「毎日にっき」(2021/5)

毎日とは?

中一色RTAの制作まとめ

2021/09/22

・内容を決めたとき

意外にも、お題発表で「ちゅう」と聞いたときは何も思いつかなかった。流行り物だと「今日の勝利の女神は私だけにチュウする」とかが思いついたが性に合わなかった。とにかく何も思いつかなかったし何を作る気でもなかった。

しかしそこで友人のツイートが目に入った。「制作してます!」みたいな感じで動画つきだった。自分の性格の悪さは折り紙付きなのでそれを見て色々と考えた。それは本当にゲームとして面白くなるのか、とかギミックを増やしたほうがいいんじゃないかとか、もっとお題をわかりやすく取り入れたほうがいいんじゃないかとか。そしてその後に自分の中の天使が囁いた。

「文句いうなら自分で作ってみろやアホンダラ」

そうして思いを巡らす。ちゅう→中。麻雀の中か。でも中だけピックアップしてもなあ。

いや、違う。中だけにしよう。それといらない牌を混ぜ込んで、中一色を目指すゲームにしよう。

そうして見切り発車が始まった。

・作ろうと思って作れたもの

麻雀が基本。しかし中がやたら多い。タイムアタックということで最短手数は固定。中以外の牌は原作にない遊びゴコロのあるやつも入れて種類を豊富にする。効果音をほとんど全部自分で作る。

・作る中で仕様を変えたもの

卓が映らないタイプのタイトル画面をやめて、カメラの移動を一切なくした。牌のモデルは作らずUnityの基本図形でどうにかすることにした。打牌のスピードをリファレンス(天極牌)のものから2倍遅くした。点数計算画面をなくした。リーチもなくした。流局もなくした。床を作った(弾け飛んだ牌をぶつけるため)。

そして、上がりの演出を電撃エフェクトではなく、物理演算による爆発の処理にした

・人に意見をきいたところ

床の色を明るくするべき、という意見があったのでそうした。これだけで画面の印象がかなりよくなった感じがする。

・思ったより楽だったところ

3Dのゲームを作ること。簡易なモデルさえ用意できれば物理的な挙動によってそれらしく見える。

・思ったよりきつかったところ

ロジック。最短手数を固定するのもそうだし、違和感なくいくつかの場合に分岐させるために、どうすればプレイの多様性を担保したまま最短手数を崩さずにできるかというのを考えるだけで1日、実装するのに1日かかった。これは慣れてないだけかもだし、こだわりすぎなのかもしれないが、作りたいものができた。

・学んだこと

拡散は大事。今回はRTA勢の生放送者にやってみてと言ったところランキングがえらいことになったが、とにかく知る機会を増やすとヒット数も、クリティカル数も増えるので大事。

あと自分は飽き性なので1週間でも飽きがち。

完成したのに日記更新しない漏れ

2021/09/14

完成しました。unityroomで公開してます。

晩ごはんに、シワシワになったピーマンを生で食べたら未だに口内に風味が残っています

麻雀牌作るだけでも人は興奮できる

2021/09/07

unity1weekらしい。昨日の時点では

「なんも思いつかないから今回はパスwww」

と思っていたがとある友人の途中経過をみて何かが頭を駆け巡り、

_人人人_> 中 < ̄Y^Y^Y^ ̄

が頭に浮かんで、次に中一色というパワーワードが思い浮かんだので着手した。

光の当たり方がそれっぽい!

それはそうと3Dゲーム作るの初めてだけどどうにかなるかな?

YouTubeはテレビになれない

2021/09/02

自分の中でYouTubeがテレビに取って代わって数年になるが、だんだんと弱点が見えてきた。

飽きやすいのだ。

テレビと違ってYouTubeではチャンネルごとに決まった同じ人間がいろんなことをしようとする。

しかし人間にはそれぞれクセや傾向、あとは知っている範囲があり発信できる内容には限界がある。

チャンネルTでは最初こそ突飛で誰も真似しないヘンテコで、しかし興味を惹く検証を行っていたが、だんだんと自分たちのキャラを活かした検証とは名ばかりの茶番に変わっていった。

