ゲームのたのしい瞬間

バートルテストによってゲーマーは4種類に分類できると聞く。

勝利を目的とするキラー、達成を目的とするアチーバー、交流を目的とするソーシャライザー、探検を目的とするエクスプローラー。

ゲームにおける自分を客観視し、プレイヤーよりもゲーム世界を重視する自分はエクスプローラーに分類されるが、別に他の楽しみ方ができないわけじゃない。

この記事では自分がゲームをなぜ面白いと思っているのか、その理由を深く研究することにする。

勝利(対人)

対人戦のゲームは難しい。なぜなら対戦相手が人間なのだ。

こういった類のゲームで全能感を得ることはできない。上には上がいる。

正しくレート計算が行われていて、なおかつあまりにも強かったり弱かったりしない限り勝率は半分に収束していく。

となるとどうだろう、敗北感よりも勝利感が強くないと全く採算がとれない。

自分はこのあたり達観してしまっているので、負けても実力とか運が足りなかったんだなあと感じて、勝ったときも同様になる。ムキになることも少ないが勝ったからといって快感もさほど得ない。

逆に言うとこれが好きな人は負けたらそのぶん勝ったときの快感が増えていくような、ギャンブラーのような思考回路をしていると見える。


だからこれについては対人以外での勝利と同じような面白さがないと楽しめない。つまりは同じ状況では一定の実力をもった対戦相手が現れる、そういった安定した品質でないとなかなか実力の向上を実感できない。

さらには、勝ち負けが同数程度でも納得のいくシステムである必要がある。プレイヤー間で優遇の差があってはいけないのだ。ちょっと面白いシステムでMOBAがあるように思う。レベル上げをすることで有利不利が大きく出るがこれ自体の技術が問われる。またNPCへの勝数を考えると少し勝ってる気分になれるのかもしれない。ただし自分はそう感じられなかった。

性質の問題だなあこれは

順位

人間は闘争を求める。

アーケードゲームにあったランキングボードが廃れたら今度はソシャゲで出てきた。

順位とは自らの強さ、成長の指標になる。ただしその指標がどの程度あてになるか。

自分は正直この順位とやらが好きじゃない。特にソシャゲのランキング。理由は主に2つ。

逆にいえば果てが見えている、実力を如実に示す順位は好きだ。先に挙げたアーケードゲームのランキングやくるりんパラダイスのソフト内ランキングなんかはこの条件を満たしていた。ただ、どちらかといえばノルマとして呼んだほうがいいのだろうな。

私にとってはあまり好みでない要素だが、ソシャゲが大衆に受けているのであれば無視できない要素であろう。

軍隊で序列が強く存在するのにはこの要素も含まれているように思う。

達成

図鑑やトロフィー。埋められるものはなんでも埋めたい。

ただしそれに多大な努力労力が必要ともなれば話は別だ。

達成感とは自分が払った労力を価値あるものとして認め感慨にふけるような時間を逆行した営みであると感じている。

唐突なトロフィーはその一例。自分はあくまでメインストーリーに従って冒険をしていただけだが、100回モンスターを倒したと通知が来る。ときにはストーリー進行のため面倒なレベル上げを行わなければいけないが、それが反復作業ではあるものの価値があったものなのだ、時間をかけて勝ち取ったものなのだと考える。

図鑑もそうだ。別に図鑑を埋めようと思っていろんなモンスターを倒してきたわけではないが、ときたま覗いてみると思ったより多くのモンスターが紙面を彩る。ときに一つ一つの思い出を噛み締めてそして本を閉じる。

時間をかければかけるほどそのゲーム自体に愛着がわく……というのは少々ひねくれた見方かもしれないが、その愛着への返礼を目に見える形にしてくれるのは悪いものじゃない。

ただしこれがタスクになった途端にこれは価値を大きく下げる。あとちょっとだけだからと、このちんまりした要素のあと数%のために時間をかけるのはあまりにも割に合わない。とくに達成したのにゲーム内アイテムもトロフィーももらえないようならなおさら。

