第29回大会(2018年11月24日~25日)
於:和光大学
学会第29回大会を終えて
大会実行委員長 大西 公恵(和光大学)
2018年11月24日(土)・25日(日)の2日間にわたり、和光大学において教育目標・評価学会第29回大会が開催されました。大会当日は両日ともに天候に恵まれ、98名の方々にご参加いただきました(会員75名、臨時会員16名、公開シンポジウムのみ7名)。
大会は、初日に2つの課題研究が行われ、夕方より和光大学生協食堂で懇親会を開きました。2日目には、14件の自由研究発表、総会、公開シンポジウムが行われました。
和光大学で本学会大会が開催されるのは初めてです。本学には学会の会員が1名しかおりませんので、当日の運営には非会員の和光大学教員2名の協力を得ました。また、12名の学生・大学院生・卒業生にも運営の補助をお願いしました。非会員を中心とした運営体制でしたので、ご不便をおかけする場面もあったかと思います。労いの言葉もたくさんかけていただきました。ご参加いただいた会員の皆様のご協力に感謝いたします。
本大会では、課題研究・自由研究発表ともに、興味深いテーマでの報告が行われました。歴史的、社会的な研究視点から、あるいは実践的な取り組みの検討を通して、教育目標・評価の問題を共有し、議論する場となったのではないでしょうか。私はそれぞれの会場で議論に参加することはかないませんでしたが、有意義な報告と活発な議論がなされたことと拝察いたします。
今回、大会開催校をお引き受けした理由のひとつに、本学会で幼児教育の目標・評価論について議論をしたいということがありました。本学会の研究が及ぶ範囲は、学校教育にとどまらず、保育・福祉・医療の分野、さらには労働現場や家庭までも射程に入れるとされております(教育目標・評価学会編『「評価の時代」を読み解く-教育目標・評価研究の課題と展望』上巻、日本標準、2010)。しかし、これまでの目標・評価研究は学校教育を中心に行われ、幼児教育・保育の領域においては十分に議論がなされてきませんでした。私自身は幼児教育・保育研究を専門としておりませんが、和光大学に着任して保育士養成に関わるようになり、また、同僚の太田素子氏、私の前任の浅井幸子氏との共同研究を通して、幼児教育・保育における子どもの豊かな経験と学び、そしてそうした学びを評価することの難しさについて考える機会を得ました。世界的に幼児教育に「質」評価が取り込まれる動向があり、国内では幼小連携の研究や取り組みが広がっておりますが、学校教育とは異なる幼児教育・保育独自の目標・評価論とはどのようなものであるかを追究したい、そして幼児教育・保育研究の知見から学校教育研究の側が学べることがあるのではないか、ということを、シンポジウム企画を立ち上げる際に考えました。国際的な幼児教育政策の動向に通じていらっしゃる国立教育政策研究所の一見真理子氏にも加わっていただき、幼児教育・保育の目標・評価論について議論する場を持てたことをうれしく思います。
至らぬ点も多々あったかと思いますが、参加者の皆様、学会幹事会、前回の開催校の金沢大学の皆様のご助力により、無事大会を終えることができましたこと、心より感謝申し上げます。本学会の発展と会員の皆様のますますのご活躍を心よりお祈りいたします。
【課題研究1】
社会変動の中の教育目標・評価研究の課題と展望
報告者:
人類史的社会変動と教育の課題
木村 元(一橋大学)
社会とその変動をどう捉え、教育目標をどう設定するか――〈生活世界とシステム〉という視点から
長谷川 裕(琉球大学)
教育目標・評価論の現代的課題
石井 英真(京都大学)
司会・コーディネーター:松下 佳代(京都大学)
(1)本課題研究の趣旨
30周年記念出版企画の序論執筆者から、つながる・はたらく・おさめるの観点をふまえて報告が行われた。
(2)第1報告の概要
20世紀は、学校が不可欠な時代であった。1990年代に、学校化社会は転機を迎えた。基底には人類史的な社会変動の影響があり、教育や学校のありかたがその根底で問われている動向がある。
人口動態に伴う少子高齢化、グローバル化と多文化社会の進行、テクノロジー・情報革命の中のAI化に注目すると、以下が教育や学校の課題として浮かび上がる。1)少子高齢化に伴う地域社会と労働社会の変容を背景にした教育、福祉、医療・看護など機能化された関係のなかでの学校の位置の再考。2)国民を前提として作りあげられている学校制度においてグローバル化が進むなかで移入した外国人への対応。3)学級集団を基盤としていた教育がAIに象徴されるテクノロジーの浸透によって個別化と適正化の方向に進もうとしていること。それらを、生活世界、労働社会、公共社会の層から捉え、そこで人びとが新しい社会を営むための力量を、つながる・はたらく・おさめるという射程で整理・検討することが、共同研究の作業である。
本報告では、社会変動と教育・学校の課題について焦点化して整理する。
少子高齢化については、人口動態という社会の基底用件に着目し、そのうえで教育と地域社会、福祉(ケア)との関係を考える。グローバル化については、「移民」問題に着目しながら多文化社会と教育の公共性の課題を取り上げるが、そのなかに地域社会の問題を織り込む。また福祉については、AIインパクトの人類史的な位置づけとそこで問われる教育や学校の課題との関係に絡めながら検討をおこなう。
今後は、福祉国家・社会保障の再編を視野に、教育はケアとの連携を深めることが予想されるが、両者の関係には矛盾的なものを含んでおり、教育の概念が変容していくことも考えられる。
少子高齢化は、労働力不足が進むなかで外国人労働者の受け入れ問題をよりリアルにし、「外国人、移民」へと問題構制を変えていくであろう。その子どもの教育問題はすでに顕在化しているが、これまでの日本の教育や学校のあり方を正面から問うものとなろう。
