第32回大会
(2021年11月27日(土)〜11月28日(日))
於:オンライン(開催校:福井大学)
学会第32回大会を終えて
大会実行委員長 遠藤 貴広(福井大学)
2021年11月27日(土)・28日(日)の2日間にわたり、教育目標・評価学会第32回が開催されました。福井大学が開催校ということで、越前ガニ等、福井の冬の味覚も堪能いただきたいところではありましたが、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、今大会もオンライン開催となりました。
オンライン開催は前大会に続き2回目で、前大会のノウハウを参考にさせていただきましたが、開催校(福井大学)で学会員は私(遠藤)1人だけでしたし、私のICTスキルも素人レベルですので、大会専用ウェブサイトはなるべくシンプルなものにして、自力で手軽に運用できる形を追求しました。前大会とは若干異なる運用の仕方に、不安は尽きませんでしたが、本学会幹事会等、関係各位のご協力をいただきながら、なんとか大会を実施することができました。
今大会は1日目に課題研究が2つ持たれました。内容については別報告に譲りますが、どちらも時宜を得たもので、多くの参加者に恵まれ、活発な議論が行われました。
また、課題研究Ⅱの後には、急遽アフターセッションの時間を設け、懇親会代わりに、会員同士で自由に対話する時間としました。
2日目午前の自由研究発表では、司会者の皆様が自主的に様々な工夫・配慮をして下さり、オンラインながら分科会ごとに有意義な議論が展開されました。
2日目の昼には、総会もリアルタイムで持たれ、臨場感あふれる議事が行われました。
2日目午後のシンポジウムは、学会員以外も参加できる「公開」の形にし、多方面から多数の参加者が得られました。所定の時間内では議論が尽きないことが予想されましたので、2日目もアフターセッションの時間を設け、有意義な「延長戦」となりました。
至らない点は多々あったかと思いますが、大会実行委員としては本当に楽しく思い出深い大会となりました。大会運営を支えて下さいました学会幹事・理事・学生スタッフの皆様、活発な議論を下さいました発表者・参加者の皆様に、心より御礼申し上げます。
オミクロン株による新型コロナウイルス感染急拡大が続いており、まだまだ先が見通せない状態ですが、次回大会(開催校:神戸大学)も盛会となることを願いますとともに、会員の皆様のますますのご活躍そしてご健康を心よりお祈り申し上げます。
【課題研究1】
学習評価改革の課題と展望――教科の評価と総合学習の評価の関係を問う
報告者:
教科学習と探究学習におけるパフォーマンス評価
西岡 加名恵(京都大学)
課題研究と教科学習における評価のあり方について
渡邉 久暢(福井県立藤島高等学校)
大阪教育大学附属平野五校園における『主体性コモンルーブリック』づくりと教科における評価
堀口 健太郎(大阪教育大学附属平野中学校)
司会:八田 幸恵(大阪教育大学)・赤沢 早人(奈良教育大学)
コーディネーター:八田 幸恵(大阪教育大学)・西岡 加名恵(京都大学)
(1)課題研究の趣旨
コーディネーターの八田会員より、教科学習と総合学習の評価の関係について、批判的かつ実践的な検討を加えていくことを通して、教科学習と総合学習の相互環流や「主体的に学習に取り組む態度」の評価方法や評価基準の設定といった視点から現状に見られる課題を整理するとともに、具体的な展望を得ていきたいとの趣旨説明があった。3名の報告者が各20分程度の報告を行った。
(2)第1報告の概要
西岡会員の報告では、探究学習(「総合的な学習(探究)の時間」、理数探究、課題研究)と、それ以外の教科学習(高等学校において新設された「探究」科目を含む)において、パフォーマンス評価をどのように用いればよいのかについて提案があった。概要は次の通りである。
教科教育において観点別評価を行う際には、どのような目標に対して、どの評価方法を用いるのかを明確にすることが重要であるとし、特に観点「思考・判断・表現」については、西岡会員はパフォーマンス課題を位置づけることが有意義だと考えた。「逆向き設計」論(G.ウィギンズ・J.マクタイ)では、「転移可能な概念」や「複雑なプロセス」を総合したところに、各教科の「本質的な問い」に対応するような、「原理や一般化」に関する「永続的理解」を位置づけることで、「知の構造」と評価方法の対応関係が整理されている。
また、パフォーマンス課題を開発する際には、単元の「本質的な問い」を学習者自身が問わざるをえないようなシナリオを設定することを推奨し、シナリオには、パフォーマンスの目的と相手、学習者が担う役割、想定される状況、生み出すべきパフォーマンス(完成作品や実演)、評価の観点を織り込むと良いことを示した。
