のための緊密な子育てを生み出したことが語られた。以上を踏まえながら近代家族の成立と変容も含めて、家族は長い時間をかけて変化することが強調された。なかでも第一の近代の枠内における個人化から第二の近代における家族の個人化への展開に注目すべきだと指摘された。後者は家族関係自体の選択、解消の可能性の増大があり、日本ではこの二つの個人化が1990年代以降にほとんど間をおかずに進行した。「個人化」「多様化」する家族は形成を現出する日常生活家庭の大きな変化のなかで教育の修正を迫るとする。保育学校の普遍化、子どもと共同でつくりあげる保育内容、評価尺度の当事者による共同管理などがそのなかで課題とされていることが示された。
西岡報告は、教育方法学、なかでも「真正の評価」論の立場からパフォーマンス評価を推進している立場から、中内氏の到達度評価研究の現代的意義について、次の4つの柱から検討した。第1に、中内氏の教育学は、教育=制作説にたち、「制作という行為に必ず内在し、これを指導し、軌道修正する羅針盤の役目を果たす行為」である教育評価に立脚したものであった。到達目標・評価論は、「公共的に保障されるべき目標を明確にすることを促すとともに、学力保障を教育者の責任として位置づける点で、大きな画期となるもの」である。その点で、カリキュラム設計にあたって、教育目標、評価方法、学習経験と指導を三位一体のものとして設計することを提案したマクタイとウィギンズの「逆向き設計」論との連続性が指摘できる。第2に、中内がもつ「住民運動と教育課程」という観点は、目標づくりの組織論について、公共的に保障されるべき目標を明確にする営みが国家とは異なる次元に成立しうるのかを明らかにするものであった。一方、現在、「中間の公共性」を生み出すスタンダードづくりの試みとして、京大の「E.FORUMスタンダード」などがある。代行論における子どもへの目標づくりの権限委譲は中内の理論においては宿題となっていたが、ポートフォリオ評価法における検討会などはその一つの回答となっている。第3に、学力モデルについて、中内氏は知識とカテゴリー、習熟論を軸とした学力モデルを掲げている。「逆向き設計」論では、徐々に理解を深めるために、「本質的な問い」に対応させてパフォーマンス課題をもちいることが提案されている。中内氏の指導過程の三次元モデルの生活概念と科学的概念をつなぐ「ふかみの軸」の例としての『続・山びこ学校』の実践をとらえれば、そこにはパフォーマンス評価にいたる道筋が示されていると見ることができる。第4に、今日の資質・能力論との関係で中内氏の教育概念の外にある生活訓練論に注目した。中内氏は「教科外活動は『教育』活動ではない『学校』活動である」とする。また、教科外活動での到達目標のとりだし方について、「(方向目標の程度を)子どもそれぞれの発達段階で一つの到達点というふうに、発達の概念を介してとらえなおせば、これは到達目標のひとつひとつということになるだろう」とする。そこには、ルーブリックとつながる発想を読み取れる。以上のように、中内氏による到達度評価論と、「真正の評価」論(パフォーマンス評価論)の間には、様々な点で、連続性が見いだせるとした。
長谷川報告は中内の議論を、教育領域における能力主義批判論者の多くと批判のロジックを共有しつつ、「到達度評価・目標論」に基づく評価方式の組み替えを梃子に、能力の一定水準をすべての者に平等に確実に保障する教育過程を作り出すとともに、「公教育」としての「義務教育」において営まれる「普通教育」を通じて「公共社会」を生きるのに必要な「最低必要量」の獲得を保障すべきと主張する点がその特徴であるとした。加えて教育領域外の能力主義を「タテ型の閉鎖的、情緒的人間関係」の「一掃」をもたらす合理性を帯びたものとして肯定しながら、教育領域についてはその領域外の能力主義の影響を遮断すべきことを主張するものとおさえた。