「AIが仕事を奪う」という衝撃的な情報は、AIをリアルな社会の問題として考える論議の本格的な口火を切ったものだ。AIが教育にも大きなインパクトとなり、「教育」の多くの部分が置き換えられることが想定される。ビッグデータやAIの活用はカリキュラムや内容を個別化(個人向けにカスタマイズ)することを可能にする。これらは、教育の目標の議論が本格化する契機を孕んでいるものとして捉えることができる。
このような中で、義務教育は学校で行うべきか、学校のかたちの柔軟度、外国人学校の制度的な位置づけ、道徳の教科化、教科の意味の見直しなども含めて、学校制度の根幹の問題が浮かび上がっている。こうした問題は人類史的な社会変動と重なりながらであるが、戦後の学校が内包した課題への対応の一環にあるものともいえる。その意味で、改めて歴史軸との重なりで問題を把握する必要がある。そのために、本報告では「境界線の学校史」という視角をもつ。どこまでを学校やそこで教える内容とするかという「境界線」が、制度を超えて存在してきた事実への着目である。こんにち、公教育の制度の境界線が柔軟性を格段に増し、また多様性を容認するように展開している。公教育制度が画一的で融通が利かない制度として存在しているという批判があるが、制度の枠組みを緩めるということだけで問題に対応し得ているのか。公教育の成立基盤を逆に揺るがすことにはならないのか。絶え間ない境界の引き直しで新しい課題に対応してきた日本の学校の歴史を踏まえながら、改めて公教育のもっている境界線とはどのような意味を持つものであるか、教育や学校のおかれている状況の歴史的な位置を押さえたい。
(3)第2報告の概要
本報告に対して課せられている課題は、共同研究において、つながる・はたらく・おさめるの3観点を設定する意味について社会理論的な説明を行うことである。ドイツの社会哲学者であるJ・ハーバーマスが提起した〈生活世界とシステム〉図式を援用して社会とその変動を捉えながら、上記の課題に取り組みたい。
「生活世界」とは、人びとの日常生活の世界である。間主観的な世界であり、人びとにとって自明のものとして生きられている世界であり、共同的に営まれる世界である。そこでは人と人との関係が形成・維持・変容させられるが、その過程を、「つながる」と呼ぶ。
生活世界では、たいていの場合何らかの「つながる」ことを伴いながら多様な活動が展開する。その中の重要な1つが「はたらく」である。
生活世界は、人びとが、共通して直面する問題に対して人的・物的資源をどのように振り向けるかを決定しつつ取り組んだり、互いの間に生じた対立・葛藤を統御したり、それらの暫定的結果としての何らかの協同や支配-被支配の関係をつくり上げたりする舞台でもある。それらの諸過程を「おさめる」と呼ぶ。
既存の生活世界が自明視・前提視されて再生産されるままにおかれるのではなく、それの再帰的な検討が行われる場合もある。ハーバーマスはそうした再帰的検討が頻繁になされるようになりゆく過程を「生活世界の合理化」と呼ぶ。
生活世界の合理化が進展する中でその一環として、生活世界の諸課題各々を専門的に取り扱う組織・制度が生成し、それを中心に「システム」が分出する。近代において教育を行うシステムが構成されるようになったのも、その一例である。近代的な特殊な「人づくり」である〈教育〉が誕生した。
生活世界の諸課題を取り扱うシステムが分出すると、専門家・専門的知識が権威性を帯び、当該課題に関わる人びとの判断は、それらによって大きく規定され、それらに委ねられ従属することも多くなる。とは言え、それらの権威性のもととなるものの妥当性への信頼が揺らげば、人びとの間の意思疎通に基づく新たな了解の形成が試みられる場合も少なくはない。
このように生活世界からシステムが分出し、社会的世界が二元化しても、人びとは依然として生活世界を生きている。人びとの営みは、システムに方向づけられることになる。
そうした方向づけの力は、とりわけ資本主義的市場経済システムと近代的国家・行政システムにおいて強大である。両システムは、それぞれの「メディア」として「貨幣」、「権力」をもち、それらが人びとの行為を動機づけ方向づける「コントロール・メディア」として機能する。経済システムと行政システムはそれぞれ、生活世界における、はたらく・おさめるに依拠しつつも、それらを組み込む形で展開している。
早いところでは1970年代になると、従前の経済成長は困難となり統合に揺らぎが生じた。格差が再び顕在化し貧困状況におかれる人びとの割合が増加し、対立・葛藤が噴出する事態としても表れている。日本が直面している社会の変動の基本性格も、近代社会の短い相対的安定期が終わり、その後の方向性について複数の可能性がせめぎ合う状況として見ることができる。
選択すべきは、近代社会における生活世界の合理化がもたらした人権理念を拡張・深化し、その理念に基づいて貧困をなくし格差や暴力を統御し、すべての人にまっとうな生が保障されるのを目指すことだろう。
そうした方向に向けて社会を変えていくためには、依然強大な2つのシステムの統御が必要だが、並行して、はたらく・おさめる・つながるの、その方向での組み替えが追求される必要もある。教育もまた、そうした社会の変革の展望のもと構想されるべきである。
(4)第3報告の概要
今までの報告はいわゆる外的事項に関するものだが、本報告は内的事項に関わる。社会変動がもたらす、教育という営みや学校という制度をめぐる構造変容を明らかにしながら、新学習指導要領で示された改革構想を相対化する視座を示したい。そして、教育目標・評価論が取り組むべき課題を提起したい。