一方、学習者自身に課題設定する力を育てることが目指されている探究学習の評価方法としては、教師と学習者が入れるべき作品や評価規準・基準を相談しながら作っていくような「基準創出型ポートフォリオ」の活用が有効だと提案した。
観点「主体的に学習に取り組む態度」については、西岡会員は、その評価をパフォーマンス課題で行うこともできるが、「主体的に学習に取り組む態度」を「思考・判断・表現」と区別して評価するのは、実際には極めて困難なことであると主張した。また「態度」とされているものは、本来は、カリキュラム横断で長期的に育てる「汎用的スキル」として位置づけるべきものであるため、例えば、ポートフォリオに蓄積されたエビデンスに基づいて成長を捉えるという、「鍵スキル」に関する長期的ルーブリックの開発を行ったイギリスの取り組みに注目することも、意義があるのではないかと提案した。
(3)第2報告の概要
渡邉会員の報告では、SSH(スーパーサイエンスハイスクール)事業の指定を受けた若狭高校の事例を通して、課題研究および教科学習における評価のあり方について報告が行われた。概要は以下の通りである。
若狭高校の課題研究では、「地域の持続的発展を動機としながら地域資源を活用し、自ら課題設定に至る」という方向性を共有するとともに、研究結果よりも探究の過程(サイクル)を重視し、「課題設定能力」の評価基準がルーブリックとして開発された。
また、プロジェクト型の課題研究としては、①「地域資源を活用した課題設定→科学的検証→成果の還元」、②「身近な現象を科学的に解明し、意図的に操作する研究」、③「プロジェクト学習」、④「データの長期収集」の4つの類型に整理された。これらの類型には「課題設定能力」という共通の目標がある一方で、類型ごとに指導のノウハウは異なるとし、教科と総合という枠組みではなく、探究的な学習を類型化して、類型に合ったルーブリックを開発することが適切であると主張した。さらに、形成的評価と総括的評価のルーブリックを分けて考えるべきではないかといった問いや、課題研究においても観点別評価を行い、観点ごとに評価の適切な形成的評価・総括的評価のタイミングがあるのではないかといった問いが提示された。
教科学習においても、学問分野の構造に沿ったアカデミックな探究のなかで、本来は総合学習で主に評価される個人の問題意識や自己認識を育成することは必要であると捉え、渡邉会員は文芸批判というアカデミックな探究と個人の問題意識や自己認識の育成をつなげるようデザインした単元「『こころ』論文を作ろう」を開発した。
以上のような評価の視点から、教科と総合学習を二分法で考えることは難しく、各教科と総合の評価は大きく重なり合っているとの主張がなされた。
(4)第3報告の概要
堀口氏の報告では、「一人ひとりの多様な可能性を広げる評価の在り方」を研究テーマとして大阪教育大学平野五校園が共同研究に取組み、その結果開発した「主体性コモン・ルーブリック」について、報告が行われた。概要は以下の通りである。
「コモン・ルーブリック」とは、個別ルーブリックの土台=基礎となる、一般的、汎用的なルーブリックのことを指している。「主体性コモン・ルーブリック」は、各校園の児童生徒たちが「主体性」を発揮している日々の具体的な場面を教員が想起して付箋に書き(ボトムアップ)、それらの事例の中で類似する内容をグルーピングしてA~Eの「指標分類」に整理するというプロセスで開発された。A~Eの「指標分類」は、<日常的行動><課題解決><価値の形成><協働組織形成><公共意識>である。これは「主体性」の発揮を支える資質・能力を、その内容や発揮される場面で分けた形となっている。そして、この五つの指標分類をそれぞれ2~3の「指標項目」に分け、さらにそれぞれについてステージⅠ~Ⅳの姿を示すことで、具体的な評価指標が作られた。ステージⅠ~Ⅳは、各校園での最終的な達成目標を連結、調整したものであり、ステージⅠが幼稚園、ステージⅣが高等学校に相当するが、汎用性を高めるために校園種は限定しておらず、明記はされていない。「主体性コモン・ルーブリック」は、その後、実践での活用を行い、児童生徒の姿の変化等から再検討を重ねて完成していった。
「主体性コモン・ルーブリック」の実際の活用方法としては、様々な学習プログラムや活動の目標のうち、「主体的に学習に取り組む態度」について、「主体性コモン・ルーブリック」の評価指標の中で該当している部分を見つけたり、逆に「主体性コモン・ルーブリック」から学習プログラムや活動の主体性についての目標をつくったりするなど、「主体性コモン・ルーブリック」と学習プログラムや活動の目標との往還を通して学習のルーブリックづくりに繋げていくことができるとし、その具体として、各教科における事例が複数示された。
(5)質疑応答および議論の論点
