第26回大会(2015年10月31日~11月1日)
於:京都教育大学 藤森キャンパス
学会第26回大会を終えて
大会実行委員長 藤岡 秀樹(京都教育大学)
2015年10月31日(土)・11月1日(日)の2日間にわたり,京都教育大学において教育目標・評価学会第26回大会が開催されました。天気にも恵まれ,課題研究,課題講演,自由研究発表,総会,公開シンポジウムが行われました。本学で教育目標・評価学会を開催するのは,初めてです。学会創設以来の会員は,小生1人のみでしたが,お引き受けを決めた段階では,本学の学会員は4名になり,そして1人の入会を得て,大きく成長したとも言える状況で学会開催に取り組むことができました。また,徳永俊太会員のゼミ生(院生)11名もスタッフとして活躍して頂きました。
参加者の内訳は,正会員69名 臨時会員31名でした。また,公開シンポジウムだけの参加者は,一般24名,学生・院生19名でした。遠方からの大会参加者では,沖縄県や北海道旭川市の会員がお見えでした。公開シンポジウムは,京都教育大学教育支援センターとの共催とし,さらに,学校心理士の資格更新ポイントを付与する研修会にもなるように企画しました(小生は,日本学校心理士会京都支部長・全国幹事)。そのため,上述以外に,学校心理士24名が,公開シンポジウムに参加して頂きました。学校心理士の大多数は教員や元教員で,京都府以外に大阪府や兵庫県の方も参加されていました。
小生は,公開シンポジウムの司会を務めたことを除いては,裏方として動いており,様々なプログラムに参加することはできませんでしたが,それぞれのセッションで有意義な議論ができたと伺っています。とりわけ,木村元 代表理事が行った課題講演では,戦後の学校の展開を三期に分けてまとめ,教育の成果と課題を提起されました。学校教育が時の政府の考え方に振り回され,子どもの学習権の保障や発達保障が十分にできていないことを示してくれたのではないかと感じました。
自由研究も近年にない17件という多くの発表申し込みがあり,5会場で並行して開催されました。
大会準備委員会が企画した公開シンポジウムは,「教師として求められる資質・能力」という教員養成系大学にふさわしいテーマを選びました。京都府下の中学校校長盛永俊弘先生(非会員)が,実践を踏まえた話題提供をして頂き,2名の研究者の報告とあわせて,「教師として求められる資質・能力」を考える機会になったのではないかと思います。司会の不手際もあり,十分なフロアからの討論の時間を確保できなかった点は,お詫びいたします。テーマとしても,3時間で結論が出るものではなく,今後も学会として継続的に研究をしていくことを期待するものです。当初,指定討論をお願いしていた久冨善之会員が体調不良ということで,急遽,木原成一郎会員にお願いする事態となりました。無理なお願いを受けて頂いた木原会員には,感謝申し上げます。そして,公開シンポジウムには,地元の京都新聞が取材に来られ,翌日の朝刊社会面にシンポジウムの概要が掲載されました。
要旨集の印刷の不備や視聴覚機材の不都合など,至らぬところが多かった点は反省点だと準備委員一同思っております。また,観光シーズンと大会会期がぶつかり,京都市内に宿が取れなかった会員も多かったことと思います。大学が独立行政法人になってから教室借用料も高くなりましたが,幸い,会計面では赤字にならず,一安心です。
大会の運営に際しては,学会幹事会のきめの細かい助言を頂きました。準備委員一同,感謝いたします。
【課題研究1】
社会科で習得させる知識・理解と価値観・行動の指導と評価
――国内外の関連領域の検討をふまえて――
報告者:
オーストラリアのグローバル教育の検討をふまえて
木村 裕(滋賀県立大学)
イングランドのシティズンシップ教育の検討をふまえて
川口 広美(滋賀大学)
日本の福祉教育の検討をふまえて
長谷川 豊(京都府立大学)
指定討論者:鋒山 泰弘(追手門学院大学)
司会・コーディネーター:岸本 実(滋賀大学)
はじめに
社会科とは何を目標とする教科であるか。この答えについては,歴史学,地理学,社会諸科学にもとづく科学的な社会認識の形成に重点をおく見方から,態度や価値観も含めた総合的な資質の育成にあるとする見方まで多様である。本課題研究では,科学的な知識・理解を重視しつつも,それらを価値観や態度,行動の能力の発達と関連づけて総合的にとらえるところに社会科の教科としての特質があるという立場に立つ。グローバル化など社会の急激な変化の中で地球的諸問題や国内の社会問題からの要請として,価値観や行動能力を育てる教育の重要性が増大している。学校教育としては,社会科という教科の中で対応するにしても,社会科と総合的な学習の時間,特別活動,道徳とを合わせた指導として対応するにしても,社会認識とそれに関わる価値観や行動の指導において,目標をどのように具体化し,指導に生かせばよいのか,そして,それをどのように評価すべきであるかについての検討が重要な課題となっている。
この課題についての中等社会科におけるこれまでの議論について最小限のことをふまえておきたい。まず,戦後直後の構想では.公民教育の目標を「(前略)生活のよき構成者たるに必要な智識技能の啓発とそれに必須なる性格の育成」 とし,公民教育の中で「公共的問題への関心を高める」とともに,学校組織運営全体が「公民的実習」の場となることを提起した。その内容は,生徒代表等の選挙など学校の自治的な運営,遠足や地理,歴史に関する研究,調査の企画と参加などであった。勝田守一はそこでのポイントを ,「子供たちがはっきりした自分の意見をもち,社会や公共の事象に対する判断の力をもち,しかもそれを公共の問題として,すなわち,自分の問題として,討議し,理解し,解決する責任を感じ得るようになるか,否かにある」と指摘していた。また,「学習指導要領社会科編(Ⅱ)(試案)」(1947)で示された政治単元の目標には,「新憲法の原則に従って,政治の現状を,批判的に自主的に判断する能力」,「宣伝にとらわれずに,自分自身の政治的意見を持つ能力」など価値観や行動に関わる目標が含まれていた。