変化する社会への対応としての教育、学校改革が必要という語りは、歴史的に繰り返されてきた。これまでは、既存の教育や学校の枠組みは大きく動かすことなく、教育の内容や方法を考える際に、教育システムの外的規定要因として、労働社会、市民社会、生活世界等の諸要求を参照するというものであった。だが、現在の社会変動については、教育や学校の成立基盤である社会・歴史的前提の問い直しを含んでいる。教育や学校の機能と役割の再定義や他の社会システムとの間の境界線の引き直しが進行している。
より合理的で自由な社会をめざした先に、個別化・流動化・フラット化・標準化が進んでいる。それぞれの社会システム内での閉じたループが加速度的に展開することで効率性追求が自己目的化し、知の断片化や社会の分断が進み、非人間的な社会や教育に向かいがちである。他方、こうした価値観を根底から問い直し、文化性(回り道や遊びや美的なもの)、共同性(つながりや分かち合い)、公共性(対話や共生)等を大事にする、人間的な社会や教育につながる契機も見出すことができる(ポスト近代的社会状況の両義性)。人口変動(少子高齢化)、テクノロジー・情報革命、グローバル化等も両義性を有している。
新学習指導要領は、ポスト近代的社会状況の両義性を反映して、危険性と可能性を有する。社会変動の中の教育や学校のあり方を考え、より人間的で教育的なものとして構想していく上で、教育目標・評価論という分析視角を意識することの意味を確認しておこう。
第一に、教育目標・評価論は、「人づくりの技」として教育を捉える立場である。それは、教育という営みについて、実証科学、規範理論に止まることなく、新しい形を発明・構想しようとする立場だ(技術学)。教育は倫理的・政治的実践であると同時に、それは何らかの形(方法・システム)を発明するという点で、技術的過程でもあり、制作(ポイエーシス)的性格を持った実践(プラクシス)というべきものである。
技術的側面は教育の形式化・機械化・標準化と結びつきがちだ。ただし、技術的合理性を批判する際、教育に内在する技術的側面を全面的に否定すると、それを教育学的議論の外側に置くことになる。教育目標・評価論は、教育的価値の実現に向けて、教育の形の教育学的批評と再設計への実践的見通しの提起を行う。
第二に、教育目標・評価論は、学校と社会との接面の問題をも対象化しながら教育的価値の具体を問う立場である。ゆえに、目標・評価関係を分析単位とすることで、教育という営みや学校という制度のあり方や機能を、全体的・根源的にリアルに対象化しうる。
資質・能力ベースもアクティブ・ラーニングも、「教育の学習化」を招来し、何のために何をという教育課程論的な問い自体を空洞化させがちである。また、社会の要求に学校教育をより直接的に従属させる方向で機能しがちである。暫定的ではあるが熟慮された社会構想に基づいて、目標・評価システムのみならず、目標の中身自体を吟味すること、そうして目標づくりや教育課程編成の層において、人間的であること、文化的であることを基底とする教育的価値を問うことで、教育のあり方、社会のあり方を、より人間的なものへとつくりかえていく展望を探ることが求められる。
以上の報告に対して、以下のようなコメント・質問が出された。
① つながる・はたらく・おさめると、教育関連学会で扱われてこなかったテーマに迫っている。今回の学習指導要領は国民に対して脅迫的であり、「AIが仕事を奪う」ではなく雇用や働き方に影響を与える社会の在り様が問題ではないか。AIにできないことを考えるという方向になぜ行かないのか。
② 第一報告について、「いい教育実践とは何かを考える契機」「学校の土台への視点」について、内的事項については論じることができると思うが、教育目標評価論で論じることができるのかできないのか。
③ 3報告とも意外に身近なテーマだった。教育学としてどう引き取るか。この論法で今の学習指導要領を相対化できるのか。ラーニングはもともとアクティブなものなのに、アクティブ・ラーニングはおかしい。資質は天性のものという辞書的意味。両義性と言っているが概念そのものが文部科学省の提示したものに乗っかっている。第一報告に関しては、個人化してカスタマイズとはどういうことが分からなかった。
④ 教育目標は統一できないが、教育目的は共有することはできると思うが第3報告者の考えをききたい。
これらに対して、以下の応答がなされた。
木村: ①の質問はもっとも。これまでAIでもやれることをかなりやってきた。AIに関しては、価値をどうつくっていくのかが正面に据えられる必要がある。何を教えるのか、教える場そのものをどうとらえるのかが課題となる。これまでは親密を軸にしながら作られてきた学校の公共性のみなおし。福祉と教育の関係の問題を含む。
長谷川: ①の指摘はその通りで、仕事の分配も含めて、生産よりむしろ分配問題である。ギデンズの指摘する「無意味性の脅威」がある。生きていることの意味を感じ取れることが重要である。
石井: AIの話は構造変容に関わる問題であり、バイアスのかかったキャンペーンと考えている。プログラミング教育は考えるのにいい素材であり、AIを作り出す人材をつくりだす(職業準備教育)という発想か、子どもがよりよく生きていくためにAIを冷静に見ていけるようにする(リスク社会論)という方向で行くのかが課題となる。②の目標評価論の射程の部分と重なる。個人にある能力を形成するだけでなく、目標評価関係はその対話でつながりもつくる。目標と評価は権力の源泉である。つながりという目からも考えるのが重要で、承認の問題は最後に残るだろう。変わらない自由をどこまで認めるかというと、なかなか認めがたいとなるのではないか。安心の場がある構造で保障され、目標評価は構造に関わるので関係する。学習指導要領の言葉は一つの現象として捉えており、解釈はしないようにしている。現場の、教育学の、社会科学のことばで語るようにしている。したたかに読み替える余地はあるのではと思っている。
記録者としては、3報告とも密度が濃く、議論の時間がもう少し欲しかったというのが正直な感想である。出版に向けて、また出版後も議論の機会を設定する必要があると感じた。