チャンネルSではあるゲームをエンジョイ勢としてプレイしていたが、進歩せず、そして別のゲームにも手を出すわけじゃないので目新しさが一切無くなった。

チャンネルS(2)ではゲームを横暴にプレイする様が非常に愉快で、しかしマルチプレイで一緒にやる人が固定されてからキャラ元にした寸劇になっていった。

チャンネルBでは特定のゲームについてやりこんでプレイしておりそれの解説が面白かったが、そのゲームの新機能が横ばいになり見るものが減ったあたりから内容が薄くなっていった。

チャンネルNではまた別のゲームをやりこんでいて、独特な口調が面白い人だったがしばらく見ているうちにゲームにも人にも飽きた。

どの例でも人間主体のコンテンツで、しかしその人間が変わらないので飽きが来る。

そういった意味で流行り物に手を出す人は正しい。同じチャンネルでも新しい概念が導入され、別のチャンネルがすでにやっていたとしてもそのチャンネルの人による独自の捉え方を出力することになり、視聴者はそれを望んでいる。

しかし冗長なのだ。テレビでカットされるような、フツーの反応についても全員が全員自分の動画に含める。

結果としてテレビのような編集が望まれる。Vや、最近はリアルYoutuberにも行われている切り抜きがこれにあたる。しかし切り抜きの視聴回数が伸びても元のチャンネルに収益は入らない。

YouTubeOriginalはどうか。いや、これも人間性を売りにしていてしかも中途半端に初見の人にも優しい作りにしてあるのでより面白くないものになっている。

突き詰めるとYouTubeは動画投稿プラットフォームに過ぎないのだ。見せるための動画は投稿者自身が工夫しなければならず、そして他の動画との連携なんかはYouTubeのほうで調整されない。だからこそ一動画で完結する見やすいものでチャンネルごとの競争も強くなるのだが。

YouTubeは見るにはいいがテレビのような眺めるものになれない。

物語の盛り上げ方

2021/09/01

安倍吉俊さんの動画を参考がてら作業中に聞いていた。しかし途中から話が面白くなってきて、作業そっちのけで聞き入ってしまった。

13:36時点でのあらすじはこうだ。

芸大受験のため絵の練習の数をこなしていた彼はある日、人間が自分を傷つけないように自らの認識を歪めてしまうことに気がついた。デッサンの歪みを小さなものだとか、直すに値しないとか、そんな自分に甘い論理を持ってきてこれを肯定してしまうと。それに対抗するべく大きな練り消しを使うことにした。

そしてここから語られるのが、その大きな練り消しをいかにして使ったか、ということである。なぜここから話に惹かれたのかはずばりこの

「大きな練り消しをいかにして使ったか」

なのである。当たり前だが、文脈からみて練り消しは描いたものを消すために使われる。ただしその当然の結末を話さないままその周囲を修飾していく。

「今でも印象に残っている。」「当時のデッサンは会心の出来であった。」「顔の書き込みに時間をかけた。」「奇跡の一枚にできそうだ。」

良いことを並べているのに、良いことを並べているからこそ結末との逆接がどんどん強くなっていく。

「深層心理にやられる前に消してしまおうと決意している。」「顔の側面が微妙にずれている。」「逡巡を自覚した。」

そうして彼の内心が語られていく。

そして、自分の中で言い訳が思い浮かんできたら練り消しで消してしまう、と定めたルールに従って「わーっ」と声を出しながら消した。

結果として克己し、そして悪いことばかりではなかったと語る。

流れが完璧すぎる。起承転結もよくできており、結末の断片を最初にお出ししている。


ただしここで注目に値するのは盛り上がり方だ。

話の骨格は経験談。面白かったり印象に残った出来事を語るのだから話の要は決まりきっている。

問題は好奇感。消すというルールと消したくない内心がぶつかるところから盛り上がって、先が気になる。

そう、先日の好奇感について述べた際には批評向きの語だと述べたが、これを形作るための要素がここに眠っている。

結末の場合の数だ。

消すというルールが勝つことはわかっているが、その結果すべてが好転するのか、もしかしたら台無しになって絶望するかもしれない、その間でも克己したがその回は失敗に終わるとか、やり方を間違ったと思って違う方法に挑んだとか、本当にいろいろなことが考えられる。