報告ののち、報告者とフロアとのあいだで協議が進められた。議論の論点と報告者の応答は、次のとおりである。
①「主体的な学習に取り組む態度」の評価のあり方に
ついて
西岡会員から、「主体性コモン・ルーブリック」はカリキュラム改善には役立つように感じる一方で、いわゆる態度主義として批判されるようなものに陥らないか、態度は思考・判断・表現と一体なのではないかとの疑問が投げかけられた。堀口氏からは、四観点から三観点になったことで、主体性の評定のウェイトが大きくなり、保護者にも生徒にも評価を可視化して説明する必要があることから、ルーブリックを使用しているとの説明があった。
渡邉会員からは、教科学習の「主体的に学習に取り組む態度」を教科固有のものとしてきちんとやっていく方が教科としてもより良くなるのではないかとの提起がなされた。また、「主体的に学習に取り組む態度」は、その観点があることによって、そういった子どもを育てようという意識改善に繋がるものであり、評定にどう繋げるのかということではないとの考えが示された。そのうえで、「主体性コモン・ルーブリック」が教科の授業改善にどのように活かされたのか問われた。堀口氏はこれについて、基準があることで記録を取ったり、生徒の学習状況を見るような課題設定が多くなったりするなど、教員の意識が変わったことが授業改善に繋がったと述べた。
西岡会員からは、渡邉会員に対し、実際に評定をつけるときに、「主体的に学習に取り組む態度」の観点はどのように取り出して見ているのかについて質問が出された。これについて渡邉会員は、「主体的に学習に取り組む態度」は、1年間でどう育ったかを評定すれば良い、学期ごとの通知表にこの観点の評定を載せるかどうかは、各学校で検討すれば良いのではないか、との考えを示した。また、一方で、評価としての「主体的に学習に取り組む態度」を育むことは必要であり、単元ごとに生徒にリフレクションをさせて自己認識させることの必要性は校内で他の先生と共有できていると述べた。「主体的に学習に取り組む態度」の通知表における扱いについては、堀口氏より、中学校では進路に関わるため、観点別で全て通知表に載せるのが基本となっているので、載せないというのは難しい状況であるとの説明があった。
また、四観点から三観点になったことで、主体性の評定のウェイトが大きくなったという堀口氏の意見に対し、西岡会員からは、三観点だからといって、その重みづけを1:1:1にしなければならないわけではなく、態度観点の比重を軽くすることはできること、また、乙訓地方の8校の中学校が観点別評価の枠組みをある程度共通にするために、教員にアンケートをとって、各観点について何割ずつくらいの重みづけなら妥当かを検討した例があることを提示した。
この他、フロアからは、家庭科など授業時数が少ない教科において、「主体的に学習に取り組む態度」を含む高次の認知をどのように育むことができるのかという質問が出された。渡邉会員から、現在でも、家庭科の授業の中で、リフレクションをしたり励まして授業を改善したりということはやっているのではないかという意見が出された。また、フロアからは時数が異なるので、教科によってゴールの到達度は違っているだろうとの意見も出された。
②探究と教科の関係性とそれぞれの評価方法について
西岡会員からは、学校によって実情が様々な中では、まずは探究がどういうものなのかを知ってもらう必要があるため、探究学習については、ルーブリックづくりや観点別評価から入ることには抵抗感があるとの考えが示された。
渡邉会員からは、パフォーマンス評価とポートフォリオ評価を教科と総合の二区分ではなく、総合と教科はクロスオーバーをしているので二分法で区別すべきではないのではないかとの意見が出された。これについて、堀口氏から、大教大附属平野中では総合の時間もルーブリックを用いている一方で、外に出すときには文章記述をするという方法が採られていることが紹介されるとともに、高校では、どのように評価し、どのように生徒にフィードバックしているのかとの質問が出された。渡邉会員からは、「総合的な探究の時間」の評価についてはルーブリックを用い、子どもたちに自己評価をさせたり、カンファレンスを行ったりするなど、生徒とやりとりをしていることが述べられた。一方、評定については、総合はそもそも個人内評価であるため成績に差をつけるのはおかしいと考えていることが述べられた。
フロアからは、教科を超えて他教科の教員と総合的な探究の時間の評価に取り組むことで、視野が広がることはあったかと質問が出され、渡邉会員からは、ルーブリックを共につくることで「うちの学校の探究」がどういうものかが共有されていったという効果が説明された。
③パフォーマンス評価の取り入れ方について
