第34回大会(2023年11月25日~26日)
於:追手門学院大学 総持寺キャンパス
学会第34回大会を終えて
大会実行委員長 鋒山泰弘(追手門学院大学)
2023年11月25日(土)・26日(日)の2日間にわたり、追手門学院大学総持寺キャンパスにおいて教育目標・評価学会第34回大会を開催しました。少し寒い日でしたが、両日ともに天候に恵まれ、約60名の方々にご参加いただきました。昨年の神戸大学の大会に引き続きの対面開催ということもあって、多くの人に無事お出で頂けたことに安堵しております。追手門学院大学総持寺キャンパスの斬新な設計の校舎の建物の構造も楽しんでいただけたことと存じます。
大会は、初日に2つの課題研究を行いました。残念ながら懇親会は開催できませんでしたが、大阪市内でそれぞれに親睦を深めてくださったことと思います。2日目には、8件の自由研究発表、総会、公開シンポジウムを行いました。
大会実行委員会は鋒山と李会員が組織し、当日の運営には5名の学生に受付などお願いしました。労いの言葉もたくさんかけていただきました。ご参加いただいた会員の皆様のご協力に感謝いたします。
初日の課題研究Ⅰ「教育・学習・評価・承認」では、「承認」という行為・関係の核心は、その相手の存在そのものを肯定することであるとしたならば、「承認」は教育・学習・評価とどのような関係にあると考えるべきかについて検討されました。社会理論の原理的な問いかけと教育実践史からの事例検討が、かみ合った内容になっていたと感じました。課題研究Ⅱでは、「教育目標・評価研究の理論と実践を発展させる教育実践研究とは」というテーマで、教師教育に携わる大学教員と中等学校教員の会員から報告をいただき、活発な議論がなされました。報告者の1人の中島会員は当日対面参加はできませんでしたが、オンライン参加という形で報告と質疑応答をしていただくことができて助かりました。2つの課題研究で、教育評価をめぐる教育方法学と社会哲学がクロスした議論と、教科教育学の実践研究の深化と教師教育との関係など、研究分野を架橋した議論が行われました。
自由研究発表も興味深いテーマで報告が行われました。運営側として自由研究発表には参加することが叶いませんでしたが、各会場で議論を深めてくださったと司会をしていただいた会員からきいております。
二日目の公開シンポジウムは大会校で企画をし、「高大接続の課題を思考力・表現力・探究する力の観点から検討する」という趣旨で、近年の高校教育改革と大学入試の最新動向を議論するために2名の報告者と2名の指定討論者をお願いしました。4人の発表は、各報告者の研究対象・フィールドでの事例をもとにしたテーマに迫るもので、密接にかみ合う論点を提示していただき、フロアと一体となって議論ができたと思います。登壇者のみなさまに心よりお礼申し上げます。企画側としては「公開」シンポジムでしたので、もっと広報をして、多数の方に聞いていただく準備をしておけばよかったと反省しております。
二日間を通じて、大学院生や中学校・高等学校の若い教員の参加者・会員から、報告者に対して、活発な質問や意見が投げかけられ、議論が盛り上がったことが印象的でした。
至らぬ点も多々あったかと思いますが、参加者の皆様、学会幹事会、前回の開催校の神戸大学の会員のご助言により、無事大会を終えることができましたこと、心より感謝申し上げます。本学会の発展と会員の皆様のますますのご活躍を心よりお祈りいたします。
【課題研究1】
教育・学習・評価・承認
報告者:
承認の社会理論は評価を変えるか? 概念の整理と教育学的翻案の試み
神代 健彦(京都教育大学)
自己と世界の出会い直しのなかに生きる評価 仲本正夫の教育実践に即して
本田 伊克(宮城教育大学)
司会・コーディネーター:
長谷川 裕(琉球大学)
(1)課題研究の趣旨
教育における評価とは、1つには、教育を行う者が、自らの教育活動に反省を加えて、修正・改善するために行うものである。加えて、教育する者が、子どもを学習し発達する・すべき存在として見なし、その観点から子どもを肯定/否定することとしても表れる。後者は、子どもの学習・発達のプロセスを肯定し励まし、学習し発達する主体としてかれらを育てていくことを中軸に据えつつなされるとしたら、それは望ましいものであると言ってよいだろう。
だが、教育過程における子どもに対する評価は、上記のような観点からなされるとともに、あるいはそのことを通じて、学習し発達するに先立って、とにかく生きて存在している、そのこと自体の肯定がそこに伴われることが望ましい、あるいは必要である。そうした存在そのものを肯定することが、「承認」という行為・関係の核心である。つまり、教育において子どもは、評価されるとともに、あるいは評価を介しながら、承認される必要がある。