連続〇〇などとしてそれが途切れてしまってもやり直しには多大な疲労感がある。やたら難しいチャレンジもそうだ。

タスクが難しければ難しいほど燃える場合もあるだろうがゲームの種類は選ばなければならない。その行動はゲーム内で評価されるものではなく、ただトロフィーがぽんと出てくるだけなら、それはゲームを介したメタな作者の挑戦状となるだけなのだ。

達成の労力は意識させなければ0に等しい。意識させるなら労力は極力減らして、ゲーム内で大いに祝福されたい。

脱出

不快からの脱出を即ち快とす。――飛方位老師

ゲームにはピンチというものがある。負けそう、死にそう、終わりそう。そんなピンチからの脱出はストレスからの開放といった意味でとても清々しい気持ちになれる。勝利(対人)の項に書いた

負けたらそのぶん勝ったときの快感が増えていくような、ギャンブラーのような思考回路

がこれに近い。「これ以上負けるとお金がやばい」アドレナリンもβエンドルフィンも最大放出。ヤバい、その打破に集中が必要だからこそ人間の機能が提供する快楽を享受できる。脳内ではすでに九割九分負けそうな状況からウィニングランに移り変わる。予想外のプラス、サプライズプレゼント、棚からぼたもちの本能的な喜びなのである。

ただし自分は賭けで興奮できない。負けると苦しくなるまで不確かな賭けにそもそも出ないし、自分が集中すべきはbetの段階で結果は賽任せ。コロコロと回している間に頭が冷えてくる。確率の問題だから当たっても外れても意外性がない。大逆転チャンスといってあらゆるものがピカピカ光りだしても、そういった演出なのだ、確率はどれくらいだ、何が起きるのだろうか、と言ってなんだか楽しめない。大きなリスクが設定してあるピンチはあまりにもエクスプローラーと相性が悪い。

そして大事なのが「逆転」とは区別していること。逆転は第三者でも楽しいが、脱出は当事者、またはものすごーく感情移入している人しか得られない楽しさだ。「このままいくとこうなって、負けてしまう。それは相当つらいことだ。」そういった予測があって、それが裏切られて初めて楽しくなる。

前置きが長くなったが、自分がよく思い浮かべるのはアーケードゲームだ。負けると100円が消える。体力が削られていく格闘ゲーム、弾幕が殺しにかかるシューティングゲームもそうだが、この類で一番熱中できるのがパズルゲームだ。

テトリスはあれよあれよと積み上がっていき死が近づく。しかし回転入れや気の利いたアドリブでなんとか脱出する。

テトリスは運要素が少ない。ただただじぶんの業が可視化される。それを解消するのも自分の技だ。そういった意味で集中を要求する。ただし自分の技が優れていなければいつまでも真綿に首を締め続けられる。

TEKIPAKIは積み上がっていくにつれてどんどんパニックになっていく。選択肢も減りいよいよだめかと考えたときに大連鎖で地形が下がる。

TEKIPAKIは運要素が強い。確率的にどうしてもブロックが積み上がっていくようにできている。それを解消するのは理論に基づきつつも絶好のブロックがやってくるかにかかっている。ただし脱出するときは派手だ。困難で技の必要なボムブロックがフィールド全部を破壊して、スコア増し増し、機械的なファンファーレ音楽がかかる。

ミスタードリラーはちょっと複雑だ。ブロックにつぶされると一撃で死ぬ。ただし慎重に事を進めると酸素が減ってくる。脱出するのは正確さと速さ両方が必要で、片方だけでは片方からしか逃れられない。酸素をとると「ラッキー!」というセリフと共に延命だけ行われる。エリアクリアーをすると即死は免れる。脱出が二種類あるかなり特殊な例かもしれない。