文責:川地亜弥子(神戸大学)
【課題研究2】
教育目標・評価論をめぐる諸課題の歴史的検討
報告者:
『つながり』の歴史を踏まえて教育目標と評価の課題を探る――地域と教育の『つながり』に焦点をあてて
小林 千枝子(作新学院大学)
戦後職業教育論の再検討 ――民間教育運動の複線化構想に焦点をあてて
松田 洋介 (金沢大学)
戦後学校教育における政治的主体形成の歴史的検討――社会科学の継承と子どもの意見表明の観点から
平岡 さつき(共愛学園前橋国際大学)
岸本 実 (滋賀大学)
司会・コーディネーター:鋒山 泰弘(追手門学院大学)・川地 亜弥子(神戸大学)
(1)課題研究の趣旨
まず、司会の鋒山会員から、課題研究1で展開された問題設定の枠組みの提示を受け、「つながる」(社会的諸関係づくり)「はたらく」(労働能力形成)、「おさめる」(政治主体形成)の三つの観点に関して、歴史的にどの様な課題が提起・検討され、その総括の結果として、現代の社会の中で、教育目標・評価についてどの様な課題が提起されるべきかを検討する、という課題研究Ⅱの趣旨が説明された。
(2)第1報告の概要
小林報告は、「つながり」の問題群のうち、日本の地域と学校教育の「つながり」に焦点をあて、教育目標・評価の課題を検討したものであった。6つの時期に区分して、その特徴、及び目標と評価基準、評価者の分析が為された([ ]に記述)。
1 人づくりと地域づくりが未分化であった時代(旧共同体における人間形成)
旧共同体の人づくりは、<教育>ではなく、共同体の維持を目的とした教化や訓練であった[目標:一人前の村人になること/評価:目標準拠/評価者:長老など共同体的価値の体現者]。
2 地域が教化の対象として注目された時代――1900~10年代の地方改良運動――
地方改良運動の本質は、忠孝倫理基づく教化運動であり、旧共同体を温存して地方の「自治」による人づくりを目指した[目標:教育勅語と戊申詔書/評価:明確な基準なし/評価者:地域行政担当者、地方有力者、国家]。
3 地域の教材化が官民双方で進められた時代――1930年代の郷土教育運動――
文部省が郷土愛から国家愛の形成を目指したのに対し、郷土教育連盟の立場は地域の知的理解を目指した[目標:愛国心と郷土愛(文部省)、土地にあった学校のあり方(郷土教育連盟)/評価:明確な基準なし/評価者:地方行政担当者、地域有力者、国家]。
4 地域が学校を計画展開した時代――新制中学と地域教育計画――
地域課題としての新制中学の創設、地域教育計画などが検討された[目標:民主主義、地域の活性化、国際平和、人権など/評価:相対評価/評価者:教師・教師集団、教師集団と地域住民]。
5 地域の人間形成力が注目された時代――1970年代の「地域に根ざす教育」の広がり――
この時期の「地域に根ざす教育」の広がりは、文化伝達の前提として地域における「生活」の重要性が認知されたことにある[目標:一定の教育内容理解/評価:多くの場合到達度評価/評価者:教師集団と地域住民]。
6 官民双方から地域づくりや学校と地域のつながりが模索される現代――地域の学校化と学校の地域化――
2000年代以降の政策展開は「地域の学校化」と捉えられる[目標:「郷土愛」から「国家愛」へ/評価:絶対評価?/評価者:各教師、校長、または教育委員会?]。
他方、地域が学校を自らのものとする「学校の地域化」の動向も進展しているが、これは学校が地域の文化機関として創られた歴史的事情を背景としている[目標:地域教材を介しての知識・理解、自分づくり/評価:文章、絵画などの表現。必ずしも到達度評価ではない。/評価者:子ども達、教師集団、地域住民]。
最後に、論題との関係では「地域の学校化」か「学校の地域化」かが大きな論点となるとした。
(3)第2報告の概要
松田報告は、民間教育運動が、単線的な普通教育中心の教育システムを志向するあまり職業教育に消極的であったという指摘(本田由紀ら)を受け、この民間研の議論の限界と可能性を、職業教育問題に本質的に付随する教育システムの複線化構想へのスタンスに焦点をあて、戦後教育の理念である「教育の自律性」及び「教育の平等」とどの様に格闘してきたのかを分析の視点として検討したものであった。
まず、高度成長期に関しては、能力主義に基づく複線化構想が展開される中で、民間教育運動がコンペタンスモデルに基づく教育機会の拡大運動を展開した時代と捉えた上で、理論的リーダである堀尾輝久の所論と、高校の「総合制」と全入運動が検討された。
堀尾は、機会均等原則と単線型学校体系は本質的に階級的性格をもつとして、その限界を強調した。では、機会均等をのりこえた「公正」としての平等は如何にして実現されるのか。国民の教育要求の水準に社会の側が即応できない場合、暫定的措置として選抜(による機会均等)は是認されるが、生産力の発展や社会の仕組みの改変により社会の側が個人の教育要求に即応する形で解決していくだろう、というのが堀尾の議論のたてかたであった。
この時期、高校の総合制について、普通科をそのモデルとする全国進路指導研究会と職業科をモデルとする技術教育研究会の対立があったが、総合制を否定するものではなくその内実をめぐる論争であった。
つぎに、政策における複線化構想が挫折し、一元的能力主義秩序からの疎外問題が浮上する高度成長期以降については、黒崎勲と乾彰夫の所論が検討された。黒崎は、堀尾が問題にした国民の教育要求に社会が対応できない場合について、社会的分業への分化という機能を学校制度の課題とし、配分的正義の原則に基づく具体的な検討が必要であるとした。このため、能力の自己認識を私的なものから社会的性質のものへと転換させ、教育と経済の関係理念を多様化することが必要とした。また乾は、普遍的科学的認識を教育的価値と措定することが学習の抽象化と能力主義的競争を結果しており、特殊化のもつ教育的非価値性より抽象化によるそれが問題だとして、職業的進路分化=複線化構想を押しだした。