このように初期社会科においては,価値観と行動に関わる指導が重視されていたが,旭丘中学校事件(1953年~)が起こり,義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法(1956年)が成立した後は,現実の社会の公共的な問題について,その問題を解決する責任を感じることや政治的意見を持つことを指導することが難しくなった。さらにその後,「教育の現代化」の流れも受けて,「開かれた科学的認識の形成」を目標として,「科学的知識を科学的探求の論理にもとづいて習得させる」 ことを重視し,「質の高い社会認識の形成という観点から社会科授業理論を体系化」し,質の高い認識を形成する授業の構成原理を解明する研究 が進められ,科学的社会認識に重点を置いた実践と研究が進められた。
もちろん,「問題解決」や「意思決定」を重要な構成原理とする実践や研究も戦後一貫して展開されていた。最近注目されるのは,唐木清志の日本型サービス・ラーニングの提案である。 それは,「よりよい社会の形成に参画する資質や能力」の育成を目標とし,①地域社会の課題の教材化,②プロジェクト型の学習過程,③振り返りの重視,④学問的な知識・技能の習得と活用,⑤地域住民との協働という単元構成の学習である。
社会科は民主主義的な態度・能力と知識を育成することを教育目標とし,自由で平等な社会の在り方についての認識を教育内容とするが,社会の在り方の一元的な方向付けは民主主義の理念に反するので,教育方法としては,子ども一人ひとりの多様な見方・考え方の表明を保証し支援するように組織されなければならない。ここで,教育目標や内容と社会認識の方法が矛盾することになる。これを,草原和博は「社会科教育のパラドックス」と呼び,「現行社会の漸進的な改善に教育の役割を求める」新潮流として,規範反省学習(梅津正美),比較社会学習(草原和博),合意形成学習(吉村功太郎),価値形成学習(溝口和宏),社会参加学習(唐木清志),社会形成学習(池野範男)を分析している。このパラドックスは,自由主義社会の教育においては不当な支配が排され,中立性が確保される必要があるにもかかわらず,民主主義や人権という人類の普遍的な価値については望ましいものとして教育しなければならないというパラドックスであろう。このパラドックスに対して新潮流は次の二つの点で解決方向を示している。一つは価値観をダイレクトに教えるのではなく,人々の価値観が強く投影されたミクロな社会的行為や政策の選択・決定やマクロな「制度・体制」の存在理由や正当性を捉えさせることを通して価値観を扱う方向である。もう一つは一つの見方・考え方を絶対視して教え込まないように,子どもの「自立的・反省的」な思考・判断を導くことや,個々人がもつ見方・考え方を「自律的・参画的」に行使させることである。
その他,18歳に選挙権年齢が引き下げられたことを受けて議論が活性化している主権者教育も価値観や行動の指導に踏み込む教育が構想されている。例えば,総務省「常時啓発事業のあり方等研究会」 は「国や社会の問題を自分の問題として捉え,自ら考え,自ら判断し,行動していく新しい主権者像が求められている」として,「社会参加」,「政治的リテラシー(政治的な判断力や批判力)」,「社会的・道義的責任」を強調し,主権者教育を「社会の構成員としての市民が備えるべき市民性を育成するために行われる教育であり,集団への所属意識,権利の享受や責任・義務の履行,公的な事柄への関心や関与などを開発し,社会参加に必要な知識,技能,価値観を習得させる教育」を主権者教育として定義している。主権者教育において教育の中立性が問題となる時,ドイツの「ボイテルスバッハ・コンセンサス」が共有の合意として大切にされている。それは,①教員は,期待される見解をもって生徒を圧倒し,自らの判断を持つことを妨げてはならない。②学問と政治の世界において議論があることは,授業でも議論があることとして扱わなければならない。③生徒が自らの関心・利害に基づいて効果的に政治に参加できるよう,必要な能力の獲得が促されなければならない,という合意である。
さて,ここまで,社会科において学習者の価値観や行動能力の指導と目標や評価についての議論の一端を垣間見てきた。このような検討をふまえると,今課題となっていることは二つある。一つは,学習者の価値観や行動能力を目標として指導し評価していくことを,社会科本来の目標である社会認識を育てることとどのように関係づけて進めていくかという点である。もう一つは,特定の価値観や行動を押めていくためにはどうすればよいかという点である。
この二点を共通の論点としつつ,それぞれ固有の領域で問題になっていることも含め本課題研究では,オーストラリアのグローバル教育,イングランドのシティズンシップ教育,日本の福祉教育の検討から,社会科において,学習者の価値観と行動の指導と評価をめぐり,理論的に何が論点となるのか,そして実践的にどのように指導と評価を進めていけばよいのかについての示唆を得ていきたい。
Ⅰ オーストラリアのグローバル教育の検討をふまえて(木村 裕;滋賀県立大学)