結論についての記事では結論を取り巻く詳細こそが知りたい情報だとしたが、物語形式では時間軸に沿って事象が進行するため結論の先を予期させることでも魅力と転じる。

だから盛り上がるピークというのはこの場合の数が確定するときなのだ。知りたいことがわかって場合の数がバシっと絞られる。

今回のテーマでは、「こんなに大事に思っているのなら一度負けて後に回しちゃう」場合を消して、エイヤと消してしまう。


2つの勢力の戦いでも盛り上がりは大事になる。

Aが勝ったらそのあとどうなるのか、Bが勝ったらどうなるのか。

バトル漫画でよくあるトーナメントなんかは勝ったらその結果がすぐに次の試合に反映される。

どう勝ったかも含めてどうとでもなるが、どちらかが勝つだろうという大枠がこの推測を可能としている。

「やったか?」「どうだ?」はそのピークの前触れで、だからこそありきたりでも多用される。

ゴールデンカムイはそれぞれの勢力の信条、構成員の意思に至るまで詳らかに描くことで結末の先まで予期させている。

ただこの場合の数、つまりはこれらの勢力の結末およびその先を大きく左右するのが物語の駆動力こと心情なのである。

心情をうまく乱していろんな場合を予期させ、そしてある大事なシーンで場合の数をはっきり絞る。

かなり抽象的だがこうすれば盛り上がるのだろう。


書き出しのときは「わーっ」と声を出したことなどのちょっとした装飾品に目を向けるつもりだったが、書いて脳内を整理するうちに好奇感へと帰着した。そして大多数の物語で大事にしている気持ちの問題にスライドしていった。ただしどういった効能があるのかを含めて考えておくことは物語の分析としても、自らの創作熱のためにも重要なのだろう。大事なことの再確認としておく。

製作者側は結末を知っているのでどんな結末があり得たかなどと考えるのは難しいが、しかし論理的な分析の手段として意識してもよいのではないか。

自分のやる気スイッチはどこにあるんだろう

2021/08/20

たぶんどこにもない。今目先の課題としてあるのはサークルの締め切りと製作中のゲーム2つ。

自分は衝動で動くタイプだからこの2つについて何かしらの衝動が起こせればよいのだが……そう簡単には事が進まない。

自分は効率的に物事を進めようと考えて、その結果何もできていないということがザラにある。ここ一週間はそんな感じ。

結局のところ、やりたくてやるという理想的な環境はあんまりなくて、計画性なんて持たずに自分の本能に流されてやる創作がいいのだろうな。

動機づけよりも始めるハードルの低さが大事という話だ。

そう考えると今はお絵かきをしたほうがいいのかもしれない。幸いにも毎朝サークルの人と絵の練習をする時間がある。

朝は効率こそ落ちるもののそこから始めるとなにか大きなものを成し遂げたような、そんな感覚があるのだ。

よし決めた、明日からはどれだけ意味合いが薄くとも、ゆっくりであろうとも、自分がやりたいところから遠くとも、なにかをしよう。

それらすべてのやる気が出ないのなら、こうやって日記を書いて現実逃避し、手を動かしたという事実で自分を鼓舞しよう。

コレドナ感って何だ

2021/08/19

https://nametank.jp/note-004/

に載っているコレドナ感こそ作品の魅力だよなあ、と言っている人がいて読んでみた。

本文はいかがでしたかサイト並にもったいぶっていてウザいので要約すると

「売れている作品は冒頭に後の展開が気になる要素があり、これを『コレどーなっちゃうの感』から縮めてコレドナ感って呼ぶよ」

とのことだ。この概念自体は全く新しさはないが、作品の魅力を語る上では頻出するだろうし便利な言葉だろう。

ただし私は指示語をこそあど言葉などと言い換える輩が嫌いなので「好奇感」と呼びたい。

そして好奇感は出そうと思って出せるなら苦労しないのだ。されど好奇感が出ているかどうかで作品を評価できると言える。

好奇感にもいろいろあるだろう。全く未知のものをポンと出してもいいし、普通は組合わさらないものを組み合わせてもいい。(「息子の嫁」など)