1990年代後半以降は、雇用の流動化による一元的能力主義が弱まり、政策における職業教育(複線化)からキャリア教育への転換や周辺化の弱まりといった時代的特徴の中、議論は民間研外部の人たちがリードしこれが民間研へ影響を与えているという。デーセント・ワークの実現を目指す中で権利としての職業教育・訓練を求める動き、あるいは、生きづらさを抱える人々の生きる技法を、新たな社会づくりと関係させながら展望する様な、ケアと文化のペダゴジーなど新たな職業教育が生成しつつあるとした。
(4)第3報告の概要
「おさめる」の目標・評価論の検討として「社会科学の継承」(平岡会員)、「子どもの意見表明権」(岸本会員)を切り口に報告が為された。
平岡報告では、選挙権年齢が満18歳以上に引き下げられたことと連動して、文部科学省が「『主権者』教育の推進に関する検討チーム」の「中間まとめ」(2016年3月)を出して、幼稚園以降各教育階梯における実践的学習プログラムの開発を志向している中、これへのスタンスの取り方が問われているとした上で、学校教育における社会科とその母学問である社会科学における政治主体形成の理論と実践が検討された。
社会科における公民教育に関しては、社会適応に傾斜しており形成者を育成するという側面が不十分との指摘が為されてきた。
これに対して、社会科学では、戦後「主権在民」理念を実現する「主体形成」が模索された。そこでは、近代西欧社会的な市民性に依拠するもの(e.g.内田義彦)や、民衆の生活倫理を軸とした主体性形成に社会変革の契機を探るものなどがあった(e.g.安丸良夫)。
政治主体形成の典型的実践として『山びこ学校』(1951)から『続 山びこ学校』(1970)、へ至る無着成恭の実践が取り上げられ、これが人々の日常意識に根付きをもった政治主体形成の系譜の一つであり、生活綴方と社会科をリンクする実践であるとされた。
最後に、「個」としての自由な人格成長論は周縁の抱える問題とセットで考えられるべき(寺田光雄)といった提起を受けとめ、目標論では、集団帰属意識の存在と問題性、周縁地域との関係性、政治・経済や文化の中心と周縁性といった問題が追究されるべきであること、評価論では、社会事象についてのフィジカルな問題意識や社会的当事者意識、課題把握の協働性、討議、実行の継続性などが重要であり、さらに学習者自身が目標設定や評価の主体となる様な目標・評価論のありかたの追究が現代的課題であるとされた。
岸本報告では、公共空間における意見表明は社会参加の第一歩であるという立場から、エイミー・ガットマンの議論などを参照しながら、これに関わる目標・評価論の実践史が検討された。
まず、目標論としては、子どもはどこまで政治主体か、教師と学校は意見表明の教育目標化にどこまで関われるかという論点、評価論としては、意見表明能力の関係論的把握と発達論的把握に基づいた評価基準の設定をどの様に構想するかという論点が提起され、この論点に基づいていくつかの実践とその解釈が為された。
頻繁に他傷行為を行う発達障害の男子中学生Tが壁を蹴った事件を、教師が、人を殴らずに壁を蹴ったということは反省している証である、と解釈してTとの対話を成立させた実践について、Tの行為を「意見表明」として「受容」することの背後には、「熟議民主主義」で強調される相互の平等を前提とする「相互尊重」と「互恵性」という価値が存在しているとした。
意見表明能力の発達に関しては、「たてへの発達」と「よこへの発達」の二側面があること、前者に関しては適切なパフォーマンス課題への取り組みによる能力発達の促進と、ルーブリックの設定によるその評価の可能性が示唆された。後者に関しては、幅広い意見の喚起など熟議の空間づくりへの貢献など指標で評価が可能であるとした。
最後に、今後の課題としては、最初に提起された目標・評価の4つの視点の吟味と熟議民主主義の原則との関係整理などがあげられた。
(5)議論
以上の報告に対し、フロアと発表者の間で以下の様なやりとりがあった。
(1) 発表のテーマに関わって、今日の社会的変動が浮かびあげている論点は何なのか、歴史はこれに応えるどの様な観点を示してくれているのか、もう少し論点を絞って議論する必要があるのではないか。
→(小林)共同体的心性が90年代以降消滅した。これに対応して「地域の学校化」政策が進められているが、これに対抗できる議論をどう構築するのかというのが論点だ。
→(平岡)日本では、歴史的に見て主権者育成という困難な状態に置かれてきた。これに対するどんな解決策があるのかというのが論点だ。
以上の応答に対し、質問者から、問題と当時の社会とをセットにして論じなければ、今日の社会状況における問題解決の参照軸にならないのではないか、という補足がなされた。
(2) 学校と地域のつながりの中で作られる地域教材を介し、子どもたち同士や地域の人の関係性の中で育った力をどう評価するのか。
→(小林)子ども達の地域活動・発表を地域の人達が教師ともども評価し、その中で教師が子どものことを再発見するといったことが考えられる。
(3) ①熟議民主主義に関して、排除されてきたマイノリティや弱者の人々にも、君たちは私たちに何をしてくれるのかという形で互恵性を求めてよいのか、つまり熟議民主主義によって政治的主体形成を語れるのか、②主権者教育と政治的主体形成という概念は同義なのか。
→(岸本)互恵性や相互尊重は寛容を超える概念として捉えている。指摘された点について議論の余地があると感じた。
(4) 「はらたく」ということに関して、なぜキャリア教育を扱わないのか。そこでは、職業教育で論じられていない重要な視点(例えばジェンダー)が含まれているのではないか?