以上のようなことが言えるか、言うことに意味があるか。言えるとして、言うことに意味があるとして、より精密に、承認は教育・学習・(発達・)評価とどのような関係にあると考えるべきか。──それらを検討したいというのが、本課題研究の趣旨であった。
(2)第1報告の概要
(ア) 第1報告の報告者の神代会員は、「教育とは、他者(被教育者)の現在のあり方を「否定」して、教育者が考えるより望ましいあり方へと変えていくという営みである」という。
(イ) 報告者は、そのような教育そのものを否定するものとして承認を位置づける「消極的(解放的)関心による再構成」の承認論に対して、つまり、被教育者の現在のあり方をそのまま是認するような承認を善しとする論に対して、批判的である。
(ウ) それは、報告者が、「なにか特定の事柄を学び、なにか特定のことをできる・わかるようになること」それ自体に「内在的価値」があり、その価値を実現しようとする営みとしての教育を善きものであると考えるからである。加えて、被教育者は、そのような価値の実現を追求する過程を通じて、その価値を担い共有する人びとの「共同性(共同体)」の中に自らを位置づけ、「自分は何に由来する存在なのか」を「自己確信」するという意味での「アイデンティティ」を獲得することができると考えるからである。このような善き可能性をもつ教育をそもそも否定するような承認論は適切ではないと、報告者は主張する。
(エ) 報告者はさらに、(ウ)の下線部分のような教育がいかに可能かを問い、それは教育の過程において教育者による被教育者の「存在の承認」がなされることによるのだとする論があると言う。その上で報告者は、そうした論に対して、存在の承認とは人間の相互行為一般が備えることが望ましいことがらであり、そのような一般的に望ましい性質のものではなく、教育実践ならではの性質の承認が、この文脈では挙げられなければならないと主張する。
(オ) そのような教育実践ならではの承認のあり方を体現している教育実践として、報告者は、横田みずほ(2018)「ぼく、本当は言いたいことがあるんだよ!」(『シリーズ子ども理解と特別支援教育①』所収)に記録された実践を取り上げる。報告者はその実践においてなされていることは、教育者と被教育者との、互いの間で「相互承認」することを介した、「人類文化への参加」という「共同事業」であると捉える。そして、この「相互承認」における承認とは、存在の承認というようなものではなく、そこでの学習と教育の諸所作がいかに上の共同事業へのコミットとしてなされているかを「評価」するという性質のものであるとする。報告者は、そのような承認のあり方を善きものとして主張する論を「積極的関心による再構成」による承認論と呼び、それが報告者自身の採る論であると述べる。
(3)第2報告の概要
第2報告の報告者の本田会員は、1970年代から1990年代初頭にかけて山村女子高等学校で取り組まれた仲本正夫の数学教育実践を取り上げ、その検討を行っている。報告者は、仲本実践の基調を、仲本自身の言葉「新しい世界の発見 新しい自分の発見」で示されるものとして捉える。つまり、生徒たちが、数学の学習を通じて、「計算ができること」だけではなくて、数をめぐる「意味や本質」がわかって「世界の見え方」が変わり、そのことによって「自分をひとまわり大きくし、その結果、成長した新しい自分を発見していく」、そのような実践の展開の追求がその基調であるということである。
報告者は、仲本のそうした実践の展開において、数学という文化が生徒にとって「自己を疎外するものではなく、承認するものとして経験」されていることを読み取っている。それは典型的には、1980年代のある生徒の「逆演算(もともとは別々に発見された微分と積分が、互いに逆演算の関係になっていること)を発見したのは、私が何億人目だろうが、それでもうれしかった。パッと自分が生まれかわって頭に電気がはしる。私は偉大な科学者」という言葉に表現されているように、数学という文化共同体に自らも参画していると意識できることを通じて、自身を自己承認するという事例に示されるものである。
(4)コーディネーターからのコメント
2つの口頭報告の終了後、コーディネーター (以下、(4)では「評者」とする)が、各々の報告に対してコメントを行った。
1)評者は、第1報告に対して、次のように論評し、報告者の応答を求めた。評者は、承認とは、存在の承認=存在そのものの肯定を核としつつ、多様な様態をとって現れるものであると考える。第1報告が示している教育における「相互承認」も、その1つの様態であると見ることができる。そうした文化への参加をめぐる相互承認と性格づけられるようなことの生起は、上記の存在そのものの肯定としての承認があってはじめて可能となっているというおさえ方をするのが適当なのではないか。評者は、このようなおさえ方をしても、教育ならではの承認の固有性を十分論じていることになると思う。言い換えれば、存在そのものの肯定としての承認について論じることと、教育固有の承認を論じることとが背反するとは考えない。