しかしそれの見せ方もいろいろある。世界観に合わせてやらないといけなくて、やりすぎると混沌として好奇心をはたらかせるどころじゃなくなる。

結局のところ批評に使いやすい語彙であって、作品の本質を探求するには向かないと感じた。

いまさっきつくった好奇感という造語も今後使うか怪しい。

これから論説はわかりやすく短く書く

2021/08/10

私はこのサイト以外にも自分しか見れないような日記もある。

そこで書きたいことだけ綴っていると論旨がどんどんとずれていくのだ。

鉛筆で紙に日記を書いているときにはこうはならなかった。

あの瞑想のような日々に立ち戻って無駄なことを省いて書くのを徹底したい。

そして自身の進歩として結末が気になるような表題を心がけたい。

同じサークルの年下にも成長の速さは負けていられないのだ。

「話し上手は聞き上手」はコミュニケーションの真理だ

2021/07/21

人と話しているとまるで話が噛み合わない、なんてことはざらにある。

ましてや日本語のような言葉数の少ない抽象的な言語でものを伝えようと思うと話し手も聞き手もそれ相応の能力が必要だ。

しかしそれ以前の大前提がある。

「コミュニケーションは互いが情報を受け取るために行わなければ成り立たない」ということである。

今日はそんなコミュニケーションがうまく行かなかった事例について列挙し、読者諸君の啓発とすると共に自戒としたいと思う。


と思って書き進めてみたのだが、特定個人への攻撃のような文章になってしまうのでやっぱり1件だけ愚痴として話させていただきたい


A「このスライドどこが悪いと思いますか?」

B「こことここの比率がおかしいんじゃないかな」

私「配色を変えるとどうなりますか」

B「それは関係ないです」

私「そうですか」


Bさんは経験もあり、それなりに頼られている人。確かに言っていることは尤もらしく的確なように聞こえるが、断言されてしまったので以降意見が出しづらくなった。Aさんのほうも私の意見を聞きたいと思っているかもしれないが、聞きづらくなってしまう。