堀口氏からは、西岡会員に対し、パフォーマンス課題を組み込むと、授業時数が足らなくなるため、バランスをどうとったらよいのかという質問が出された。これについて西岡会員からは、今まで通りの授業にパフォーマンス課題を加える発想だと時間が足りなくなるため、単元の最初にパフォーマンス課題を提示し、その課題に向けて必要な力をつけられるよう学習を行い、単元の中で少しずつ課題に取り組んで最後にまとめていくなど、単元全体を通してパフォーマンス課題に取り組むと良いことが示された。
文責:田淵知紗
(京都大学教育学研究科、神戸大学附属小学校)
【課題研究2】
教育における公正とは何か――学力保障との関係を問う
報告者:
教育における公正と学力保障
山田 哲也(一橋大学)
英語教育における学力保障
田中 容子(京都大学/元京都府立園部高等学校)
小学校における子ども理解と授業づくり
石垣 雅也(近江八幡市立小学校)
指定討論者:八木 英二(滋賀県立大学・名誉教授)
司会・コーディネーター: 長谷川 裕(琉球大学)・川地亜弥子(神戸大学)
(1)課題研究の趣旨
課題研究の趣旨について、コーディネーターの川地会員より次のように説明があった。近年の教育政策の中で子どもの多様性への対応の必要が認識され、教育における公正の重要性が指摘されている。しかし、そもそも教育における公正とは何であり、それはどのように担保されるのかという根本的な論点に関する議論が十分になされているとは言えない。そこで、特に学力保障と関連させながら、上記の論点について深めるために本課題研究を設定した。
(2)第1報告の概要
山田会員によって、公正概念の整理がなされた。まず、「公正としての正義」のアイデアを提示したロールズに焦点を当て、彼の正義論における公正の位置が確認された。ロールズは、公正を次のように位置づける。1つは、正義の諸原理の合意形成の前提となる条件としての公正である。もう1つは、合意された正義の諸原理に基づいて人びとが自由に活動する中で特定の人間だけが有利になることを回避するための制度運用のルールとしての公正である。教育社会学を含む社会学は、特に後者の公正が現実社会においてはどのようにあるか、ありうるかを探究し、近現代社会においてはメリトクラシーを社会的地位配分原理とした上での機会均等が公正に当たるものとされていることを指摘してきた。ロールズの議論もまた、公正をそのような意味で論じる傾向がある。それに対してセンやヌスバウムらのケイパビリティ・アプローチは、ロールズのそうした機会均等としての公正論を批判し、人びとが自由に活動し生きることを可能にする「ケイパビリティ」を、その多様性に応じながら各人に十全に保障することが重要だと強調した。学力もまたケイパビリティの1つの形であると考えるならば、ケイパビリティ・アプローチは人権保障としての学力保障論を基礎づける理論として有力である。
しかし、近年、ケイパビリティ・アプローチは、教育改革をめぐる論議において濫用されていると見ることができるかもしれない。すなわち、ケイパビリティが、本来の、個人の自由な選択を可能とする基盤としてではなく、特定の社会要請に応じるための手段と意味づけられているのである。たとえば、ICTの活用の推進の中に、ケイパビリティというコンセプトのそのような換骨奪胎がうかがわれる。そうした濫用に抗して、ケイパビリティ・アプローチなど近代リベラリズムの社会構想の最良部分を活かしながら、他の報告者が提示する教育実践を手がかりに、「多様性に配慮した学力保障」のありかたを模索する必要がある。
(3)第2報告の概要
田中会員から、自身が行ってきた学力保障のための英語教育の授業実践が報告された。
まず、「オーラルコミュニケーション」の授業において、生徒の生活文脈に依拠した学習を展開した。たとえば、英語でレシピを作成し、実際に調理する。あるいは、英語を使って自分のことや家族のこと、好きなことについて交流する。このような学習によって、チャイムと同時に机に突っ伏していたような生徒たちが主体的に学習に取り組むようになった。また、「英語Ⅱ」の授業では、英文講読において、生徒が希望する教材を扱ったり生徒の生活文脈に依拠したりすることによって授業への参加を促し、授業に生徒の居場所をつくりながら、英文の構造を徹底的に解説し、英文を前から読み進めることができるようになることをねらった。
以上のように報告された実践を踏まえて、学力保障とは、「どの生徒も将来の主権者として、人として尊重され、安心して居られる学びの場を持ち(居場所があること)、育つ力(成長)を信頼され保証されること」を前提とした上で、英語教育においては、日本語と異なる英語のしくみの理解と、自分の判断による読み・聴き・書き・話すことと、それによる判断力のさらなる強化であると提起された。
(4)第3報告の概要
石垣氏(非会員)から、やはり自身が行ってきた実践を報告しながら、子ども理解を軸とする授業づくりのありかたが提起された。