オーストラリアのグローバル教育では,万人にとって平和で,公正で,持続可能な世界の実現に向けて活動できる学習者の育成をめざし,知識や技能の習得にとどまらず,実際の行動への参加を可能にするための力量形成をめざした目標設定が行われてきた。そしてこれらの目標を達成するために,グローバル教育の重要な理論的基盤となっているコルダー(Calder, M.)とスミス(Smith, R.),およびフィエン(Fien, J.)の開発教育論では,学習者の学習への主体的な参加および他者との協同的な学習を保障する探究アプローチを採ることが提案されてきた。
なお,両論ともに,この学習の過程においてただ行動を起こすのではなく,資料やデータの吟味や他者との議論などに基づく社会認識と自己認識の深化を基盤として,問題解決のために自らがとるべき行動を自己決定したうえでその行動に参加することと,自らの行動の結果を評価し,改善することの重要性を強調している。これにより,平和や公正,持続可能性など,グローバル教育がめざす社会の実現に際して重要とされる価値観の押しつけになることが避けられてきたのである。ただし,社会認識ならびに自己認識の深化に関して,コルダーらが相互依存関係という視点を重視するのに対し,フィエンはイデオロギーや権力のせめぎ合いという視点を重視していた。また,主に想定される行動のあり方に関しては,前者が情報提供や個人レベルでの生活改善を強調するのに対し,後者は政治的リテラシーの獲得を通した社会構造そのものへの積極的な働きかけを伴う政治プロセスへの参加を強調していた。
さらに,単元例「良いビジネス」では,教師が生徒の学習の成果や課題を直接的に把握するための評価課題や評価方法などについての意識的な言及は見られなかった。ただし,学習成果の発表とそれに基づく議論は,発信された情報や発信者の認識の質の度合いを把握したり,さらなる深化を促したりするための「評価」を行う機会ともとらえられた。
Ⅱ イングランドのシティズンシップ教育の検討をふまえて(川口 広美;滋賀大学)
成立時より,知識のみならず価値観や行動に至るまでの総合的な能力育成を志向した教科である。そのため,行動を扱うべきかどうかという議論はほとんど行われていない。ただし,成立以降「多様な価値が共存する社会で,どのように価値を扱うか?」ということが,議論の中心課題として示されていた。なお,シティズンシップ教育では,大きく2つの立場をとっていた。
第1は,私的・個人的価値観育成には直接関与しないという立場である。これは,伝統的な立場である。この立場は,公的・社会的価値育成に特化するという方法,あるいは私的・個人的価値観分析を行うことで間接的に関与するという2つに分かれる。具体的な単元案として,前者では,政策・法や制度について,そこに含まれる社会的価値観の立場から分析するというもの。後者では,「国を愛する」という個人的な選択を取り上げ,その背景にある価値観や社会的意味を分析するというものがあった。この立場に基づき,GCSE(中等学校修了資格認定試験)なども作成されている。
これに対し,第2の立場として,Arthur, J.を初めとして,積極的に私的・個人的価値観育成に携わろうという動きも出てきた。これは「普遍的な価値」=アリストテレス哲学として,私的・個人的な品格・品性(Character)育成を行おうというものである。この動きは,現在の政府の主張との親和性を背景に強まりを見せている。
以上のように,多様な価値がある社会であるからこそ,シティズンシップ教育では,(1)私的・個人的価値育成から引き下がり,公的・社会的価値育成に特化する(2)多様な価値に共通する普遍的価値を教授する,という2つの立場が窺えた。
Ⅲ 日本の福祉教育の検討をふまえて(長谷川 豊;京都府立大学)
1977年度の「学童・生徒のボランティア活動普及事業」を契機として小・中学校における福祉教育が開始された。当初は,教科とりわけ社会科の中で「社会福祉問題への知的関心・知的理解」を深めつつ,特別活動や道徳において「体験化」や「感覚化」を図ろうとしていた。70年代においては,基本的人権,福祉制度の理解,生活者としての問題の認識と問題解決のための実践意欲と実践方法を「探究」することの重要性が説かれていた。
しかしながら,80年代には知的関心や理解への取り組みの弱さが総括されていた。さらに,90年代になると「体験」重視の傾向が強まる中で,「思いやりの心」に一元化され,「体験化」や「感覚化」のみが強調され,「精神主義・道徳主義の横行」となった。社会福祉問題を「矛盾」をはらむものととらえ「探究」という方法で迫る福祉教育論は完全に後退したのである。
高校「福祉科」においても,「介護福祉士」資格取得との関連から,理解よりも実習が重視される傾向が強まった。教育内容もソーシャルワークの視点は縮小しケアワークへと大きくシフトしてしまい,もはや高校福祉教育と呼び得るものではなくなった。
さらに,教育改革国民会議(2000年),中央教育審議会答申(2002年),東京都立高校教科「奉仕」必修化(2007年)と奉仕活動の義務化の動きがある。このような動きに対し社会福祉法人大阪ボランティア協会早瀬昇は「奉仕活動の義務化」に反対し,自主的な「ボランティア学習」推進を求める提案をしている。また,倉本哲男によるサービス・ラーニングの提案などが注目される。
Ⅳ 指定討論とフロアからの議論
指定討論者の鋒山泰弘からは次の3つの論点が提起された。①対立とジレンマの問題をどう扱われているのか。②知識と問題解決,問題解決にはどれだけの知識の問題が必要だと考えられているのか。③市民の前に善き品格ということで,教科の前に,教科外,家庭教育で前提としての人格特性を育む教育の必要性が学校にはどこまで求められるのか。
これに対して登壇者から以下のような回答があった。