これに対して、報告者は次のように応答した。評者のようなおさえ方では、教育ならではの承認の固有性を十分論じていることにはならない。存在の承認は、人間の相互行為一般においてなされるべき規範に当たるものであり、したがって教育の営みにおいても妥当すべきことだが、その営みの入り口・スタート地点に位置づけられるものにすぎない。教育研究において何よりも捉えられるべきは、そうした一般的で基本的な承認のあり方ではなく、教育においてこそ見られる承認の様態であり、その様態とは報告で指摘したような、文化・伝統への参画に伴う承認であると考えるのが適切である、と。
2)評者は、第2報告に対して、次のように問うた。
①第2報告では、仲本の教育実践の過程において、(ア)生徒の世界の見え方が変化することが、(イ)その生徒の自己との出会い直しへとつながっているとの把握がされているが、(ア)と(イ)を媒介するものはこの実践においては何であると捉えられるか。評者は、“世界を見る見方が変化する、その自分自身を肯定的に見る”という、自分自身に対する自己承認と言ってよいようなまなざしが生まれるように、それを支える承認の働きかけ・関わりが、教師から生徒へ、また生徒同士の間でなされることが、その媒介に当たるものなのではないかと解釈するが、その解釈は妥当か。②このように世界の見え方の変化が自己との出会い直しへとつながる生徒がいる一方で、「数学者にしてみれば泣いて気が狂うほどの発見」であったとしても自分自身にとってはさほどの意味はもたないというような反応を示す生徒もいる。この差異は、この実践事例の場合どのように生じていると言えるか。
以上の評者の質問のうち①に対して、報告者は、仲本が積分を教えるための教材としてコマづくりを行ったことを例に挙げて応答した。その授業では、積分の計算によってコマの重心の位置を算出した上でコマを製作し回してみるのだが、自分が行った計算が正解かどうかを過剰に気にして実際にコマを製作して回すことをためらう生徒がいた。それに対して仲本は、実際にコマを回してみてうまく回ったら計算は正解だったということになるのだから、失敗してもいいからとにかく作って回してみようと、その生徒に伝えようとしていた。これは、正しい計算ができるか否かという点に自己を限定してしまう生徒に対して、自己から対象世界へとその視線の方向を据え直すことを促していたということである。つまり仲本の実践は、生徒たちの自己承認から始まるという展開をしているわけでは必ずしもなく、むしろかれらが対象世界に自らを開くところから始めようとしているという趣旨の応答なのだろうと、評者は理解した。
(5)質疑応答
続いて、フロアからの質問・意見とそれに対する応答がなされた。
1)まず、第1報告の行論で、現在進行中の教育改革において「メタ認知」が台頭し何を教え学ぶかという内容論が後退していると批判的に論じていることについて、学習者が内容を深く理解するためにもメタ認知は必要なことであり、メタ認知と内容理解は対立するものではないのではないかとの意見が出された。
これに対して報告者の神代会員は、報告でメタ認知に論及したのは、授業のたびに振り返りが形式的に行われるなど、メタ認知の目標化に関わる弊害が今日学校教育現場で少なからず生じていることを問題視するという趣旨であったとした上で、さらに、メタ認知というのは、それ自体を取り立てて目標化して追求すべきことではなく、個別具体的な内容についての学習を繰り返す中で時おり有意義な形で生起するものとして位置づけるべきものなのではないかと応答した。
2)次に、第2報告で描かれている、「数学者にしてみれば泣いて気が狂うほどの発見」であったとしても自分自身にとってはさほどの意味はもたないとしていた生徒(この文章の(4)2)参照)は、数学という文化の共同体は自分が所属したい世界ではないという形で自分のアイデンティティを確認していると、またそうした形でのアイデンティティの確認がなされうるほどに、仲本実践は数学という文化の意味を考える機会を生徒に提供できていると解釈することができると思うが、報告者はどのように考えるかという問いが出された。
この問いに対して、第2報告の報告者の本田会員は、実践者の仲本は、生徒たちのそうした意識の率直な表明を保障しつつ、その意識をもつ生徒の中にも数学という文化に参加していこうとする潜在可能性があることを信じその可能性を開いていこうとしていると応答した。この応答は、コーディネーターが第2報告に対して質問した②の点((4)2)参照)にも関わるものである。また神代会員は、数学そのものに対する批評も含めて数学文化であると捉えることも可能であり、そう捉えるとすれば、当該の生徒も数学文化に参加していると言えるし、質問者が言うように、仲本実践においてそれを可能にするような授業がなされていたと見ることができると応答した。