教育実践研究において、教師の記憶や感覚ではなく、「学習の事実」を重視している。「学習の事実」を捉える上で、子どもの「書いたもの」に着目する。子どもの「書いたもの」には、書字の状況、書き言葉の状況、内容理解の度合いが現れており、それらを通して、その子どもが抱える学習の困難さを把握する。たとえば、促音「っ」が抜けており書き言葉には困難を抱えているが、しかし、登場人物の心情理解は十分であるという子どももいる。逆に、登場人物の心情よりも、自身のシンプルな心情を表出する子どももいる。子どもは、様々な困難を抱えながら授業の中にいる。子どもの困難さを理解することが重要であり、困難さに対する手立てを見誤れば、子どもの自尊心を傷つけ、書くことに対する不安を助長することにつながる。
以上のような実践と実践研究を踏まえて、教育における公正とは、学習上の困難を抱える子どもであっても何らかの参加感を持って授業に参加できることであり、また学力保障において重要なのは、困難を抱える子どもに見られる特異的な発達課題と、全体的な発達課題の異同を認識しつつ子どもを理解することであると提起された。
(5)指定討論者からのコメント
以上の報告を受けて、指定討論者である八木会員は、以下のような指摘をおこなった。第1に、機会均等を公正として見ることは能力主義を助長することになり問題含みであり、誰もが尊厳ある暮らしができる「条件の平等」の保障をこそ公正と見るべきである。第2に、教育における公正としては、石垣報告・田中報告で報告された教育実践の中にうかがえる「教育条理」にそれを見るべきである。石垣報告では、「全体的な発達課題と特異的な発達課題」を認識すべきであることが、田中報告では生活表現を組織化し、教師の手によって内容・方法を編成すべきことが提起されており、それらが上記の教育条理に当たる。
(6)質疑応答
報告と指定討論を受けて、フロアと報告者間で、次のような質疑応答がなされた。
まず、山田会員が提起した理論と、石垣氏、田中会員の実践報告を重ね合わせると、「公正」「学力保障」についてどのような示唆が得られるのかという問いが提示された。これに対して、山田会員は次のように応答した。石垣・田中実践はいずれも、これまでの学びの中で、「自己排斥」(石垣報告の中で使用された、元々窪島務氏の言葉)してきた状況にある生徒に教師が介入し、文化的なものにアクセスするための回路を開いたという意味で、ケイパビリティを保障していくような取り組みであった。公正を機会均等の保障のみに見る見方では、機会均等の結果として出てきた格差は許容されることになり、公正の十全な実現のためにはそれだけでは不十分である。石垣・田中実践は人びとの多様性に対して配慮するものであり、そうした配慮があってこそはじめて公正は実現される。また石垣・田中実践は、学力保障に関わって、保障すべき学力の枠をどのように捉えるのかという点についても示唆的である。ヌスバウムは、ケイパビリティのリストにおいて「感覚・想像力・思考力」をその1つとして提示している。石垣・田中実践も、3R’sのような知的能力に限定せず、ある文化の中に参加していく喜び等をいかに実感させるかということも含んで、保障すべき学力の幅を広くとっており、それは生徒の多様性に対する配慮であるといえる。石垣・田中実践は、今日進行している「個別最適化」の動向と対比した時、学校教育で身につけるべき能力をどのような幅で捉えるべきか、また生徒たちの多様性をどのように把握し、把握された多様性に応じてどういう筋道で介入していくべきかということに関して、想像力の範囲を拡大するような問題提起をするものであると思われる。
次に、今回の大会の課題研究Ⅰで話題となった、評価の3観点のうちの「主体的に学習に取り組む態度」について、田中・石垣両報告の実践においてはそれがどういう形で表れていると捉えると、教育における公正の保障につながると考えられるかという問いが提示された。これに対して、山田会員は、「主体的に学習に取り組む態度」が獲得される以前の「自己排斥」の状態に対して、どれだけサポートできるのかということが重要であり、自尊心を担保するような手立てや介入が不可欠であることを強調するロールズの議論を手がかりに、この論点について考えていきたいと応答した。また田中会員は、「主体的に学習に取り組む態度」の形成には、学習者の立場から考えると、学習の中心に自分がいることを実感できることが重要であり、その実感とはより具体的には、1つは、言語活動の課題に自分が参加できているという実感であり、もう1つは、小テストの自己採点などを通して、どこまでわかっているか、どこで間違えたかという学習のメタ認知を感じることができることであると応答した。さらに石垣氏は、ふだん授業中にあまり発言しない子どもが何かのきっかけで発言し、周りから認められて、その後授業にどんどん関わっていく、発表するという姿を見たのだが、その事例が示すように、主体的な態度がとれるかどうかにおいて、教室の中で周りから認められているかどうかということのもつ意味が大きいと述べた。