○木村会員の回答
①たとえば「公正」な社会のあり方に関して,どのような状態を「公正である」と捉えるのかに関する多様な議論(対立やジレンマも含めて)を調べ,それをふまえて自分なりの立場を見出していくというかたちで扱われている。
②知識を獲得しながら問題解決に取り組み,また,問題解決に取り組む中で新たな知識を得たり認識を深めたりするというかたちの学習活動が想定されている。したがって,最低限どの程度の知識が必要となるのかという議論よりも,どのような問題解決に取り組ませるのかという議論が主であると考えられる。
③グローバル教育は1つの教科としてよりもむしろ,教育活動全体を通じて実践すべきものと位置づけられている。また,人格特性と市民性の育成,あるいは知識や認識の獲得とは必ずしも切り離して考えられるものではなく,互いに影響を与えあいながら,並行して育成していくことがねらわれていると考えられる。
○川口会員からの回答
①基本的に価値に関わる事象については,「事実」としてではなく,「解釈」として扱う。従って,対立やジレンマとして扱っていると考えられる。生徒は,その対立やジレンマから,多様な価値観,価値の解釈を知ることになる。
②知識と能力育成を分離して捉えない。知識は,実践において必要な知識を習得するという立場。知識の質についての検討は余り行われない。
③シティズンシップ教育は「教科」の枠を従来どおり想定していない。品格・品性としては,全人的なところが強く,「教科」というのが難しいのではというのはその通りだと思う。
○長谷川会員からの回答
福祉教育では表面的には対立や矛盾が表にあらわれにくく,思いやりで一元化してしまう。認識のレベルは何も深まりを求められず,同じ行動を繰り返させられる状況がある。背後にある貧困の問題は見ようとしなければ見えない。
そのあとフロアから次の3つの論点が提起された。①教科教育としては,やはり,科学的認識の形成,認識の科学性が大切だと考えられるので,価値観や行動の指導という場合,制約をどうとらえるかという問題である。②国民教育と市民教育の関係をどうとらえるのか。③この課題研究では価値観と行動というような概念や用語が使われているが,指導要録の4観点,すなわち,知識・理解,思考・判断・表現,資料活用,関心・意欲・態度という概念とどう関わるのか。
概念・用語に関しては,本課題研究では,「思考」という用語が直接的には使われていなかった。それに当たる用語としては「認識を深める」や「認識の深化」あるいは「吟味・検討」という用語があった。外国の事例,あるいは日本でも福祉教育や主権者教育などでは,様々な用語が使用される。学校現場では,文部科学省が告示する学習指導要領や文部科学省の通知や報告を参考に教育委員会等が決定する指導要録の様式で使用している用語が定着しているので,それらの用語との関連についても明示することで分かりやすい議論となると考えられる。
おわりに
木村報告では,コルダー・スミスからフィエンへの理論的展開から特に示唆を得られると考えられる。一般に,社会認識を獲得させるという段階までは中立性をことさら問う必要がなく,判断をさせるところから特定の価値観に偏ることがないように留意すると考えられることも多い。しかし,フィエンは,事実認識のレベルからイデオロギー性が存在することを明示し,事実認識の背後にある立場を自覚させることが,それに対して批判できる力を保障することになると考えていた。
また,判断や行動の選択において,自己決定を保障するためには,まずは十分な情報を吟味させることが必要であることは言うまでもない。しかし,単により多くの情報というのではなく,その情報をいかに読み解くかという政治的リテラシーを獲得させることにより,学習者による自己決定を保障するという考えは評価できる。単元例「良いビジネス」においても,「調べ,審査する」というプロセスに,単なる情報の吟味から政治的リテラシーの発達へという視点が具体化されている。
なお,オーストラリアのグローバル教育では,学習指導の中で生徒が行う価値判断や行動について,教師が評価するということがあまり見られていないということであった。これについては,評価することにより特定の価値観や行動を刷り込むことになると考えて慎重になっていたのか,それとも他の理由があるからなのか,今後検討していくべき課題である。
川口報告では,価値を教えるのではなく,価値を作っていく指導の在り方を示すという点が特に参考になった。パブリックな価値とプライベートな価値とを区別して,学習対象とする価値観はパブリックなレベルに限定する。また,価値観そのものを判断の対象とするのではなく,価値観が埋め込まれた行為や政策の是非を問い,社会的な行為や政策の土台にある価値観を吟味・検討するというプロセスにより自らの価値観を自己決定できる力を育てている点が示唆に富む。
個人的な価値観も社会的に共有されていたら一定社会的なものになる。それが,パブリックな価値観と対立していたら,どう対象化するのか。報告の中でも,両者の区別は必ずしも簡単ではなく,分けられない場合も多いことが指摘されていたが,その点をどのように解決していくのかが今後の課題となるように思う。また,間接的に吟味・検討することで価値観を注入されることを避け,自ら形成していくことができるという論理はわかりやすいが,その中においても,隠された形で刷り込まれる価値観は存在しないのか,今後検討していきたい。
長谷川報告では,日本の福祉教育においては,社会科と結び付けられず,感覚化,体験化が強調されることで,精神主義,道徳主義的な傾向が広がっている問題状況があることがわかった。社会科と結び付けられず,特別活動や総合的な学習の時間,道徳などの領域だけで実践が進むことの危険性が浮き彫りとなったと言える。
