HINALOM AMERIKÅNU TÅTTE

AMERICANS RETURN

1944-1945

THE COST OF WAR - 戦争の対価

第二次世界大戦を生き延びた私たちは戦争の残虐な行為に耐えました。周囲の瓦礫からなんとか生活を再建しました。生き延びた個人の英雄的物語は、自らの言葉で語ってもらうのが最善でしょう。

THE BEGINNING OF CIVIL RULE -文民統治の始まり

チャモロは、約3世紀にわたる海外の軍事支配の後に、自治基本法を通して文民統治が許められました。1949年、ハリー・トルーマン大統領より、カールトン・スキナー (Carlton Skinner) が初の民間人出身の知事に指名されました。次の年、グアム地方裁判所が設立され、初のグアム議会が招集されました

THE REBUILDING OF GUAM - グアムの再建

1945年から1950年の間に、大幅な軍事増強によりチャモロの労働者では達成しきれないほどの仕事の需要が生まれました。海軍は海外の労働力を受け入れ始め、そのほとんどがフィリピン人です。近隣の島から来ている建設作業員もいます。私たちの多くはサービス分野の仕事に就いています。

BITTERSWEET MEMORIES - 悲喜こもごもの記憶

1945年7月21日、Agueda Iglesias Johnstonにより癒しと再生を支援するために最初の解放念日が組織化されました。Santa Marian Kamalen の像に先導されて荘厳な式典が行進しました。

1950年代、解放記念日はもっと祭り的な要素が濃くなり、アメリカに対するチャモロの忠誠心を祝うパレードとなりました。

FROM SUBSISTENCE TO A WAGE-BASED ECONOMY - 自給自足から給料ベースの経済に

大きく広がった荒廃と新しい軍事基地のために土地が収用されたために、農耕は難しくなりました。私たちの家族は生計を立てるために別の方法を探さねばなりませんでした。1946年までに、300を超える国内のビジネスファームが海軍政府から許可を取得しました。

戦後の数年で、自足自給の農業や物々交換から、給料ベースで貨幣を使う経済へと急速に変容しました。私たちのほとんどが仕事に就いています。

LAND TAKING AND DISPLACEMENT - 土地の収用と移動

1899年、Leary 知事は全住民に資産の登録を求めました。先祖の土地に税金が課されたのです。多くの家族が税を払えずに土地を海軍政府にはく奪されました。

アメリカが再びグアムを占領すると、アメリカ軍の土地保有率が島の不動産の 63% になりました。今でも防衛相がグアムの土地の 28% を支配しています。一部の家族は今日でもこれらの土地の問題について引き続き裁判で争っています。

LOSS OF LIFE -失われた命

私たちが起こしたものではない戦争で亡くなったチャモロ人の人数は誰も記録していませんでした。1939年、島の人口は22,843人でした。

今現在では、戦争中に少なくとも 1,170 人のチャモロ人が殺されたことが分かっています。そのほかに、公式発表では14,721 人が日本による虐待、すなわち殴打、強制労働、虐待、レイプ、殺害、断頭、大量虐殺、強行軍、そして強制収容所に苦しみました。

グアムの旗の赤い横の線は、戦時中に流された血を覚えておくために1948年に追加されました。

SGT. SHOICHI YOKOI: 横井正一軍曹

1972年1月24日、Manuel De Gracia オヨビ Jesus Duenas は Talofofoのジャングルで狩りをしていました。彼らは、第二次世界大戦の日本の敗残兵でジャングルに28年も隠れていた横井正一を発見しました。若干骨を折るも、チャモロ人の男は横井を説き伏せ、彼を家に連れていって食事を与え、当局に彼を引き渡しました。

横井は戦争の終了時にアメリカ軍に投降するのを拒んだのでした。彼は天然資源を使って生き延びました。約2メートルの深さの穴を掘り、竹製の小さな罠やココナッツの繊維を使ったロープを作り、野生のハイビスカスの繊維で服を作りました。食物は、野菜や果物を入手し、淡水ウナギやエビ、ねずみを捕まえていました。

横井は1972年にハネムーンで、妻を連れて再び訪れました。

The Cost Of WaR - 戦争の対価

Organic Act Of Guam And Citizenship - グアムの自治基本法と市民権)

Carlos Pangelinan Taitano (左から3人目) は、グアムの自治基本法への署名時に出席した唯一のチャモロ人です。