さらに、「目標に準拠した評価」で、一律の目標をどの子どもに対しても保障することと、学習障害など特別なニーズを抱えている子どもにとっての目標達成の保障との関係を、どう考え、どう調整すればよいのかという問いが投げかけられた。これに対して、山田会員は、文化にコミットしてそこに喜びを見出していくようなことがケイパビリティの保障につながるので、思考力等を獲得すること自体に生物学的な障壁を抱えている子どもなどの場合、そうした意味でのケイパビリティの獲得を目指すことをまず第1に重視することになるだろうと応えた。また石垣氏は、例えば社会科のテストの記述問題で、重要な用語の間違いなどではなく、漢字を間違えていたら減点するというやり方がとられることがしばしばあるが、それは読み書きに関する困難を抱えていることが否定的に扱われることを意味し、それによって書くことが嫌になってしまう子どももいることが指摘され、テストにおけるそうした減点や作文指導における赤ペンの入れ方を、特別なニーズを抱えている子どもにとっての目標達成の保障の問題として取り上げる必要がある旨を述べた。
また、報告に対して、次のようなコメントも寄せられた。
〇田中報告、石垣報告、いずれも、児童・生徒の現実を踏まえて授業改善するもので、とてもよかった。自分を語れる、聞いてくれる人がいるというのは、変わらず大切なことだと思った。日本の教師たちが積み重ねてきた実践力の強みを感じた。
〇近年の「多様性の尊重」においては、しんどい子の底上げ以上に、吹きこぼれ問題、ギフテッドへの対応といった点が重視されているように思う。それがリッチフライト的な公教育からの積極的離脱論につながらないか心配である。また、学びや学力の概念から文化の香りが抜けること、公正な学びの保障の担い手として、教師に期待しない社会的風潮の拡大をどう見るかも課題かと思う。
(7)コーディネーターとしてのまとめ
最後に、本課題研究のコーディネーターの1人として長谷川は、まとめの意味合いで次のように発言した(多少の改編とやや大きな補足あり)。何らかのことが社会的に営まれるにあたって、誰かがはじめから不利あるいは有利にならないように「不偏性」(山田報告で用いられた言葉)を担保するために満たされるべき基準が「公正」であると言えるだろう。山田報告・八木コメントでも指摘されていたように、今日の社会で支配的であるような、メリトクラシーを社会的地位配分原理とした上での機会均等として公正を考えるのは不十分なことであり、ケイパビリティの保障を公正と捉えるのはその有力な代案であると言えるだろう。山田報告で指摘されていたように、本課題研究のサブタイトルにある「学力保障」もケイパビリティの保障として捉えられるべきであり、田中・石垣報告で報告された実践は、八木コメントが言うようにそこにうかがわれる「教育条理」によって、ケイパビリティを保障する実践として捉えられるものとなっていると言えるだろう。
ただ、そのことを、山田報告が強調するように人びとの「多様性への配慮」をするものとして性格づけるか、八木コメントが用いた言葉「条件の平等」を保障するものとして性格づけるかは、重要な争点になるように思う。つまり、多様性への配慮を趣旨としてケイパビリティ獲得を保障するとは、機会均等を単なる就学保障以上に徹底させることを意味し、メリトクラティックな社会的地位配分を、十分に制御された形ではあるが、社会構成原理として前提とするものであるのに対して、田中・石垣実践の中で見られた、各人が徹底して理解され尊重されることを生きることの「条件」として位置づけることは、社会構成原理の転換の追求につながるものであるように思えるからである。
記録作成:瀬川千裕(神戸大学大学院)
長谷川裕(琉球大学)
【公開シンポジウム】
教師教育実践における評価とエビデンス――省察の構造に注目して
話題提供:
教師教育政策における評価とエビデンスをめぐる論点
佐藤 仁(福岡大学)
『評価』を問う――東京学芸大学教職大学院での取り組みをもとに
渡辺 貴裕(東京学芸大学)
実践内在的評価としての〈reflection-in-action〉のプロセス・組織・機構と『技術的合理性』の評価システムとの相克
――福井大学連合教職大学院の取り組みを通して
柳沢 昌一(福井大学)
指定討論者: 本田 伊克(宮城教育大学)
司会・コーディネーター: 遠藤 貴広(福井大学)
(1)企画趣旨