ドリラーは運要素が少ないほうだと思う。ただし複雑で……正直わかりにくい。酸素はわかりやすいが、ブロックに潰されそうな危うい動きに初心者のうちは気づけない。知らない間に追い込まれていて、脱出を経験することなくすぐに死ぬ。

や、いろいろな種類はあるがどれも死にそうになったら楽しくなってくる。これだけはコンシューマに出せないスリルだろうと思う。

コラムスIIも一応似た類のゲームなのだろうが、あまりにも難解だからこそこれを楽しめる人は限られていて、しかしハマるのだろうなあ。

生存

脱出と勝利と順位を組み合わせた場合だと考える。

テト99、PUBGなど脱出の手段が勝利にしかないものだ。生き残るためには他人を蹴落とす必要がある。

ただしこれが相当難しく、しかも運が結構絡んでくる。そして上の順位を目指そうと考えれば慎重で消極的なプレイが推奨されてしまう。

テトリス99の開発段階にあった防御が猛威を奮ったというエピソードはこれを象徴する。

危機的状況を打破するべく自ら動くエクスプローラーとはあまりにも相性が悪い。

逆転

一番有名でわかりやすい例が「逆転ホームラン」だ。点数がそう易易と入るものではない野球において博打をうった奇跡的なプレイにより普通覆るはずのない戦況が一転する。これにはファンも大喜び。

ただしこの「逆転」を脱出と区別したのは、ゲームでの逆転が結構安いからだ。

ゲームでは戦況が既知の情報で表される。スコアだけではなく、競技のメンバーのコンディションまで。現実の選手がホームランをかっとばすコンディションが出来ていてもテレビの前の我々は知るよしもないが、ゲームの選手が絶好調だとディスプレイの前の我々はなんかオーラ出てんなとわかってしまう。カードゲームでは必要なカードが何枚積まれていて残りデッキ何枚だから、と確率が求められてしまう。だからこそゲームにおいてピンチと表現される場面は少ない。わかっている実況者なら「〇〇ができればチャンスが生まれるが~!?」と言ってくれる。競技性のあるゲームには詰み状況というのがほとんどないのだ。

逆転のチャンスはシステムで規定されていることが多い。格闘ゲームで体力が~%以下のとき使える超必殺技、体力が減ると使えるレイジアーツ、相撲の土俵際。そうなると、そのシステムも込みでゲームを見ることになる。場合によってはむしろピンチ感のほうが抑えられてしまい、逆転したときの興奮も少なくなってしまう。弱者が贔屓されているともいえる。

楽しい逆転や楽しい脱出を形作るのはここのバランスかもしれない。

少し考えてみよう。

「レッツゴージャスティーン」で知られる梅原大吾のプレイは未だに語り継がれている。これは攻撃することによって貯まるスーパーアーツゲージが逆転のキーとなっている。スーパーアーツは逆転の要素となるが、弱者側が贔屓されていない。ただし対等に戦いを繰り広げていればこれを消費しない弱者側が自然と溜まっていく。プロの競技シーンでは確定コンボから出すものと考えれば、ゲージを温存することというのは体力ゲージと交換したものと考えてもよい。だから実質的にはあの場面は"ゲージをうまく使うことができれば"お互いに一撃必殺の場面だった。しかし同じようにゲージが溜まっており、そして体力差がある。逆転の目はあるが一発でも技を食らうと終わり、梅原はスーパーアーツという逆転の目を通さないといけないのに対し、必殺技どころか小足一つ食らってはいけない場面になっていたのだ。しかし相手の奢りによって見事その細い糸を通した。

ここからわかるのは2点。

①逆転の方法は数値の平均をいじることではなく、分散をいじくるべきだということ。平均をいじるとあからさまに贔屓に見えるが分散だとリスクもついてまわるためリスクリターンが割りに合っているような気がしてくる。そしてチャンス側は低リスクをとるため、権利を与えて公平感を出しつつも実質的にピンチ側の特権となるのだ。ぷよぷよのマージンタイムはこれだろう。