→(松田)対象としている民間研の中でもキャリア教育に取り組んでいるので検討の対象にはなっている。ただ、「自分の人生は自分のもの」という教育を学校教育全体の中でやらずに、キャリア教育だけやっても意味がないという感覚があって魅力を感じないということも正直なところだ。
(5) ①「総合学科」について民間研はどの様な評価しているのか、②戦後の職業科から技術・家庭科(1958)への変化とそれに伴う、職業指導、進路指導などのありかたについて民間研究団体はどの様に評価していたのか。
→(松田)①ついては検討していない。②については、民間研の評価は分かれていた。技術・家庭科の成立により体系的な技術教育が可能になったと評価する一方、進路指導が教育課程全体の問題から特別活動に追いやられたことについては批判もあり、これが現在のキャリア教育の問題につながっている。
(6) ①三つの課題に対応する実践に重複が見られたり、他の課題で取りあげる方がよいのではと思われるものもあり調整が必要、②小林報告では「学校の地域化」という方向が示されているが、地域がよきものである保証はないということが忘れられている。
→(岸本)様々なレベルで「おさめる」を検討したので、指摘される様なことになった。今後検討する。
→(小林)良いもの、悪いもの含めて地域からなくなった状態が21世紀の状態ではないかと思う。
最後にコーディネーターから、フロアからの貴重な論点の提示があり議論が深まったとのまとめが述べられた。
文責:山根俊喜(鳥取大学)
【公開シンポジウム】
幼児教育における目標・評価論
シンポジスト:
OECDによる保育の質保証論と質の測定評価の動向
一見 真理子(国立教育政策研究所)
保育評価のオルタナティブ ――教育ドキュメンテーションの思想
浅井 幸子 (東京大学)
日本の保育実践史と目標評価論
太田 素子 (和光大学)
コメンテーター:川地 亜弥子(神戸大学)
司会・コーディネーター:大西 公恵(和光大学)・二宮 衆一(和歌山大学)
(1)企画趣旨
シンポジウム開始にあたって、本シンポジウムの企画趣旨について、司会の大西より概要を説明した。
これまでの教育目標・評価研究の主たる対象は学校教育であり、幼児教育・保育を対象とする目標・評価研究は十分に行われてこなかった。
遊びや生活の中で様々な力を獲得していく乳幼児期の子どもの教育については、初等教育以上の学校における教育目標や評価、内容、方法とは異なる枠組みが必要であると認識されてきた。しかし近年、OECDのPISA調査に代表される国際的な学力調査のインパクトや、保育の質が子どもの将来を左右するという経済学の指摘を受けて、保育の質を改善するための評価尺度が開発されている。2017年3月に告示された新幼稚園教育要領では、幼児教育の目標が「資質・能力」および「幼児期の終わりまでに育って欲しい姿」として明示された。この告示を契機として、遊びや生活を通した〈形成〉的学びが大きな意味を持つ幼児教育において、目標をどのように考え、評価をどのように行うかという問題が広く議論される状況となっている。
こうした動向をふまえ、本シンポジウムでは、保育・幼児教育の目標・評価論の展開を、尺度による質評価の拡大と、それに対する評価のオルタナティブの探求に即して検討することとした。
(2)第1報告:OECDによる保育の質保証論と質の測定評価の動向
まず、一見氏より、OECDを中心とするグローバルな目標・評価の尺度開発の展開についての報告が行われた。
世紀転換期のグローバリゼーション・インパクトによる社会的変動を受けて、グローバル時代に求められる資質能力(コンピテンス)育成を目標とした改革とそのためのエビデンス獲得の国際比較調査がなされるようになった。また、人生初期の乳幼児期に熱いまなざしが注がれるようになり、脳神経細胞の発達の最も活発な敏感期に、のぞましい発達環境が整備されることを重くみて、OECDの枠組み・ネットワークを利用した国際的なレビュー調査研究であるStarting Strongプロジェクトが立ち上げられ、継続的に成果がまとめられてきた(SSⅠ~SSⅤ)。SSプロジェクトのⅠ~Ⅱにおいて、OECD調査に集った専門家たちはケア・養育・教育を一体的・包括的に捉えた教育と福祉のコラボレーションであるECEC(Early Childhood Education and Care)概念を提起した。そして質の高い就学前プログラムを提供するECEC事業への先行投資によって、人々の生涯学習の基礎を強固にし、人生早期からの格差是正、子どものウェルビーイングの実現が可能となるといったエビデンスを示し、公共財としてのECECへの財政的呼び込みをはかってきた。
SSプロジェクトでは、当初より理念と政策への提言がなされていたが、SSⅢ以降には、大きな変化が見られる。それは、「質保証」による投入リターンを確保するという財務政策的な観点が前面に押し出されたことである。SSⅢでは質についての再定義を具体的・道具的に行い、各国のECECがどの発展段階にあろうとも、〈質の向上こそ重要〉であるとして、プロセスの質を支える「構造の質」に焦点化し、「規制と基準」・「カリキュラムと学習基準」・「保育者(労働力)」・「親(保護者)と地域社会」「データと調査研究」の5つを、質向上を実現するてこ入れ(政策的アクションを起こす際のツールにして介入点)として整理してみせ、各国の政策立案者に影響を与えた。