教職大学院の拡充や教員免許更新制の見直し等、教師教育改革をめぐる動きが大きくなっている。2021年3月12日に中央教育審議会に出された「『令和の日本型学校教育』を担う教師の養成・採用・研修等の在り方について(諮問)」や、2021年11月15日に中央教育審議会「令和の日本型学校教育」を担う教師の在り方特別部会から出された「『令和の日本型学校教育』を担う新たな教師の学びの姿の実現に向けて(審議まとめ)」は、この改革議論をさらに加速させるもので、今後、急展開が予想される。
このような状況の中、各大学・地域に目を向けると、ユニークな取り組みが展開しているところもあり、一定の成果も見え始めている。その一方で、様々な制約に縛られ、取り組みを持続・発展・拡充させられていないところもある。特に評価の構造は、教師教育においても実践の展開を強く規定するもので、現行の評価制度の枠組み、とりわけ、そこで求められるエビデンスの様式が実践の進展を阻んでしまっている面は大きい。たとえば外部評価のエビデンスとして量的データばかりが求められれば、その数値を上げること自体が目的となってしまって、量的データで示せるものにしか取り組まなくなり、それで数値を上げながら実践が後退していくということが多く起こっている。
しかしながら、この評価やエビデンスの構造も、実践の展開に適切に位置づくものになれば、実践の省察(リフレクション)と展望を支える重要なフレームとなり、実践の発展をより確かなものにする。そこで本シンポジウムでは、教師の生涯にわたる成長・発達を支えるために、また、専門職として学び合うコミュニティを持続的に発展させるために、教師教育における評価やそのエビデンスにはどのような構造が求められるか、実践の基盤に位置づく省察の構造に注目して議論することを試みた。このとき、教育における評価のみならず目的・目標との関係も探究する本学会のシンポジウムとして、教師教育実践における評価とエビデンスの構造から公教育の理念を問う回路を探ることにも挑んだ。
(2)教師教育政策における評価とエビデンスをめぐる論点(佐藤 仁)
1人目の話題提供者である佐藤仁氏からは、「評価の構造が実践を規定する」という命題をめぐって、教師教育の評価の制度的・政策的構造そのものに規定する性質がどのように内在しているのか、また、その構造をどのように実践の省察と展望を支えるフレームとすることができるのか、という企画趣旨の解題がなされ、教師教育という営みやその主体に対する評価をめぐって、どのような政策・制度が構築されているのか、国内の現状分析と国際的な議論の紹介をしながら整理がなされた。
まず、日本の教員養成・教師教育の評価制度の現状について、課程認定制度(教職課程コアカリキュラム)、認証評価制度、国立大学法人評価、教職課程の自己点検・評価を事例に、アカウンタビリティの視点から構造分析がなされ、評価制度構造の特徴と実践の規定要因が明らかにされた。
次に、政策問題としての教師教育の諸相について、特に米国での議論を参照しながら、教師教育の問題の捉え方の変遷、そこで前提となっている考え方、米国で展開している教員養成評価制度の状況、最近の議論の特質が明らかにされた。
これらを踏まえて、実践を支える構造としての教師教育の評価制度の組み替えに向けては、アカウンタビリティを民主的なものに組み替えていくこと、教師教育という営みを「複雑系」の観点から捉えて、その活動を評価する方向で政策議論も組み替えていくことが提案された。
(3)「評価」を問う――東京学芸大学教職大学院での取り組みをもとに(渡辺貴裕)
2人目の話題提供者である渡辺貴裕氏からは、東京学芸大学教職大学院で取り組まれている「対話型模擬授業検討会」とそこに埋め込まれている省察の構造を事例に、教員養成における「評価」概念の問い直しが行われた。
まず、対話型模擬授業検討会の実際と、そこでの話し合われ方の特徴を紹介しながら、そこで参照されている省察の理論(コルトハーヘンのALACTモデル等)や大学教員が果たす役割が明らかにされた。
次に、このような取り組みがどのように起こり、それがどう発展してきたのかを紹介した上で、既存の評価の制度や構造とどう向き合ってきたのかが示された。
これらの取り組みは、一見すると評価と距離を置いているようにも見えるが、そこで展開しているものを省察の視点から見つめ直すと、それはむしろ評価の本質に迫るものである。本報告では最後に、評価が(本来の趣旨を超えて)氾濫し実践を規定するものになりつつある社会情勢のなかで、特に「状況に飛び込まないと見えてこないものがある」という問題とどう向き合っていくのか、問題提起が行われた。
(4)実践内在的評価としての〈reflection-in-action〉のプロセス・組織・機構と「技術的合理性」の評価システムとの相克――福井大学連合教職大学院の取り組みを通して(柳沢昌一)
