我流コミュニケーション
名目
私はコミュニケーションが苦手である。が、得意ではある。
人間というのは浅はかなもので得意=好きと結びつけがちだが下手の横好きがいるように上手の縦嫌いもいる。
そんな私からするとなんでこの人はコミュニケーションできていますよみたいな顔をしながらこれくらいのことができないのだろうと思うことが多々ある。ただそれはバイアスで、自分ができているからこそ目につくものだ。
続かなかった意味のない日記に代わり、人の役に立つちょっとしたアドバイスをここに書き下していこうと思う。
協調の原理
人間はコミュニケーションをとるとき何を伝えるかについてメチャクチャ気を払っている。
たとえば、「5x2と2x5ってなんでこたえいっしょになるの?」と聞かれたらおそらく長方形の面積なんかを使って説明することになるだろう。
一方、賢そうな成人男性に同じことを聞かれたら初等代数学の可換性の話になることだろう。
ここで大事なのが協調の原理。人は特別な理由を除けば4つの公理を満たすという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%94%E8%AA%BF%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86
難しく書かれているが、コミュニケーションは十分量・必要量を間違いなく伝わるようになされるということだ。
当たり前といえば当たり前だがどんな場合でもこれを忘れてはいけない。
議論を行う場合、こちらを注意する場合、相手に敵意があるように思われる場面はいくらでもあるがその伝え方自体は極めて良心的なものだ。
「たけのこの里のほうがおいしいに決まってるだろ、バカ!」
「ふざけんな、なんでダブルチェックしてねえんだ」
言う必要のない余計なことを言っているように見えるだろうか?
ここが大事なのだが、協調の原理を満たそうとするのは発言者である。
つまり本人にとってはどういう理由かは知らないが、罵倒を入れないといけないと思っている。
罵倒することで腹の虫が収まるかというとそういうわけではなく、ただそこに何らかの効果を期待しているのだ。
それは例えば相手の戦意を削ぎこちらの意思を通そうとしているとか、自分はまだやる気がありますよということを知らせるとか。
ネタで言っているならそういった雰囲気を演出しようという意図があるかもしれない。
決めつけたような強弁は本当にそれしかないと思っているからそのとおり発言しているのだ。
と、いう分析ができる。
しかし擁護しているわけではない。
私は日常的にこういった語が出てくる人を心底軽蔑している。
大事なのは汚言にまみれた言葉ではない。極めて良心的である本人の意図でもない。
会話から読み取れる情報と、それを出力するにあたり先のような言葉に変換した本人の意識である。
私は汚言をいうことでどうにかなると思っているその意識を軽蔑している。
一方で拙いながら、こちらを伺いつつ、伝わったら喜ぶような意識は極めて尊ぶべきものだと思っている。
このような見方をすればおそらく表面的な状況に惑わされずにコミュニケーションを眺め、洗練させることができるだろう。
この見方を身に着けて周りの尊敬している人間の「意識」を、本質を真似てみることだ。
丁寧語をどう使う? ちょっと変わった語彙をどう使う? 間の取り方は? 最初に名前を呼ぶのはなぜ?
暗黙の了解はどこまで話す? なぜいちいち質問する? しょうもないことを話すのは?
スルースキル
相手の意図を察することはできたとしても、己の感情でどうにもならないことがある。
例えば挑発。いくら周りから「乗るなエース!」とたしなめられたとしても、そしてそれが理性的に正しいとわかっていたとしても、己を抑えられないことがある。たとえ抑えられたとしても、ますます増長する相手をみて不愉快になる。こんなときどうすればいいのだろうか?
たとえばアンガーマネジメントとして、6秒待つとかの方法が紹介されがちである。
それはあくまで怒鳴りつけないための方法。本当にいらいらせず、自分をすり減らすことなく行動に出さないためには考え方が大事である。
そもそも怒りというのはどういうときに起こる感情なのだろうか?
自分は、「思い通りにならず不都合なので暴力をもとに恐怖させ服従させようと試みる心の動き」だと考える。
なので、これを生まれさせないためには「思い通りになる」「不都合ではない」「別のよりよい手法がある」「諦める」のうちのどれかであればよい。
事象についての理解を深めれば思い通りになることは増えるし、起きたことのリカバリも効く。しかし、根本的に有効なのは「諦める」ことだろう。
後ろ向きだと感じるかもしれないが、これは幼児的万能感から脱するときに誰もが通っている道だと思う。
店前に並んでいるなにかを買ってくれと駄々をこねて、断られると絶叫し、涙を流して顔を赤くする。これは怒り狂って主張すれば相手が折れると思っているから。
お出かけの日に雨が降ったからと予定を中止にしたら拗ねて話さなくなる。これは不機嫌になれば相手が折れると思っているから。
さらに昔にはイヤイヤ期で自然現象たるものにすら怒りを示す。
そういったことに怒りを示したところで、どうにもならない、変えようがないことを学習していくことで怒らず、冷静に現実を見つめることができるようになるのだ。
なので少しいらっとしたとき、じっと現実を見つめる。それはどうにかできるのか? 自分がそれを表明したとて、はいそうですかと納得され、状況が急変してすべてがうまくいくようになるのか? 相手の態度が一変してすべて受け入れられるようになるのか?
おそらくそんなことはない。怒りという道具をつかってどうにかなるのは、同じく怒りによって統治されている社会でだけだ。
怒りを表明して、それで表面上うまくいっても周りの人は扱いづらい人、怒りっぽい人、幼稚な人と評価してくるだろう。
ここまでの内容を噛み締めて、そして一つ一つの状況を冷静にみる。本当に怒ったところでどうにもならない現象ばかりで、本当に無駄。それをよくよく認識しつづけるとその考えが理性から本能まで染みてくる。そうなると怒ることも減るだろう。