さらに2010年代半ばにさしかかると、OECDではStarting Strong Survey(通称3S)を、子どもの側の成果測定と、ECEC従事者(園長と保育者)の労働環境の質評価の2方向から進める方針を打ち出した。とくに前者についてOECDは生涯発達・生涯にわたる学習訓練を推奨する立場から、乳幼児期から成人までの一貫したデータ構築を重視し、乳幼児期のデータを他の段階のデータ(義務教育終了後のPISA、成人期のPIAAC)とも関連づけて分析することも企図するようになった。こうした動きに対して、幼児教育の世界からのBaby PISAへの批判キャンペーンが高まったこともあり、調査設計は練り直され、乳幼児期のWell-beingを強調した現在のIELS(国際幼児期の学習とウェルビーイング調査International Early Learning and Child Well-being Study)が当初見込みよりもごく少数になった参加国によって進められている。一方、教員の教育労働環境についての質問紙調査であるTALISの乳幼児版として「国際幼児教育・保育従事者調査」(通称TALIS 3S)が設計され、IELSとは別のアリーナで進行している。すなわち、統計的に信頼度の高い量的国際比較調査、という巨額の資金の必要な場面で、子どもの成果をまずみるのか、保育者の労働をみるのか、といった参加国の保育への価値観やニーズに応じた棲み分けがなされるような形で、3Sの第1次調査が進行している。
(3)第2報告:保育評価のオルタナティブ―教育ドキュメンテーションの思想
次に、浅井氏により、保育評価において「質」というグローバルなヘゲモニーを獲得しようとする幼児教育の言説のオルタナティブとして、尺度によらない評価の探求の取り組みが報告された。
ピーター・モス、グニラ・ダールベリらは、『保育の質の議論を超えて(Beyond Quality in Early Childhood Education and Care)』(Dahlberg et al. 1999)を発表して、質評価とは異なる幼児教育の言説と実践の模索に理論的な基盤を与えるとともに、「OECDの国際的な幼児の学習調査―議論と論争をひらくー」(Moss et al. 2016)ではOECDが提案した幼児の学習調査IELSに対する懸念を表明した。
ダールベリらによると、「質」の言説は次のような問題をはらんでいる。まず、一見中立的な「質」の言説は、実は価値的に選択されたものであり、幼児教育から文脈や複雑さ、多様性や民主主義を削ぎ落とし、標準化された結果を得るために、脱文脈的に適用される普遍的な原則である。そして「質」を測るためにつくられた尺度は、文脈を超えて用いられ、政策と実践を形作る。さらに「質」が専門家によって決定され適用されることによって、個々の教師が価値判断から排除され、専門性を剥奪される。「質」の言説が表現し構成するのは、政治的実践や倫理的実践ではなく、技術的実践が優先されるような幼児教育である。
彼らは、こうした「質」の覇権的状況に対するオルタナティブとして、価値的で政治的な「意味生成」という評価言語を提示している。「質」があらかじめ定められた、中立をよそおう基準や尺度に従って、保育を測定し評価しようとすることであるのに対して、「意味生成」は、教育者、子どもの出会い、出来事におけるローカルで偶然性や複雑性を伴う多様な意味と価値の生成や創造を、評価として位置付けるものであり、文脈、価値、主体性、不確実性、暫定性を歓迎し、民主的な解釈のプロセスとしての評価を開くものである。
そして、「意味生成」としての評価は、教育ドキュメンテーションと省察を通してなされる。レッジョ・エミリアの幼児教育と、それにインスパイアされたスウェーデンの幼児教育において概念化された教育ドキュメンテーションは、子どもの発達を見出そうとする「子どもの観察」の記録ではない。メモ、写真、ビデオなどの多様なメディアを用いてなされ、学ぶ行為に統合されその一部を構成する教育ドキュメンテーションは、子どもと教師が世界の意味を共同構築する対話と民主主義の場であり、スウェーデンにおける幼児教育の改革の文脈では、教師による自己省察と、新たな教育の成立を可能にする場となる。
最後に、こうした「意味生成」としての評価は、日本の文脈では、教育の根拠を目的に置くのではなく事実に置くとした池袋児童の村小学校の実践記録に見出せることが指摘された。
(4)第3報告:日本の保育実践史と目標評価論
次に、第3報告では、太田氏より日本の幼児教育・保育における目標・評価論、学校体系の一環として位置づけられた幼児教育の政策動向、幼児教育実践の歴史的な展開と事例について報告がなされた。
未分化な子どもを対象とする幼児教育・保育においては、機会を捉えた指導が非常に重要な意味を持っている。そのため、そこでは、現実の子どもを離れないということが重要で、目標ではなく「ねらい」、幼児教育(保育)計画ではなく指導計画という用語が多く使われる。レッジョの幼児教育においては、特定のねらいを定式化せず、予測できない不確かなトピックをプロジェクトに選び、学びのプロセスをドキュメンテーションで具体的に評価を行っている。