3人目の話題提供者である柳沢昌一氏からは、まず鍵概念としてドナルド・ショーンの「行為の中の省察(reflection-in-action)」が取り上げられた。そこでは実践が多重のプロセスの連鎖として捉えられ、それが拡張的に発展していく展開の中に位置づけられるが、例えばPDCAサイクルなどは、明示された基準と測定方法を前提に、シングルループでの行動のチェックを繰り返し調整するだけで、そこで前提となっている枠組みの妥当性をめぐる省察・再構成は想定されていない。公的組織の評価をめぐっては、外的に設定された目標群とそのチェックに基づく評価がエスカレートしていく状況があるが、その具体例として本報告では、世界銀行の教育改革支援プログラムにおける授業評価・教員評価システムSABER(Systems Approach for Better Education Results)が取り上げられ、それが学習者主体の探究的授業の評価という課題を担って進められながら、外形的行動観察とチェックの枠組みが温存され、結果として学習過程を微細なチェック項目により外部から拘束する機能を果たすものとなっていることが指摘された。
このような状況を打破するために、前述の「行為の中の省察」が手がかりになるが、この概念については、「行為についての省察(reflection-on-action)」との外形的区別で短絡的に捉えられることが多いという。特に日本の教師教育実践で「行為の中の省察」については、教師が1時間単位の授業の中で瞬時に行うものに目が向けられることが多いが、ショーンが著書の中で取り上げている事例に注目すると、「行為の中の省察」のプロセスは、長期にわたる実践の中で、多重の時間軸を行き来しながら幾重にも取り組まれるもので、実践を拘束する組織や制度の分析にまで目を向けるものである。
日本の教師教育実践における実践内在的な評価の省察的な組織化の例として、本報告では福井大学連合教職大学院で取り組まれている長期的な省察的実践のサイクルとそれを支えるカリキュラムと組織の構造が紹介され、このような取り組みの中で営まれる新たな評価の在り方が、民主主義を支える公教育の役割に密接に関わることが確認された。
(5)指定討論(本田伊克)とフロアとの議論
3つの話題提供を受けて、指定討論者の本田伊克氏からは、まず教員の専門職性の視点から、佐藤氏が整理した評価(政策)の構造をめぐる論点が再確認されるとともに、評価の構造自体を組み替える展望が渡辺報告と柳沢報告に即して示された上で、中間過程で実践内在的アプローチの組織的基盤をいかにつくるかが問われることが明らかにされた。
これを呼び水にフロアから多数の質問・コメントが寄せられた。技術的合理性を前提とした外的な評価制度とのぶつかり合いにどう折り合いを付けてきたか。実践内在的評価の論理を組み込んだ教師教育評価の制度を構想するなら、どのような形が考えられるか。様々な組織のせめぎ合いの中で、教師教育カリキュラムの改革をどのように進めてきたか。教員免許更新講習がなくなることで、行政とは異なる大学からの知見が教師に届かなくなる状況をどう見るか。大学で行われる研究を今後どう位置づけていくか。実践内在的評価、開かれた相互評価、ステークホルダー参加型評価といったものは、福井大学では実際にどのような形で取り組まれ、その成果は卒業生の学校でのどのような実践の姿として見られるのか。特に教員の意識や教員養成の組織について、外に対してどのように説明がなされているのか。「同型性」というのはどのような意味内容で、それは同僚間でどのように浸透していくのか・いかないのか。
(6)司会・コーティネーターによる総括
本シンポジウムでは、評価とエビデンスを切り口に教師教育について議論を行ったが、実践をめぐっては、カリキュラムの構成原理にも目を向ける必要があることが突きつけられた。教師教育カリキュラムにおいては特に、科目や組織がコンパートメント化された状態でのスタンプラリー方式――典型的にはバラバラの科目を取り回って単位をかき集めるという形――では成り立たないという状況の中で、シングルループ学習が前提となってしまいがちな評価のフレームをどう転換させていくかが問われてくる。
本シンポジウムでは、例えば佐藤氏から、アカウンタビリティを民主的な方向に組み替えていく中で、「原理を愚直に貫く」ことの重要性が指摘されたが、そこで何を原理とするのか、また、その原理を同僚らとどのように共有し吟味していくのか、このサイクルを教師教育やFDのカリキュラムとしてどう実現していくのかも併せて問われてくる。
さらに、このような論点を踏まえて、教師教育(やその機関・機構)の公共性をどのように考えたらいいのか。教師教育の公共性も含めた形で公教育の理念をどのように問うたらいいのか。この点は、初等中等教育における目標・評価の原理をどう考えていったらいいのかという点と通底するものであるため、本学会で今後も議論が続くことを期待したい。
文責:遠藤貴広(福井大学)