ちなみにこのときBさんは部外者であった。私の反感を大いに買った。


内容は同じようなニュアンスの別のものに差し替えてある。

これと同じことをしないように、その意見がなぜだめなのか、どの場所が的を得ていてどう変えるべきなのか、理由も含めて議論するようにしよう。

特に私の父親はこういった断定的な否定を行うので自分にもその傾向があるのだ。文字に書き起こして自戒とする。

結論とは文章におけるコスパ最高のフレーバーではないか

2021/07/15

標題は内容を要約すべしとの言説をみて、なるほどと思った。

「〇〇について」などという抽象的なものではなく、「〇〇だ」「〇〇だろうか」といった結論につながるような書き方をしなければならないと。


英語では結論が先にくるきらいがある。一方で日本語は結論を最後にもってくるきらいがある。

これはトムが買ったペンだ、と言うにも先に this is the pen が先にくるし、文章としても結論を言ってから補足するように語を飾り付けていく印象がある。

実のところ結論を先に言ったほうが理解は早い。しかし日本語では結論を納得させるだけの流れをつくることができる。

しかも注意深く読めば比喩や枕詞で結論と同じようなことを繰り返している。

結論による余計な先入観を持たないぶん正しいニュアンスを伝えるには向いているだろう。

だから日本語も英語と違う利点があり、ものを伝えるのにはどっちも一長一短なのだ、とそう結論づけたいのが前までの自分。

しかしこの言説をみて日本語の欠点を補うこともできるのだと深く納得するとともにまた別の観点が思い浮かんだ。

読者にとっても筆者にとっても、手軽におもしろい文章にするためには結論をうまく操る必要があるのだ。


おもしろい文章を書く人がいる。アノニマスダイアリーなんかで時々拡散されている。

そういった人のエッセイはすべて勢いがある。

「こうしたかったのでやってみた」「こんなひどいことがあった」「ちょっと狂ってみた」

これらの文章にはみな駆動力がある。

突飛だったり稀有な思想があって、いったいどうなってしまうのかその意志に引っ張られるように読者は読み進めてしまう。

ただしすべての言説がこうはいかない。恐らく同じ作者の文章でも事務連絡なら淡々と事実を連ねていくことしかできない。そこには"意思"がないのだ。

ところがどうだろう、その書くのに"意思"のない文章でも読む駆動力となりうるのが結論なのだ。

大事なので繰り返そう。書くのが面白くない文章でも結論の扱い方によっては読む面白みが出る。


例えば学校だよりを考えよう。不在県空虚市の虚空小学校の学校だよりだ。

今月はこんな行事があります、この曜日にやります、給食はこんなメニューが……

どうでも良すぎる。だって自分に関係ないんだもん。

ただどうだ、「なんとあのメニューが二週連続!?」「あの怪人が帰ってきた!!!」とか書いてあったら。

あのメニューってなんだ? 怪人ってなんだよ、そんなに知られてるものなのかよ、と思ってとりあえずその項目だけでも探してしまう。

当然これは誇大広告にも使われる手段ではあるが、このアオリは誇張されていないものでも十分な効力を持っている。

それはなぜか。読者に"視点"を与えるからだ。標題を見る前ではその文章の外部の情報しか手に入れられない。

当然そこから得られる情報だけで内容を予想して評価することになる。「この学校だよりは自分と縁のない情報しか書かれていない……」

これは一種の事実だ。ただし標題を見ることによって次のような"視点"を得ることになる。「この学校だよりには自分の知らない情報が書かれている……」

これもまた一種の事実。前者は読む手間を考えて面倒だと感じるが、後者は知る機会を失うと考えて読みたくなってしまう。好奇心がはたらく。

これは結論さえ未知であれば同じ原理が働き、かなり広い範囲の文章で利用できる

結論につながる手がかりを提示してしまえば、結論を人質に文章を読むことになる。


では、結論を人質にとるにはどうすればよいか。そこが考えるべきことなのだ。

この手法は様々だが、一番わかりやすい例がラノベの長いタイトルだろう。

適当に検索をかけて出てきたタイトルが「僕の部屋がダンジョンの休憩所になってしまった件 」だったが、これは

僕の部屋がダンジョンの休憩所になってしまったんですがその結果何が起きたと思います?

だとか、

「どういった経緯で僕の部屋がダンジョンの休憩所になってしまったと思います?

といった問いを投げかけているともいえる。

ここで大事になってくるのが一番最初に挙げた標題のルールである。

「~になった件」とすると謎が残らない。「俺の部屋のダンジョン」だと抽象的すぎて疑問までつながらない。

「(意外にも)ダンジョンの休憩所になってしまった」という結論を書いてしまうことでその経緯が謎に包まれて、しかし最終目的地でない状況だけを書いておくことでこれからどうなるのかという結論が隠される。

ラノベのタイトルはよく揶揄されるがこうしてみるとなかなか洗練されているものだ。


物語においては謎が大事、とは確か荒木飛呂彦の論だった気がするが、それはあらゆる人間の動機に深く結びつくものだからだろう。

事実を列挙し興味のある人にだけ読ませるもよし、ただ人に読まれたいのであればその導入もまた内容の一部と心得て、この標題を利用しない手はあるまい。

u1wと妄想と私

2021/05/02

今日は伊藤園に行きませんでした。

でも行ったという体で日記を書いていきます。下に書いてあるのは全部私の想像です。

伊藤園に行こうと思った理由は至極単純で、なんとなくです。

伊藤園といえばお茶っていうイメージがありますよね。私は最近お茶にはまっていてなんなら旅行のついでにいいお茶っ葉を買っちゃったり……なんていう思惑もありました。

一人で旅行するのもありだったんですが、やっぱり複数人で行ったほうが楽しい(場合とそうじゃない場合があります)ので「全日本こけしチェスの普及を目指す会」で人を募り北条院さんと一緒に行くことになりました。