70年代には「探究」を位置づけるプランも提案されていたが,それは根付かなかった。実際の福祉の問題に目を向け科学的に認識していけば,社会の矛盾や価値観に取り組まざるを得なくなる。福祉に関する国家資格において,理解よりも実習が重んじられることも,同じ傾向から来ているものと思えた。
このような課題研究を通して,社会認識の指導と結びつけて価値観や行動の指導が行われることの重要性と,その在り方について明らかにできた。また,そのことにより,特定の価値観や行動を押し付けるのではなく,自己決定させることを保障している点が明らかとなった。
報告の中で今後の課題がいくつか示された。加えて,次の点が今後の課題である。すなわち,社会科という教科教育の中で,社会認識と価値観,行動の指導を考えるのか,社会科を中心に関連付けながら,特別活動や総合的な学習の時間,道徳を「合わせた指導」という形で考えるのか。目標として指導するというレベルでは,それほど違いはないが,評価が入ってくると,教科教育の評価の論理と教科外の評価の論理が当然変わってくる。それをどう考えるのかについても今後の検討していきたい。
この課題研究は,2013~14年度の学会の共同研究補助を受けた研究をもとに取り組まれた。私たち共同研究グループとして貴重な機会を与えていただいたことに感謝している。本課題研究のまとめは,私たち自身の共同研究をさらに進めていくための総括ともしたいと考えた。三本の報告の詳細については,発表要旨や当日の配布資料を参照いただきたい。
文責:岸本 実(滋賀大学)
1勝田守一「戦後における社会科の出発」『勝田守一著作集1戦後教育と社会科』国土社,1972年
2森分孝治『社会科授業構成の理論と方法』明治図書,1978
3森分孝治『現代社会科授業理論』明治図書,1984
4『子どもの社会参加と社会科教育ー日本型サービス・ラーニングの構想ー』東洋館出版,2008
5総務省「常時啓発事業のあり方等研究会」は最終報告書,2011
6東京都社会福祉協議会福祉教育研究委員会(一番ケ瀬康子委員長)「社会福祉の理解を高めるために-福祉と教育-」,1971
【課題講演】
戦後の学校の展開と人づくりの課題
講 師:木村 元 (一橋大学)
司 会:山根 俊喜 (鳥取大学)
本講演は,戦後70年に当たって,学校,教育,社会の変容を捉え,教育目標―評価研究の課題をとらえなおすことを目的として企画された。講演者は木村元氏,講演は2015年3月に発刊された,木村元『学校の戦後史』(岩波新書)を元におこなわれた。以下,講演の要旨と議論をまとめておく。
1 課題の提示
今日の教育問題の底流にあるのは,学校による人間形成という方式が揺らいでいるということである。近代学校,その上に形成された「日本の学校」,さらにその上に形成された「戦後の学校」という三重の構造の中に私たちの学校が存在し,これが基底の部分も含めて大きな転換点にあると思われる。その様な捉え方に基づき,学校の展開過程の特徴を捉え,人づくりの機関としての学校の課題を考えてみたい。
2 学校の人間形成
学校における人間形成は,人類史の上で特異な形態である。人類はほとんどすべての時代,生活に汲々とし,生活の中で次世代の再生産を行ってきた。人類の歴史全体に比すると学校による人間形成の歴史の長さは人類史の中では極めて短い。
では,人類史の中で圧倒的長期にわたる学校のない時代の人間形成はどの様に行われていたのか。そしてこれがどの様に転換したのか。これを端的に示す絵画資料がある。教育史家の宮沢康人氏が紹介している19世紀前半の靴屋の画である。靴屋は次世代の靴屋を養成する為にどうしたか。その後継者養成の方式は端的には「一生懸命良い靴を作ること」であった。そこには「教える」という行為はない。原ひろ子が紹介しているエスキモーの子どものカヌー造りも同様である。子どもは大人に教わることなく「自然に」その技術を獲得している,さて,この絵の靴屋は靴づくりに集中していない。宮澤康人氏はこの靴屋が斜めを向いたその瞬間に,文化伝達の一つの転機があると指摘している。つまりここで「教える」という行為が生まれ,これが人間の形成方式の転換を導いた。
この様な形成方式の転換がシステムとなるには様々な展開あった。その一つがランカスター法である。ここでは,「靴屋になりきる」といった形で文化が獲得されるのではなく,分析した知(その代表は文字)が,特別な空間で教えられる。つまり文化伝達が工夫された形で行われ,ペダゴジーの世界が生み出されたのである。ランカスター方式は,各国に伝播して近代学校を生み出すことになるが,その過渡的な状態を示しているといえる。
3 「日本の学校」の形成
近代学校が日本に移入されると,日本社会の変容とともに作りかえられた。近代学校から「日本の学校」,「戦後の学校」,「現代の学校」が拡大しつつ生まれてくる。これを包含関係で示すことができるが,一番外側にある「学校方式以外の人間形成」と「現代の学校」の境界線は点線で示してある。このようにその境界が曖昧になっているのが現代の問題状況を示している。
さて,「日本の学校」の特徴はどの様なものであったか。従前の教育機関であった寺子屋は,師匠と子どもが一対多の関係だが,「一斉」「教授」しているわけはなく,子どもそれぞれが有する課題に対する個別指導が基本であった。これに対して,近代学校の教授の在り方を示した図は,国家の定める同一の内容を一時に多数の子どもに一斉に教授されたことを示している。