②ピンチ側が正当にリスクを負っていること。今回は極端な例を挙げたが、逆転可能とは言っても小足ひとつで死ぬ状況ではあった。反確をもらう様々な行動が制限され窮屈になっている。立ち回りを変えざるを得ず、これがまたピンチの臨場感を出す。スマブラのほかほか補正はこれといえそうだ。

結局興奮という感情によるものだから、納得感による曖昧で繊細な調整が必要そうだが、しかしまだわかりやすい感情なのかもしれない。

僥倖

運をどうみる? 自分は運が嫌いだ。不確定要素をなるべく除きたくなる。

ただしそれを行うだけのロジックが組み立てられないゲームでは頼らざるを得ない。

僥倖とは偶然による幸せのことをいう。いい結果が出て脊髄反射を起こす人は逆転や脱出のような快感が得られることだろう。

しかし自分にとっては何が起きたかを知るほうが大事なのだ。同じことをして再現性が出るかという科学者のような視点を持っている。

ともなれば、僥倖を僥倖であると感じている限りそれは「原理のわからない利益」であり、「再び得難い利益」でもある。

なぜかうまくいったことをとりあえず喜んでおけばいいのに、なんだか損した気分になってしまうのだ。

これを避けるには僥倖によって得るものを工夫する必要がある。

たとえばアイデア。the witnessでは風景パズルに気がつくきっかけがそこら中にある。これを見つける、それこそが僥倖だが得たものは「風景パズル」ではなく、「風景パズルが存在するという事実」である。前者を見つけるために再現性のある方法を用いていくことになるが、後者を再度発見する必要はない。

たとえば手段。ハースストーンの勝ち上がりモードでは時折レアなカードが手に入る。これが強いのか弱いのかは不明だが何か新しいことができるようになる。これは利益を直接与えるものではなく、ただ新しいことができる、新しい視点を手に入れられるというだけのものだが、ワクワクするものだ。

書いていて自分のエクスプローラーたる所以が見えてきたが、とにかく僥倖で得るものは嬉しいが手に入らないからといって損するわけではないものであることが望ましい。

共感

ゲームをやっていて泣いたことがあるか? 私はある。

A Hat in Timeというゲームがある。ストーリーは薄味で、実質マリオギャラクシーみたいなものだが、少女の別れのシーンはどうしてかぐっと来てしまった。

だが思うに、主人公が自分に近い境遇だとか近い思考を持っているとかの前にプレイヤーがそのキャラクターと接した時間が大事なのではないかと考える。

思えばMMORPGを模したCROSSCODEもぐっときたし、青年期何度も脳で反復したあずまんが大王では泣いたし、漫画も読んだメイドインアビスのアニメ版でボロボロ泣いちゃうし、何周かしているフリップフラッパーズは最近涙が溢れてくるようになった。

そういう意味で、プレイ時間を強制できるRPGは強いなと感じるのだ。

だが、いたずらにプレイ時間を重ねていてもだめなわけで、このとき何が起きているのかを考えてみる。

まずは世界観への没入だ。その世界は断片的に語られる。主人公の視点ではドアの建て付けがどうなっているだの調味料がどんな味がするだの、取るに足らない情報も入ってきているはずだが、語り部からはそんな情報が排されて、注目に値する部分とそのついでにしか語られない。それが集まってきてようやく世界が脳内に構成される。おそらく人生における幼少期もそれだ。大人たちがよくわからない信条に従って動き、それを法や倫理、社会の仕組みからぼんやりと理解していく。機械がどうやって動いているかなんか分解しないと知ることもできないが、学問を修めるに従いそれとなく理解し、または理解の外にあるものだと理解する。至って自然にゲーム世界の赤子として過ごすに従い親しみが沸いてくる。