1990年あたりから中内は、近代に誕生した〈教育〉の「よりよい」発達の追求は、近代の社会的文脈においては不可避的に、他者よりもよりよい能力の獲得の追求という競争性・序列性を帯び、それゆえ〈教育〉は「死滅」し、それに代わる「新しい人づくり」が生成すると主張するようになる。しかしその後中内は、〈教育〉に代わる「新しい人づくり」を説得的に提示できてはおらず、その主張の軸は依然として〈教育〉の徹底、すなわちこの社会が能力主義社会であることを前提にした上で生きていくための「最低必要量」の能力獲得の保障の徹底であった。中内が、能力主義の正統性を前提にした〈教育〉論を論じ続けるのは、日本社会とその近代学校制度に根強く残る、前近代的性格を多分に帯びた「タテ」社会的性格の問題性を重視したからであると推測できる。とは言え中内も、高度成長期を経過する中で、それらは能力主義的性格を純化させ、子ども・若者は「現在主義」的価値志向を増幅することで「タテ」社会の消失過程に拍車をかけることになるとする。一方、豊泉周治は、1990年代半ば以降に子ども・若者の間に浸透した、中内のいう現在主義と重なる「コンサマトリー」な価値志向の中に能力主義原理に対する批判的意識を見てとる。豊泉の議論を敷衍させて考えると、教育過程において形成される関係性のあり方を、そこに関与する者が、その能力を高めることに先立ち、存在しているそのこと自体を尊重されるような性格のものにすることにより、その志向性をより確実なものとしていく点を、今日人間形成の営みが追求すべき方向性として押さえることができる。それが現代の子ども・若者に見られる現在主義の広まりの趨勢を踏まえた、能力主義の性格をまとわない、〈教育〉に代わる新しい人間形成の方式、あるいはその性格が十分に制御され逆にそれと対抗する性質を帯びた〈教育〉のあり方として、本報告が位置づけたいものであるとした。
その後フロアーとの議論があった。中内教育学と国家の対抗スタンス、教科外の学校の位置づけ、コンサマトリー、修正六三制の評価などさまざまな意見や質問が示され、議論がなされた。最後に木村が、現代の社会状況のなかで中内教育学は部分的全体的に変更を求められているのか、求められていないのかを素質の評価にみられる教育概念の拡大の状況と照らし合わせて三者に問うた。教育学を制作の学として捉える中内氏の教育学は、モノづくりとしての人間づくりの理論であるが、そこには絶え間なる対象者(子ども)からの異議申し立てがある。それを含みながら人間をつくるという矛盾関係に立脚するという点に特徴があると考える。そのうえで最小必要限の学力の保障ということがコアにおかれているが、そのことがこんにちの揺れる学校のなかで問われているところに課題がある。そう押さえた上で、教育概念を狭く設定する中内論をどのようにとらえるか、考えを求めた。太田氏には教育と社会福祉の協業という点について、西岡会員には生活訓練の位置づけとのかかわりについて、長谷川会員には現在主義ということと重ねて問うた。太田氏は、幼児教育について言えば、中内は教育と養護が未分化な「保育」という仕事の重要性に早くから注目していたが、社会福祉と教育の関係について、学齢期以降にはとくに言及はなかった。そのうえで、教育概念を狭くしたことは却って福祉との協働を明示化する上で有効と考えているとしたと論じた。西岡会員は、教育を限定的に捉える中内氏の発想は資質・能力が強調される現在においてますます重要な意義を持つとしながらも、生活訓練をカリキュラムの一領域として位置づける可能性も視野に入れたいと論じた。長谷川会員は子どもの現在主義的価値志向の広まりの趨勢に対応し、人間形成の営みにおいて形成される関係性を、各人の存在それ自体が尊重されるような性格のものにすることが、その過程の中軸的な課題として組み込まれるべきであり、そのためにその過程の性格を中内のいう「制作」的なものより拡張することが必要になると論じた。
文責:木村元(一橋大学)