3)最後に、人類文化への参加を介した教育者と被教育者との間の相互承認という第1報告の三項関係の構図をはじめ、本課題研究で論じられていた教育における承認をめぐる議論は、それに対応する概念が明示的に用いられていたわけではないにせよ、戦後教育学の中で同様の趣旨のことが論じられていたものであると考えられるが、そうした過去の議論の蓄積に対して、本課題研究の議論はどのように接続しようとしているのかという論点が提示された。
これに対して神代会員は、発言者の言う通り、第1報告の骨子は戦後教育学で論じられてきたことであり、今回の報告はそれを新しい語彙で表現したにとどまっている、と応答した。あえて言えば、教育的価値論では能力が前景化しており、報告では文化への参加の誘い・それをめぐる承認を強調したという違いがあるが、そのようなコントラストの付け方が戦後教育学の理解として正しいかと言えば迷いがある、と付け加えた。
(6)コーディネーターとしてのまとめ
教育における承認をどのように性格づけるか(特に「存在の承認」をどのように位置づけるか)をめぐって、報告者・コーディネーター(評者)の間に見解の違いが見られた。神代会員は、人類文化への参加を介した教育者と被教育者との間の相互承認を教育固有の承認の様態と捉えるべきであり、存在の承認は教育の営みの入り口に位置づけられるものにすぎないとする。それに対してコーディネーターは、教育が促す人間形成における存在の承認の意味は大きく、文化への参加も存在の承認によって動機づけられ可能となるゆえ、存在の承認は教育において神代会員が捉えるより重要な位置を占めると考える。本田会員による仲本実践の解釈は、おおよそ神代会員の見解に沿うものになっていたように思う。
こうした見解に違いに伴って、教育における評価と承認の関係の捉え方にも違いがあるように思う。すなわち、教育における固有の承認は、評価という形をとって表れるとする神代会員と、承認は、評価となって表れもするがその核心は評価と位相を異にするとするコーディネーターとの違いである。
これらは今後よく考えていくに値する論点であると思い、そのような論点を本課題研究は提示することができたと言えるように思う。
文責:長谷川 裕
【課題研究2】
教育目標・評価研究の理論と実践を発展させる教育実践研究とは
報告者:
長期実践研究報告と学術研究論文の間で――専門職養成における研究をめぐるジレンマ
遠藤 貴広(福井大学)
研究と実践の融合における課題――OPPA論による教師の教育観の変容を中心として
中島 雅子(埼玉大学)
歓待としての『教育実践記録』――教育目標・評価の理論・実践を発展させるために
吉原 大貴(九段中等教育学校)
司会・コーディネーター:
岸本 実(滋賀大学)・徳永 俊太(京都教育大学)
(1)課題研究の趣旨
『教育目標・評価学会紀要31』(2021)の編集後記では、「教育実践研究論文」に関して、「データの収集と分析・考察のレベルをどこまで求めるのかについては、査読者の間で意見も分かれ、…(中略)…『教育実践研究』として、どのレベルまでのオリジナリティや実証性等を求めるかについては継続的に議論していきたい」と指摘された。こうした問題意識が、本課題研究のテーマ設定の背景の一つである。
他方、教職大学院における理論と実践を往還する教育実践研究が歴史的に蓄積され、全国への広がりの成果も検証されつつある。その中で、教育実践研究に求められるものは、教師としての成長につながるためには、学校における実践的な課題を解決するためには、そして、学術研究として価値をもつためには、というようにいくつかの方向から問われて続けている。また、その際、それらは一つの方向に調和的につながるのか、対立や矛盾をはらみつつ優先順位の選択の問題なのかも、合わせて問われている。
誰のための教育目標・評価かが問われる今日、誰のための教育実践研究かについても問われている。「教育実践研究」における教育実践は、それ自体、教師の創発性やオリジナリティを持つ学術的にも価値があるものとして扱われる場合もあれば、分析の対象となる「データ」として吟味され、客観性、妥当性、信頼性のある「エビデンス」として扱われる場合もある。教育実践における学習者の学び自体、創発性やオリジナリティや著者性を持つものとして扱われる場合さえある。