そして主人公との同一化だ。世界を受け入れる準備ができたら主人公と同じ視点で世界を歩き回る。主人公が人間らしい考えを持っているのなら、誰もが共感できる自然なことしかせず、時に敵への憎しみが湧き、ときにヒロインへの愛を持つ。そのうちに自分の中の別人格が主人公に同化してゆき逆に主人公が自分に近いのだと思うようになる。

すでに自立している主人公と、この世界について何も知らないプレイヤー。この二人がその背景と心情を同じくするのに多くの要素が必要で、そして時間がかかるのだ。

そうして完成した感情のワープ装置に感情を与える。努力が報われる、寂しい別れを告げる、愛する人を喪う、赦しを得る……そうするとプレイヤーは自身の解釈が許すかぎりそのまま自分の別人格からそっくりそのままの感情を受け取るのだ。

ゲームという媒体は動かす都合上世界観を知るにも主人公と近づくにも格好の媒体なのだろうなあ。ただしゲームのプレイ時間を重ねる前にリタイアする層がいることを忘れてはならない。RPGは長いプレイ時間を謳うことが増えてきたが、それを強制するようになってはいよいよ終わりだ。

整頓

みんなのスッキリから持ってきたシリーズ①

本並べというモードがある。ごちゃごちゃとした本がきっちり巻数に従って並び変えられていくのはさぞかし気持ちよかろう。

自分はこのゲームのスコア狙いで、どうやれば速く整頓できるかを見ていたが、とある友人はひたすらにこのモードを繰り返していた。

おそらく整頓されていない状態が不快で、そこから脱する、即ち脱出と同じ原理なのかもしれない。

Fall Ball Fallというゲームがあるが、自分がこれを好むのも似たような気がする。

塊魂ももしかしたら同じ類なのかもなあ。

一般化すれば、なんらかの自然な状態を「乱雑で整頓されていない」ものという視点を入れることでその解消を快とできる。

破壊

みんなのスッキリから持ってきたシリーズ②

ジオラマ大作戦、空手道、ボクシング、ストライカー、ファーマー、全部破壊である。

人間の本能がそうさせるのか、破壊というのは楽しい。単純に自分の実力を誇示することでもあるし、悪者や厄介ものであれば快に繋がる。体を動かす欲の最上位なのかもしれない。