日本が採り入れた学校システムは,帝国大学を頂点とするピラミッド型の体系であった。これは要するに知識の階層秩序に対応して,学校や等級を整序したものであり,大学に向かってこの階段を登っていくことが学校に行くということであった。進級や入学は修得主義型の「試験」によっていたので,「学校」とは「試験」であると表現できるものであった。
しかし,この学校体系に参入したものは少数であった。当時の日本の人間形成方式は,圧倒的に「自然」に人を育てるシステムだったからである。国民形成という視点からは,子どもを学校に来させなければならない。この課題への対応が日本の学校の基本的性格を形成した。その一つが,試験-修得主義のシステムから,学級編制等ニ関スル規則(1891年)を契機とした,履修主義のシステムへの転換であった。そこでは,知識の修得よりも「教師と生徒が共にいる時間」が重要とされた。つまり,先生と生徒達が創り出す共同性が重視されたということである。その「共同性」を創り出すには相当な苦労と工夫が必要であった。極端な例だが,20世紀初頭のある教師の日誌のなかの教室の図にはムチが描き込まれている。極端にはムチがなければ学級を統制することが難しかったと思われる。天皇制教育における慈恵-服従関係とパラレルに,教師(生活綴方教師なども含めて)-子ども関係は無償の献身-服従の関係として組織され,これを元に学校の共同体が作られていった。学校の日常ということで言えばこうした関係は戦後も引き継がれている。
4 戦後の学校
学校の課題を,生活世界,政治(公共社会),経済(市場)という三つの関係の在り方から成立すると考え,戦後の学校を三つの時期に区分したい。第1期は,1950年代後半(戦後民主主義社会の担い手づくりを課題とする教育)まで,第2期80年代まで(産業化社会の構築に対応する教育)。第3期はそれ以降現代に至る時期(新たの課題への対応と学校の土台の再構築)である。
第1期の課題は,憲法・教育基本法を基礎に戦後民主主義社会の構築を担う人間をどう教育するかということであり,これを象徴するのが義務制の新制中学校の設立である。とはいえ,在ってはならないがなくてはならないという微妙な位置づけを与えられた夜間中学や,制度的にはないものとされたが存在し続けた朝鮮学校など,独特の外延をもちつつ学校制度が構築された。
第2期の学校は,政治から経済に大きく軸足をずらしていく。この時期,就学強制のない高校という「いかなくてもいい学校」にみんなが行くようになる。高校進学率は急上昇し1970年代中頃にはプラトー状態に達する。学校化社会の出現である。同時に1970年代中頃以降,減少しつけていた不登校率が反転し,V字型を描いて増加しつつづける。つまり,「いかなくてもいい学校」にみんなが行き始めた時,子どもは学校に行かなくなったといえる。
同時にこの時期,企業社会の成立に伴って,教育-企業-家庭が結びつき,教育は労働力を企業に提供し,企業は賃金を家庭に提供し,家族は子どもを学校へやるという形で強固なシステムをつくりだした。このシステムが動き出すと,学校に行くのが当たり前で,学校で何を教え・学ぶかということが問われなくなってしまう。
教育と学校の変容は,教育学の変容からも捉えられる。例えば岩波教育講座の変遷を辿ってみると,幅広い視野から教育を捉えた『教育』(1952-53)から,『現代教育学』(1960-62)では教育内容,『子ども発達と教育』(1980)では発達,『教育の方法』(1987)では内容と発達を結ぶ方法へと展開している。『教育の方法』では,学校方式よる人間形成の「葛藤」,揺らぎがみられるが,1998の『現代の教育』に至ると,学校は,告発・模索・転換・再構築されるものして捉えられ,その後は,講座本が発行されない状況が続いた。現代は人間形成の学校方式と共に,これを支える枠としての教育学への信頼が崩れている状況が現出している。
第3期は,政治,経済よりも生活世界の再構築が課題となっている。日経連の「新時代の日本的経営」(1995)にみる様に,日本社会を支えてきた教育-企業-家庭の循環関係が崩れた。この中で,学校の基盤が揺らぎ,学校の課題とは何かが問われている。学校への就学=教育権保障という構図が揺らぎ,不登校の増加に見られる様に教育への権利と就学の権利が背反するという事態が起き,この中で「多様な教育機会確保法案」が作られるなどしている。また,全生研も従前の「民主主義の訓練」から,その前提としての集団の中で認められる「居場所づくり」を課題とするに至っている。「チーム学校」の提起に見る様に,学校=教師と子どもの共同体という関係が揺らぎ,そこに福祉,心理支援等の関係者が入らないと学校が成立しなくなってきている。
5 学校の課題
以上を踏まえて,現代学校の課題を考えてみたい。
これまでは,学校が人間形成の土台であり前提だという自明の共通認識があったが,これが崩れてきている。現在,学校という場を成立させる為にはケア(元来エデュケーションの概念に含まれていたのだが)の視点が不可欠になっている状況にある。ところで,「教育」は「よくすること」が課題だが,ケアは「そのままでよい」という思想であり,学校において併存するには葛藤がある。これが顕在化しているところに今日的な課題がある。
また,今日,不登校やオールタナティヴスクールに関わって,当事者主権に基づく自己決定が強調されるが,これとこれまで学校を成立させる基盤であった教育目標論における代行論との対立が顕在化してきている。こうした問題に教育目標―評価論がどの様に対応していくのが問われている。
最後に,教える行為を成立させる際,教科と生活を繋ぐことが最大のポイントだった。今日重要なのは,子どもの生活と同時に,社会変動と結びついて変化している子ども達の学校の生活,これを成り立たせる為の教科の役割,さらに既存の枠組みを超えた教科(教える中身)の在り方が問われているという点である。