教育実践を対象とした研究である教育実践研究は実践主体と研究主体との関係で分類すれば、実践主体自身が自らの教育実践を対象化した研究と実践主体以外の研究者がその教育実践を研究したものに二分できる。後者はさらに、アクションリサーチなど研究者が実践者と何らかの形で協働し、その実践の計画段階より参加や関与を行い、一定の程度において実践内部から研究する場合と、実践後にフィードバックをすることはあっても、基本的にはその教育実践に対して外部から研究する場合とに分けられる。本課題研究においては、主に、実践主体自らが自身の教育実践を対象化した研究を取り扱う。そのうえで、3名の報告者と2名のコーディネーターがともに、課題を共有し、論点整理と課題の焦点化を進めたうえで、本課題に迫った。
本記録では、各報告の全体は各報告資料に委ね、まず、3名の報告の中で、以下の3つの論点についてどのように報告されたかを中心に整理する。①教育実践研究における「教育実践」をどうとらえたか、②教育実践を対象とした「研究」方法の特徴や重点は何か、そして、③教育実践(研究)を記録し、報告や論文にまとめる際に重視している点は何か。以下の報告にある①、②、③は、これらの論点に対応するものである。
(2)遠藤報告
まず、遠藤報告は、次の2点を目的とするものであった。①専門職養成における教育実践研究をめぐる問題を、教員養成フラッグシップ大学の一つである福井大学の教師教育カリキュラム改革実践を事例に検討すること。②専門職養成の実践者として、「研究」をめぐってどのようなジレンマを抱えているのかを共有すること。
福井大学における実践研究の方法論と実践記録については、「実践に内在している理論を長期的な視点から多角的に検討しながら、そして院生自身が新しい教育実践を展開し省察を重ねる中で、実践の中からの理論化を進め、実践者としての認識の枠組みを問い直していくプロセスを厚く記述していくことに重点」を置くとされた。すなわち、遠藤報告では、①「教育実践」については、理論を内在させているものであり、②研究方法としては、長期的な視点から多角的に検討されることが重視された。また、③その報告においては、実践者の認識の枠組みを問い直していくプロセスを厚く記述していくことが重要とされ、そのために長期的で多角的な視点が研究において求められていることが特徴である。
多角的で、長期的な視点での研究するため、研究データは、次のように多岐にわたるとされる。「子どもたちの作品やレポート、映像や音声、日々のノートなど様々なデータを駆使して紡がれる、院生自身の授業実践の記録。大学院入学前までに実践者として取り組んできたこと、転機となった出来事、大学院入学後に教職大学院のスタッフや院生の協力も得ながら進めている勤務校での長期にわたる院生自身の協働実践研究や組織マネジメントの展開に関わる記録。大学での授業の中で集中的に検討する他校の長期にわたる実践研究の展開や、実践のプロセスと組織に関わる研究書を手がかりに、実践を架橋する理論からの照り返しによって捉え直すようになった実践的認識の枠組みを表現した記録」。
「実践の内側からその展開と構成を記述し解明する実践研究」を強調する背景には、「長期にわたって発展を持続させている学校の実践研究の歴史」、「附属学校園を中心に大学と学校との連携・協働の模索」、そして、「近代自然科学の認識論を前提とした研究方法論(特に実証主義)一辺倒からの脱却」の3つがあると報告された。この点はショーンやデューイ、そして遠藤自身のこれまでの研究に基づき裏付けられた。
研究をめぐり、パーソナル・ライティングとアカデミック・ライティングのジレンマがあることも指摘された。しかし、例えば「実践のただ中で実践者が抱える葛藤や判断のプロセスは、主観的な部分として研究論文では端折られることも多いが、学校改革マネジメントの事例研究にとっては重要な部分となるため、この部分が詳細に書き込まれた実践報告のほうがむしろ重視されている」ことが指摘され、「実践研究論文の区分の仕方が実践報告の価値を貶める方向に作用してはいないか、構造的な分析も求められる」と警鐘を鳴らした。
報告後の補足においては、作成されたものをどのように共有すべきなのか、という論点も示された。
(3)中島報告
中島報告は、現場に生きる教育研究を、研究的実践者としての教師が、主体的に自分事として進めていくこと、そして、その中での、研究(理論)と実践の往還を、OPPシートを活用した教育実践における教師の教育観の変容の中で、実現していくことが報告された。
中島が焦点化を当てた①教育実践とは、「自己の学習のモニタリング」、「自己修正や自己調整(メタ認知)」を学習者主体で進めることができるように学習者が自身の思考を可視化できるようにデザインされたOPPシートを活用して進める「学習としての評価」の実践である。教師は、学習者の学習と自己評価の記録であるOPPシートを活用し、自身の「教育活動の意思決定のための情報収集」と「それに基づく授業改善」を行う。学習者による「学習と評価の一体化」と教師による「指導と評価の一体化」がスパイラルに往還させることが、②研究方法として重要であり、そのことにより、教師の学習観や教育観が変容し、構成主義的なものへとパラダイム転換することができることが明らかにされた。
