テーマ:教育課程の創意工夫と学習指導要領の基準性
2024年9月15日(日)10:00-11:30
於:Zoom
話題提供:「教育課程の創意工夫と学習指導要領の基準性――教育課程経営論から」 植田 健男(花園大学・名古屋大学名誉教授)
「教育課程の創意工夫と学習指導要領の基準性――教育方法・内容論の立場から」 赤沢 早人(奈良教育大学)
司 会・コーディネーター: 川地 亜弥子(神戸大学)
2024年 9月15日(日)10:00~11:30、「教育課程の創意工夫と学習指導要領の基準性」と題した中間研究集会2をオンラインにて開催した。参加者は約53名であった。
冒頭に司会より、以下のような趣旨説明があった。各学校の教育課程の編成に際して、学習指導要領が基準となるのはどこからどこまでなのか。学校を主体とした教育課程の創意工夫と学習指導要領の基準性について検討を行うことは、学校の教育課程編成への意欲を萎縮させないためにも重要である。植田氏から教育課程経営論の立場から基本的な話題提供をうけ、赤沢会員から教育方法・内容論の立場より論点を深めて頂く。以下、当日の発表と議論の様子を報告する。
1.植田氏報告
植田氏から以下のような報告があった。「学習指導要領の基準性」とはあくまでも「教育課程の基準」という意味であり、教科課程、カリキュラム、教育内容の「基準」そのものではない。また「基準」の意味するところも拘束力を前提とするものではなかったはずである。
「教育課程」やそのもとでの授業実践や教育活動は、さまざまな子どもや地域の実態に応じた「創意工夫」がなければ、教育は成り立たないし、学校づくり(学校経営)の根幹はそこにある。「教育課程」は、計画・実施・評価という動態の中で存在する。
今次学習指導要領は、1958改訂以来の「学習指導要領体制」の転換ともいえるもので、「『教育課程』の再定位」が行われている。教育課程企画特別部会で、学習指導要領の在り方について検討され、その見直しが提起されたことは注目に値する。いわば、「学習指導要領体制」の根幹に関わる検討が行われ始めたとみることができる。さらに、「資質・能力」論を前面に押し出したことは、根本的かつ歴史的な変化であり、教育法学から見れば、2006年教育基本法改正を受けての学校教育法改正(2007年)における「学力規定」の追加(教科目法定主義からのさらなる逸脱)以上の本質的な大問題でもある。
1976年旭川学力テスト事件最高裁判決は、当時「玉虫色の判決」と評価を受けた。そこでは、「学習指導要領の大綱的基準性」について、全国的な「公教育の一定水準の確保」と「教育の機会均等を保障」するためのものとの理解(国側の主張)と共に、「教師による創造的かつ弾力的な教育の余地」「地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地」が残されていること、教師に対してその内容を一方的に子どもに教え込むことを強制するような点が(学習指導要領に)含まれていないことが前提として確認された。
教育経営・行政研究者から、近年、「大綱的基準性」をめぐる論点として、「大綱的」の意味内容が曖昧であり、教育内容に対する不当な介入等への歯止め足りうるかという問題が提起されている。特に学校制度的基準説の立場からは、大綱的基準としての国の作為義務を重視するのではなく、不当な介入を防ぐための国の不作為義務をより重視する必要性が主張されている。
その一方、より本質的に考えれば、「大綱的」について云々する以前に「教育課程」と「教育課程の基準」の意味から説き起こせば、そもそも法的拘束力はかけられるのかという問題がある。「教育課程」とは「児童や生徒がどの学年でどのような教科の学習や教科以外の活動に従事するのが適当であるかを定め、その教科や教科以外の活動の内容や種類を学年的に配当づけたもの」「それぞれの学校で、その地域の社会生活に即して教育の目標を考え、その地域の児童や生徒の生活を考えて、これを定めるべきであるといえる。」(51年版学習指導要領)と示されていた。「教育課程の基準」も、学校制度的基準としての「教科目」については学校教育法施行規則に明記されており、「自分の学校のある地域や、その地域の児童や生徒の生活を考えて指導計画」をつくるための参考となるものという意味である。こうした中で、58年改訂の議論でも、「教育課程」が何なのかを考えると「法的拘束力」をかけようがない、との指摘が当時の文部官僚からも出ていた。
今次改訂で60年ぶりにようやく学校の「教育課程」の実態を振り返り、議論し直す余地が生まれたことは歓迎したい。一方、ICT教育、「教育スタンダード」の圧倒的な普及はその流れに逆行しており、注意が必要である。
2.赤沢会員による論点整理
赤沢会員から、植田氏の提起を受けて、現行学習指導要領における教育課程の基準性をめぐって以下の論点が示された。
植田氏が提起されたように、教育課程と、教育内容のスコープとシークエンスが同一視されている問題は大きい。その中で、特に以下の点が課題となっていると思われる。
①教育課程編成(経営)とカリキュラム・マネジメントの連続性と非連続性はどこにあるのか。ご指摘の通り、教育課程の語があるにもかかわらず、特段の説明がなくカリキュラムという語が用いられている。一方、学校で教育課程の語を出すと、「それは教科と内容のことで、それはすでに決まっている」という反応がある。そのため、あえてカリキュラム・マネジメントという言葉を使って、各学校の創意工夫を促したいという意図があるのではないのか。
②理念としての「社会に開かれた教育課程」とは何か。教育課程の語の用い方にゆれがあり、教育課程の定義が計画レベルで行われていることに対し、「社会に開かれた教育課程」の場合には計画の範疇に収まっていない。ここには、1947・51年版がめざしたものが含まれているとも思われる。
③教育目的・目標の次元での教育課程の(国家的)基準性について、内容主義から脱却するのであればどのようにとらえることができるか。資質・能力の話とも関わるが、教育課程という言葉が、何を教えるかではなく、目標を含み、それを強調しているとすれば、その際の基準とは何を意味してるか注意してみないといけない。
④学校制度法定主義/教科目法定主義の立場における教科等ごとの目標の(国家的)基準性をどのように考えることができるのか。③でも指摘したことだが、内容ベースではなく目標ベースとなる際の留意点は何か。現在の学習指導要領は内容ベースと目標ベースが入り混じっており、いわば過渡期にあると考えられる。仮に目標ベースとなったときに、各学校はそれをどう受けとめるだろうか。
3.登壇者からのコメント
植田氏から以下のような応答があった。
①教育課程とカリキュラム・マネジメントの使い分けについては、できるかぎり現場の先生にも創意工夫ができると受けとめてもらいたいという点からは理解できる一方、教科書に書いてある内容を教えるだけで精いっぱいという中で、言葉を変えてうまくいくかという懸念は感じた。
②少し話がずれるかもしれないが、社会に開かれた教育課程は51年版から示されていた。たとえば宗谷の教育課程づくりでは、計画の際にも、地域の人の悩み、つまり学校の教師だけでは出てこないものが含まれる。評価もそうだ。本当に社会に開かれたものであれば説得性があると思う。
③ ④については、基準という言葉を、抑制・点検の基準、と考えるということでよいかという問題がある。もともとの議論では、基準という言葉は、適否よりも、地域や子どもの問題をふまえて編成するという流れをおさえてほしいという意味での基準だという点で重要だろう。
4.フロアからの質疑応答・議論
その後、フロアからの質問をうけ、議論がなされた。学習指導要領は大綱と言えないほど細部にわたる内容が記されているのではないか、年次配当をどう考えるか、教育課程の計画段階におけるそれまでの教育課程への評価について、目標における内容的側面と能力的側面についてなど、重要な論点が示された。
文責:川地亜弥子(神戸大学)