しかし、日本では2000年代以降、学校体系の一環としての幼児教育を位置づける政策が進められてきた。これは、2005年の教育基本法改訂から連なる動きである。幼稚園の教育評価ガイドライン制定、幼小接続研究、指導要録見直し等が行われ、2008年の幼稚園教育要領にはじめて評価の文言が入り、2018年には「幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿」が示されるに至った。
ただし、これまでに幼児教育において目標がなかったわけではない。それぞれの園では独自の保育方針を持ち、「子ども像」を自由に示してきた。この子ども像は、日々の保育の場面で起こる出来事に対して保育者がどのように子どもに関わるかのヴィジョンとなるもので、1970-80年代の保育研究の結果をもとにしたものである。一方、「10の姿」に示される「子どもの姿」は、発達研究の成果であり、知識や概念ではない非認知的能力のある種の到達目標となっている。
次に、これまでに幼児教育・保育の現場で目標・評価論がどう語られてきたのかを、神戸大学附属幼稚園と和光の幼稚園の事例を比較しながら検討する。両園の幼児教育実践は、当初は似た性質を持っていた。前者は大正期に前身の明石女子師範学校附属幼稚園で、及川平治の指導のもとではじめて幼児教育にプロジェクト活動を取り入れ、後者は戦後のコア・カリキュラム連盟の実験校となった小学校と連携してプロジェクト活動を取り入れた。しかし、現在では両園の活動は異なる方向に向かっている。
神戸大学附属幼稚園でなされてきた幼児教育研究は、「10の姿」の母体となっている。1980年に刊行された『3歳から7歳までの教育課程』には、年齢別目標にもとづく子どもの姿が書かれており、評価の中身を厳格に定め、目標の系列に沿った保育内容および計画が立てられている。
一方で、和光の幼稚園では、1970-80年代には遊びの経験に即した発達研究をベースとして、緻密な教材研究が行われていたが、2000年頃に学校体系の一環としての幼児教育カリキュラム論から「子どもと共に作る活動」へと大きく転換した。その背景には、家族と生活の変化、子どもの変化によって生まれた教材と子どもの間の距離の拡大があり、現実から出発する保育、子どもと一緒に作っていく保育を志向するようになった。
両園の目標・評価論の違いは、幼児教育実践の認識の違いによるものだと考えられる。和光の幼稚園・小学校では、小学校の入門期は、幼稚園・保育所で多様で豊かな経験をしてきた子どもたちによる異文化コミュニケーションの時期であり、そこで起こることを小学校の側が理解し対応すべきであるという立場で、幼児教育との連続性を持つ様々な実践を行っている。豊かな生活経験をすることこそが幼児教育に期待されることであり、子どもが経験から得た認識を概念で整理することが小学校の仕事と考えられている。
(5)質疑応答および議論の論点
以上の報告を受けて、コメンテーターの川地会員より、まず本学会での目標・評価論の原点について、次のように確認がなされた。目標・評価は価値判断を伴うものなので、心理学者による測定に任せるのではなく、教育の仕事として我々が取り戻そうということ。そしてその原点には、わからない子どもが排除されないといった人権感覚があり、自立した教師と子どもが相互関係の中で育つものとして目標・評価論があるという考えである。
コメンテーターによるコメント、参加者からの質問に対するシンポジストの応答における主たる論点として、意味生成による評価の意義とそれを実現するための方策についての問題、公共政策の視点と教育の論理との関係で評価を考えるという問題が議論の俎上に載せられた。
「10の姿」では実践の結果としての子どもの姿が評価の対象であるのに対して、意味生成による評価は、今そこに生きて活動している子どもそのものを捉える評価であり、実践と切り離されて行われるものではない。意味生成による評価において、教師同士、あるいは教師と親とが実践記録を読み合うことが非常に重要であること、そして教師が一つのストーリーに回収してしまうのではなく、ストーリーの複層性を担保しつつ読み開いていくことが必要であるという点が共有された。そして、こうした開かれた意味生成を実践するためには、教師・親・専門家のネットワークの構築が必要であり、そのための時間的・空間的条件、専門家が寄り添う条件を整えることが必要であることが確認された。さらに、そうした条件整備は、教師が教育ドキュメンテーションによる評価を行う場合の理論を保証することにもつながることが指摘された。日本が世界的な評定尺度策定の動きに対して、どうコミットしていくかという問題があるが、調査に参加することを逆手にとって、振り返りのチャンスや道具、つまり意味生成による評価のための現職教育とするのはどうかという提案もあった。
また、評価の問題を公共政策としてどう考えるかという問題提起があった。評価は教育の論理つまり子どもをいかに育てるかという論理で捉えられるものであるが、一方で、変動する社会の中で、教育を公共政策として捉え、構成し直すような議論がある。これらを組み合わせた議論が必要ではないかという指摘があった。これに対して、社会を形づくる市民として子どもを捉え、民主主義を実現することが目標として共有されているレッジョ・アプローチの例が示され、教育の論理と社会政策の論理が統合される場としての学校という観点が示された。
文責:大西公恵(和光大学)