また、③論文にまとめる点については、本学会の「研究論文」と「教育実践研究論文」についての規定を検討しながら、問題提起を行った。その提起は、「教育実践研究論文」においても、「研究論文」の規定である、「研究課題が明確で、妥当な研究手法に基づくものであり、新たな知見を提供する」論文があり、それを目指すことができること。「教育実践研究論文」の「単なる事例報告ではなくて」としながらもやや萌芽的なものも許容されるような規定は、「研究論文」と「研究ノート」を区別する規定にも見て取れ、「教育実践研究論文」の規定として十分なのかを問うものとして、受け止められた。
報告後の補足においては、三者の報告が同じ事を違う形で提起していることが強調された。
(4)吉原報告
吉原報告は、「教育における実践とは何で,それがどう記録されてきたのかを概観」し、「この歴史的整理を導き手に,今日的に求められる教育の実践とその記録を検討」したものである。
吉原は、海老原治善、川口幸宏の所論に依拠しつつ、①「教育実践」概念には、「反権力性」、実践の主体である教師の「主体性」や「創造性」が含蓄されると指摘する。さらに、小国喜弘の分析に基づき、反権力としての「教育実践」概念は,教育課程の自主編成という運動を経て希薄化し,「反権力性」や教師の「主体性」・「創造性」といった意味合いが抜き取られ,「学校における日常的な教育的営為」として使用されるようになったと指摘した。
③「教育実践」の記録については、坂元忠芳による教育実践記録論に触れながら、「教育実践記録」は,教師を一人称として子どもの変容を文学的・物語的に叙述する特徴があるとした。こうした教育実践記録についての、大西忠治や東井義雄の疑問にも触れる。さらに、授業研究における授業記録についてのその後の研究動向について分析を加えた。ここで分析されたのは、「授業の最適化・個別化・自動化を志向した教育工学」、「RR方式(Relativistic Relation Research Method)」、授業における教師と子どもの発言,活動についての「授業逐語記録」や「カルテ」・「座席表」、「教育技術法則化運動」「ストップモーション方式の授業記録」などの研究動向である。
さらに、1990年代以降の実践の研究とその記録は次の4つの潮流に分かれて進められているという見立てを示した。1)「反省的実践家」モデルを鍵として、実践における教師の省察を前景化させることで,授業改善と教師の力量形成を主眼に置く潮流、ここには,研究者が学校共同体に参与し,実践を始めとした学校改革に教師と協同しながら関わるアクションリサーチも含まれる。2)臨床教育学を基盤にしたもの。3)社会学の質的研究にならったエスノグラフィー。4)「エビデンスに基づく教育(Evidence-Based Education)」。
こうした分析をふまえ、吉原は、「教育行政の政策や学術研究の知見を自らが批判的に問い直し(「反権力性」),そこから子どもたちに分かち,伝えるべき目標や内容を編み上げ(「主体性」・「創造性」),これを実践したことによって子どもたちがどう変化したのかを丁寧に描き出した記録、これを歓待としての「教育実践記録」を提起した。
吉原報告では、上述の「教育実践記録」に基づいた報告者自身の「実践記録」は提出されなかったが、報告者なりの「反権力性」・「主体性」・「創造性」の視点――目標づくりの組織論を参照した個別具体的な目標の生成、観点別評価批判を踏まえたアクセル・ホネットの「自己評価」の実装可能性の模索――が最後に提示された。
報告後の補足においては、教育実践記録と生活綴方との関係への言及とともに、記録を誰と読むのかという新たな論点が示された。
(5)フロアとのやり取り
フロアからは、反権力の必然性、教師の主体性、論文や記録が読む集団が持つ認知バイアスへの認識といった質問・意見が出された。
フロアからの質問・意見を受けて、遠藤会員からは書かれたものの読み合う際に異なる分野の実践者が入ることの重要性が述べられた。中島会員からは、教師が自分を主語として書くことの意義が強調された。吉原会員からも同様に、私を一人称にして書くことの意義が述べられた。
文責:岸本実(滋賀大学)・徳永俊太(京都教育大学)
【公開シンポジウム】
大接続の課題を思考力・表現力・探究する力の観点から検討する
話題提供:
高等学校における科学的探究の指導の批判的検討――米国の取り組みを踏まえて
大貫 守(愛知県立大学)
高校における探究的な学びの位置づけと評価方法の比較――国際バカロレアの内部評価・外部評価と日本の調査書・大学入試に注目して
次橋 秀樹(京都芸術大学)