特に爆発だ。爆発は全てを解決する。自分がスマブラでスネークとロイを使うのは両方爆発するからだ。爆発はすればするほど楽しい。

そして、それを裏打ちする証拠として我々は演出を求める。

ぶっ壊れて煙もくもく、叩かれて板バキバキ、そういうのも楽しいが、特に破壊の瞬間。ヒットストップにフラッシュ、地響き、爆発音。

みんなのスッキリはそこをめちゃくちゃこだわっている。上に挙げていないが実際のところホームランが一番破壊衝動を鎮めてくれる。

あの効果音そのまま流用したいなあ……

フィーバー

確変が起きている。

塊にいっぱいモノがくっついたとき、ドラが大量に光ったとき、コップがメダルで溢れていくとき。

なにかとんでもないことが起きている。

こちらの攻撃演出でゲームがカクつきだしたとき、敵の盤面が一枚のカードで轢き殺されるとき、倉庫にぎっしりの素材が倍速ベルトで運ばれていくとき。

幸福や利益は理解の範疇を超えるととにかく愉快になる。なんだか笑いがこみ上げてくる。

そしてそれを裏付けるのは幸福単位をばかほど持ってくること。

塊魂ならポ、コ、ピョリという効果音がたくさんやってきて、ビョゴゴボゴと濁って聞こえる。

麻雀ならキラーンと黄色に光るドラがふつうありえない長さを持って演出が入る。

メダルゲームならなんだか聞いたことのない音楽をBGMにメダルのジャラジャラという音が際限なく続く。

OVERDUNGEONならアルパカの鳴き声が1Fごとに大音量になり、火球が画面全体を覆うように大移動する。

ハースストーンなら冒涜で一回ごとに敵ミニオンが断末魔を上げる。

Satisfactoryでは倉庫のベルトをつなぎ替えると素材一個一個が想像よりも早く搬出されていく。

これこそがフィーバー。

理解を必要としないバカの楽しみである。

効率化

今まで〇時間かかっていたのを○秒で済むように。

エクセルの使い方でよく聞く話だ。

これも脱出の派生系といえる。なんなら整頓とも近い。

しかしこれは終わりに向かうことを良しとするわけではない。

終わりに向かわせることを良しとする。

快に行き着くことではなく、快に行き着かせるその手法についての快感なのだ。

ちょっとややこしいね。

要するに楽だ~ということ。そして、人間とは倒錯的ないきもので、この効率化のための努力を惜しまない。

一般化すると結果への感動は手段への感動にも応用できるかもしれない。

律動

音楽に合わせて体をよじるだけで楽しい。

リズムというのは人間を除けば多くの動物には見られない性質だと聞く。

言語能に関わってくるところかもしれないし、どこかの鳥のように求愛行動の類だったのかもしれないが、本能的に楽しいところがあるのだ。

民族は音楽に合わせて楽器を打ち鳴らし、それに合わせて人が動く。

大事なのはその音楽にどれだけのめり込めるか。

日本の4つ打ちのリズムもいいが裏拍を交えた小気味よい音楽も、スピーディーな音楽も、まずはその曲を好きになるところが必要だ。

そしてその律動の中に入って初めてリズムと一体化し音楽と友達になれる。

この感覚を得るためには楽器やゲーム機を自分の一部のように操作できる必要があり、だからこそ律動としてハマるのは案外障壁が高い。

一度ハマってしまえば3と2が混じったテクニカルなリズムも、ふわっと浮くような5つ打ちのリズムも本能的な楽しさに変換されるのだ。

成功

音ゲーは極論メトロノームがあればゲームとして成り立つ。

小節線を等分したタイミングでノーツを捉えるべきという暗黙のルールがあり、聞いたことのない曲でもプレイはできる。

かっこいい曲ほど楽しい。しかし曲に忠実というよりやりすぎたくらいノーツが多いゲームやタップ音で曲がかき消されるようなこともある。

ではそういったゲームで彼らは何を期待しているのか?

成功である。

1スイッチを正確なタイミングで押すと「Perfect」と点滅した文字がお知らせする。

ゲームスピードが上がっていき、ちょっと覚えた工夫した押し方をしてうまくいったときの"シャン"が連続して鳴る。

やり方は問わないが、与えられた課題についてそれを正しくこなした、そしてそれが確認できた。

それが成功だ。

別にこれは音ゲーに限らない。クリボーを踏めた、狭い足場に乗れた、ステージをクリアした、その全てが成功。

そしてそれを集めたものが上の達成である。

物事がうまくいく快感を局所的にみたものを成功、大局的にみたものを達成と呼ぶことができる。

これは局所的であるから、褒めるばかりではなくうまく行っていないことを通知してもさほど問題にならない。

多少重くてもよい。やたら長いロングノーツ、3回踏まないといけない中ボス。

ただしこのうまくいった、まずいことになったをしっかりとフィードバックすること。

成功こそがゲームとの会話の根幹的な要素で、そこに意味を与えるのは別の快感だ。

完成

あとちょっと。もう少し。

そうなるとなんだか無性に目を取られる。

完成は達成に近いが「完成させる」という言い方からとれるように、ある途中の段階からみる。

達成からみれば「ローコストで得られる達成感」

脱出からみれば「すぐにできる未完成からの脱出」

ついでに「タスクの整理」としても見れる。

状態は連続的であったとしてもそれをある閾値で仕切ってやるだけで人間の捉え方は大きく変わる。

セーブデータの進行度や称号のサブについている数字にはちゃんと意味があるのだ。

コンプガチャが規制されたのも同じような理由ではなかろうか。