6 討論
討論では以下の点について応答があった。論点のみを記しておく。
①人間形成全般と学校教育の関係をどう捉えるのか,学校の固有の役割は何か。
②戦後第2期,子どもの生活世界は狭められたが,なくなったわけではない。これをどう捉えるのか。
③報告では学校は初等中等教育が中心に展開されたが,とくに今日では,大学まで含めて一つのロジックで語られるに至っている,これを含めて考えると変化がより鮮明になるのではないか。
④ケアと「教育」は概念的には対立する側面があるかも知れないが,実践的には「うまくケアされれば,よく変わっていける」ということがあるのではないか。また逆に,教科学習がうまくいけば学級が落ちつくといったこともある。これをどう捉えるのか。
文責:山根 俊喜(鳥取大学)
【公開シンポジウム】
教師として求められる資質・能力――教育目標・評価論からの提起――
シンポジスト:
教職大学院における教員養成と研修
山崎 雄介(群馬大学)
教員養成の運営と評価にみる日本的特質――教育実習を中心に――
岩田 康之(東京学芸大学)
子どもたちの願いを踏まえた学校現場の取組
盛永 俊弘(長岡京市立長岡中学校)
指定討論者:木原 成一郞(広島大学)
司会・コーディネーター:藤岡 秀樹(京都教育大学)
教員養成のあり方をめぐってさまざまな改革が進められようとしています。本シンポジウムは、今回の大会が教員養成大学で開催されることを踏まえ、「教師として求められる資質・能力」について、「教育目標・評価論から議論する」という主旨のもとに企画されました。
当日は、まず司会・コーディネーターの藤岡秀樹会員が、文部科学省の「これからの学校教育を担う教員の資質能力向上について(中間まとめ)」などを取り上げ、教員養成や研修制度をめぐる改革動向を紹介するなかで、これからの教師に求められる資質・能力について議論を深める必要性を指摘しました。
最初の報告者である山崎雄介会員は、教職大学院にまつわる批判的な「言説(特に具体的な実践をふまえないそれ)」への「苛立ち」があることに言及した上で、群馬大学教職大学院での取り組みを紹介しました。
その一例として、学部新卒者も含め、「自身の実践を素材とし、実習と連動した『課題研究』の実施と報告書執筆を修了要件として課している」ことが説明されました。具体的には、まず「課題発見実習Ⅰ」(1年次6月)において、特別支援学校や小学校、中学校、幼稚園など、「校種を越えた学校教育全体のつながりを把握し、学校教育の全体構造の理解を深める」ことがめざされます。次に、「課題発見実習Ⅱ」では、小学校・中学校での各12日間の実習を通して、「現職教員学生」は勤務校以外での観察・参加により「自らの実践を省みる」こと、「学部新卒者」は観察・参加により「自己の知識や技能の改善点を認識する」ことをめざし、両者ともに「研究課題を明確化する」機会とします。その上で、「課題解決実習」(2年次前後期)において、各自の課題研究テーマの解決に向けた実践を30日間行うことになります。ここでは、大学院の指導教員(研究者・実務家)2名がペアになり、巡回指導を実施していることが紹介されました。
このような実践を行っている群馬大学教職大学院では、アドミッション・ポリシーなどにおいて、「目標」とする「資質・能力」に関して、①「課題を分析、把握する力」、②「対応策を構築する力」、③「実践する力」、④「実践を評価し、再考察する力」が考慮されていると指摘されました。山崎会員は、それぞれの中身の詳細について説明を加えた上で、これらの「資質・能力」の「試金石」となるのが、先述の課題研究・課題解決実習であるとして、実際の修了生の行った課題研究テーマの一覧と事例を紹介しました。
さらに、「資質・能力」の形成と評価への示唆として、「実践的知識」は経験の積み重ねの中でしか形成されえない状況依存的で多面的・個性的な見識であるという意見を取り上げながら、山崎会員は、資質・能力向上に資する「経験」をもたらしうる「状況」(文脈)を、「研究者教員・実務家教員とともに創出し、そこにコミットしていく」という「しかけ」が重要であると指摘しました。その際、「資質・能力」単体の評価は困難であるということにも言及しました。
2人目の報告者である岩田康之会員からは、教育実習の日本的な特質として、指導能力やその基盤となる知識・技能に加えて、「身だしなみ」「立居振舞」などの「外形的要素」が求められ、時として後者が重視されるのはなぜかという問いのもと、そこに教育実習をめぐる日本的な布置関係のあることが指摘されました。
岩田会員によれば、日本の教育実習の場合、中央政府の直接管理の弱さとともに地方政府(教育委員会)への強い権限集中が見られます。とくに日本の大都市圏では一つの教育委員会の管轄下に多くの大学が集中し、教育委員会への負荷がかかるなか、「大学が劣位に置かれる関係」が定着しているとされます。つまり、さまざまな権限を有する教育委員会が、大学に対して、教育実習に参加できる者は「教職に就く意思のある者であること」、「教員採用候補者選考試験を受験予定の者であること」などを要求して絞り込む構造があるというわけです。
これに対して、岩田会員自身が東アジア諸地域で教育実習の参与観察を行った結果も紹介されました。大学主導で実習プログラムをアレンジするソウルなどに比べ、日本の場合は、教育委員会が「大学を縛る」という「力関係」の違いがあることが指摘されました。