指定討論者: 渡邉 久暢(福井県教育庁)・山田 剛史(関西大学)
司 会: 鋒山 泰弘(追手門学院大学)
4つの報告は、各報告者の研究対象・フィールドでの研究事例をもとにしたテーマに迫るもので、各報告は重なる論点を見いだせる内容であった。以下では、時系列にそった記述というよりも、大きな論点に関連づけて4氏の報告と応答の概要をまとめてみたい。
(1)SSH校での「標準ルーブリック」開発の意義と課題
大貫氏の報告では、近畿圏の複数のSSH校が「探究活動を通して獲得すべき科学的探究力」を評価するために共同で開発してきた「標準ルーブリック」について、その開発プロセスと特徴が説明された。そして参考にされた米国の「次世代科学教育スタンダード」(NGSS)についても報告された。
標準ルーブリック開発は、「無意識に想定されていた科学的実践の考え方を基準や徴候のレベル」で取り入れ、観点相互(課題の設定、調査計画の立案と実施、情報収集と情報の評価、結果からの考察)の関係を記述し、それを共有し、意識できるようにすることが目的とされた。例えば、「調査方法の不具合から問いを再考したり、根拠とする理論の見直しをしたりする」過程など、ルーブリックが「生徒が実際に省察しながら探究を行う」行為の質を教師が見極める助けとなることが目指された。開発のプロセスでは、専門研究者である大学教員との意見交換もなされ、例えば「誤差を考慮に入れ」という表現があった場合、それだけでは「誤差をどのように捉えるのかということが明確ならない」という指摘があり、「誤差をどの程度まで考慮に入れるのかという点が明確にならなければ、読み手によって解釈の幅が広がり、ルーブリックの比較可能性が担保されなくなる」という問題が議論されたことが紹介された。このような議論をふまえ、「標準ルーブリックを開発する上では文言では表現しきれないような具体的な生徒の姿を共有し、その内容を明確にすること」が試みられたということであった。
このように開発された「標準ルーブリック」ではあったが、「2023年現在では各高校で使用されているわけではない」という現状にも触れられた。その理由は、「(ルーブリック作成)研修」と「それを具体的に(高校の)指導や評価の場面でどのように適用するのかという点」が「結びついていない」ということであった。そして「各SSH校では各校が独自の教育目標や教育内容を設定」しているので各校独自のカリキュラムと「標準ルーブリック」が合っていないという「カリキュラム適合性」という課題もあると指摘された。
また大貫氏からは、「標準ルーブリックは、後期中等教育の側から新たな評価軸を提起するものであったが、科学的実践の枠組みで議論を進めた結果として、高等教育における研究に向けた準備教育の色彩を帯びてしまったことは否定できない」という評価も示された。
(2)高校での探究学習が目指すべきこととは何か
以上の大貫氏の報告と関わって、本シンポジウムのテーマに関する根本的な論点が高校現場の実践に詳しい渡邉氏から行われた。「高校での学習指導は人間形成・人格形成を目的とするのであって、大学での探究の準備のために行っているのではない」という問題提起である。渡邉氏は、高校での探究学習は、生徒の「自己との関わり」「自己の在り方・生き方」にとって、どのような意義を持つのかを大切にしているということを強調された。一例としてW高校の1年生のグループが取り組んだ「うめぼし克服大作戦」という学習が紹介された。「若狭は梅干しが有名なのに食べられないのはもったいない」という生徒の問題意識から、梅干しの苦手の原因である「酸っぱさ」を緩和するために、台所で手に入る様々な食品・液体調味料との組み合わせを考え、様々な実験や試食を行い、「乳製品につけた梅干しがおいしく感じられる」等の結論を導き、「多くの乳製品が酸っぱさを緩和する理由」等という次の探究課題に至った学習である。このような探究学習について、渡邉氏は「大学で求められるような科学研究の手法を取ってはいないが、身近な問題を不思議に感じ、自分たちで様々に条件を変えて、試して確認するという科学の本質的な営みに触れている」と評され、「(SSHの高校での)標準ルーブリックではない形で、素朴な科学的探究から洗練された科学的(探究)へと発達していく様相を描くことはできないのか」という課題が提起された。
この渡邉氏からの問題提起対しては、大貫氏からも同様の問題意識からの応答があった。高大接続を意識した教育では、「専門知に特化した科学者だけではなく、生活者の持つ知識や知識や技能にも目を向け、多様な方法に学びながら研究を進めていく研究者像」も考えられなくてはならず、そのような人間像も視野に入れた科学的探究の像や指導や評価の方策を高大で検討する必要が大貫氏から述べられた。
(3)探究学習の成果はどのように評価され、生かされるのか