長原県は宮下市、青梅線から乗り換えて十数駅のところにある北上勝駅で待ち合わせをしました。

北条院さんの家は私の家からめちゃくちゃ近い(歩いて数分)なのでもっと近所で待ち合わせをしたほうが良かった気もしますがなぜかそこに突っ込んでくれなかったのでここで待ち合わせ。ちなみに伊藤園の最寄り駅でもないので、ここからさらに数駅移動しました。

最寄り駅には伊藤園の方向の案内こそあるものの、どうやらバスが必要みたいです。完全にリサーチ不足ですね。バス停についたのが11時過ぎくらいでしたが、運悪く前のバスが出たあとで(電車から走り去るバスが見えてました)駅周辺で1時間くらい潰すことになりました。

電車は山超え谷越えで相当な田舎を覚悟していましたが幸いにもそれなりに活気のある街でした。

古ぼけた喫茶店に入りそういえば朝ごはんちゃんと食べていなかったなあということで少し多めに注文しました。朝兼昼ごはんはピザトーストでした。これがまた素朴ながら素晴らしく、厚めのパンを頬張るとうす焦げたパン生地が心地よい音をたてるのです。そして続いて薄切りの玉ねぎと焼かれて柔らかくなったトマトが口に流れ込んできます。咀嚼すれば玉ねぎがさくっと歯の緩衝材になり、他方ではピーマンが反発する。

これらを舌先で味わいながら、少し暗い店内で外から差す光に照らされて飲むコーヒーはとても贅沢なものでした。

のんびり食べていたら次のバスが来る時間になって少し焦りましたね。

さて肝心の伊藤園はというと閉まってました。

ご時世……

ただし周りのお土産屋さんはやはり多少なりとも類するものを売っているもので、目的は達されました。

これお茶いる? というようなものにもお茶を練り込んだお土産の数々は見るぶんには面白いんですが、やっぱりそれなりの値札がついているので買ってはこれませんでした。

まあ、ここまではよかったんですがバスが来ないんですよね。ここが終点で今さっき乗ってきたバスが行ってしまったわけで。もう一時間どうやってつぶそうかってなったとき、時間が余っているのでこう思いました。

「歩こう!」

北条院さんはイヤらしいのでここで解散しました。

嫌らしいっていう言葉は「いやらしい」って読みますが、口語的に「やらしい」っていうと、イントネーションのない文章だと別の意味にとれてしまいそうですね。

そう語った大俳優ケッフェル・ケーンはこのインタビューのあと路上で凶弾に倒れた。

当時最新とされた映像技術で撮影されたこの映像は数年後の大戦により一部が焼け、さらに宗主国により焚書の対象となっていた。

完全とはいえないまでも、彼の顔の造形までもがわかる資料が確認されたことは歴史家にとって大発見であった。

(ナレーション)実際に聞いてみた。東毛大学名誉教授の韋駄太郎教授はイグアナ共和国を専門とする世界でも有数の歴史家である。

(韋駄)はい、たしかに当時歴史家は大騒ぎになりました

(八嶋)へぇ~! やっぱすごいんだ

(韋駄)しかしこの映像は後にフェイクだと立証されたんです

(八嶋)えっ!?

(韋駄)この映像と一緒に保存されていた日記にはケッフェル・ケーンの映像であると書いてあるんですが、年代を推定するとこの時代にカメラはないはずなんです

(ナレーション)どうやら通常化学分析によって年代推定を最初に行うものだが、内容に興奮した研究者が早合点をし発表してしまったらしい

(韋駄)うーん、残念ですよね

(タモリ)こりゃひどい

(ナレーション)こうしてこの世界にまた一つ新たなトリビアが生まれた。歴史上、専門家が間違って認めた架空の人物の数は……一人。

(高橋)さあこちらのトリビアの種、何分咲きでしょうか

(画面に九分咲きと表示される)

(高橋)九分咲きです!

(タモリ)いや、いるんだ!

(八嶋)そうですよね、専門家が間違えちゃだめでしょって

(タモリ)でもねえ、わざわざ映像にしたぐらいだからもっといるのかと思っちゃった

(高橋)そこまで言ったらスタッフさんが可哀想ですよ

種を提供してくださったきゃるるんパワーさんには金一封とバカでかいメロンを差し上げます