そのため、日本の大学においては教育実習の要件に「誓約書」「意思確認書」「面接」「レポート・小論文」などの「主観的要素」を課すということが定着しつつあるのではないかという点が、最近の岩田会員の調査をもとに指摘されました。知識や技能という点で学生を絞り込むことが難しいために、主観的要素(強い教職志望、使命感、態度、立居振舞等)で絞り込む状況が見られるというわけです。これからの教員養成のあり方として、教師としての倫理、知識・技能、あるいは実践的指導力のいずれを重視すべきか、考えていく必要のあることが指摘されました。
また、教員養成の担い手の問題として、研究者と教師、個別科学の科学者が協同で教育にあたるのか(たとえば「学びの共同体」論)、あるいは教育委員会指導主事が実践にもとづいて指導するのか(たとえば「教師養成塾」)、という発想の違いも見られる今日、教育実習の評価指標の共同開発などを行っていくことが求められると岩田会員は主張しました。
3人目の報告者である盛永俊弘氏は、学校現場での取り組みをもとに、子どもたちや学校がどのような教員を求めているのかについて報告をしました。
盛永氏によれば、子どもたち(中・高校生)が求めている理想の教員像としては、「わかりやすい授業をする先生」、「生徒とのコミュニケーションを上手にとることができる先生」、「クラスをまとめることができる先生」、「誰に対しても笑顔で明るく関わる先生」などが先行研究で指摘されているとのことです。
公立の学校現場に大きな影響を与える国の動向などについても言及するなかで、盛永氏は、経団連が出した「国立大学改革に関する考え方」(2015年)において、「即戦力」を有する人材像とは「対極」のものが志向されていること、また自身も関わった国立教育政策研究所による調査『全国学力・学習状況調査において特徴ある結果を示した学校における取組事例集』(2009年)において「学校と児童生徒や保護者との間に強い信頼関係」のあることが秘訣になっていることなども紹介しました。
次に、学校はどのような教員を求めているのかについて、第一に、「授業づくりと生徒理解を深める」ことが重要であると指摘しました。わかる授業づくりと、居場所づくりや絆づくりは密接に関わっているとして、両者に積極的に関与できる教員が求められていると盛永氏は主張しました。第二に、「学校が抱える課題に挑む」教員が求められていると指摘しました。不登校や“子どもの貧困”が問題となるなか、これらの課題に挑むことが重要になっているとされました。第三に、「子どもたちを座標軸に本気でぶつかる」必要性が指摘されました。とくに最近の教育実習生から感じることとして、礼儀正しさや指導案作成などにおいてうまくこなすことができる一方で、どこか「こじんまり」とした印象も受けることなどから、複眼的な批判的思考力なども求められるのではないかと指摘されました。
また、教員の資質・能力を伸ばす学校づくりとして、管理職の役割も重要であり、一人ひとりが「有能性」「自律性」「関係性」を高めていくことができるような環境づくりの必要性が指摘されました。最後に、知識・技能に加え、非認知的な能力の大切さも指摘される時代のなかで、大学4年間で何をどこまで育てるかを考えていく必要があるとされました。
以上の3人の報告を受けて、指定討論者である木原成一郎会員からは次のような指摘がありました。まず、山崎会員の報告に対しては、多様な文脈が想定される教育実習に対して、統一的な評価指標を作成することは困難ではないか、作成したとしても指導の改善に資するような有益な情報を提供するものとなるか、また「課題を分析・把握する力」の育成は、教える経験そのものがもつ限定性ゆえに困難な部分もあるのではないかという点が指摘されました。
次に、岩田会員の報告に対しては、免許取得者数と実際の教員採用数との間にギャップがあることをどう見るか、また教員採用試験の面接で資質・能力が判定される現状において、知識・技能を主な指標として評価してきた大学にはいったい何ができるのかという点が指摘されました。
さらに、盛永氏の報告に対しては、教員養成系大学の出身ではない先生も良い先生になっているということをどう考えるか、結局のところ、卒業論文などによる課題探究力が教員生活において果たす役割が大きいのかどうかという点が指摘されました。
これらについて、山崎会員からは、児童生徒支援能力や学校運営力が高まっているという自覚が院生の間に見られることが紹介された上で、統一的なルーブリックはつくりにくいかもしれないが、授業をつくりかえるときにどんな指標を用いるかという点については考えていくことができるのではないかと指摘されました。
岩田会員からは、開放制原則のもと、教員採用数の増加に躍起になる大学が出てくるなかで、仕組みそのものを考える必要のあること、さらに大学が弱い位置に置かれている現状において、さまざまな大学が連合体として協力し、統一した指標を提案していく動きなどに可能性を見出せることが指摘されました。
盛永氏からは、教員養成系大学の出身であるかどうかという点にそれほどの差はなく、むしろ教師になってからが「勝負」であることが指摘されました。
これらの質疑応答に加え、フロアからも意見が出されました。たとえば、研究者が実践を見るまなざしが教員にも求められるのではないか、地域特有の課題への対応という視点は教員養成においてどのように取り上げることができるか、学校においては授業づくりが主で教科内容への理解が重要だと思われるがそれについてどう考えるか、などの意見が出されました。
また最後に、最近の学生は時間割も詰まり忙しくなっているとして、大学生活のなかに余裕がなくなっていることを懸念する声も出されました。登壇者からは、縛りがきつくなる状況のなかで、国からは独立した発想が大切であるという指摘や、大学としていかに豊かな学びを学生たちに提供できるのかが重要になるという指摘がなされました。
文責:樋口とみ子(京都教育大学)