次橋氏の報告は、カリキュラムと大学入学に向けた試験・認証制度との整合性を追究している国際バカロレアという国際的な教育プログラムと日本の高校教育の探究学習、大学入試選抜方法とを比較し、検討すべき課題を明らかにすることを目指したものであった。とりわけ「内部評価」の方法に焦点があてられた。
国際バカロレアにおける「内部評価」とは、生徒が各科目で自ら選んだトピックでパフォーマンス課題に取り組み、その成果が校内で教員によって採点され、その評価点が大学入学者選抜にも用いられるという仕組みである。「内部評価」の割合は、その科目の評価点の20~30%を占める。「歴史」科目が例として取り上げられ、「内部評価」のための規準が「資料の説明と評価」「研究」「考察」というセクションごとに明文化されており、教師と生徒間で共有されているということであった。例えば「考察」の内部評価規準は、「反省」や「感想」を書くことが求められているのではなく、「歴史学の方法論について、研究から何が明らかになったかを明確に論じている」ことが求められている。このような「内部評価」が一定程度重視されるのは、外部試験(学外での限定された時間で試験問題を解く)には、適さない目標(例えば「歴史の探究を導く適切かつ的の絞れた質問を組み立てる」など)に対する生徒の達成度を証明することが大学入学資格の判定材料として重視されているからである。
以上のような国際バカロレアの「内部評価」の特徴が説明された後、次橋氏は、日本の大学入試選抜での調査書(内申書)の活用に言及し、日本の調査書の場合は、「評定が不透明(基準が下級学校による/学校間格差がある)で、学校を超える質保証がほとんどない」「調査書の評定や観点では探究的な学びについて十分に捉えたり表現したりしにくく、探究的な学習の時間やその他の記入欄では表現しにくい」等の課題が指摘された。
山田氏からは、大学教育の中での大学生の学習実態にみられる課題、高校における探究学習の推進と大学入試選抜への活用の実態とその影響について報告された。そして次のような論点提示があった。高校における探究学習と大学入試の関係で、評価の厳密さの追究(妥当性や信頼性を高める努力)が求められているが、そのような評価の仕事は教師に対して過重な(労働)要求をすることにもつながるが、その点はどのように考えられるか。高校で培われた科学的探究力は、大学入学以降にどのような影響をもたらしているのか。高校の学習と大学での学習が「接続」する側面と、「非連続」を認めた上で、大学教育が力を入れて初年次教育などで取り組むべき課題は何か等。
(4)コーディネーターとしての感想・意見
以上のような四人の報告と課題提起と応答を受けて、コーディネーターとしての意見・感想も加味して本シンポから示唆を受けた点をまとめてみたい。
①高校における探究学習は、大学での専門分化された科学研究の枠組みに限定された「研究手続き・スキルの習得・習熟」にできるだけ早くから高校生を「適応」させることのみが強調されてはならないのではないか、という論点が議論された。高校教育での生徒にとっての「探究」の意味づけ・意義づけは、多様に存在することを前提にして、生徒の多様な知的探究心を伸ばすために「探究学習」はあるという視点を基本に据え高大接続の在り方が模索されるべきであろう。
②そのような「探究学習」の多様な意味づけ・意義づけを前提にした場合、「知的探究心」ともいうべき非認知的・情意的な教育目標が大切になるが、それについて評価と評定はどう考えられるべきか。この論点は、渡邉氏から提起されたが、大貫氏と次橋氏から、探究の方法やスキルの獲得といった認知的目標の指導と評価・評定を通して、非認知的・情意的な目標も尊重されるのではないかと、海外での事例をもとに応答があった。
③山田氏から提起された、高校の学習と大学での学習が「接続」する側面と、「非連続」を認めた上で、大学教育が力を入れて初年次教育などで取り組むべき課題は何かについては、時間の関係で十分に議論はできなかったが、次橋氏から説明された国際バカロレアの中等教育の目標の中にある「各学問で用いられる方法論とその学問の研究者が直面する課題について考察する」等の目標が、日本の場合は、大学教育の初年次教育の中で重視されるべき目標になるのではないだろうかと感じた。
④次橋氏が報告された国際バカロレアという組織の下での、探究学習の「内部評価」の質保証のための評価規準の明示化と共有、実際の生徒の学習成果に基づくモデレーション(得点調整)の教育評価上の意義を、日本の学校制度・入試形態の下でも、現実化するとしたら、どのような形が考えられるのだろうか。例えば各大学の推薦入試等で、高校の生徒の探究学習の質に関して、大学教員と高校教員が対話していく事例が今後さらに蓄積されて、本学会でも検討対象になれば良いと感じた。
文責:鋒山泰弘(追手門学院大学)